具体的に私が今考えている方法を書いてみます。AとBが議論して、Cが議長という設定で行います。
例題として、ある政党の派閥がパーティーで得た収入を現金で派閥議員の会計責任者に渡し、これは政治資金収支報告書に記載しなくて良いと言った。これは会計責任者の違法行為だが、その上司の議員は「同罪」なのかどうか?、を取り上げてみた(なお、法律上の判断は今回は問わないものとします)。
A:派閥本部から貰ったお金は現金ですか?
B:現金です
A:政治資金収支報告書に記載されてませんがどうしてですか?
B:記載しなくていいお金と聞いています
A:そういうことは良くあるのですか?
B:滅多にありませんがそのまま受け取りました
A:何のお金か聞かなかったのですか?
B:政策活動費と思いました
A:では使い道ですが何につかったのでしょう?
B:領収書等が有りませんので分かりません
A:それでは考えて見ましょう。① 事務所の経費に使った、② 議員の生活費に使った、③ 支援者との飲み食いに使った、④ 会計責任者が私用に使った、⑤ 秘書や事務員の給与に使った、⑥ 選挙運動に使った、⑦ 買収工作に使った、⑧ 政策活動費に使った、のどれだと思いますか?
B:領収書等が有りませんので分かりません。
A:一つずつ解明しますね。① の「事務所経費に使った場合」は収支報告書に記載されている表のお金と。現金で未記載の「両方」が使われるわけで、実際の経費の額と報告書の額が合わなくなりますがどう辻褄を合わせているんですか?、それとも特別な経費だけ現金で払っていたのですか?
B:事務所経費には使ってないと思います。
A:では② の「議員の生活費に使った」のですか?
B:生活費は充分足りているし、何千万円もかからないので違うと思います。
A:じゃあ③ の・・・と、延々と続く(結構時間がかかるが所定の質問なので省くのは間違い)。
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要するにお金を使ったのは「議員本人」であり、会計責任者には実際に何に使ったか分からない、というが分かる。
まあ使途については言わなくても本人の自由だろうけど、それじゃ「税金の対象である所得」になっちゃうけど、税金は払ってますか?と突っ込まれる。それで慌てて必死に修正してる段階だそうだが領収書が無いので、政策活動費のような「曖昧な費用」として記載するしか無いんじゃないだろうか。だが政策活動費ですんなり適法であれば何故派閥本部は「わざわざ現金で記載は無用」と言ったんだろう?。どうも変である。しかもこの政策活動費って実際にどういうお金なんだろう?。
どんどん詰めていくと結局「意図的で悪質な脱税」で有罪か、または「世間を賑わしている選挙での買収」に類するダーティーなお金で有罪、のどっちかに絞られる。どちらにしても議員は申し開きが出来なくなって万事休す、だ。まともに質問に答えていくと実態は自然に明らかになる。
第一に政治資金収支報告書に記載しないお金が○千万円もあるのに「変に思わない」という点がミソですね(これは変に思わないと言うよりも、お互いよく知っている「例の金」だから黙っていて、ツーカーだと解釈するのが妥当だろう)。派閥事務所から現金でお金を貰ったら「例の金だな」とピィーんと来て「ありがとうございます」と黙って受取る。それが長年の自民党の慣行ですね(私の勝手な想像)。
この例は「裏金」というホットな話題だったので導く先の答が分かり易かったかも知れないが、議論というのは「到達する答え」に向かってすべてのファクターを詰めていく作業なんだ、という事が分かると思う。十分に考えられた質問には「反論」というのは殆ど無い。
つまり正しい議論をする場合は、
① Aが質問し
② Bが答える
この形で進めることが大前提です。
議長は質問された側が「答える」よう相手方に要求することが出来ます。それが議論の鉄則だ。答えは出来れば「YESかNO」が意図が正確に伝わって良いと思います。もし質問が曖昧な場合は質問者に「訂正」を要求出来て、どちらも議論をスムーズに進めるための「コントロール」の役目になります。国会は残念ながら議長が全くこの役目を果たしていないので「議論になっていない」と私は思います。岸田首相の答弁などは議長から即座に「答えなさい」とカードが提示されてしかるべきだと思うのですが、無理なんでしょうねぇ、呆れるばかりです。
まあ、そうやって質問に答えていく内に、どちらの意見が正しいか或いは第三の結論が出るのか「自然に明らかになる」、というのがこの議論の本質なのです。勿論双方が誠実に議論に臨み、勝ち負けではなく「正しい結論」を求めている、という前提での場合ですが。そういう「曖昧さを廃した、正しい議論のやり方」を小学生の内から授業の中で訓練・実習して勉強していけば、少なくとも30年後には「本物の民主主義」が日本に根付いて来るんじゃないか?、と私は思っているというか、願っています。要はお互いに「何が正しいかを考え続ける事」じゃないでしょうか?
