断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

"International Aspects of Current Monetary Policy" (1)

2016-04-21 22:24:07 | MMT & SFC
またしばらく、間があいてしもた。。。。

先日までWrayの論文から大雑把な粗訳を(著者に無断で)やっていたのだが、
また今度も、しばらく同じような感じで、粗訳を
やってみようと思う。

さて、前から言っている通りで、
MMTは基本的には、自由変動相場制を支持している。これは単に
固定相場制か変動相場制のどちらのほうが有利か、というような話なのではなくて
「主権貨幣sovereign money」であるためには、変動相場制でなければならない、
ということである。前も書いたことがあるけれど、この場合、sovereign というのは
連結政府の、国内居住者に税を課す権力のことを指している。これによって
連結政府の負債であるベースマネーが、債務ヒエラルキーのトップに位置づけられることに
なるのである。sovereign というのは、要はヒエラルキーのトップにある、という意味で
法的権利としての「主権」を指しているわけではない。「投票なければ課税なし」というのは
アメリカ独立運動のスローガンでもあったわけだが、要は、
政府が課税を行う正統性は、その政府が国民の選挙によって選ばれた代表により
意思決定されているからだ、ということに依存する。したがって、
たとえ政府が法的に暴力装置を独占していたり、それをベースに課税を行うことができたとしても
法的な主権者は、やはり国民である。だからMMTがsovereign というときの「主権」という言葉の
意味は、あくまで、この「債務ヒエラルキー」の頂点にある、ということに
とどまる、と考えるべきであろう。今回も繰り返し
「国家のsovereign 性」という言葉が出てくる。そしてその訳語には「主権」という言葉を
取りあえず与えているけれど、これはどうも適切な訳語とは言い難いようである。

本ワーキングペーパーが発表されたのは2004年のことである。つまり、
サブプライム危機が本格化する3年前である。そのことを念頭に置いて読んでもらうと
いろいろと味わい深いものがあるのだが、それはともかく、

今回このワーキングペーパーの粗訳を思い立ったのは
MMTの国際貨幣理論を紹介したいと思ったからである。
前回の論文は、Wray の論文であり、ネオ・カルタリズム臭も十分濃厚であったが
肝心の国際通貨理論については、MMTとは全然異なった方向性の物であった。
今回粗訳を進めるこのWPは、その点、MMTの国際通貨理論、というより
むしろオープンマクロ貨幣理論がはっきりわかる内容になっている。
実はこの前年、Louis=Philippe Rochon and Sergio Rossi の論文集にも
MMTのオープンマクロ貨幣理論がWrayによって執筆されている。
タイトルは" Seigniorage or Sovereignty ?" というものであり、
内容的には今回のWPとそう大きく変わるわけではない。というより
本WPの結末部分にある「ヘゲモニー」論は、こちらの論文からの繋がりであり、
その意味ではそちらを先に訳したほうがよかったかもしれなかったが、
内容的には、本WPのほうがまとまっているように思う。

また、本WPの内容はその後、ゴドリーのSFCアプローチと結び付けられ展開されることになる。
サブプライムローンバブル危機がなければ、
あるいはこの方向でモデルの精緻化がすすめられていたのかな、とも感じられるが。。。

まあ、その辺のことはまた機会を改めることにして、
さっそく粗訳に取り掛かる。今日はあまり進まない。内容的にも
すでに繰り返し出てきた話しかないが、ただ、日本の例が引き合いに出されている点だけ
ちょっと新しいかな。。。。


