猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 19 説経梵天国 ⑥終

2013年04月10日 21時04分45秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ぼん天こく ⑥終

羅仙国は、人が住む国ではないので、通りかかる者もありません。中納言はたった一

人で、話しかける相手もありません。たまに聞こえてくるのは、浜の千鳥が友を呼ぶ声

だけです。州崎に寄せてくる浪の音があまりにも凄いので、中納言は、漢竹の横笛を取

り出すと、音も澄みやかに吹き始めました。

 鬼の大王である破羅門王は、この中納言の笛の音を遠音に聞きつけて、

「なにやら、浜辺の方から、良い笛の音が聞こえてくるが、いったに何者か。連れて参れ。」

と言いました。眷属どもが、浜辺に出てみると、修行者が笛を吹いています。いきなり

取って押さえると、中納言を破羅門王の前へと引き据えました。破羅門王は、

「如何に、修行者。この国は、三界を隔て、人が来るような国ではないのに、どうやっ

てやって来たのだ。」

と、言いました。中納言は、大王の姿を見ると、

『南無三宝。これは、梵天国から逃げ出した罪人に違い無い。ここで、日本の者と言っ

ては、まずいな。』

と、考えて、

「私は、遙か数万里も離れた契丹国(けいたんこく:モンゴル)の者です。仏法修行に

出ましたが、悪風に流されて、ここに流れ着きました。どうか、哀れと思し召し、御慈

悲を下さい。」

と、答えました。大王は、しばらく中納言をしげしげと眺めると、

「お前の姿を、よくよく見ると、梵天国の婿となった中納言に良く似ておるな。お前は、

嘘を言っているのではないか。」

と、言うのでした。中納言は、にこにこと笑いながら、

「このような賤しい修行者を、比べようも無い、梵天国の婿とご一緒になされるのですか。

私は、五戒を守る僧ですから、一念五百生、懸念無量劫。梵天王の姫宮など、目に見る

ことすら、禁じております。」

と、答えました。すると、大王はこう言いました。

「それであるならば、苦しゅうない。実は、頼みがあるのだが、先ほど吹いていた横笛

とやらを、ちょっと聞かせてもらいたい。」

中納言は、早速に腰から漢竹の横笛を取り出すと、女子が男子を恋いし、男子が女子を

偲ぶ曲である、想夫連(そうふれん)という曲を、半時余り吹いたのでした。あまりに

素晴らしい笛の音であったので、大王を始め、鬼の眷属どもも皆、聞き惚れたのでした。

その笛の音は、御簾の内にいた天女御前にも聞こえてきました。天女御前は驚いて、

「おや、いったいどういうことでしょう。この笛の音は、妾が夫の中納言の笛。夫は、

ここに、どうやって来たのでしょうか。」

と、気もそぞろに、懐かしさの余り、声も上げずに忍び泣くのでした。その様子を見て

いた女房で、蛇骨の夜叉女という、心の獰猛な女は、

「姫君、あの修行者が吹くものを聞いて、涙をお流しになるとは、いったいどういこことです。」

と、言うのでした。天女御前は、これを聞いて、

「あなた方は、知らないであろうが、あれは、私が梵天国に居た時に、いつも吹いてい

た横笛というものなのですよ。久しぶりの笛の音に、故郷のことが懐かしくなって涙が

こぼれました。」

と、ごまかすのでした。

 そんな折、破羅門王の所へ、隣国からの使者が訪ねて来ました。それは、隣国で起こ

っていた戦争の応援の依頼でした。やがて、破羅門王は、天女御前の所にやってきて、

「如何に姫君。隣国に合戦があり、三日の間、加勢に行って来る。すぐに帰るが、寂し

くなったなら、あの修行者に横笛とやらを吹いてもらうがよい。」

と言うと、出陣して行きました。さて、中納言も天女御前も、互いにそれと分かったも

のの、うかうかと近寄るわけには行きません。しかし、破羅門王が帰らぬ内に、なんと

かしなくてはなりません。そこで、天女御前は、酒宴を催すことにしたのでした。夜に

なると、女房達を集めて酒宴を開き、中納言には、隣の部屋で笛を吹かせました。自ら

酌に回って、酒を勧めました。やがて、夜叉女を始め女房共は、酔いつぶれてしまいま

した。時分を見計らって、天女御前は、抜け出すと、中納言の所へ行きました。こうし

て、ようやく二人は、再会を果たしたのでした。二人は、互いの袖にすがりついて、言

葉もありません。しかし、いつまでもそうしては、いられません。天女御前は、

「早く、葦原国へ帰りましょう。」

と言いました。しかし、中納言は、こう言うのでした。

「しい、声が高い。この島は、三界から隔たった島。私には帰る手立てが分かりません。」

これを聞いた天女御前は、

「それでは、鬼が秘蔵している千里を駆ける車を奪いましょう。」

と言うと、中納言を連れて車に乗り込んだのでした。そうして二人は、あっという間に

葦原国へと帰ることができたのでした。

 やがて、夜叉女は、笛の音が聞こえないことに気がついて、かっぱと起きあがってみ

ると、天女御前も修行者も姿が見えません。驚いた夜叉女は、万里に響き渡る合図の

太鼓を叩いて、破羅門王に異変を伝えました。これを聞いた破羅門王は、何事かと、急

ぎ帰国しますと、姫君がおりません。

「さては、あの修行者めは、やはり中納言であったか。刹那に攻め入って八つ裂きにしてくれん。」

と、万里を駆ける車に飛び乗って、葦原国へ行こうとしました。ところが、その時、

梵天国より、四天王が飛んで来て、破羅門王の車を木っ端微塵に蹴破ったのでした。

 さて、中納言と天女御前の二人は、無事に五條の館に戻ることができました。そして、

中納言は、梵天王の自筆の御判を、帝へと献上したのでした。帝は、

「日本の例しにしよう。」

と仰って、父の大臣高藤を勧請して、梵天の自筆の御判を添えて、五條の西の洞院に

「天使の宮」(五條天神:京都市下京区松原通西洞院西入天神前町)を祀り、国土を納

め、仏果をお守りになったのでした。

 それから中納言は、本国の丹後・但馬を安堵されて、国に戻り、棟門を立ち並べて、

富貴の家と栄えたとのことです。その後、中納言殿は「切戸の文殊」、天女御前は「成

相の観音」として勧請され、今の世に至るまで、衆生を済度し、国土を守っていただい

ております。

誠に、上古も末の世も

例し少なき御事と

上下万民、おしなべて

尊っとかりともなかなか

申すばかりはなかりけり

おわり

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忘れ去られた物語たち 19 説経梵天国 ⑤

2013年04月10日 17時05分38秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ぼん天こく ⑤

