第112回 MI6(2009年)
原題 The Diplomat(外交官、転じて「謀略家、策略家」)
見どころ
最愛の一人息子を事故で失った外交官が、「せめて自分の命と引き換えにこの世界が変わるなら」とブリテン秘密情報局の核兵器探索・奪回作戦にのめり込んでいく物語。
「世界の危機を救う」という点では国際諜報作戦の物語だが、この作戦は幾重もの謀略や偽装に覆われ、しかも出世欲に駆られた情報エリートの横暴・暴走によって操られている。そのうえ、ブリテンの「国益」と「安全保障」なるものが、警察と情報局などの国家装置ごとに組織に都合よく解釈され、しかも同じ情報局のなかでも部長と作戦主任とでこれまた自己の立場に都合よく色づけされて、作戦は軌道をどんどん外れていく。
まあ、要するに救いのない物語である。
それにしても、何重にもはりめぐらされた策謀と欺瞞、当局内の主導権争いを、これでもか、これでもかとたたみかけるように描く手法は、ブリテン人ならではのもの。
そういうプロットを追いかける楽しみはあるが、結末は暗澹たるもの。だが、不思議な魅力がある。
時代背景は、1990年代前半、ソヴィエト国家秩序の崩壊ののちに混乱したロシアの状況で、今では「そんなこともあったか」というような状況設定。
むしろ、この作品は、市民・公衆への情報が閉ざされているブリテン秘密情報局、MI6のありよう、同じくロンドン首都警察庁(警視庁)の公安部門の活動というような、国家装置の闇の部分を「あざとく」描こうとしたのではなかろうか。
それにしても、「国益」とか「国家の安全保障」という〈やたらに大きいだけで空虚な言葉〉は、立場により人により、ずいぶんそれぞれに都合よく好き勝手に解釈され、国家装置に内部でさえ意思統一のないまま、国家の権力は安易に発動されるものだ、というのが私の結論だ。
という文脈では、辛辣な国家論の映像物語版ということになろうか。
1 麻薬密輸ルート
スコットランドヤードの公安対策(国外の組織暴力対策)部のジューリー・ヘイルズ主任捜査官は、ロシアンマフィアがブリテンに密輸出しているヘロイン(タジキスタン産)の密売ルートの摘発と壊滅作戦を指揮していた。
その日も、ロンドンのイーストエンドの古い工場跡まで、国内の密売組織のリーダーたちを追跡してきた。ところが、容疑者拘束に出ようとしたところで、近所の少年たちが工場跡に闖入してきたために、人質を楯にとった密売団との銃撃戦にはまり込んでしまった。
しかも、工場跡には廃油(軽油か)が野ざらしにされていたために、銃弾が当たって爆発的に燃え出し、部下の女性刑事が1人全身やけどを負うはめになった。
とりあえず今回は密売団は全員拘束したが、大量のヘロインが流れ込んでくる限り、密売団の跳梁は避けようがない。
そこで、ヘロインの密輸ルートを追跡調査したところ、ロンドン港の埠頭に到着した船舶から、在タジキスタン領事館からの荷物として送られてくること判明した。黒幕は、ロシアンマフィアの1つ、セルゲイ・クルーショフのファミリーだった。
セルゲイの組織は、ブリテンの外交官を抱き込んで、タジキスタンのドゥシャンベからの外交行嚢(貨物荷)に大量のヘロインを忍び込ませていた。抱き込まれた外交官は、ドゥシャンベ領事館の財務会計担当の一等書記官、イアン・ポーター。エリートだ。近頃、ドゥシャンベの歓楽街で酒と女に溺れ、セルゲイから多額の賄賂を受け取っているらしい。
外務省は、適当な理由をつけてイアンを召還した。
ジューリー率いる警察は、ヒースロウ空港でイアンを逮捕した。そして、司法取引を提案した。
セルゲイが首領となっている犯罪組織についての情報提供と引き換えに証人保護手続きによって保護しようというのだ。
■証人保護プログラム■
ところが、イアンは提案を拒否した。しかし、ブリテン国内で麻薬と密売組織が摘発され訴追された以上、公開の裁判となることは避けられない。そうなると、イアンは検察側証人として法廷に召喚されて厳しく尋問されることになる。
その場合には、ロシアンマフィア側は、イアンがいつ密輸ルートや犯罪事実を証言するか知れたものではない。彼らはイアンを抹殺にかかるだろう。
というわけで、イアンは裁判まで証人保護プログラムを適用されることになった。そして、イアンは、離婚した妻、ピッパを今でも愛しているようなので、彼女もマフィアによる拉致(イアンを脅すため)を防ぐために、イアンとともに保護されることになった。ピッパ(すごい美人)は大学の講師をしている。
スコットランドヤードは、ブリティッシュ・コモンウェルスを構成するオーストラリアにイアンとピッパの保護を依頼した。ただし、保護の必要性について、ブリテン側はオーストラリア側に虚偽の理由を説明した。
ロシアンマフィアとか麻薬密輸組織との関係する犯罪の証人としてではなく、金融犯罪の証人(犯罪の証拠を保有する銀行員)として保護を申請したのだ。
直接には、シドニー市警察局が、市内の住居に警護担当の警察官をつけてイアンとピッパを保護するという段取りになった。だが、ブリテンとの国家間司法協定が絡むので、オーストリア連邦警察組織と首相府がバックアップすることになった。あくまで形式的な手続きなのだが。
2 イアン・ポーター
さて、ジューリー・ヘイルズがタジキスタン、ドゥシャンベの領事館の外交官から聞き出した限りでは、イアンはきわめて清廉潔白で献身的な外交官で、マフィア組織と癒着したり依存し合うような気配はまったくばなかった。
そのはずだ。
というのも、イアンが酒と女で身を持ち崩してセルゲイの組織と癒着したというのは、イアンによるアンダーカヴァー(潜入ないし囮捜査)のために仕立て上げられた偽装だった。
■偽装の目的=任務■
