断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

貨幣と銀行業務 Part12 経済成長と金融システム

2017-01-18 21:35:20 | MMT & SFC

PDFは

https://drive.google.com/file/d/0Bz2V1zKzg0azX1diSjhOc3UyUUk/view

今回のブログで

「資金調達局面」と「資金積立局面」という言葉で訳した

二つの資金集めの局面については

August Graziani がその昔の論文で強調していたことで

こんなところにも影響を感じます。。。。

(今回のブログには特に参照はありませんが、、、、)

まあ、マルクスの

G ― W ― G'

のGとG'とが独立し、利子生み資本となることによって

生産資本がどのように変化するのか、ということの話の延長なんですけれど。。。

 

あと、今回は、current という言葉をすべて

「経常」ではなく「当期」とした。

これは前からいろいろ感じるところがあったんだけれど、

そもそも経済学者さんたちは

「経常生産物」とか「経常消費」「経常貯蓄」というような言葉を

どのような意味で使っているんだろうか。

国際収支でも「経常収支」というような言葉がある。

また、会計的にも、7欄式の資金繰り表の場合には

「経常収入」「経常支出」といった項目がある。

しかし、経済学の文献に出てくる「経常」という言葉の意味は

どうも今一つ理解できない。本当のところ、

いったいどういう意味で使っているのかね。。。。

「当期」なら、意味ははっきりする。要するに「ある会計年度」のことだ。

ある会計年度――通常は1年――の中で起こった収入と

費用の差額が利益(企業の所得)であり、

家計が受け取った金銭的報酬が家計の所得である。

そして、同じ一年間で家計が消費物資を購入するため支払った金銭の

合計額(同じことだが、購入した消費物資の価額)が

消費支出で、消費支出されなかったものが

貯蓄である。もし消費支出の対象がすべて本会計年度中、つまり

「当期」に生産されたものなら、消費支出=消費財生産によって生み出された所得

になるわけだが、まあ、実際にはそうはうまくいかない。

そこん所は「棚卸(在庫)減増」で調整するとして、

要するに「収入も費用も所得も消費支出も貯蓄も投資も

すべて、この年内に行われる取引の集計額なんだよ」ということを

強調するため、「当期」という言葉を用いた。

本当のところ、経済学者が「経常支出」「経常消費」というような言葉を使うとき

いったい何を意味しているのか、正直、よくわからない。。。。

まあ、それはそれとして。。。。

 

 

 PDFは見れない、という方もおられるようですので、

以下、図は省略されちゃいますけど、

本文だけ、コピーしておきます。

べた張りなんで見にくいとは思いますが、

ちと疲れているので(+ちょっと酔っぱらってますので)、

楽をさせていただきます。あしからず。。。。。

(リンクなんかも全部なくなっちゃいます。。。。)

 

貨幣と銀行業務 Part 12:経済成長と金融システム
Posted on April 14, 2016 by Eric Tymoigne | 7 Comments

エリック・ティモワーニュ

 

貨幣は資本制企業の血液であり、金融は明日の貨幣のための今日の貨幣に関わるものである。そうしたものとして、資本制経済のもとでの経済活動にとって金融システムが十分に発達していることは基礎的な条件である。幅広い種類の債務証書を発行できるほど、金融システムはより多くの生産システムの要求にこたえることができる。クレジット・カードで住宅の購入資金を賄うのはムリだし、30年モーゲージ債で日用品を購入しようという人もいないだろう。そんなの当たり前に思えるのだが、エコノミストの間には経済活動にとっての金融の必要性について、対立する見解があった。この対立の背後には最終的には経済についての異なった想定があったのである。ジョン・メイナード・ケインズが「実物交換経済」と「貨幣的生産経済」として特徴づけたものである。

話を進める前に一言注意しておこう。エコノミスト及び国民所得会計national income accounts では「投資」という言葉が特別な意味で使われている。投資という言葉は実物資産の額を追加する、という意味である。つまり生産能力を高める、ということだ。株式や社債、その他の金融資産に「投資」することはできない。機械や原材料を購入することだけを指す。(知識もまたエコノミストにより強調される範疇である。)日常的に(金融)投資というとき心に思い浮かべるものは「ポートフォーリオ選択」と言って、ここでいう(物質的)投資とは別のものごとである。