日本人は世界基準からすると「考えるのが苦手」という人が多いように思います(これも私の勝手な想像ですが、議論と聞くとディーベートのような勝ち負けを競うものと考えてしまって「生理的に嫌いだ」という傾向があるのじゃないでしょうか)。相手が首相だろうが大学教授だろうが弁護士や医者であろうが、「議論する事に躊躇してはならない」というのが私が一番小学生に教えたい事です。議論は権力に対する、国民の側の「正義の砦」なのですから。
「考える事」で人間は成長出来ると私は思っています。日本人は黙ってゴミを片付ける「綺麗好きの民族」と称賛されてそれで喜んでいるんじゃなく、何事も真摯に考え「正しい結論」を見つけて実行することが出来る民族だ、と世界から称賛されるようになることが本当の意味で「尊敬される民族」の証だと思います。そういうことを子供の内から教えて習慣にしていけば、何れは日本人が「考える力」で世界の中心となって皆んなを引っ張って平和な地球を守って行くんじゃなかろうか、私はそんな夢を見る事があります。まあ夢ですけどね。
・・・・・・・・・・・
最後に議論の仕方をもう一度まとめてみました。
1、まず議論するテーマを「○○は何何するのが正しい」というような、簡潔な文章で提示(AB二人と議長Cの三人で議論することを宣言)。基本はBが反対意見を述べて開始する。
2、Aが反対意見の「論理的な構成」について質問する
3、Bが答える
・・・繰り返して行く・・・
4、一方が感情的になったら議長が間に入り、違反行為を説明して正しい質疑応答に戻す(要は論理的に進めること)
5、Bは自身の反対意見について「論理的な整合性」を尋ねられて答えていくが最終的に質問に答えられなず行き詰ったりすれば「Aのテーマが正しかった」事になり、反対にBの反対意見を論理的に崩せなければ「Aのテーマは間違い」ということになる。どちらにしても結果を両者「にこやかに受け入れ」て握手・抱擁して議論成立を祝うのが正しい終わり方だと考えます。議論の途中で「第三の解決案」が正しいとなれば、両者ドローとなります。
6、もし時間切れで結論が出ない時は「持ち越し」にし、後日に検討を約束してケンカ別れのようなことは厳に慎むと言う態度が「議論には必須」です。
だいたい以上です。議論に置いて一番重要なのは「相手の意見をしっかり論理的に解釈し、その成立要件を一つずつ厳密に検証する姿勢」でしょうか。これが考えるということの「意味」です。この姿勢が全員にあれば「議論が人間関係に悪影響を及ぼす」なんて事は有り得ないと分かるじゃありませんか?
日本国民は積極的に議論しましょう!
この議論の方法は「討論とは違う」ので、両者が考えを出し合って共に解決に向かうのが最大の特徴と言えます。議論していく途中で「自分でも気が付かない、テーマの裏側に潜んでいる本当の気持ち」が見えてくる場合も良くあります(いや、その方が多いかも知れない)。論理的だと思っていた自分の意見が「実は感情的なものだった」ということが明らかになったりするわけです。何れにしても、勝ち負けより「考える事」による解決のほうが平和で建設的だと思いませんか?。そういう判断が出来るようになってくると日本人も新たなステージに上がって国連の場でも「各国が耳を傾ける」ようになるんじゃないか?と思います。・・・これ、私の考えです。
是非、何かのテーマを選んで「議論という頭脳ゲーム」を楽しんでみて下さい。必ずや議論した後で「爽やかな気分」になる事は請け合いですよ。
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