 その時、梵天国の大王は、清涼殿に出御なされて、華鬘や玉で飾られた黄金の玉座に

お座りなり、中納言にこう言いました。

「中納言よ。汝を婿に取ったのは、親に孝行ある故であったが、今、逃げ出した罪人

は、汝にとっては、敵であるぞ。羅仙国の大王、破羅門王と言う者は、姫を七歳の時

からつけ狙い、奪い取ろうとしてきたのじゃ。これを、四天王の力によって捕縛して、

今日か明日の内に、八つ裂きにしてやる所だったのだ。逃がしてしまうとは、不覚であ

あった。汝に与えたその米は、梵天国においても、そう簡単に手に入るものではない。

忝なくも、寂光の池の水際に生える米なのだ。一粒食べれば、千人の力を受け、千年の

寿命を手に入れることができるのだぞ。汝が、大成して、梵天国にやって来たからこそ、

与えたその飯を、破羅門王に食べさせてしまうとは。その飯を食べて、通力自在の力を

得たからは、今頃はきっと、葦原国に居る姫を奪っていったことであろう。誠に残念なことじゃ。」

と、有り難くも両眼に涙を浮かべるのでした。驚いた中納言は、

「故郷の妻の行方が、心配です。どうか、自筆の御判をお与え下さい。」

と、願いました。梵天王は、

「姫が奪われてしまった今となっては、自筆の判が、何の役に立つ。」

と、言いましたが、中納言が、重ねて頼み込みますので、梵天王は、自筆の判を賜ったのでした。

梵天王の自筆の御判を手にした中納言は、三度押し頂いて、別れを告げると、三日三夜

をかけて、葦原国の五條の館へと戻りました。

 五條の館に、中納言がお戻りになると、館の人々の喜びようは言うまでもありません。

しかし、中納言の乳母は、飛んで来ると、

「我が君様。天女御前様は、一昨日の夕暮れ時に、魔王が現れて、さらわれてしまいました。」

と、袂に縋り付いて、嘆くのでした。これを聞いた中納言は、肝も冷え、魂も消えるば

かりです。

「ああ、南無三宝。やはり、羅仙国の破羅門王が、姫を奪い去ってしまったのか。ええ、

なんとも口惜しい。」

と嘆く外ありません。中納言は、姫の部屋に行くと、姫の小袖を胸に当て、顔に当てて、

姫を偲んでおりましたが、やがて、

「会者定離、盛者必衰は、世の理であるから、何も驚くことでは無い。これを、菩提の

種として、噸世をいたそう。」

と思い切ると、そのまま近くの寺へ行き、上人様に、

「如何に、上人様。妻の菩提の為に、出家させてください。」

と頼んだのでした。これを聞いた上人様は、奇異に思って、

「未だ、亡くなっていないお姫様の菩提とは、どういうことですか。」

と、聞きました。中納言は、

「ご不審は、ごもっともです。幼少の頃に父母を失い。今は、我妻に生き別れました。

浮き世の望みも、財宝も、もう関係無いのです。どうか、髪を剃って出家させて下さい。」

と、重ねて頼むのでした。これには、上人も断れず、中納言を出家させたのでした。

 墨染めの衣を着け、黒檀の数珠を襟に掛けた中納言は、竹の杖一本を頼りとして、

妻の行方を捜そうと、京の都から彷徨いでました。

〈以下道行き〉

筑紫下りの物憂さを

幻(うつつ)と更に思ほえず

涙は、幾たび道芝の

露、深草の里荒れて(京都府伏見区北部)