実物交換経済(REE)

マネー・サプライはベール

1980年代まで多くのエコノミストは金融は中立と信じていた。つまり、金融は経済に関係ないということであり、これは貨幣数量説を拡張した結果である。小規模独立生産者同士――自分の耕地を耕す農家同士――のバーター経済における交換の研究が資本制経済の基礎を理解するうえで十分な代理物だと認められる。

実経済における企業や貨幣の役割が重要であることは認めるし、そこから無数の複雑な問題が発生することもわかっているが、調和を達成するための市場の中心的技術的性格は企業も貨幣も含まない単純な交換経済によって完全に記述される。(Friedman 1962, 13)

問題は、所与の一連の希少資源の初期賦存量、選好、生産技術を前提とした場合、経済主体が行う資源の希少性に対処し資源を配分する作業が、市場による交換を通じて行われることでどのように簡単になるかを理解することだとされる。これが理解された後なら、マネー・サプライを分析に追加することも可能になる。しかしそれによって何事かが実質的に変わるわけではない。マネー・サプライを追加することでただ交換は円滑になるがマネー・サプライ自体が目当てになるわけではなく、資源配分や生産、所得分配に影響が出るわけでもない。

資本制経済とは、貨幣を伴うバーター経済と同じことである。

金融産業に関して言うと、金融市場や銀行とは経済主体が当期[経常]生産物を借入れ貸付けるために使われる制度として考えることができる。金融とは、生産物の異時点間の市場である。

理論的には次のように想定してよい。企業家たちは資本化から消費財を現物で借り入れる。そしてそれを現物のまま賃金や賃借料の支払いに充てる。生産期間の終わりに、企業家は借入を自分自身の生産物から償還する。直接自分で生産した物からということもあれば、市場で他の商品に交換した後でということもあるだろう。[…]この手順が借り入れた資本で事業を営むすべての企業家に採用されれば、競争によって資本家に支払われなければならない金利にある一定の水準が定まるだろう。支払われる金利自体は何らかの商品或いはその他の形態をとるであろうが。

[…]さて、貨幣がこれと同じ利率で貸し付けられる場合も、この手続きにカバーをかぶせる以上のことではなく、純粋に形式的な観点からは、貨幣なしでもまったく同じようにことが進められるであろう。(Wicksell 1898, 103-104)

ジャガイモしか生産されておらず、労務者及びその他の人の所得はジャガイモで受払される経済を想定しよう。経済主体の中には今消費するには多すぎるジャガイモを持っている人もいるかもしれない。彼らはジャガイモを貯蓄するであろう。ジャガイモの貯蓄者は自分が貯蓄しておいたジャガイモを植え付けする経済主体――ジャガイモ投資家――に貸し付けるであろう。[※冒頭に書かれている通り、「ジャガイモ投資家」とはジャガイモを生産活動に使う人のことを指し、ジャガイモを誰かに貸し与える(出資する)人のことを指してはいない点に注意。]翌年には、植え付けられたのより多くのジャガイモが存在することになるだろう。というのは各ジャガイモはより多くのジャガイモ(ジャガイモの限界生産物marginal product of potatoes)を生産するために種芋として使われうるからである。この限界生産物はジャガイモ貯蓄者に支払われる金利の基礎となる。彼らの報酬は未来のより多くのジャガイモであるわけだが、その意味するところは金利と元本の償還それ自体が自動的に生産物に対する需要を構成しているのである(ジャガイモで支払われる賃金も同様)。貨幣的条件をこの物語に追加することはできるが、しかしそうしたところで金融産業内部で起こっていることに関する新たな理解を追加するわけではない。マネー・サプライとそのほか金融的請求権は、単に生産物に対する請求権であるに過ぎない。つまり貨幣供給とは単なる交換の媒体なのである。

