ニュースを見てたら長谷川豊アナウンサーという人が、この間の高畑淳子への質問は「どうしても避けられない質問」と話していることがわかった(報道出身の人であるが報道全体の意見だとは限らない)。犯罪者の親族に「犯人はどんな人だったか」を聴くのは、報道する立場からは鉄則であるらしい。彼はこの点を何の疑いも持たずに報道の常識のように語っていて、プロのやる事には素人は口を出すな的な雰囲気も醸し出している「上から目線」の発言だった。だが私は疑問を持つのである。果たして親族の「犯人像」を聞き出して全国放送することが、犯罪の真実を考える上で「何かの役に立つのか」どうか、大いに疑問だと私は思う。
何か重大な事件が起きて、マスコミはここぞとばかりに「家族や親族や勤務先はたまた近所の人に、どんな人物だったか」を根掘り葉掘り聞き始める。たまに道ですれ違いざまに挨拶する程度の人に、いったい何がわかるというのか。「ちゃんと挨拶する感じのいい人でしたよ」ていう人もいれば、「挨拶しても返事もしない陰気な人」だったと眉をひそめる人もいる。要するに、よく知らないのである。だが、それらの細切れの印象が集まると「一つの犯人像」ができあがる。そしてマスコミは生い立ちから勤務先の評価から友達の付き合いまで「勝手に犯人像を作り上げる」のである。しかも世間の関心が集まっている短時間の間に、である。相模原の殺人犯の時もそうだった。一ヶ月もしないうちに、マスコミは次の事件へシフトする。そうやって犯人がいかに極悪非道だったかを吹聴しまくれば、マスコミは世間の怒りや悲しみの代弁者として大いに役に立ち、正義の人々の溜飲を下げる事になる。でもそれでマスコミは役に立っているのだろうか。
私は、大騒ぎして人々の感情を煽った挙句に勝手に自分で幕を引いて、まるで事件なぞなかったかのごとく忘れ去っていくマスコミの仕事ぶりには、事件を「給料のタネ」にした「番組作り」の匂いがプンプンするのだ。彼らには、事件に対する「どうして事件が起きたのか」という真摯な問いかけが欠けている。真面目なジャーナリスト精神が失われて、事件屋に成り下がった三流新聞のタブロイドのような、大衆受けする謝罪会見を流して視聴率を取り、「打ち上げで乾杯しているテレビ関係者」の姿が目に浮かぶ。彼らにとっては毎回毎回いろいろ起きる重大犯罪の「ひとつ」に過ぎない。相模原の次は高畑容疑者で、その次は埼玉の河原に埋められて殺された高校生の事件だ。だが高畑淳子にとっては、「一生の大事件」なんじゃないのか。
高畑淳子の謝罪会見におけるマスコミの質問に対してネットがパッシングするのは、「高畑淳子が真剣に謝罪し、自分の子供のことを何とか守りたい一心で」マスコミの質問に答えていたその態度に共感しての事であるから、要は感情的に流された意見である。高畑淳子の態度が違えば、ネットの反応も180度異なっていただろう。問題はマスコミの「どうしても避けては通れない質問」という考え方である。
マスコミは「正義の代弁者」とでも言うつもりなのだろうか。裁判で明らかにすべき犯人の動機や性癖や社会背景などの重要証拠を、簡単に無差別かつランダムに拾ってきて検証もせずに放送する。そして合っているか間違っているかどうかもわからないのに、「大衆受けする犯人像と事件の原因を」推測する「噂の造作」の片棒を担いで、それをマスコミ報道の基本=知る権利の行使とうそぶいて恥じない。これはもう、「ひとつの犯罪」である。犯人は裁判が行われる前に、「マスコミによって犯人に仕立てられてしまう」のである。犯罪の真実は、井戸端会議や居酒屋談義の噂のレベルで解明できるような簡単なものではないと思う。それを一般人がわかりやすい「定型に落とし込んで」説明して、困ったもんだ式の解説を加えるマスコミのやり方では、人間の心の闇を裁くことはできないであろう。ワイドショーのコメンタリーは、百害あって一利なしである。
私は長谷川豊氏にひとこと言っておきたい。マスコミが報道する「親族の犯人像」は、事件を総括する裁判の結果現れてきた犯人像と「必ず一致する保証」があるのか?