人、放ぶり(はぶり)に、錏(しころ)なれや

軒も籬も形ばかり

折からなれや、薄墨の

桜は今ぞ、紅葉の秋

鳥羽(鳥羽離宮:京都市南区・伏見区)に恋塚(恋塚寺:京都市伏見区)、桂の里(桂離宮:京都市西京区)

都を隔つる山崎や(京都府乙訓郡大山崎町)

東に向かえば有り難や

石清水を伏し拝み(石清水八幡宮:京都市八幡市)

昔語りを今の世に

試しに引けや(謡曲:弓八幡に掛ける)

男山の女郎花(おみなめし)の一時(とき)を(謡曲:女郎花に掛ける)

くねると書きし水茎の(?)

跡懐かしき関戸の院(京都府乙訓郡大山崎町)    

日も呉竹の里にて

猪名(いな)の笹原、吹く風に(猪名川:大阪府と兵庫県の境)

露袖招く、小花が叢(兵庫県川西市小花町)

松風に煙り担ぐ尼ヶ崎(兵庫県尼崎市)

早、大物に着いたよな(尼崎市大物町)

海辺に出た中納言は、四国や西国の方へ行って、妻の行方を尋ねようと思いました。そ

こで、便船を探しましたが、一人法師は禁制と言って、乗せてくれる舟はひとつもあり

ませんでした。中納言は、なすすべもなく、呆然と立ちすくんでいますと、何処からと

もなく、白髪の老人が舟を寄せて来ました。老人は、

「これ、修行の方。この舟にお乗りになりませんか。行きたい湊に、送り届けてあげましょう。」

と言うのです。喜んだ中納言は、老人の舟に飛び乗りました。

〈以下道行き〉

波路、遙かに漕ぎ出す

後、白波の寄る辺なく

浮き寝の床の楫枕(かじまくら)

都に帰らん夢をさえ見ようさん

須磨の関の戸を(神戸市須磨区)

明くる明石の浦伝い(兵庫県明石市)

筑紫下りの途次(みちすがら)

兵庫の浦とは、あれとかや(神戸市兵庫区:大輪田泊)

州崎に寄する浪の音

物凄まじき、岩伝い

譲葉ヶ岳(ゆづりはがたけ:淡路島の論鶴羽山)を弓手になし

播磨の国(兵庫県西南部)なる室山降ろしに誘われて(兵庫県たつの市御津町付近)

揺られ、流るる釣り船

思わん方へも流れ行け

浪に揺られて漂えり

風に任せて行く程に

男鹿(たんが)、クラ掛、打ち過ぎて(家島諸島の島:兵庫県姫路市)

海上、俄に景色変わって

白波、青海(せいがい)を洗いつつ

多く見えつる舟どもも

皆、十方に吹き流され

行き方知らず、なりにけり

中納言が乗り込んだ舟も、強い風に吹き流されて何処へ向かっているのかも分かりません。

やがて、日本の海を離れて、鬼満国(きまんこく)も過ぎて、羅仙国(らせんこく)へと

流れ着いたのでした。すると、老人はこう言いました。

「修行者よ。只今の強風によって、なんなくここまで、送り届けたぞよ。我を誰と思う

か。汝の氏神、清水の観世音であるぞ。お前を妻に逢わせるために、五海の龍神となって、

ここまで送って来たのだ。これからの行く末も守護するであろう。」

そう言い残すと、二十尋(はたひろ:約30m)余りの大蛇となって、虚空に飛び去っ

て行くのでした。とは言うものの、いきなり知らない浜辺に置き去りにされた中納言は、

頼る者も無く、只一人、途方に暮れて泣き明かすしかありませんでした。中納言の心の

内は、哀れともなかなか、申し様もありません。

つづく