貨幣的条件は無関係であり、「行動と計画を決定する経済主体の目的はいかなる名目的な変数の大きさにも影響されない。経済主体は「実物」の物事、つまり財や[…]余暇や労力といったものだけにかかわずらう」(Hahn 1982, 34)。
こうした経済主体は、自分たちの選好との関連で生産物を最大化するため、最も生産的な経済活動に従事すべく努力する。市場は彼らが最も効率的な方法で最も生産的な経済活動を発見する手助けをする。こうした思考の道筋は少なくとも19世紀のオーストリアのエコノミストたち、たとえばバヴェルクやメンガーに遡る。
現在の多くのマクロ経済モデルにおいては、個々の市場が取り除かれ、貯蓄者でもあり投資家でもある(さらには生産者/消費者でもあり雇用者/従業員でもある)農家を想定するほどに単純化されている。彼は今日ジャガイモを貯蓄して植え付ける。彼が貯蓄する(と言うのはつまり投資する)額は翌年受け取る報酬に依存する。報酬はジャガイモの限界生産物である。


金融と経済

こうした金融の理解は特定の経済成長理論と結びついている。経済成長は「供給要因」によって左右される。つまり投入物である物的資本(「機械設備」)及び労働の成長率である。金融が経済成長に貢献するのは、投資する能力(つまり物的資本の成長、Kt = Kt-1 + It-1)が貯蓄する能力に依存しており、そして金融の中心論点が貯蓄物を配分することにあるからである――貯蓄が投資を左右する。
ジャガイモ経済に戻ると、翌年より多くのジャガイモを収穫するには、今年より多くのジャガイモを貯蓄することが必要となる。第0年目に1個のジャガイモを植え付けた場合、第1年目には2個のジャガイモを収穫できるとしよう。第2年目に3個のジャガイモを収穫するには、第1年目には1個半以上のジャガイモを消費してはならない。勿論、貯蓄は苦痛を伴う。食べる分を減らして貯蓄をするわけだから、これは報酬を受けなくてはならない(翌年、より多くのジャガイモを収穫できる)。そこで、問題である。その報酬はその苦痛に値するか。ここで述べたことすべてをグラフ化したのが貸付基金市場である(図1)

Figure 1. The loanable funds market
経済主体は市場で出会って、経常生産物すなわち「ジャガイモ」の貸し借りをする。
金利が高くなれば貯蓄の利益が高くなり、貯蓄が増える。つまり、より多くの経済主体が計上消費を減らし、投資をしようとする経済主体へジャガイモを供給する。金利を引き上げる必要があるのは、貯蓄を増やせば苦痛も増えるからだ。勿論、金利は物的報酬であり、実質金利であり、将来のより多くのジャガイモである。貯蓄者/貸手は貨幣的収益には興味なく、それゆえ信用基準も実物条件で決まる。


反対のことがジャガイモ農場/借手の側で起こる。投資への誘因は報酬の支払いが増えれば減少する。その理由も生産過程に見いだされる。より多くのジャガイモが植えつけられれば、所定の土壌から得られる栄養分は低下し、一つの種芋から得られる将来のジャガイモは減るだろう。というわけで、投資家が、追加的に投資されるジャガイモ一つ一つに対して支払える報酬は徐々に減ってゆく。専門用語でいうと、資本の限界生産物は、他の投入物を一定として、より多くの資本が生産過程に用いられると、低下する。


政府もまた実物資源を市場から借りてくることになるだろう。

政府の基本的な目的は所定の実物資源を借りることであって、所定の貨幣額を借りることではない。(Friedman 1952, 690)

ここから周知の「クラウディング・アウト」効果が生まれる(図2)。政府が貸付基金市場に参入すれば、実質金利が上昇し、民間投資が減少する。政府が存在しない場合の均衡点を想定しよう(図1)。政府がジャガイモを借りに来ると(図2)、民間部門と当期中に貯蓄されたジャガイモをめぐって競争になる。他の市場と同様で、何かしらモノに対する需要が大きくなれば、その価格は上昇する。同じことはジャガイモ借入市場でも起こり、金利は、市場が新しい均衡点を見出すまで上昇するだろう。金利が城主すれば、投資への誘因が低下する。