数年前、イアンは最愛の息子、ルイスをプールでの事故で失った。溺死だった。その後、自分の殻に閉じこもったイアンは、ピッパとも離婚した。ピッパとは深く愛し合っていたのに離婚したようだ。
ルイスの死後、イアンはたぶん大学時代からの知り合い、政府の情報機関、秘密情報局(SIS)第6課(MI6)のチャールズ・ヴァン・クーアーズ(名前からホラント系の貴族家門の出自がわかる)によって、国家安全保障のためにはたらくエイジェントとしてスカウトされた。
心の空洞を埋めるためかもしれない。「こんな悲惨な世界を少しでも変えることができたら、死んだルイスに少しは誇れるかもしれない」ということらしい。外交官として、世界の悲惨な現状とか安全保障のための裏の交渉や闇の取引をさんざん見てきたので、そんな状況を少しでも変えたいという願望が、愛息の死で一気に膨張したのかもしれない。
で、チャールズから依頼された問題は、深刻な事件だった。
1990年代のソ連崩壊後の混乱のなかで、ソ連軍が開発した超小型原子爆弾(スーツケイスに収納された核兵器)がいくつか紛失した。そのうちの1つを、当時陸軍特殊部隊にいたセルゲイ・クルーショフが盗み出した。
やがて、セルゲイは、売春とか賭博などとともに、タジキスタンとか中央アジア産の麻薬(ヘロイン)の世界的密売組織を組織して、有力なロシアンマフィアの1つの頭目となった。そして、潤沢な資金とか国際的情報ネットワークをつうじて、かつて盗んだ小型核兵器を売りさばこうと計画した。
その謀略に関する情報が、MI6の捕捉するところとなった。
セルゲイの組織の拠点はタジクのドゥシャンベだ。そして、イアンはそこの駐在領事官のエリート外交官だ。腐敗した外交官を装って、セルゲイの組織に接近する条件が整っていた。目下のセルゲイのファミリーの稼ぎ頭のビズネスであるヘロイン密輸出に手を貸して「信頼」を得て、だんだん組織の奥の秘密に近づいていった。
やがて、表向きセルゲイは、イアンを最も信頼を置く仲間として扱い、その外交特権を利用して、核兵器の世界市場での取引の担い手とした。利用価値がなくなったら、イアンを闇に葬ることも想定してのことだろうが。
という文脈では、ブリテンへのヘロインの大量密輸はMI6の作戦の段取りのうちだったわけだ。セルゲイの組織に、イアンの利用価値を売り込み誇示するための。
ブリテン国内でどれほどのヘロイン依存症患者が増えようが、麻薬密売資金でロンドンの犯罪組織がどれほど肥大化しようが、国家の安全保障のためには、毛ほどの痛痒も感じない。これが、オクスブリッジ出身のエリートが牛耳るSISの作戦だったのだ。
■閑話休題■
世界で最初に、世界的規模での麻薬貿易ルートを系統的に組織して膨大な利潤を獲得して、それをヨーロッパやブリテン域内での金融資本、商業資本や産業資本の権力の拡大に活用するメカニズムを開発したのは、ブリテン国家(王室とシティの金融商人、貴族連合、特許会社)だった。
すなわち、ロンドン東インド会社の経営である。
この会社は王室から特許権を受け、シティや地方の富裕貴族たちから、さらに一般市民からも出資を募り、世界貿易のネットワークを組織した。17世紀末からは、インドでの香辛料、茶などの特産品の買い付け代金が不足したために、インドやアフガニスタン産のアヘンを買い入れて、中国やインド、東南アジア諸地域で売りさばいた。
ところで、東インド会社は、ブリテンによるインド植民地支配全体の安定を考えずに、会社の幹部や軍が各地で勝手に戦争を引き起こしたり、地方太守や領主と癒着して会社の利権漁りをしたりしたために、その乱脈な経営に本国で強い批判が起きた。そのために、18世紀をつうじて本国中央政府の干渉や介入を受け、やがて「国有化」され、解散した。
会社の権益はそっくりブリテン国家の中央政府・議会によって統制され、インド支配は植民地省によって管理されるようになった。本国の海軍の2倍以上の規模の艦隊も統合された。支配と収奪はなくなったわけではない。国策会社から議会や内閣の統制を受けた中央政府の公式の任務になったのだ。
だが、アヘン貿易の仕組みや利権は、会社が解散してからも、ブリテンの植民地支配の不可分の要因として継続した。麻薬資金の管理は、国家の政府の正規の仕事になったのだ。
19世紀になって、中国・清朝政府が麻薬貿易・密売に異議を申し立て規制に乗り出したため、ブリテン政府は、戦争(アヘン戦争)を仕かけて、中国の植民地化・分割の先鞭をつけたのだ。
マニ―ローンダリングを発明したのもブリテンのエリートだった。いや、彼らは「麻薬売買」を王室政府から公式に認可された「正規の事業」と見なしていたから、「汚れた資金」とは意識していなかった。だから、堂々と利潤をブリテン国内に送金して、金融業や貿易業、製造業に投資して、巨万の富を得た。
ダイアナ妃の生家、スペンサー伯爵家門は、この東インド会社の役員として活躍(暗躍)した先祖が、王室から麻薬売買の実績を高く評価されて、授爵されたのが始まりだという。王室やそのほかの有力貴族家門の豊富な富の相当部分が、この「麻薬マニ―ロ-ンダリング」の仕かけのなかから紡ぎだされたわけだ。
というような文脈では、伝統的にブリテンのエリートは麻薬貿易に関しては、「寛大な心」を持ち合わせているのかもしれない。
話を戻そう。
3 MI6の作戦の綻びの始まり
ところが、セルゲイの組織はロンドン港に一度に数百キログラムという桁違いに大量のヘロインを輸出したために、一躍スコットランドヤード外事公安部の標的となってしまった。こうして、イアンもロシアンマフィアと癒着し腐敗した外交官として目をつけられてしまった。