++++++++

本稿で検討するのは、変動相場制化の開放経済に適切な貨幣政策である。ここでは
以下の諸問題に対する従来の知見には矛盾のあることを示すつもりである。利子率決定、
デフレと闘うために経済に「流動性を送り込む」中央銀行の能力、
中央銀行による財政赤字の「マネタイゼーション」、中央銀行による「不胎化」、
「双子の赤字」の間の関係、それらの為替レートへの影響。
 要するに、中央銀行は翌日物金利目標を設定し、準備を供給するなり吸収するなりして、
銀行が確実に望ましいあるいは必要な準備を保有できるようにする。中央銀行がシステム内に
超過準備を「送り込む」ことはできるが、そうしたところで翌日物市場の入札がゼロになり、
翌日物金利がゼロにまで下落するだけの話に過ぎない(あるいは中央銀行が準備に金利を支払えば
利率を維持できるであろう)。財政が支出されるとき、[※中央銀行の]銀行勘定に振り込まれ、
徴税されるときにはそこから引き落とされる――財政赤字とは、単に[※中央銀行の]
銀行勘定残高の純増加、つまり、準備の増加に過ぎない。もしこれによって
超過準備ポジションになると、中央銀行または財務省が国債を売却するか、さもなければ
翌日物の金利が低下する。この通り、中央銀行による赤字の「マネタイゼーション」という認識に関わるような
オペレーション上の意味はない。
 中央銀行のオペレーションは常に受動的なものであり、仮に対外支払いによって
実際の準備残高が望ましいあるいは必要とされる準備ポジションから乖離すると、
翌日物金利目標が非ゼロとする限り、準備を供給なり吸収なりして「不胎化」(アコモデート)する以外に
選択肢はない。財政赤字は金利を引き上げ、通貨高を招き、そして「双子の赤字」が生まれる、と
考えられることが多いが、実際には財政赤字は超過準備を生み出し、国債売却が行われない限り、
翌日物金利は低下するだろう。財政赤字と貿易赤字の間に相関関係があるとしたら、
財政赤字による非政府部門支出に対する刺激効果のほうが、大きいように思われる。
 最後に、中央銀行は為替レートに影響を与えて貿易収支を調整すべきだ、と広く信じられている。
こうした結論の元をたどれば、大部分は、貿易の費用と便益、さらに貿易赤字を「ファイナンス」する
プロセス、こうした物事に対する誤解に行き着くことを論じるつもりである。我々の分析は、
変動相場制を支持し、ファイナンスのプロセスについての代替的な見方を提示するものとなろう。
 以下の記述全体を通じて、通貨主権を有する変動相場制採用国が分析対象となっていることは
念頭に置いておいていただきたい。つまり、イギリス、日本、合衆国のような国である。
議論によっては、ユーロ(ある意味、メンバー国の立場からは「外国」通貨のようなもの)を
採用しているヨーロッパの国を参照することも必要になる。主権通貨国との違いは、
固定相場制やカレンシー・ボード制をとっている国より大きくなることさえあるかもしれない。