Figure 2. Crowding out effect
結論
最終的に、金融とは貯蓄者と投資家の間の単なる媒介に過ぎず、金融が何をしているかというと、異時点間の生産物のバーター取引に便宜を提供しているのである。この観点からいくつかの結論が導き出される。

1. 当期投資の量は当期中に貯蓄された生産物の量に制約される。今日、より多くの投資をしようとするなら、現在の消費をあきらめる(つまり今日の貯蓄を増やす)。そして貯蓄することで当期の生産物が将来にまたがり移転されるようになる。
2. 金融の重点というものは結局すべて、もっとも望ましい投資案件につまり、最も生産的な活動に従事している(もっとも限界生産性が高い)投資案件に、貯蓄を配分することである。
3. 銀行はただ貯蓄者と投資家を仲介しているだけである。銀行は貯蓄者に代わって消費されなかった生産物を貸し出ししている。
4. 政府が赤字支出をすると投資が断念され、つまり経済成長が断念される、ということだ。政府は赤字支出を避けるべきである。
5. 金融システムが貨幣で動くようになっても、マーケットメカニズムが円滑になるだけで、貨幣は依然としてただのベールであり、ただの交換媒体に過ぎない。本当に起こっていることは、当期[経常]生産物の貸し借りである。金融契約によって生じる貨幣の支払によって経済の進路が影響されることはない。
6. 経済は常に完全雇用水準にある。というのは貯蓄はただ消費を繰延するだけのことだからである。企業は、異時点間の生産物のための市場(金融市場)が存在しており、そこでは貯蓄とは将来の消費のシグナルだということを知っている。それゆえ当期の消費が減少したからと言って企業が[当期の]生産量を減らすということはない。逆に、企業は将来の財・サービス需要の高まりに備えて生産能力を増やす。将来の財・サービス需要は金利所得が支払われることによって大きくなる。
7. 貨幣的な動向は実物の動向によって動かされる。名目利子率は資本の限界生産性及び期待インフレ率によって動かされる。経済成長は投入の成長によって動かされる。

最終的に、金融とその貨幣的取り扱いは、問題ではない。実物交換経済理論は、1990年代初頭以降、ごくわずかだが変化した。金融が問題になるのは、市場が不完全だからだ。金融は、他の市場と比べて特別に情報の非対称性のような不完全性に取り囲まれているといってよい。こうした場合、金融はたとえば割り当てのような形をとることもあるが、そうなると完全競争のもとであれば達成されたはずの均衡点が実現することが妨げられる(よりジャガイモの貯蓄が減少し、本来あるべきより少ない投資しか実現しなくなる)。情報の非対称性もまた経済に対するネガティブ・ショックを強化し、金融危機を作り出す(ブログ第14回参照)。


貨幣的生産経済(MPE)

貨幣がすべてだ

エコノミストの中には、資本制とはただの貨幣を伴うバーター経済ではない、と論じるものもいる。それによると、資本制とは貨幣経済であり、すなわち、配分、生産、分配が貨幣/名目値により動機づけされている経済である。経済主体は名目報酬をインフレーションや租税によって調整してはいるだろうが、名目収入はその背後にある物的変数によって動かされているわけではない。言い方を変えれば、むしろ名目的成果の方が実物的成果を動かしているのである。

というわけで、REE観では理論的枠組みの中核に貨幣を考慮する余地をほとんど残さない形に限定しているように見える一方で、ケインズはこうした立場は現実の資本制のあり方と対立していると記している。

古典派理論では次のように想定している。[…]より多くの生産に対する期待によってのみ[…]「企業家は」より多くの雇用を提供する気になるだろう。しかし企業家経済においては、これは事業計算の性格について分析を誤っている。企業家が興味を持っているのは、生産物の量ではなく、彼の取り分となるであろう貨幣の額である。企業家が自分の生産量を増やすのは、そうすることで彼は自分の貨幣利潤を増やせると期待しているからであり、時にはこの利潤が以前より少ない生産物の量を表しているケースさえあり得る。[…]そして、古典派理論は、企業経済へ適用しようとしても、はじめから最後まで我々の期待を裏切る。企業家の労働への需要は企業家の取り分となる製品のシェアに依存しているというのは全く事実ではない。そして労働の供給が労働者の取り分となる生産物のシェアに依存しているというのも事実ではない。(Keynes 1933c (1979): 82–83)

