映画に 乾杯! / 知の彷徨者(さまよいびと)

名作映画に描かれている人物、物語、事件、時代背景などについて思いをめぐらせ、社会史的な視点で考察します。

雑感・思索メモ 11

2011-10-19 18:04:04 | 世界経済
■■民衆の街頭行動と世界経済の危機■■

1 ウォール街での叫び(Popular Protest on the Street)

 「私たちが99%だ」「働き収入を得る機会を奪われている」
 「やつらが1%だ」「経済と富の大半を支配している」
 「貪欲な金融機関の救済に巨額の税金を注ぎ込んでいるのに、弱者救済や雇用機会確保の政策に回す金は削られている」「ワシントンDCの政治家たちは、この不公正な統治の仕組みを変えよ!」
 そんなメッセイジを発信する民衆抗議(異議申し立て)が、9月半ばに始まった。

 世界金融の中心地、マンハッタン、ウォール街の入り口にあるズコッティ公園に若者を中心とする群衆が集まり、金融資本の横暴や貪婪を批判し、雇用機会の確保や所得格差の是正を求めて異議申し立てを始めた。若者たちは、PCや携帯電話のサイトやブログ、トゥイッターなどのチャネルでメッセイジを発信した。
 共感した市民たちがさらに公園に集結した。今やあらゆる社会活動は、ITテクノロジーが媒介する。そして、アメリカ各地で同じようなメッセイジを発信する街頭行動が次々に自然発生的に続いた。
 プロテストへの共感と連帯は、いままさに国境を超え、大西洋を越え、太平洋、インド洋を超えてあらゆる大陸・地域に連鎖・拡散しつつつあるという。

 すでに論壇やメディアで地位を得た知識人たちの反応は、最初は鈍かった。というよりも、世の中の動きには批判的だったが、変革の展望が描けないままに鬱々としていた。そして、若者や市民の「自然発生的なプロテスト」に展望を見出してはいなかった。
 自然発生的で、共通のメッセイジはあるとはいえ、集結した人びとの要求の内容はバラバラで、何をどう変えるのかという具体的な展望や路線が見えなかったからだという。
 というよりも、メディアやアカデミズムに限らず、私たちも群衆による自然発生的なプロテストや街頭行動にはある意味で幻滅していたからだ。だが、街頭での異議申し立てをとにかくまずおこなってみるという、自然発生的で素朴な動きの持つ意義や影響力を見損なっていたらしい。
 そんな運動はまもなく消えてしまうだろう、と。
 だが、展望だの方針だのという組織化のための(いや組織のための)理屈をこねるよりも、切実な民衆の要求や憤りが続く限り、街頭での異議申し立ては続く。しかも、世界中どこでも不公正や格差はまかり通り、人びとの生活や生存を脅かしているのだ。異議申し立てや憤懣の種はどこにでも転がっている。

2 「自由経済の勝利」のあとに来たもの

 「自由世界」「自由経済の世界」はソ連東欧のレジームとの敵対に打ち勝ち、「自由な経済活動と競争が人びとの生活の必要を満たす」という幻想=願望が、今失われつつある。
 今から20年ほども前、ソ連東欧のレジーム・権力者たちが、自らを「社会主義」と(検証抜きに)自己定義していたがゆえに、「所有や分配の平等、格差の解消」という倫理的要求が、「社会主義」のレッテルとともに葬り去られてしまった。恣(ほしいまま)の金融資産の膨張が促進され、その自己増殖の欲望の前に、弱者や戦略的な位置づけが低い部門を保護する仕組みがどんどん解体されてきた。
 際限のない金融資産の膨張と利潤追求の競争は、ごく少数の「勝者」と圧倒的多数の「敗者」を生み出すという悪循環を繰り返してきた。

 「先進諸国」では、人びとのささやかな日常生活を支えるための生産活動は、巨大化した製造業や金融資本の世界競争のために、どんどん切り捨てられ、「より貧しい諸地域」「後発諸地域」(諸国)に移転を余儀なくされてきた。そういう弱小産業に携わってきた人びとの雇用機会は奪われ、所得の低落をもたらした。そういう所得が生み出していた(総体としては大きな)需要も切り縮められた。
 需要の切り崩しは、そういう需要に対応していた諸産業(小さな製造業や農林水産業)の衰退をもたらし、これまた多くの人びとの雇用機会と所得を奪っていった。
 雇用機会の縮小と所得低落の悪循環が進んできた。
 ほとんど政府は、弱い部門を支援するよりも、強い部門の世界競争と世界市場進出を促進する政策にますますのめり込んでいった。だが、民衆のささやかな消費財を生産する小規模な資本の企業や事業こそが、より多数の雇用機会を支えてきたのだ。資本単位額あたりの雇用者数は、小規模な方がはるかに大きい。
 人びとの生活の実情を顧みずグロスでしかものを考えない政治家と政府に、圧倒的多数の人びとは幻滅しているのだ。

