映画に 乾杯! / 知の彷徨者(さまよいびと)

名作映画に描かれている人物、物語、事件、時代背景などについて思いをめぐらせ、社会史的な視点で考察します。

みちくさ 2 中国の歴史の不思議 その2

2009-08-17 20:40:33 | アジアの歴史
■帝国レジームの文明装置■
 前回の設問と結論はこうだった。
問題: 中国ではすでに紀元前に、のちにヨーロッパが16世紀に到達するような先進的ないくつもの文明装置(遠距離=世界貿易、商人の成長と都市の発達、多数の政治体の合従連衡など)を持ち合わせていたのに、なぜ資本主義が生まれなかったのか。
結論: 中国人の商業世界(交易システム)を包括するような帝国レジームがいち早く成立して、商業資本が(互いに競争し合う)小さな政治体と結託して、権力闘争を展開する環境が生まれなかったから。

 このことは、帝国の宮廷が、いち早く各地の経済活動を課税基盤として正確に把握するシステム=手法を編み出していたということを意味する。農業生産性や産業経済の生産性を把握して、どれほどの担税能力があるかを調査把握する文字情報システムとそれを駆使する官僚システムを備えていたということだ。
 ヨーロッパでは、王の宮廷が域内の経済を課税基盤として把握・測定するシステムを手に入れるのは、ようやく16世紀のことだった。もちろん、商業都市が領域国家としてヘゲモニーを掌握した北イタリアでは、それよりも数世紀早かった。とはいえ、君侯・領主貴族が、商業会計の手法で宮廷の財政や課税基盤を把握しようと意識するようになるのは、早くても16世紀のことだった。
 その意味では、古代中国は異様・特異である。
 たとえば、すでに春秋戦国時代に、「均田」(あるいは「衡田」と書いたかもしれない)ないし「均田法」という土地の生産性計測の方法があった。均(衡)は、ある基準にもとづいて測ることを意味する。均田は、一定単位面積あたりの田畑の米や麦などの主穀の産出量=生産性を基準にして、主穀生産地だけでなく、そのほかの作物や森林、草原(牧草地)などの経済的生産性を測定する手法だ。
 主穀生産量は、どれだけの人民(人口)の食糧をまかなえるかの基準となる。だから、どれだけの兵員をどれだけの期間維持できるか、という軍事能力の目安ともなる。
 古代の有力王国・侯国は、このようにして、自分の支配地の経済的生産性と課税基準を把握していたという。これは、帝国レジームによって、さらに洗練されて導入された。
 都市や商業については、独自の商業会計=計算方法が、やはり担税能力の測定方法として開発されたという。いやはや、おそろしい文明である。
 秦帝国以降、漢字を理解・駆使できる官僚システム(地方では侯国宮廷や領主をその担い手と位置づけた)構築したから、すくなくとも有意な地域・地方の大半については、帝国宮廷は課税基盤として把握できた。
 とはいえ、当地の現場・末端にいる領主や役人は、行政や課税の権限を自分の私的な権力と考えていたから、課税は現代のように公平かつ公的におこなわれたわけではない。保護や平和秩序の提供の見返り=賄賂(まいない)として、権力者=支配者に納入された。
 彼らが、自分よりも上位の権力として王や公・国、さらには皇帝などの権威を受容する限りで、「まいない」収入の一定部分を、その上位の権力に上納したり、自分の支配地の統治コストや皇帝や侯の指揮による軍役奉仕のためのコストをまかなったりした。

 つまりは、帝国は「きっちりと構築された制度」というよりは、観念であって、有力支配諸階級のあいだでの「共同主観」だった。地方の有力者の支配=統治活動が、より上位の権力によって裏打ちされ支援されるという関係を観念化して、地方の支配者が上位の権力からローカルな統治を委任されている、地方的エイジェントとなっているという擬制を相互了解するわけだ。
 いくら共通の文字コードが普及しても、当時の通信・輸送テクノロジーでは、中央の権威は直接地方に伝達されるはずがなかった。軍の派遣とか権威の伝達もしかりだった。
 だから「分封建国」という観念=擬制が構築されたのだ。
 各地方の統治は、各地方の支配者や有力者に委ねるしかない。だから、彼らの権威を、上位の権威が裏打ち=支援するという擬制をとるしかなかった。この擬制のなかでは、地方の支配者の領地支配権は、上位の支配者から分与されたものであると仮想する(させる)共同主観だ。
 観念=擬制だから、長期に持続した帝政が、ある時期には、状況や利害得失での変動で容易に崩れることもある。

■「帝国」と「国家」とのはざま■
 帝国レジームには「当地の地理的境界線」「国境」というものがない。あるのは、帝国の権威が希薄化する「辺境」だ。つまり、「帝国」は「国家(近代的な意味での)」ではないのだ。
 この辺境の周縁には、別の帝国の辺境やら、中国の帝国には属さない政治体やらがあった。という意味では、辺境は帝国の権威の盛衰とともに、また外縁部の政治体と中国帝国との関係によって、つねに移動した。帝国が膨張すれば、辺境はより外縁に押しやられることになった。
 それにしても、辺境や外縁は、貿易商人にとってはリスクとコストが大きすぎて、恒常的な通商経路には取り込まれなかっただろう。だから、帝国の権威の膨張とともに、貿易システムの外延・地理的範囲は拡張しただろうし、帝国の収縮とともに縮小しただろう。
 この見方には前提がある。
 中国の有力商人は、帝国の版図の外部への冒険商業を指向しなかったということだ。これは、私の先入観だ。富裕商人は帝国あるいは諸王国・公国の中枢や宮廷との結びつきを指向したのではないか、ということだ。というのは、そこが飛び抜けて利潤率が大きかったからだ。


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