だが、SIS・MI6は、国家組織のなかではロンドン警視庁よりも「格上」だという自負があったから、このままイアンによるアンダーカヴァー作戦を継続しようとした。作戦のあくまで機密事項として、警察には情報を秘匿した。
そのために、首相府や外務省をつうじて警察に圧力をかけた。だが、スコットランドヤードも、犯罪抑止と国内の治安活動での優越を自負していた。そのため、自分たちの権限と権力が切り縮められることに反発し、イアンの拘束と証人保護プログラムを継続した。
イアン・ポーターはセルゲイに取り入って、小型核爆弾の取引で中心的な役割を割り当てられることになった。セルゲイはイアンに、起爆装置の起動の鍵と暗証番号を託した。暗証番号はセルゲイ自身も知らなかった。
そうなると、セルゲイが大金と引き換えに小型核兵器(スーツケイス)を買い手に引き渡すさいにはイアンが立ち会うしかないわけだ。
ところが、イアンがブリテン警察に逮捕され、証人保護プログラムを適用されたことから、セルゲイは何とかイアンを奪回しようと画策し始めた。
一方、MI6のチャールズとしても、ロシアンマフィアの核兵器取引にイアンをふたたび潜入させるためには、警察による保護と監視のもとからイアンを脱出させなければならなかった。そこで、チャールズは部下のシャノンを使って、スコットランドヤードからイアンの証人保護手続きに関する情報を聞き出させて、ロシアンマフィア組織に流した。
警察の機密情報をMI6が犯罪組織に横流しするわけだ。
そうする一方で、チャールズはイアンに、オーストリア警察の保護と監視の目から何とか逃れ出て、脱走するように指示した。
イアンがオーストリアのシドニー警察によって保護と監視を受けていることを知ったセルゲイは、ヴラディーミールをつうじてシドニーのロシア系移民社会のマフィアの首領にイアン奪回を命じた。この作戦の監視のために、セルゲイは弟にニコライをシドニーに送り込んだ。
イアンは、いったんは逃げ出したすきに、携帯電話で自分の隠れ場所をチャールズに告げ、その情報はさらにロシアンマフィアに流れていった。
こうして、シドニーのロシアンマフィアのボス、デミトロフ(ディミトリ)は、イアンの隠れ家を襲撃したが、警察官によって阻止されて失敗した。
だが、オーストリア警察は、悪辣なロシアンマフィアがイアンを奪回しようと襲撃したてたことから、スコットランドヤードがイアンの保護要請にさいして示した理由を疑い始めた。
マフィアによるイアン奪回の可能性に見切りをつけたチャールズは、MI6の部長の警告を無視して、暴走を始めた。彼は、SISやMI6の人材リクルート人脈をつうじて、傭兵を雇ってイアンを奪回しようと画策した。
南アフリカ出身のブリテン陸軍特殊空挺部隊(SAS)の出身者2人を雇って、イアンの隠れ家を襲撃させたのだ。襲撃者たちは、シドニー警察の警護役1人とイアンの妻、ピッパを殺害した。その混乱を突いて、イアンは森のなかに逃げ出すことができた。
だが、襲撃者の1人はシドニー警察のニールによって射殺され、まもなくその男の身元も判明した。ブリテンのSASまたは情報機関の人間のほかには、不可能なリクルート経路が使われていることも判明した。
チャールズの策謀は、やがて発覚した。
だが、殺されたピッパは、ジューリー・ヘイルズ警部から説得されて、イアンからMI6の核兵器奪還の秘密作戦を聞き出し、ヘイルズに伝えていた。
ここで、事件は麻薬密輸事件から核兵器の奪還という安全保障問題へと一気に転換してしまった。とはいえ、秘密のヴェイルが幾重にもかけられた作戦なので、作戦についての信憑性について、曖昧さが消えなかった。
ジューリーはロンドンの上司=警視(部長)にこの状況を報告して、今後の動き方について指示を受けた。
スコットランドヤードの方針としては、シドニー警察に犠牲者が出てしまった以上、これまでに判明した事実や状況判断をオーストリア連邦警察(保安情報機関)に伝えるしかないということになった。とはいえ、イアンは逃亡し証拠が何もないので、オーストリア側としては、核兵器奪還作戦に関しては、大きな疑いを抱いていた。
だが、ここに来て、MI6の暴走がブリテン国家装置の内部で暴露されてしまったわけだ。
MI6の作戦部長はチャールズにただちに作戦を中止して、事実をロンドン警視庁に報告し、しかるべき担当機関に任務を引き渡すよう命じられた。
4 絡み合う策謀
ところが、チャールズは作戦を独断で継続することにした。というのも、ここで作戦を投げ出せば、彼自身はMI6では作戦の「致命的な失敗者」としての烙印を押され、このあとのキャリアの上昇の道が閉ざされるばかりか、今のポストさえ失いかねないからだ。
何としても、作戦を成功させて名誉挽回をするしかない、という意地に凝り固まってしまったのだ。そのために、暴走を抑えようとする同僚のシャノンを殺害してしまった。
■イアンの決意■
一方、イアンは(極秘に接触してを求めてきた)ヘイルズ警部との連絡で入手した情報の断片から、ピッパを抹殺した襲撃者たちがブリテンの軍または情報部の関係者によって雇われたらしいことを知った。イアンとしては、チャールズを疑うに足る理由だった。
だが、彼はそんなことも知らぬげにチャールズに連絡を入れた。「作戦を継続する」と。
そして、セルゲイをシドニーに呼び出すことにした。
おりしも、セルゲイは小型核兵器の買い手との契約にこぎ着けたので、イアンに連絡して、起爆装置の鍵と暗証番号の引き渡しを求めてきた。イアンは、引き渡しを拒否して自分も取引(核兵器の引き渡し)に立ち会うと言い張り、セルゲイがシドニーを訪れてイアンと合流せざるをえないように仕向けた。
だが、イアンは腹のなかでは、セルゲイを破滅させると同時に、独断で作戦を指揮してピッパを殺させたチャールズをも破滅させるような手立てを段取りしていった。
