断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

Scott T. Fullwiler "An endogenous money perspective on the post-crisis monetary policy debate" の話 #1

2019-11-24 22:23:58 | MMT & SFC
フルワイラーである。

MMTの最も古参の一人であり、中央銀行のオペレーションに関しては
レイからも一目置かれている存在ではあるのだが、、、、、、

なんせ、英語がわかりにくい。まあ、なんというんか、なんというんでしょうね、
まあ、わかりにくいよ。それでも最近は、だんだん癖というのか、ああ、この人はこうなんだな、、、
みたいな感覚になることも多くなってきた。慣れというのは恐ろしいもので、
最近は、まあ、それほどおかしな英語ではないのかな、、、、ぐらいに感じることも
増えてきた。が、やっぱり変である。
しばしばアングロサクソン圏以外の出身者にみられる傾向だが、
たとえば、"It is this, although it is that"といったときに、
「that ではあるものの、this だ」と、まあ、構文の教科書的には
そうなるところを、保留の方をむしろ主文にして、主文の方を保留にしないと
話の流れがわからないことがある。文法的には難しいところは何もないんだけれど、
何を言っているのかわからない、というときには、
although の前と後ろを入れ替えると、文章の流れが理解できることがあるのだが、
この人はそれが非常に多い。あとは独特の言葉の使い方である。
この人の文章で「balance」と出てきたら、「預金」という意味である。まあ、そうじゃないことも
あるけど。

あとはまあ、ね、おいらもよく、「銀行が”預金”を使って国債を購入するんだって。
この人、資産と負債の区別もつかないんだ、こんなことごっちゃにしてるやつに
銀行のオペレーションとかわかるわけないじゃん、バーカバーカ」とか言っているが、
このフルワイラーさん、その辺、見事にごっちゃにして話をしてくれます。読めばわかるが、
本人の頭の中の理解はきちんとしているのよね。ただ言葉を節約している、というか
端折るもんだから、誰の資産で誰の負債かが、いつの間にかすり替わっていたりする。
いったい誰が意味上の主語で、誰の行為の主体の話で、誰の所有格の話をしているのか、、、
という辺が、よくよく慎重に追っていかないと、なんだかいつの間にかひっくり返っていることがある。。。。
まあフランス系とドイツ系の違いというわけじゃあるまいが、
ティモワーニュを読んでいると、ごく普通の教科書通りの英語で充分じゃん、
というところを、フルワイラーだと、なんでこんな言い回しになるのかなあ、、、、と
3倍ぐらいは苦労する。

というわけで、いつもながら、ろくに推敲もしていないので
あっちこっち誤訳や不適訳があるわけだが、この際言わせてもらうと
誤訳の責任は訳者にはありません、原著者の責任です。

・・・なんてね。

こんなどうでもいいことばっかり書いているから、長すぎるのまとまってないのなんのかんの
言われちゃうんだよな。まあ、実際、自分でもそう思うから、反論もしないけど。


さて、で、本題だが、本稿は2007年から始まる世界不況、とりわけ
2008年のいわゆるリーマンショック以降の連銀のオペレーションを念頭に置いて、
中央銀行のオペレーションが分析されている。ただし、本稿が興味深いのは
連銀そのものの行動が分析対象になっているのだけれど、それを受ける側、
つまり民間銀行の行動パターンはどのような理由でどうしたものになるのかが
事細かにつづられている点である。
当然のことながら、連銀のオペレーションは民間営利銀行を通じて
経済に影響を与えることになる。もし、民家営利銀行が、準備を貸し付けの原資とし、
準備預金が増えたら機械的に企業や個人への与信も増やす、ということであれば
教科書的な「信用創造プロセス」になるわけだが、
実際には民家寝入り銀行はそのような行動をとらない。この議論について
準備預金が営利銀呼応にとって与信の原資になっていない、という論点は
徐々に理解を得られるようになってきた(何年か前は、「知恵袋」あたりで
「銀行は”無”から信用創造をしているんです」なんてこと書いていたころは
ほとんどの人に見向きもされなかった――それでも中には「目からうろこが落ちた」みたいな
コメントをくれる人もなかったわけじゃないけど――のが、今では
懐かしい思い出みたいなもんで、今じゃ、知恵袋で
「信用創造がわかりません」なんて質問があろうものなら、
我先に「あれはダメダメですからね」と回答をしてくれる人が増えてきた。
まあ、おいら自身の貢献だと思うほどうぬぼれていはしないけれど、
それでもうれしい。いや、そんな話をしたいわけじゃなくて、、、)が、
今回フルワイラーは、むしろ民間銀行のビジネスモデルから、
こうした教科書的な効果はないのだ、ということを説こうとしている。
それがうまくいっているか失敗しているかは、まあ、読む人の判断というところで
いいと思うけれど、ここで重要なのは
結局のところ、ある意味での「ミクロ的基礎付け」である。といったって
主流派経済学者の言うような意味でのそれではない。あくまでも
「貨幣」という数字の最大化(株主ownerへの報酬を支払う原資としての数字)を
求めてられている現代資本制経済の制約下にある、しかも、
融資業務部門と決済業務部門とで意識の統一が必ずしも一貫しているとは言い難い
巨大組織としての営利銀行が、中央銀行からの働きかけ、あるいは
中央銀行への働きかけをどのように行い、それが
中央銀行によるオペレーションの波及効果にどのような枠割を果たしうるのか、という
問題設定である。