「安い物品をより大量に、より速く供給すれば、社会は豊かになる」という社会の実像を無視したスローガンが、弱小ないし幼弱な諸産業を切り捨てる「正当化の口実」に使われた。
 なるほど、世界が単一の国家レジームからなるならば、あるいはこの抽象的なスローガンは、ある程度真理として妥当したかもしれない。
 ところが、世界経済は多数の国家・国民、諸地方に分割されている。資源の分配や流通は、こうした分割を組織化している制度や障壁によって、遮断され、変形される。こうした制度や障壁を利用して、富と権力を集積し拡大しようとする力を持つ組織や集団が、こうした分割の制度や障壁を自分たちの都合のよいように解除したり変形したりして、これまた自分たちの権力いと富の膨張に都合の良い方向に組み換えていく。

 世界経済の多数の軍事的・政治的・文化的単位への分割が残され、強者の権力欲求によって歪められるような構造のなかで「自由市場」「自由な競争」とは、まさにより強い少数者に権力と富が集積・集中していく弱肉強食が「自由にまかり通る」仕組みにほかならない。

 そんなものは、ごく普通の人々なら誰が考えても拒否したくなるのが当たり前だ。というのも、弱肉強食の権力闘争のなかでは、圧倒的多数の人びとは敗者や弱者になり、競争や闘争のアリーナから脱落するからだ。長い目で見れば「誇示するほどの勝利を手にするよりも、そこそこの生活とつつましい満足」こそが、庶民の正しい選択だからだ。
 だが、「自由な市場」「自由な競争」「自由な経済」という看板=イデオロギーの前に、この20年以上も鬱屈を抱えて黙り込んできた。

3 幻滅 選挙制度をつうじての政治の限界

 ニュウヨークのズコッティ公園に集った人びとのなかに、こんな見解を表明した人びとがいた。
「私たちは、選挙による政治に幻滅した。選挙制度は、私たちの切実な要求や願いを汲み上げる機能をまったく果たしていない。だから、私たちは選挙という方法の外で意見を表明し政治をおこなおうとしているんです」と。

 まさに自体の核心を突く意見だ。
 制度としての選挙は、現今の形態・状況のままだと、もはや民主主義の中心的な制度としての役割や地位を失いつつある。選出された代表(国家や有力都市の議員)たちは、もはや巨額の報酬と特権を保証され、特権的エリート階級に成り上がり、その地位を私的所有や家門世襲の身分のようにしがみついている。
 その地位を守るために票田となる地方や産業の(有力者)に利益を誘導するために競争し合うことはあっても、多数の民衆の利益や意見に目を向けることはなくなってしまった。
 いや、もともと、代議制とはそういうものかもしれないが、多数派の民衆の要求は、そういう旧弊な利害代表を求めてはいない。
 経済成長の余地がまだ幅広く残されていて、国家や政治装置が要する財政資金の割り当てを受けてインフラストラクチャーを整備し有力企業を誘致する、成長産業を育成するという政策が有効だった時代もあった。だが、今ではそういう状況は過ぎ去った。
 だが、「経済成長神話」に過剰適応した国家装置と政治家(政治屋業界)は、いまだに時代遅れになった利益誘導の装置にしがみついている。右肩下がりの経済と財政では、もはや公債の償還はままならず、資金の分配で票を買収する方式は通用しないのに。

 だが、既存の議員たちが組織化した支持基盤や財政基盤(支持団体・業界装置)は崩れ始めてはいるが、それに代わる代表選出メカニズムが形成されれてないために、競争相手がないことから、まだまだ相対的に強固で、民衆の別の利益や意見を代表する政派や運動が議席を獲得する状況にはない。
 金や組織がなければ政治活動が著しく困難で、選挙での競争に伍していけない状況では、既成の支持基盤とは別の新たな要求を携える人びと・運動が議席を得ることは、おそろしく難しい。