貨幣を考慮に入れることは、経済過程の初めから終わりまで決定的である。事業では貨幣性金融商品monetary instrumentsを生産過程を開始するときに必要とする。というのは従業員及び原材料の販売者は貨幣支払を求めるからである。事業家は経済活動の適切性を――そしてこの活動による従業員の雇用を――判定するため、その活動によって十分な大きさの貨幣利潤が生み出されるかどうかを考慮する。企業とその従業員は彼らが生産した物を消費することには興味がない。彼らは自分たちの生産物がより多くの貨幣に対して売られることに興味があるのだ。ジャガイモ農家の例に戻ると、彼の従業員はジャガイモで支払いを受け取る気はなく、そして農家もただジャガイモを作ることだけに興味があるわけではない。それゆえ、ある一個人がジャガイモを生産することに特別な動機づけと特別な経験を持っている(彼の限界生産性はとても高い)としても、彼が生産するであろう製品が十分に高い価格で売れると期待されないのであれば、その個人は雇われないであろう。

このように、貨幣的インセンティヴは生産の水準と組織とに強い影響を与える。ヴェブレンは技術者の視点とビジネスマンの視点との違いを明確にすることでこの点を突いた。技術者の視点からは、目標はできるだけ多くの製品を作ることで心理的問題(飢餓)を解決することである。この場合、目標はジャガイモをたくさん作り出すための最も生産的な方法を見出すことである。ビジネスマンの視点からは、問題となるのはただ貨幣的利潤を生み出せるかどうかである。これには生産の放棄[生産調整](農地を遊休に放置し、ジャガイモを腐らせる、など)することで、人工的にジャガイモの希少性を維持する、ということも含まれるだろう。実際、資本制の生産技術はあまりにも生産的で、そのままにしておくとジャガイモ価格はゼロにまで下がってしまいかねない。ジャガイモの生産は制約されなければならない。そういうわけだから、希少性というのは自然状態というよりは、むしろ経済的要求であり、資本制ビジネスによって管理されているのである。過剰というのは[技術的には]可能ではあるが、資本制と両立する経済状態ではない。


なぜ貨幣的インセンティブが問題になるのか? 他にどんな含意があるのか?

答えの一つは、銀行が、現物決済では使われないが貨幣決済では使われる債務証書のディーリング業務を行っているからである。もう一つの答えは、経済の貨幣化には国家が、貨幣的義務の賦課を通じて関与していたことと関係しているに違いない。銀行の役割に焦点を合わせると、貨幣的インセンティヴは信用オペレーションの二つの段階で強調される。

1. 銀行は償還能力を判断するが、これは貨幣単位で設定された信用基準に基づいている。つまり、名目債務償還額と貨幣所得の比率が「正常」であること、あるいは担保の名目価値が銀行融資に対して「正常」であること、あるいは流動資産の名目額が「正常」であること、など。
2. 債務者は銀行に貨幣で償還しなければならない。ジャガイモで償還することはできない。