もし一致する保証がなければ、それは単なる噂でしかない。そして噂をばらまく行為は、一般人に無用な先入観を与えるだけの「お喋り」に過ぎない。例え親族や母親の「あの子はこんな子だった」という発言が当人の意見だったとしても、それは勝手な印象をばらまくことに変わりはない。それが裁判に「無関係」であることは明白である。
私は長谷川豊氏にもう一度言う、マスコミは事実のみを報道すべきである、と。
何か重大な事件が起きて、マスコミはここぞとばかりに「家族や親族や勤務先はたまた近所の人に、どんな人物だったか」を根掘り葉掘り聞き始める。たまに道ですれ違いざまに挨拶する程度の人に、いったい何がわかるというのか。「ちゃんと挨拶する感じのいい人でしたよ」ていう人もいれば、「挨拶しても返事もしない陰気な人」だったと眉をひそめる人もいる。要するに、よく知らないのである。だが、それらの細切れの印象が集まると「一つの犯人像」ができあがる。そしてマスコミは生い立ちから勤務先の評価から友達の付き合いまで「勝手に犯人像を作り上げる」のである。しかも世間の関心が集まっている短時間の間に、である。相模原の殺人犯の時もそうだった。一ヶ月もしないうちに、マスコミは次の事件へシフトする。そうやって犯人がいかに極悪非道だったかを吹聴しまくれば、マスコミは世間の怒りや悲しみの代弁者として大いに役に立ち、正義の人々の溜飲を下げる事になる。でもそれでマスコミは役に立っているのだろうか。
私は、大騒ぎして人々の感情を煽った挙句に勝手に自分で幕を引いて、まるで事件なぞなかったかのごとく忘れ去っていくマスコミの仕事ぶりには、事件を「給料のタネ」にした「番組作り」の匂いがプンプンするのだ。彼らには、事件に対する「どうして事件が起きたのか」という真摯な問いかけが欠けている。真面目なジャーナリスト精神が失われて、事件屋に成り下がった三流新聞のタブロイドのような、大衆受けする謝罪会見を流して視聴率を取り、「打ち上げで乾杯しているテレビ関係者」の姿が目に浮かぶ。彼らにとっては毎回毎回いろいろ起きる重大犯罪の「ひとつ」に過ぎない。相模原の次は高畑容疑者で、その次は埼玉の河原に埋められて殺された高校生の事件だ。だが高畑淳子にとっては、「一生の大事件」なんじゃないのか。
高畑淳子の謝罪会見におけるマスコミの質問に対してネットがパッシングするのは、「高畑淳子が真剣に謝罪し、自分の子供のことを何とか守りたい一心で」マスコミの質問に答えていたその態度に共感しての事であるから、要は感情的に流された意見である。高畑淳子の態度が違えば、ネットの反応も180度異なっていただろう。問題はマスコミの「どうしても避けては通れない質問」という考え方である。
マスコミは「正義の代弁者」とでも言うつもりなのだろうか。裁判で明らかにすべき犯人の動機や性癖や社会背景などの重要証拠を、簡単に無差別かつランダムに拾ってきて検証もせずに放送する。そして合っているか間違っているかどうかもわからないのに、「大衆受けする犯人像と事件の原因を」推測する「噂の造作」の片棒を担いで、それをマスコミ報道の基本=知る権利の行使とうそぶいて恥じない。これはもう、「ひとつの犯罪」である。犯人は裁判が行われる前に、「マスコミによって犯人に仕立てられてしまう」のである。犯罪の真実は、井戸端会議や居酒屋談義の噂のレベルで解明できるような簡単なものではないと思う。それを一般人がわかりやすい「定型に落とし込んで」説明して、困ったもんだ式の解説を加えるマスコミのやり方では、人間の心の闇を裁くことはできないであろう。ワイドショーのコメンタリーは、百害あって一利なしである。
私は長谷川豊氏にひとこと言っておきたい。マスコミが報道する「親族の犯人像」は、事件を総括する裁判の結果現れてきた犯人像と「必ず一致する保証」があるのか?
もし一致する保証がなければ、それは単なる噂でしかない。そして噂をばらまく行為は、一般人に無用な先入観を与えるだけの「お喋り」に過ぎない。例え親族や母親の「あの子はこんな子だった」という発言が当人の意見だったとしても、それは勝手な印象をばらまくことに変わりはない。それが裁判に「無関係」であることは明白である。
私は長谷川豊氏にもう一度言う、マスコミは事実のみを報道すべきである、と。
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