とはいえ、セルゲイもそろそろ邪魔になってきたイアンを排除(抹殺)しようと考えていた。そこで部下たちに、イアンを探し出して拉致するように命じた。そして、鍵と暗証番号を受け取ったのちには、殺すように命じた。
もちろん、イアンはセルゲイがそのような動きをするであろうことを読んでいた。
イアンはロシアンマフィアの追及・襲撃から逃れて、ある娼婦館に逃げ込んで、セルゲイの到着を待った。
■切迫する核兵器の脅威■
さて、オーストリア連邦警察と安全保障情報機関(ASIO)は、ヘイルズ警部を加えて、小型核兵器がロシアンマフィアによってシドニー市内に持ち込まれているものと想定して捜査・探索を始めた。
シドニーの暗黒街でのロシアンマフィアの動向を探るうちに、マフィアの事務所にスーツケイス型核兵器が持ち込まれていた痕跡をつかんだ。放射線測定機が、マフィア事務所の一室で高い残存放射線量を記録したのだ。
そうするうちに核兵器取引の期日がやって来た。
イアンは、MI6のチャールズには核兵器の海上への搬出の時刻を2時間以上も遅い時刻として通報した。つまりは、チャールズが核兵器奪回について余計な策謀を発動することを不可能にするためだった。
ASIOとヘイルズは、セルゲイの動きを察知して、シドニー港の埠頭まで追跡していった。
イアンは、セルゲイを出し抜く形で、その埠頭に現れた。そして、強引に核兵器の搬出と引き渡しに同行させるよう迫った。
そこに、セルゲイたちを沖合の船舶(取引場所)まで運ぶためのヘリコプターが現れた。ASIOは、埠頭なので船舶による搬出ばかりを考えていたので、ヘリの捕捉までは手が回らなかった。
で、セルゲイとイアンは核兵器を携帯してヘリに乗り込んで飛び去ってしまった。
オーストリア首相府とASIOはただちに空軍に出動を命じた。ジェット戦闘機を2機派遣して、ヘリを追跡し領海内で撃墜せよと命じたのだ。
けれども、ヘリは空軍機よりも早く領海外に飛び去ってしまった。
セルゲイとしては、これで核兵器取引は成功し、巨額の代金を手に入れることができると大喜びしたに違いない。
ところが、ヘリの後部座席に核兵器とともに席を占めたイアンは、スーツケイスのふたを開けて鍵を差し込み起爆装置を起動させ、1分後に爆発するように設定した。ロシアンマフィアによる核兵器取引を阻止するためい。愛息ルイス、愛妻ピッパの後を追って自ら死を選んだのだ。
空軍機が領海の境界で旋回して引き返してから数十秒後、シドニーの沖で核爆弾が爆発し、強烈な閃光がオーストリア大陸東岸を照らし出した。直後に海上に巨大なキノコ雲が膨れ上がった。
■チャールズの破滅■
翌未明、オーストリア東岸沖合での核爆発のニュウズは世界中に伝わった。
MI6の部長は、チャールズにただちに出頭して査問を受けるよう命じた。だが、チャールズは精神の平衡を失ったまま、オフィスを出てロンドンの市街をさまよったあげく、走ってきた乗用車に飛び込んで自殺してしまった。
5 心理学からの国家論
さて、物語のなかで私は、MI6のキャリア・エリート、チャールズ・ヴァン・クーアーズの心性にいたく関心を抱いた。
国家装置の中枢にいるエリートがどのような国家観を抱き、自意識や権力欲望・出世願望をその国家観のなかに投影していくのかという問題に興味をひかれたのだ。
すでに見たように、チャールズはマフィアからの核兵器の奪還という軍事=安全保障上の目的のために、1人の外交官をマフィアと癒着した腐敗官僚に偽装し、ヘロインのブリテン国内への密輸ルートまで開拓させた。
つまりは、国内での犯罪組織の跳梁や夥しい数の麻薬依存者=被害者の出現などには、まったくお構いなしに、この安全保障上の目的の遂行を強行した。目的が崇高ならば、いかなる手段に訴えてもかまわないという価値観に染め上げられていた。
したがって、ロンドン警視庁・警察官たちの苦悩や犠牲、努力よりも、自分の任務課題の方がずっと上であって、それ以下の序列にあるどんな活動や国家の機能をも見下していたわけだ。
「上から目線」もここに極まれり。というような意識・心理で臆面もなく、「自分の仕事」に没頭したのだ。もちろん、そこには自己の欲望、エリートしての出世欲や権力欲がないまぜになりながら、「私は国家のために崇高な目的を追求し、日夜身をささげているのだ」という自意識、いや過剰な自意識がはたらいていたはずだ。
私たちは、ここまで極端ではないが、この鼻もちならない「国家エリートの過剰な自意識」を日頃よく目にする。
たとえば、「消費税増徴」を得意げに主張するどこかの首相の表情に、実に曖昧な「国家像」や「国益イメイジ」を庶民に押しつけがましく主張する「過剰な自意識」を目にする。いや首相だけではない。
国会議員などの政治家や高級官僚の記者会見での声明や自己主張には、多かれ少なかれ、この「上から目線」の「過剰な自意識」を感じることが多い。
そこには、国家像と自己の欲望とが無際限に入り混じった心理が居座っているように見える。
それを「天下国家」の次元まで肥大化させた自己意識、と呼ぶことができる。自己欲と国家の機能とを区分できない状態だ。
そういう手合いの話をじっくり分析すると、「国家」という大きな話題を語っているその中身は、じつに狭くて貧弱で一面的であることが見えてくる。というのも、「天下国家」の問題は、きわめて膨大で複雑で、その断片たりといえども把握するには、大きな努力と思考力を必要とする。
もちろん、他人や庶民にその課題を語る場合には、説明に非常に手間がかかり、忍耐を要するだろう。だから、それを一言で片づけて、増税やら負担増の必要性に話題を振り替えてしまうようなやり方は、じつに胡散臭くなるのも当然だ。