金利の決定

 何年か前まで、教科書では貨幣政策を貨幣数量目標化金利目標かの選択として描くのが通例であった。
ここでは「貨幣乗数」が比較的安定しているとしたうえで、準備数量wコントロールすることで集計的貨幣量の
コントロールが可能であると想定されていた(Brunner 1968; Balbach 1981)。現実世界においても、
貨幣成長率目標を達成しようとする試みが行われた――特に1980年代の合衆国と英国で。しかし、結果は
悲劇的なものであり、ほとんどすべてのエコノミストが、少なくとも実務上は貨幣目標を達成するなど
不可能だとする結論にたどり着いた(B. Friedman 1988)。現実世界の結果は、イギリスにおけるGoodhart(1989)や、
合衆国におけるMoor(1988)の議論を裏打ちするものであったように思われる。つまり
中央銀行は金利目標を設定し、そしてその目標の下で準備に対する需要にアコモデートせざるを得ない。そして、
仮に中央銀行が準備目標を達成することができるケースがあるとすれば、中央銀行が
金利を上げるか下げるかを決定することによって、準備に対する需要を下げるかあげるかする場合だけである。
かように、準備の供給は、需要を完全にアコモデートし、中央銀行は金利目標を設定するだけ、というのが最善である。
 なぜ、中央銀行は準備に対する需要にアコモデートせざるを得ないのか。少なくとも、4つの異なった回答がある。
合衆国では預金に対して一定比率で準備を保有することが義務付けられている。ただし、
この計算は相当複雑である。1980年代に、後積み方式から同時積み方式へと変更したことがあった。こうすれば
中央銀行は銀行貸出および預金の拡張をより厳しき引き締めることができると信じられてのことであった。
しかしながら、両方法とも、結局、実質的な後積み方式にしかならないという結論が判明した。
今日保有していなければならない準備は、多かれ少なかれ、はるか過去に保有されていた預金を参照せざるを得ない。
銀行は、過去へ遡ることはできないのだから、過去の預金のことなどどうしようもない。たとえ
所要準備を満たすのにかかる時間は短時間で済んでも、必要なポートフォーリオの調整がとてつもない大きさに
なる――特に銀行の資産の多くは、それほど流動的ではないことを考えれば、当然であろう。そうすると
実務上は、中央銀行が自動的に当座貸越を提供するしかない――唯一問題となるのは、その「価格」、
すなわち、準備に課せられる割引率である。カナダやオーストラリアといった多くの国々で、
当座貸越契約が明示的に与えられているが、この場合、中央銀行がアコモデートしていることに疑問の余地はない。
 第二の回答が持ち出されることもあるが、そちらはさほど満足ゆくものではない。中央銀行は
最後の貸し手としてオペレーションしなくてはならないのであり、つまり金融システム安定のために
準備を供給しているというわけだ。この説明の問題点は、言っていること自体は疑いようのない事実だとして、
全く異なった次元の問題をいっしょくたにしているように思われる点である。中央銀行は日々単位、
それどころか1時間ごとに変化する需要に対してアコモデートしている。準備需要に対するアコモデーションを
拒絶したからといって、すぐに取り付け騒ぎや金融危機が発生するわけではない。そうしたことがひとたび発生すれば、
そのときには中央銀行は確かに最後の貸し手として行動することであろうが、しかし、それは日常的な
「水平的」アコモデーションとは次元の違う問題だ。

 第三の説明は、中央銀行が決済システム安定を守るために、準備需要にアコモデートしているとするものだ。
これは最後の貸し手説とそう変わらないように見えるかもしれないが、しかし、アコモデートされる時間的枠組みを
考えると、こちらの説明のほうがそれらしいと思われる。銀行間の決済の度に、さらにより重要なこととして
政府との決済の度に、銀行は決済用の準備にアクセスしなければならない。(何事かがあった時、
預金保険によって小切手の決済に最終的な責任を負うのは政府であるという点は注意が必要。)
 最後の議論は、準備の需要は極めて非弾力的であり、かつ、民間部門が供給を増やすことができないため、
中央銀行のアコモデーションがなかったら翌日物金利は極めて不安定になってしまうであろう、ということだ。
それ故、翌日物金利を安定させるために中央銀行による「水平的」アコモデーションが必要になる。実際、
極めて短期間をとると、翌日物金利は相対的に安定しているわけだが、この経験的なエビデンスは、
中央銀行が水平的アコモデーションを現に行っている、とする主張を支持するものである。
 翌日物金利は中央銀行によって外生的に管理されている、と結論付けることができる。短期のソブリン債権は、
準備の翌日物貸付に対する代替資産としては非常にすぐれているので、その金利は翌日物インターバンクレートの
すぐ後を追っている。長期ソブリン債の金利は将来の短期金利に対する期待に依存するのであろうが、
それは大部分、将来の貨幣政策目標に対する予想によって決まるであろう。かくして、これら金利は大部分、
中央銀行によって管理されている、ということができる。中央銀行ははるか将来の目標でもアナウンスできるのだし、
そうすることでソブリン債の金利の分布全体にわたり影響を与えることができるからである。