 つまりは、投票率がどんどん低下するなかで、賞味期限が過ぎて無能力化した議員・業界団体・代議制装置が、いまだに幅を利かせているのだ。そういう旧弊な仕組みにがんじがらめとなってまともに機能しない選挙制度は、ますます多数の民衆から見放され、参加=投票率は際限なく下がり続けている。
 多数の民衆が何に幻滅して投票を無視ないし拒否する行動を選択しているのか、政治家もメディアも見ようとしない。信頼を失い役割に期待できない政治家を選ぶために、人びとは自分の生活時間を割こうとはしないだろう。
 もちろん、そういう暗黙の抗議の意識や意思が、昔ながらの政治的アパシーや無関心、ニヒリズムとまじりあっているのは確かだ。が、最近の投票率の低下には、もはや政治家と政治制度を信頼しない、できない人びとの明白な批判が込められている。
 野党や批判政党に票を投じることの無力感もあるし、反対政派の組織や政策にも、うんざりしているのだ。政党とは、政治的目標を達成したら解散すべき組織である。だが、利益団体として自己保存・自己保身の論理を優先する野党にも、多数の民衆は幻滅しているのだ。
 だから、切実な意見を政党に持ち込むこともない。

 政治システムや政党、選挙制度は、すみずみまで規制され組織化されたために、面倒くさく回りくどい手続きが複雑に入り組んでいて、自然発生的で素朴、粗野な要望、民衆の切実な生の声を伝達する役割が果たせなくなっている。
 正規に手続化され、文書化された要望・要求は、政治的決定の過程で分散し薄められ、より発言力の強い勢力や団体の意見が優越する回路のなかを流れ、結局、うやむやにされしまう。
 多くの人びとは、そう感じている。

4 政治学の壁

 ところが、政治の研究の専門家たちは、現在の政治システムが直面している限界に気づいていない。いや、気づいていても、限界の克服の方向・展望を示すことができない。だから、今次の自然発生的で分散的・拡散的なプロテスト運動の意味を把握できないでいる。
 彼らの多数派の言い分はこうである。

 政治過程において、こういうプロテストが持続し現実の改革や変革につながるためには、
①運動の政治的代表または利害の代表を、既存の政治制度=議会制度のなかに送り込むこと
②または、既存の議会や政府(行政機関)に圧力をかけて言い分や利害を(部分的にしろ)代表させること
③そのためには、運動は明確な指導部や指導方針と組織を形成しなければならない
④あるいは、既存の批判派の組織、たとえば労働組合や左派政党ないし野党との連携を組織すること
⑤そのためには、掲げる多数の要求に優先順位・序列をつけて、実現可能なものから取り組む。そのためには、多様な要求のうち、政党や労働組合などが受容しがたい要求については涙をのむこと

などが必要だと指摘する。
 たとえば、今度のアメリカの批判運動であれば、「改革」「変革」を掲げて大統領府に乗り込んだ(しかし見るべきほどの成果を上げていないオバマ大統領(と民主党)に圧力を加えていくべきだ、そのためには、議会の勢力配置などを考慮して、彼らが受け入れにくい「左翼的」な要求項目はオミットすべきだ・・・。と

 だが、今次の状況は、そのように既成の政治経路・政治過程をつうじての運動や要求の政策化が、ほとんどまったく機能しなくなった、無能化した政治システム・レジームについては、まともな分析と批判を向けないのだ。
 かつては多様な諸利害を調整してレジーム(安定した秩序)のなかに包摂して制度の修正や調整をおこなうことができたが、きわめて深刻な財政危機のなかで、この包摂(containment)が不可能になっているのだ。

 リベラル派・改革派の既成政党や労組などが、もはや既存の利害調整回路のなかで特権的な諸階層の利害や要求を定式化する機能しか果たせなくなっている現実に目を背けている。政党や代議士集団の特権集団化、言い換えれば、民衆的利害・要求との埋めようのない乖離、機能不全、無能化について、見ていないのだ。
 見方を換えると、そういう既成の組織や団体が、もはや現今の社会状況のなかでひどい疎外・しわ寄せを最も悲惨な形で受けている階層の利害や要求には、ほとんどまったく目を向けなくなっている事実を見ていないのだ。なぜ、そうなってしまったのか、を。

 結局のところ、議会制度や政党制度、労組などがつくりあげている既成の装置が、生存を脅かされている階層の切実な要求を排除ないしは逸らしていくフィルター=選別装置として機能しているのだ。
 自分たちを裏切り続けてきたものに信頼を寄せるだろうか。

 私としては、今度の運動が、これまでのような組織化形態や活動形態を意図的に選択していないことの理由を知りたい。IT社会のなかで彼らが、政治学者たちが指摘するような事柄について知らないはずがないと思うからだ。
 もし知らないのなら、彼らは、ひどく社会と政治から疎外されていて、運動方法や活動形態についてまったく無知で経験不足ということになる。

 これは私自身が感じていることなんのだが、要するに、既成の政治諸装置(メディアも含めて)は「骨化」「化石化」してしまっていて、民衆が抱えている苦悩や苦痛に配慮することができなくなっているのではないだろうか。
 政治学者たちが知ったかぶりして知識を振り回すほどに、彼らの無能ぶり、感受性の鈍さが浮き上がるばかりだと思う。






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