インセンティヴに対する影響の他にも銀行のオペレーションはいくつかの重要なマクロ経済的含意を持っている。
1. 銀行は与信をするのに当期の貯蓄水準に制約されることはない。
Post 10本ブログ第10回でも書いたが、銀行とは自分が保有しているものを貸し出すというビジネスではない。銀行は他人の貨幣も貸出していないし、準備も貸出していないし、ジャガイモを貯蓄者の代理で貸し出してもいない。「あたかも貸出しているかのように」ですらない。
2. 債務を銀行に返済する、ということは、当期生産物に対して自動的に需要を創りだしはしない。銀行へ支払えば、非銀行部門が収入として得た貨幣が破壊される。それがすべてだ。繰り返すが銀行の背後には、ジャガイモの金利付きのジャガイモによる返済を求める貯蓄者などいないのだ。
3. 財・サービスの期待需要/販売は経済活動の鍵になる。企業が労務者を雇用し既存の生産能力を使うのは、自分の製品を売却することで十分に高い貨幣収益を得られるだろうと考えている限りのことなのだ。
4. このタイプの経済では購買力の問題は、無視されるわけではないとしても、通常、流動性や償還能力の問題より軽んじられている。経済主体にとっては、自分の購買力が増せば幸せではあろうが、しかし通常はバランス・シート・リスクの方により大きな注意を払う。「流動性は、所得の受領や[材料購入代金]支払といった活動を、契約ベースで前借した貨幣によって組成する世界においては、繰り返し生じる基本的問題である。現実世界では企業にとっても家計にとっても、小切手帳[当座預金口座]のインフローに対するアウトフローのバランスをとって流動性を維持することは、その生活世界において日常的に逢着する最も重要な経済問題である」(Davidson 2002: 78)。例として、1時間働いて賃率がw = $5の労務者がおり、彼は利払いを含む償還額が毎月 CC = $2になる債務を負っているとしよう。一般的な物価水準は P = $1としよう。労働者の稼ぎ出す実質賃率は w/P = 5であり、ここでは債務償還を差引した支出可能な純賃金は、 w – CC = $3である。労賃が倍になったとして w = $10、一般物価水準も倍になり P = $2とする。実質賃金には変化がない。しかし、債務償還後の支出能力は改善して w – CC = $8。
5. 「中立性は[…]「ヘリコプター・経済学」の世界でしか通用しない」(Gale 1982: 15)。資本制経済では、マネー・サプライはヘリコプターから落とされるわけではなく、その創造は経済プロセスに内生的であり、貨幣決済のために必要な債務の創造と同時に生じる。こうした貨幣決済のため、経済主体は意思決定プロセスに際しては貨幣的問題に注意を集中しなければならないのである。
6. 製品価格を引き下げることで市場から過剰を排除することは妥当な解決方法ではないこともある。企業は確実に十分高い価格で製品を販売し、それで十分な貨幣収入を得て、債権者に弁済し、かつ貨幣利潤を実現できるようにとしているはずだ。もし価格があまりにも大きく下落すれば、債務デフレが発生し、市場メカニズムが金融不安定性を促進することになる(物価下落のせいで製品がさらに過剰になる)(ブログ第14回参照)。
7. 当期貯蓄は当期投資を刺激しない。貯蓄は投資意欲をしぼませる。企業は、もし当期支出(従って売上高)が悪化すれば、投資しようとはしない。貯蓄は繰延された消費ではない。なぜなら貯蓄者は実物で支払われるわけではないからだ。これは売り上げ減少がレイオフに結びつき、それが更なる売り上げの減少へつながるときには一層あてはまる。

と、言うわけで経済成長が需要側の条件によって左右される理由は、貨幣的条件のためなのである。このように、期待売上高は通常、働く意欲のある人々をすべて雇用するには低すぎ、それゆえ慢性的に資源の不完全雇用状態が存在している。付け加えると、それぞれの時点における需要の条件から独立して決まる所与の経済状態(「自然」成長率)なるものはない。生産能力があまりにも過剰に使われるなら、企業は投資をする。


金融と経済

経済プロセスの最初の局面で、銀行は与信を求められる(資金調達局面financing phase)。ここでの銀行の役割は、 企業の期待が合理的な物かどうか判定することである。銀行は、来店した客に信用力があると思えば、誰にでも与信する。信用力の評価基準によって、経済主体はいろいろな格付けにまとめられる(経済主体はいろいろな信用調達口があることを考えてください)。銀行は信用力に応じて経済主体に大なり小なり課金を課し、信用を割り当てる(図3)。