原題 The Diplomat(外交官、転じて「謀略家、策略家」)
見どころ
最愛の一人息子を事故で失った外交官が、「せめて自分の命と引き換えにこの世界が変わるなら」とブリテン秘密情報局の核兵器探索・奪回作戦にのめり込んでいく物語。
「世界の危機を救う」という点では国際諜報作戦の物語だが、この作戦は幾重もの謀略や偽装に覆われ、しかも出世欲に駆られた情報エリートの横暴・暴走によって操られている。そのうえ、ブリテンの「国益」と「安全保障」なるものが、警察と情報局などの国家装置ごとに組織に都合よく解釈され、しかも同じ情報局のなかでも部長と作戦主任とでこれまた自己の立場に都合よく色づけされて、作戦は軌道をどんどん外れていく。
まあ、要するに救いのない物語である。
それにしても、何重にもはりめぐらされた策謀と欺瞞、当局内の主導権争いを、これでもか、これでもかとたたみかけるように描く手法は、ブリテン人ならではのもの。
そういうプロットを追いかける楽しみはあるが、結末は暗澹たるもの。だが、不思議な魅力がある。
時代背景は、1990年代前半、ソヴィエト国家秩序の崩壊ののちに混乱したロシアの状況で、今では「そんなこともあったか」というような状況設定。
むしろ、この作品は、市民・公衆への情報が閉ざされているブリテン秘密情報局、MI6のありよう、同じくロンドン首都警察庁(警視庁)の公安部門の活動というような、国家装置の闇の部分を「あざとく」描こうとしたのではなかろうか。
それにしても、「国益」とか「国家の安全保障」という〈やたらに大きいだけで空虚な言葉〉は、立場により人により、ずいぶんそれぞれに都合よく好き勝手に解釈され、国家装置に内部でさえ意思統一のないまま、国家の権力は安易に発動されるものだ、というのが私の結論だ。
という文脈では、辛辣な国家論の映像物語版ということになろうか。
1 麻薬密輸ルート
スコットランドヤードの公安対策(国外の組織暴力対策)部のジューリー・ヘイルズ主任捜査官は、ロシアンマフィアがブリテンに密輸出しているヘロイン(タジキスタン産)の密売ルートの摘発と壊滅作戦を指揮していた。
その日も、ロンドンのイーストエンドの古い工場跡まで、国内の密売組織のリーダーたちを追跡してきた。ところが、容疑者拘束に出ようとしたところで、近所の少年たちが工場跡に闖入してきたために、人質を楯にとった密売団との銃撃戦にはまり込んでしまった。
しかも、工場跡には廃油(軽油か)が野ざらしにされていたために、銃弾が当たって爆発的に燃え出し、部下の女性刑事が1人全身やけどを負うはめになった。
とりあえず今回は密売団は全員拘束したが、大量のヘロインが流れ込んでくる限り、密売団の跳梁は避けようがない。
そこで、ヘロインの密輸ルートを追跡調査したところ、ロンドン港の埠頭に到着した船舶から、在タジキスタン領事館からの荷物として送られてくること判明した。黒幕は、ロシアンマフィアの1つ、セルゲイ・クルーショフのファミリーだった。
セルゲイの組織は、ブリテンの外交官を抱き込んで、タジキスタンのドゥシャンベからの外交行嚢(貨物荷)に大量のヘロインを忍び込ませていた。抱き込まれた外交官は、ドゥシャンベ領事館の財務会計担当の一等書記官、イアン・ポーター。エリートだ。近頃、ドゥシャンベの歓楽街で酒と女に溺れ、セルゲイから多額の賄賂を受け取っているらしい。
外務省は、適当な理由をつけてイアンを召還した。
ジューリー率いる警察は、ヒースロウ空港でイアンを逮捕した。そして、司法取引を提案した。
セルゲイが首領となっている犯罪組織についての情報提供と引き換えに証人保護手続きによって保護しようというのだ。
■証人保護プログラム■
ところが、イアンは提案を拒否した。しかし、ブリテン国内で麻薬と密売組織が摘発され訴追された以上、公開の裁判となることは避けられない。そうなると、イアンは検察側証人として法廷に召喚されて厳しく尋問されることになる。
その場合には、ロシアンマフィア側は、イアンがいつ密輸ルートや犯罪事実を証言するか知れたものではない。彼らはイアンを抹殺にかかるだろう。
というわけで、イアンは裁判まで証人保護プログラムを適用されることになった。そして、イアンは、離婚した妻、ピッパを今でも愛しているようなので、彼女もマフィアによる拉致(イアンを脅すため)を防ぐために、イアンとともに保護されることになった。ピッパ(すごい美人)は大学の講師をしている。
スコットランドヤードは、ブリティッシュ・コモンウェルスを構成するオーストラリアにイアンとピッパの保護を依頼した。ただし、保護の必要性について、ブリテン側はオーストラリア側に虚偽の理由を説明した。
ロシアンマフィアとか麻薬密輸組織との関係する犯罪の証人としてではなく、金融犯罪の証人(犯罪の証拠を保有する銀行員)として保護を申請したのだ。
直接には、シドニー市警察局が、市内の住居に警護担当の警察官をつけてイアンとピッパを保護するという段取りになった。だが、ブリテンとの国家間司法協定が絡むので、オーストリア連邦警察組織と首相府がバックアップすることになった。あくまで形式的な手続きなのだが。
2 イアン・ポーター
さて、ジューリー・ヘイルズがタジキスタン、ドゥシャンベの領事館の外交官から聞き出した限りでは、イアンはきわめて清廉潔白で献身的な外交官で、マフィア組織と癒着したり依存し合うような気配はまったくばなかった。
そのはずだ。
というのも、イアンが酒と女で身を持ち崩してセルゲイの組織と癒着したというのは、イアンによるアンダーカヴァー(潜入ないし囮捜査)のために仕立て上げられた偽装だった。
■偽装の目的=任務■