デフレと闘うために流動性を流し込む

 近年になって、中央銀行に対しデフレ圧力と闘うために流動性を「流し込む」ことを求める無数の声が
発生している。まず最初に日本で、次いで合衆国で(Bernanke 2003)。 はるか昔、フリードマン(1969)は、
貨幣供給を増やす方法として、貨幣をバックに詰めてヘリコプターから落とせばよい、とジョークを言った。
実際にそんなやり方が採用されたならば、多分デフレと闘う有効な手立てにはなるだろう――十分な量のバックが
投げ落とされるとして。しかし、この政策提言には二つの問題点がある。第一に、
そんなことを考える中央銀行はない、ということ。第二に、こちらの方がより重要だが、
これは実際には貨幣政策オペレーションではなく、福祉政策に類似した一種の財政政策になる、ということだ。
現実には、中央銀行のオペレーションは割引窓口での準備供給か、公開市場操作に限られている。
どちらのやり方にしても、中央銀行は負債(準備)を増やすのと同時に、資産(大部分、ソブリン債か
民間銀行の負債。ただし、金(きん)や外貨、その他の民間資産を買取ることもある)を得る。
ヘリコプターから貨幣を落とすというのは、これとは全く違う。というのは、これは民間部門の資産を
増やすからである。反対に中央銀行のオペレーションでは、民間部門資産の純増はない
(金利目標を引き下げた結果として、金融資産価格が増加するケースは除外するとして)。
 前の節から明らかであろうが、中央銀行は翌日物金利を正に保とうとする限り、
銀行システム内に望ましい/必要な水準を超える準備増加を選択することはできない。
民間銀行は自分たちの必要とする/欲している準備を十分得てしまえば、それ以上、中央銀行からの借入を
しようとは思わないであろう。公開市場操作は単なる超過準備の退蔵に終わるであろう。
超過準備を抱えた銀行は、それを翌日物市場で運用しようとするであろうが、それよりインターバンク金利は
低下してしまう。翌日物金利が中央銀行の目標レンジの底についてしまえば、今度は公開市場で売りオペが始まり、
超過準備は吸収されてしまうであろう。これによって翌日物金利は目標水準に戻り、
そして中央銀行は気が付くであろう。デフレと闘うためにシステムに「送り込んだ」準備と
大体等しい金額の準備を回収してしまった、と。運のいいことに、正の翌日物金利目標を設定している中央銀行はどこも、
デフレと闘うために「流動性を送り込む」べきだというアドバイスに耳を貸すほど、愚かではないようだ。
 日本はいささか異なった状況にある。ここはゼロ翌日物金利目標を採用しているのである。
これは銀行システム内である程度超過準備が保有されていることによって維持されている。
日銀はゼロ金利を維持するため、常により多くの超過準備を追加している。しかし、銀行の立場からは、
システム内に「流動性を送り込む」というのは、銀行が所得を生まない準備を増やし、金利収入のあるソブリン債の
保有を減らすということ、それですべてである。これでデフレとの戦いになると考える理由は全くないし、
そして長きに渡る日本のデフレと翌日物ゼロ金利の経験から得られるものは、たとえ「流動性を流し込む」ことが
できるとしても、これといったポジティヴな影響はない、という経験的証拠であろう。(合衆国も大恐慌の間、
割引率1%の下で類似の経験をしている。)そして、繰り返しになってしまうが、
「流動性を送り込む」というのは、正の翌日物レートで運営しているどの国にとっても
政策的選択肢にはならないのである。
 中央銀行は、デフレに対して何ができるのか。翌日物金利は政策変数なのだから、デフレと闘うために
自由に調整できる。ところが、理論的にも経験的証拠からも、よくて曖昧なアドバイスしかできない。
通常信じられているところでは、金利目標が引き下げられれば、民間の借入と投資が刺激されるであろう――
ところが長年にわたる日本のデフレ下におけるゼロ金利からは反対の証拠が得られる。金利低下により
投資が刺激されるという通念を支持する経験的証拠はほとんどない。


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