Figure 3. The market for bank credit
ひとたび企業は信用供与をうければ、期待需要に対応した生産量を生産するのに必要な資源を購入することができる。これでインフレ率が上昇するのか? 本ブログ第11回で書いたことだが、もし与信が増加したことによってアウトプット・ギャップが増加するとか、製品単位当たり労務費を引き上げるなどと言うことでもあれば、そうなる。しかし、通常は経済は完全雇用を下回る水準で稼働しており、一回の賃金支払額の増加やそれによる支出の増加程度は調整できる。
次の段階(資金積立局面funding phase)は、実際に生産した物の販売である。期待が正しいか悲観的過ぎたとすれば、製品はすべて売れる。そうでなければ在庫になる。ひとたびすべて売り切ってしまえば、企業は銀行に債務を返済できる。債務と費用とが支払われてしまえば、[それを超える売り上げによって]企業は利潤を実現し、企業の純資産は増加する。貨幣収入が実現できないか、あまりに小さすぎれば、そのビジネスは最終的に閉鎖されるだろう。家計もまた受け取った所得の一部を貯蓄するだろう。それによって家計の純資産も増加するが、しかし企業の利潤は、それがなかった場合に比べて減少する。企業は家計によって貯蓄された所得の一部をとらえようとして、証券を発行する。そうすることで資産を獲得したり債務の再融資の原資を得ようとする。

このように、貯蓄は経済プロセスの最終結論であって、始まりではない。これは資金積立局面の問題であって、資金調達局面ではない。他の時同様、この資金積立局面でも金利は[貯蓄ではなく]貨幣条件によって左右される。こうした貨幣的条件の一つがFedによる政策金利であり、これはそれ以外のすべての名目金利に、費用とポートフォーリオ経路を通じて強い影響を与える(そしてもちろん経済主体は名目金利に注意を払っている。流動性や償還能力に大きく影響するからである)。というわけで、政府赤字・投資は金利には大して大きな影響を与えないだろう。


インセンティヴを超えて:マクロ経済諸力の役割

貨幣的インセンティヴは資本制経済のダイナミクスの中心なのだが、MPEアプローチはミクロ経済分析は経済全体に関する結論を導き出すには使えない、とも主張する。孤立状態で経済主体がどのようにして意思決定するのか(ミクロ経済)に関する研究から導き出された結論に依存することで、経済主体間に存在する金融的相互依存関係を見失うことになる。こうした金融的相互依存を考慮に入れると、個人的体験との関連では直感に反する結論へ行きつく。

例えば、個人レベルでは所得は支出からは独立である(家計はより多く買い物をしたからと言ってより多く稼げるわけではない)。しかし国民所得は支出から独立ではない。より多く支出すれば、より多く稼げる。つまりGDP = C + I + G + NX。
単純化すると、多くの人が商店に行くほどより多くの人が雇用され、より多くの人が所得からの支出を増やせば国民所得は高くなる。誰かが支出するとき、他の誰かの所得が生み出されているのである。

この通り、貯蓄は経済にとって、経済プロセスの始まりにはなり得ない。家計から見れば所得があるから貯蓄はできるのだが、マクロ経済レベルで言うと、支出が所得を創りだし、そして支出が貯蓄を生み出す。 カレツキーの利潤方程式によってビジネスにとって貯蓄とは何か、端的に示すことができる。
UnD = CU – SH + I + DEF + NX
UnD をマクロ経済的利潤(企業による貯蓄)、Cを消費水準、Iを投資水準、DEFを財政赤字、NXを純輸出、SH を家計による貯蓄、CU を利潤からの消費とする。
REEアプローチとは反対に、貯蓄は明確に投資とは区別される。貯蓄とは純資産の増加である。つまり金融的な蓄積である。これは物理的蓄積からは区別される。物理的な蓄積は投資である。REEアプローチでは、貯蓄と投資は同じもの――物理的蓄積――のことであった。MPEアプローチでは、これは当てはまらない。というのは資本制経済とは貨幣経済であり、所得は貨幣形態で稼ぎ出され、貯蓄は貨幣形態で行われるからである。
より重要なことは、マクロ経済的レベルでは、貯蓄することによって所得を異なった時間へ移転することなど不可能だ、ということである。実際、国民所得が支出によって左右されると考えると、倹約が行われるときには国民所得は下落するのである。所得を異なった時点に移転する唯一の方法はそれを投資することだ。つまり、財・サービスを生産能力を維持するか高めるという目的で購入することである。しかし消費をしない(貯蓄をする)ということは投資を抑圧する。
もし国民がジャガイモを以前より少ししか消費しなければ、農場では投資をするインセンティヴを失い、生産されるべきジャガイモを超えた過剰在庫という結果になる。