数年前、イアンは最愛の息子、ルイスをプールでの事故で失った。溺死だった。その後、自分の殻に閉じこもったイアンは、ピッパとも離婚した。ピッパとは深く愛し合っていたのに離婚したようだ。
ルイスの死後、イアンはたぶん大学時代からの知り合い、政府の情報機関、秘密情報局(SIS)第6課(MI6)のチャールズ・ヴァン・クーアーズ(名前からホラント系の貴族家門の出自がわかる)によって、国家安全保障のためにはたらくエイジェントとしてスカウトされた。
心の空洞を埋めるためかもしれない。「こんな悲惨な世界を少しでも変えることができたら、死んだルイスに少しは誇れるかもしれない」ということらしい。外交官として、世界の悲惨な現状とか安全保障のための裏の交渉や闇の取引をさんざん見てきたので、そんな状況を少しでも変えたいという願望が、愛息の死で一気に膨張したのかもしれない。
で、チャールズから依頼された問題は、深刻な事件だった。
1990年代のソ連崩壊後の混乱のなかで、ソ連軍が開発した超小型原子爆弾(スーツケイスに収納された核兵器)がいくつか紛失した。そのうちの1つを、当時陸軍特殊部隊にいたセルゲイ・クルーショフが盗み出した。
やがて、セルゲイは、売春とか賭博などとともに、タジキスタンとか中央アジア産の麻薬(ヘロイン)の世界的密売組織を組織して、有力なロシアンマフィアの1つの頭目となった。そして、潤沢な資金とか国際的情報ネットワークをつうじて、かつて盗んだ小型核兵器を売りさばこうと計画した。
その謀略に関する情報が、MI6の捕捉するところとなった。
セルゲイの組織の拠点はタジクのドゥシャンベだ。そして、イアンはそこの駐在領事官のエリート外交官だ。腐敗した外交官を装って、セルゲイの組織に接近する条件が整っていた。目下のセルゲイのファミリーの稼ぎ頭のビズネスであるヘロイン密輸出に手を貸して「信頼」を得て、だんだん組織の奥の秘密に近づいていった。
やがて、表向きセルゲイは、イアンを最も信頼を置く仲間として扱い、その外交特権を利用して、核兵器の世界市場での取引の担い手とした。利用価値がなくなったら、イアンを闇に葬ることも想定してのことだろうが。
という文脈では、ブリテンへのヘロインの大量密輸はMI6の作戦の段取りのうちだったわけだ。セルゲイの組織に、イアンの利用価値を売り込み誇示するための。
ブリテン国内でどれほどのヘロイン依存症患者が増えようが、麻薬密売資金でロンドンの犯罪組織がどれほど肥大化しようが、国家の安全保障のためには、毛ほどの痛痒も感じない。これが、オクスブリッジ出身のエリートが牛耳るSISの作戦だったのだ。
■閑話休題■
世界で最初に、世界的規模での麻薬貿易ルートを系統的に組織して膨大な利潤を獲得して、それをヨーロッパやブリテン域内での金融資本、商業資本や産業資本の権力の拡大に活用するメカニズムを開発したのは、ブリテン国家(王室とシティの金融商人、貴族連合、特許会社)だった。
すなわち、ロンドン東インド会社の経営である。
この会社は王室から特許権を受け、シティや地方の富裕貴族たちから、さらに一般市民からも出資を募り、世界貿易のネットワークを組織した。17世紀末からは、インドでの香辛料、茶などの特産品の買い付け代金が不足したために、インドやアフガニスタン産のアヘンを買い入れて、中国やインド、東南アジア諸地域で売りさばいた。
ところで、東インド会社は、ブリテンによるインド植民地支配全体の安定を考えずに、会社の幹部や軍が各地で勝手に戦争を引き起こしたり、地方太守や領主と癒着して会社の利権漁りをしたりしたために、その乱脈な経営に本国で強い批判が起きた。そのために、18世紀をつうじて本国中央政府の干渉や介入を受け、やがて「国有化」され、解散した。
会社の権益はそっくりブリテン国家の中央政府・議会によって統制され、インド支配は植民地省によって管理されるようになった。本国の海軍の2倍以上の規模の艦隊も統合された。支配と収奪はなくなったわけではない。国策会社から議会や内閣の統制を受けた中央政府の公式の任務になったのだ。
だが、アヘン貿易の仕組みや利権は、会社が解散してからも、ブリテンの植民地支配の不可分の要因として継続した。麻薬資金の管理は、国家の政府の正規の仕事になったのだ。
19世紀になって、中国・清朝政府が麻薬貿易・密売に異議を申し立て規制に乗り出したため、ブリテン政府は、戦争(アヘン戦争)を仕かけて、中国の植民地化・分割の先鞭をつけたのだ。
マニ―ローンダリングを発明したのもブリテンのエリートだった。いや、彼らは「麻薬売買」を王室政府から公式に認可された「正規の事業」と見なしていたから、「汚れた資金」とは意識していなかった。だから、堂々と利潤をブリテン国内に送金して、金融業や貿易業、製造業に投資して、巨万の富を得た。
ダイアナ妃の生家、スペンサー伯爵家門は、この東インド会社の役員として活躍(暗躍)した先祖が、王室から麻薬売買の実績を高く評価されて、授爵されたのが始まりだという。王室やそのほかの有力貴族家門の豊富な富の相当部分が、この「麻薬マニ―ロ-ンダリング」の仕かけのなかから紡ぎだされたわけだ。
というような文脈では、伝統的にブリテンのエリートは麻薬貿易に関しては、「寛大な心」を持ち合わせているのかもしれない。
話を戻そう。
3 MI6の作戦の綻びの始まり
ところが、セルゲイの組織はロンドン港に一度に数百キログラムという桁違いに大量のヘロインを輸出したために、一躍スコットランドヤード外事公安部の標的となってしまった。こうして、イアンもロシアンマフィアと癒着し腐敗した外交官として目をつけられてしまった。