で、タイトルにもある内生貨幣論であるけれど、
ってかさ、いや、なんつうかなあ。。。。。

抽象化されれば、営利企業の目標は銀行も製造業も同じである。要は
利潤最大化だ。それは結構。利潤最大化はどのようにして達成されるのか。
収益の最大化と費用の最小化の双方の実現だ。それもまあその通り。
では、収益とは何か、費用とは何か。
収益とは、自らが提供する財・サービスと引き換えに得られる何かの経済的価値である。
費用とは、自らが提供する財・サービスを取得・生産するために手放した経済的価値である。
でも、内生的貨幣論の立場に立つなら、
自ら『貨幣』を産み出せる銀行にとって、収益になる経済的価値とは
何なのだろうか、費用になる経済的価値とは何だろうか。。。
話は簡単で、銀行が生み出す『貨幣』とは、民間非金融部門にとって「貨幣」であるけれど、
当の銀行自身にとっては、ただの負債に過ぎない、ということである。
だから銀行の「資産」や「負債」は、非金融部門のそれとはやや性格が違うし、
当然、そこから発生する「収益」や「費用」も、他の営利企業のそれとは違う。
このごく当たり前の出発点を、どのように論点として取り上げることができるのか、
このフルワイラーの論文は、成否については論評を差し控えるとしても
きわめて意欲的な重要論文であり、この論文を出発点として
様々な方向へ議論が広まりゆく可能性を秘めたものだと思う。
ただ難点を言えば、もうちょっと英語が何とかならなかったものだろうか。。。。

というわけで、本論を始めようと思ったのだが、
今宵はもう酔っぱらってしまい、眠くもなったので
アブストラクトとイントロだけ。いや、この論文、数式があったり、表があったりで
あれこれ操作しなければならないんで、酔っ払っていると結構大変なんだよ。。。
なお、最後にまとめたPDF版を、短時間、提供する予定。




An endogenous money perspective on the post-crisis monetary policy debate
ポスト・クライシスの貨幣政策論争に対する内生貨幣論のパースペクティヴ

Review of Keynesian Economics, Vol. 1 No. 2, Summer 2013, pp. 171–194

アブストラクト(あんまり意味ない)

世界金融危機およびそれに続く大型の不況の双方に対応する貨幣政策の適切性について、
特に準備預金に対する付利及びいわゆる非伝統的貨幣政策オペレーションについては、数多くの
論争が行われている。本論文では中央銀行のオペレーションと民間銀行の相互作用についての
内生的貨幣理論のパースペクティヴを詳細に説明し、そして、
準備預金の付利が貨幣政策の波及を妨げることはない一方で、
量的緩和がそれを強化するわけでもないことを示す。

1 はじめに

人によっては、内生的貨幣理論(例えばムーア1988) の妥当性は2000年代の住宅バブル形成期の
金融システムの行動、およびその結果の金融危機及び不況に対する中央銀行の対応によって
証明された、と考えるかもしれない。よく知られたことであるが、モーゲージ・ベースの住宅バブルの最中
および崩壊のさなかに作られたニュー・コンセンサス・マクロ経済モデルには、
銀行システムがなかった。あるいは、Fedが前例のない規模でバランスシートとマネタリーベースを拡張し始めて
4年経ってもインフレ率にはっきりした増加はなかった。これらは、新古典派貨幣経済の不適切性を示す
二つの破壊的事例であると考えられる、といっていい。中央銀行オペレーションおよび金融市場の研究、
および、それらを貨幣波及メカニズムへと統合するという研究に新たな興味関心が起こった、という意味では、
多少の動きがあった。他方で、こうした動きのいずれも、どのレベルの教科書にも取り込まれることはなく、
内生貨幣論はこの新しい研究段階でも、いくつかの注目すべき例を残して、ほとんど未踏の領域に留まっている。

本稿の目的は、内生的な貨幣と中央銀行の業務がどのように統合されているかを改めて述べ、
次にこれらが貨幣理論と貨幣オペレーションに関連する現在の政策論争とどのように関連しているかを
考察することである。まずは銀行のオペレーションについていくつか詳細な記述をする。その際には
貨幣政策を内生的貨幣論の立場から、という文脈で論じる。とりわけ、銀行は預金及び/または
準備に制約さえるのかどうか、という問題を扱い、そしてこれを銀行の基本的なビジネスモデル分析に
統合する。次いで、銀行が信用駆動貨幣 credit-driven money を内生的に生み出しているということ、
および中央銀行は決済システムを守らなければならない、ということを前提とすると、中央銀行の
オペレーションは必然的にアコモデート的性格になってしまうことが、インターバンク市場における
需要と供給という文脈の中で描写される。こうした洞察は、準備への付利及び量的緩和がどの様なものかを理解し、
また特に、なぜそのどちらもが経済への効果という点でそれほど大きなものにならなかったのかを
理解するうえで有益だ。両者とも、実体経済への影響がそれほどでもなかったが、中央銀行がどの様に
オペレーションしており、貨幣政策がどのように機能するかを理解するうえでとても重要だ。



今回はここまで。次回は第2章から。今夜はもう寝ます。

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