結論

マネー・サプライは貨幣経済においては中立ではありえない。マネー・サプライは交換媒体として使われるばかりでなく、決済手段でもある。それだから経済過程を円滑に動かすにはその各段階において存在していなければならない。いくつかの結論がこの観点から導き出される。

1. 経済システムには貯蓄による制約はない。マクロ経済レベルでは、貯蓄は支出により創出される。
2. 金融システムは金融資源を最も利益のある経済活動に供給するために存在している。これこれの経済活動は生産的かそうでないか、効率的かそうでないか、有用かそうでないか。こうした判断基準は資金供給を決定するうえで適切性はないのだ。経済の金融化financialization of the economyによって、ビジネスは財・サービスの生産から押しのけられてしまった。
3. 銀行は仲介者ではない。彼らは貯蓄者の代わりに預かった資産を貸付をしているわけではない。銀行は何も貸付けていない。彼らは貨幣経済に必要な債務証書のディーラーなのである。政府が赤字支出を増加させるとき、売上が伸び、貨幣性所得が増え、それによって経済活動が、完全所得に到達するまで(到達すれば、今度は物価が上昇する)促進される。政府赤字からクラウディング・アウトが発生することはない。というのは金融は限られた資源ではなく(貯蓄がベースになっているわけではない)、生産は需要によって動かされる(もし政府需要が増えれば、生産も増える)からである。
4. 貨幣的インセンティブは決定的な重要性を持つ。というのは銀行と政府に対する債務があるため、将来の信頼に足る貨幣性所得が継続することが必要になるからである。
5. 経済は通常、完全雇用より低いレベルにある。というのは通常は、完全雇用水準で活動することは貨幣的インセンティヴ(貨幣単位で利潤を得られるか得られないか)に反することになるからである。
6. 倹約を進めることは経済活動の意欲をくじくことである。というのは売上げが減れば利潤も減るのだから。異時点間の生産物市場など存在しない。
7. 実体経済の動向は、貨幣経済の動向により動かされる。貨幣的に利潤を得られるもの、貨幣的に信用基準を満たすものであれば何でも、資金調達できるであろう。
8. 資金調達段階financing stageで生産が可能になり、そして生産物は、資金積立段階funding stageの間、潜在的な生産力の増強のために使われる。

こうしたことすべての含意とは別に、本ブログの 第13回 では、経済活動が進むためには経済内に少なくても一つは債務者となる経済部門が必要だということを示す。


結論

金融を経済分析に統合する方法は、エコノミストの間で鋭く対立する主題である。これらの対立は、究極的にはそれらの経済学において用いられる想定が全く違っているということに起因する。この対立は古いもので、マルサスとリカードの論争にも見出すことができる。「私は、財の名目価値あるいはその価格だけが商人の思考対象になっているというアダム・スミスあるいはマルサス博士に同意することはできません。」(Ricardo 1820 (1951): 26)。こうした想定上の違いから、金融システムが、それ以外の経済システムとの間でどのような機能を果たしているのかについての理解が全く異なったものとなり、それにより全く異なった政策が導き出される。当ブログ第15回でそのほか多くの見解の違いが貨幣制金融商品monetary instrumentsの性質について異なった理解を生み出しうることを概観する。REEにとっては貨幣制金融商品はただの商品commodityであり、それゆえ貨幣を需要するということは製品を需要していることになるのである。MPEにとっては貨幣制金融商品は金融商品financial instrumentsである。
本日はここまで!次回のブログではバランス・シートの問題に戻り、バランス・シートの相互依存性を勉強する。

[Revised 8/6/2016]

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