だが、SIS・MI6は、国家組織のなかではロンドン警視庁よりも「格上」だという自負があったから、このままイアンによるアンダーカヴァー作戦を継続しようとした。作戦のあくまで機密事項として、警察には情報を秘匿した。
そのために、首相府や外務省をつうじて警察に圧力をかけた。だが、スコットランドヤードも、犯罪抑止と国内の治安活動での優越を自負していた。そのため、自分たちの権限と権力が切り縮められることに反発し、イアンの拘束と証人保護プログラムを継続した。
イアン・ポーターはセルゲイに取り入って、小型核爆弾の取引で中心的な役割を割り当てられることになった。セルゲイはイアンに、起爆装置の起動の鍵と暗証番号を託した。暗証番号はセルゲイ自身も知らなかった。
そうなると、セルゲイが大金と引き換えに小型核兵器(スーツケイス)を買い手に引き渡すさいにはイアンが立ち会うしかないわけだ。
ところが、イアンがブリテン警察に逮捕され、証人保護プログラムを適用されたことから、セルゲイは何とかイアンを奪回しようと画策し始めた。
一方、MI6のチャールズとしても、ロシアンマフィアの核兵器取引にイアンをふたたび潜入させるためには、警察による保護と監視のもとからイアンを脱出させなければならなかった。そこで、チャールズは部下のシャノンを使って、スコットランドヤードからイアンの証人保護手続きに関する情報を聞き出させて、ロシアンマフィア組織に流した。
警察の機密情報をMI6が犯罪組織に横流しするわけだ。
そうする一方で、チャールズはイアンに、オーストリア警察の保護と監視の目から何とか逃れ出て、脱走するように指示した。
イアンがオーストリアのシドニー警察によって保護と監視を受けていることを知ったセルゲイは、ヴラディーミールをつうじてシドニーのロシア系移民社会のマフィアの首領にイアン奪回を命じた。この作戦の監視のために、セルゲイは弟にニコライをシドニーに送り込んだ。
イアンは、いったんは逃げ出したすきに、携帯電話で自分の隠れ場所をチャールズに告げ、その情報はさらにロシアンマフィアに流れていった。
こうして、シドニーのロシアンマフィアのボス、デミトロフ(ディミトリ)は、イアンの隠れ家を襲撃したが、警察官によって阻止されて失敗した。
だが、オーストリア警察は、悪辣なロシアンマフィアがイアンを奪回しようと襲撃したてたことから、スコットランドヤードがイアンの保護要請にさいして示した理由を疑い始めた。
マフィアによるイアン奪回の可能性に見切りをつけたチャールズは、MI6の部長の警告を無視して、暴走を始めた。彼は、SISやMI6の人材リクルート人脈をつうじて、傭兵を雇ってイアンを奪回しようと画策した。
南アフリカ出身のブリテン陸軍特殊空挺部隊(SAS)の出身者2人を雇って、イアンの隠れ家を襲撃させたのだ。襲撃者たちは、シドニー警察の警護役1人とイアンの妻、ピッパを殺害した。その混乱を突いて、イアンは森のなかに逃げ出すことができた。
だが、襲撃者の1人はシドニー警察のニールによって射殺され、まもなくその男の身元も判明した。ブリテンのSASまたは情報機関の人間のほかには、不可能なリクルート経路が使われていることも判明した。
チャールズの策謀は、やがて発覚した。
だが、殺されたピッパは、ジューリー・ヘイルズ警部から説得されて、イアンからMI6の核兵器奪還の秘密作戦を聞き出し、ヘイルズに伝えていた。
ここで、事件は麻薬密輸事件から核兵器の奪還という安全保障問題へと一気に転換してしまった。とはいえ、秘密のヴェイルが幾重にもかけられた作戦なので、作戦についての信憑性について、曖昧さが消えなかった。
ジューリーはロンドンの上司=警視(部長)にこの状況を報告して、今後の動き方について指示を受けた。
スコットランドヤードの方針としては、シドニー警察に犠牲者が出てしまった以上、これまでに判明した事実や状況判断をオーストリア連邦警察(保安情報機関)に伝えるしかないということになった。とはいえ、イアンは逃亡し証拠が何もないので、オーストリア側としては、核兵器奪還作戦に関しては、大きな疑いを抱いていた。
だが、ここに来て、MI6の暴走がブリテン国家装置の内部で暴露されてしまったわけだ。
MI6の作戦部長はチャールズにただちに作戦を中止して、事実をロンドン警視庁に報告し、しかるべき担当機関に任務を引き渡すよう命じられた。
4 絡み合う策謀
ところが、チャールズは作戦を独断で継続することにした。というのも、ここで作戦を投げ出せば、彼自身はMI6では作戦の「致命的な失敗者」としての烙印を押され、このあとのキャリアの上昇の道が閉ざされるばかりか、今のポストさえ失いかねないからだ。
何としても、作戦を成功させて名誉挽回をするしかない、という意地に凝り固まってしまったのだ。そのために、暴走を抑えようとする同僚のシャノンを殺害してしまった。
■イアンの決意■
一方、イアンは(極秘に接触してを求めてきた)ヘイルズ警部との連絡で入手した情報の断片から、ピッパを抹殺した襲撃者たちがブリテンの軍または情報部の関係者によって雇われたらしいことを知った。イアンとしては、チャールズを疑うに足る理由だった。
だが、彼はそんなことも知らぬげにチャールズに連絡を入れた。「作戦を継続する」と。
そして、セルゲイをシドニーに呼び出すことにした。
おりしも、セルゲイは小型核兵器の買い手との契約にこぎ着けたので、イアンに連絡して、起爆装置の鍵と暗証番号の引き渡しを求めてきた。イアンは、引き渡しを拒否して自分も取引(核兵器の引き渡し)に立ち会うと言い張り、セルゲイがシドニーを訪れてイアンと合流せざるをえないように仕向けた。
だが、イアンは腹のなかでは、セルゲイを破滅させると同時に、独断で作戦を指揮してピッパを殺させたチャールズをも破滅させるような手立てを段取りしていった。
とはいえ、セルゲイもそろそろ邪魔になってきたイアンを排除(抹殺)しようと考えていた。そこで部下たちに、イアンを探し出して拉致するように命じた。そして、鍵と暗証番号を受け取ったのちには、殺すように命じた。
もちろん、イアンはセルゲイがそのような動きをするであろうことを読んでいた。
イアンはロシアンマフィアの追及・襲撃から逃れて、ある娼婦館に逃げ込んで、セルゲイの到着を待った。
■切迫する核兵器の脅威■
さて、オーストリア連邦警察と安全保障情報機関(ASIO)は、ヘイルズ警部を加えて、小型核兵器がロシアンマフィアによってシドニー市内に持ち込まれているものと想定して捜査・探索を始めた。
シドニーの暗黒街でのロシアンマフィアの動向を探るうちに、マフィアの事務所にスーツケイス型核兵器が持ち込まれていた痕跡をつかんだ。放射線測定機が、マフィア事務所の一室で高い残存放射線量を記録したのだ。
そうするうちに核兵器取引の期日がやって来た。
イアンは、MI6のチャールズには核兵器の海上への搬出の時刻を2時間以上も遅い時刻として通報した。つまりは、チャールズが核兵器奪回について余計な策謀を発動することを不可能にするためだった。
ASIOとヘイルズは、セルゲイの動きを察知して、シドニー港の埠頭まで追跡していった。
イアンは、セルゲイを出し抜く形で、その埠頭に現れた。そして、強引に核兵器の搬出と引き渡しに同行させるよう迫った。
そこに、セルゲイたちを沖合の船舶(取引場所)まで運ぶためのヘリコプターが現れた。ASIOは、埠頭なので船舶による搬出ばかりを考えていたので、ヘリの捕捉までは手が回らなかった。
で、セルゲイとイアンは核兵器を携帯してヘリに乗り込んで飛び去ってしまった。
オーストリア首相府とASIOはただちに空軍に出動を命じた。ジェット戦闘機を2機派遣して、ヘリを追跡し領海内で撃墜せよと命じたのだ。
けれども、ヘリは空軍機よりも早く領海外に飛び去ってしまった。
セルゲイとしては、これで核兵器取引は成功し、巨額の代金を手に入れることができると大喜びしたに違いない。
ところが、ヘリの後部座席に核兵器とともに席を占めたイアンは、スーツケイスのふたを開けて鍵を差し込み起爆装置を起動させ、1分後に爆発するように設定した。ロシアンマフィアによる核兵器取引を阻止するためい。愛息ルイス、愛妻ピッパの後を追って自ら死を選んだのだ。
空軍機が領海の境界で旋回して引き返してから数十秒後、シドニーの沖で核爆弾が爆発し、強烈な閃光がオーストリア大陸東岸を照らし出した。直後に海上に巨大なキノコ雲が膨れ上がった。
■チャールズの破滅■
翌未明、オーストリア東岸沖合での核爆発のニュウズは世界中に伝わった。
MI6の部長は、チャールズにただちに出頭して査問を受けるよう命じた。だが、チャールズは精神の平衡を失ったまま、オフィスを出てロンドンの市街をさまよったあげく、走ってきた乗用車に飛び込んで自殺してしまった。
5 心理学からの国家論
さて、物語のなかで私は、MI6のキャリア・エリート、チャールズ・ヴァン・クーアーズの心性にいたく関心を抱いた。
国家装置の中枢にいるエリートがどのような国家観を抱き、自意識や権力欲望・出世願望をその国家観のなかに投影していくのかという問題に興味をひかれたのだ。
すでに見たように、チャールズはマフィアからの核兵器の奪還という軍事=安全保障上の目的のために、1人の外交官をマフィアと癒着した腐敗官僚に偽装し、ヘロインのブリテン国内への密輸ルートまで開拓させた。
つまりは、国内での犯罪組織の跳梁や夥しい数の麻薬依存者=被害者の出現などには、まったくお構いなしに、この安全保障上の目的の遂行を強行した。目的が崇高ならば、いかなる手段に訴えてもかまわないという価値観に染め上げられていた。
したがって、ロンドン警視庁・警察官たちの苦悩や犠牲、努力よりも、自分の任務課題の方がずっと上であって、それ以下の序列にあるどんな活動や国家の機能をも見下していたわけだ。
「上から目線」もここに極まれり。というような意識・心理で臆面もなく、「自分の仕事」に没頭したのだ。もちろん、そこには自己の欲望、エリートしての出世欲や権力欲がないまぜになりながら、「私は国家のために崇高な目的を追求し、日夜身をささげているのだ」という自意識、いや過剰な自意識がはたらいていたはずだ。
私たちは、ここまで極端ではないが、この鼻もちならない「国家エリートの過剰な自意識」を日頃よく目にする。
たとえば、「消費税増徴」を得意げに主張するどこかの首相の表情に、実に曖昧な「国家像」や「国益イメイジ」を庶民に押しつけがましく主張する「過剰な自意識」を目にする。いや首相だけではない。
国会議員などの政治家や高級官僚の記者会見での声明や自己主張には、多かれ少なかれ、この「上から目線」の「過剰な自意識」を感じることが多い。
そこには、国家像と自己の欲望とが無際限に入り混じった心理が居座っているように見える。
それを「天下国家」の次元まで肥大化させた自己意識、と呼ぶことができる。自己欲と国家の機能とを区分できない状態だ。
そういう手合いの話をじっくり分析すると、「国家」という大きな話題を語っているその中身は、じつに狭くて貧弱で一面的であることが見えてくる。というのも、「天下国家」の問題は、きわめて膨大で複雑で、その断片たりといえども把握するには、大きな努力と思考力を必要とする。
もちろん、他人や庶民にその課題を語る場合には、説明に非常に手間がかかり、忍耐を要するだろう。だから、それを一言で片づけて、増税やら負担増の必要性に話題を振り替えてしまうようなやり方は、じつに胡散臭くなるのも当然だ。