ワニなつノート

手をかりるように知恵をかりること(Hutaba編・Ⅱ)

手をかりるように知恵をかりること(Hutaba編・Ⅱ)

《受けとめ合い体験のこと》


「試し行動」という言葉があります。英語で「リミットテスト limit test」。
「子どもがわざと親の困る行動をすること。どこまで許してもらえるかを試している」という理解が通用している言葉、です。

芹沢さんの本に書かれていた、里親・里子関係の「受けとめられ体験」という言葉が、障害のある子どもにとっての「受けとめられ体験」と重なりました。それを言葉にしたかったのですが、その時はうまく書けませんでした。

里親のもとに委ねられた子どもが、いわゆる「試し行動」で、里親を困らせることがあります。
生まれた時から「手をかりる」ことを許されなかった子ども、知恵をかりるすべもなく、もっとも安心して信頼できるはずの親に虐待され、捨てられた子ども。
その子どもが、もう一度、「手をかりるように知恵をかりること」を「子ども体験」として感じようとすれば、「本当に手を貸してくれるの?」「本当に無条件に知恵を、力をかしてくれるの?」と、確かめる作業が必要です。すべて失ったもの、または一度も手にしたことのないものを、取り戻す作業です。
里親からすれば、「急激」「急変」に感じるかもしれません。
でも子どもの側からすれば、「着実」にため込んできた「希望」を自分の手で抱きしめるための行動。そこには、確かめたくて確かめたくて、確かめることにあこがれつづけた時間の積み重ね=ため込んで膨らんだ希望があります。

それは、「試し」とみれば、そう見えるでしょう。

でも、「試し」という言葉を使うとしても、「子ども」がそれと分かって「親」を「試している」のでないことは、知っておきたいと思います。
試しているのは、親の胸をかりて、確かめることを求めることのできる「自分」を試していると思うのです。

「一人で生きる」のではなく、親を信じられる自分になれるのか。手をかりるように知恵をかりるように人を信頼して、自分を委ねることができるのか。そういう「子ども」になれるのか。
そんなふうに、自分を試しているということを、「試し行動」というなら、そういう呼び名もありかもしれません。でも、「試し行動」のなかには、「あかちゃん返り」もあります。もしも「赤ちゃんに返った自分」を受けとめてもらえなければ、赤ちゃんは死んでしまいます。そこには親を「試す」という余裕や意図の入り込む余地がありません。

それは、人を試すことよりも、もっともっとずっと切実な、「生存の根底にかかわる欲求のあらわれ」と理解するのが自然です。

子どもが、自分にふさわしい親かどうかをテストしているような、「試し」と言う言葉は、その言葉を使う大人の「不信」を表現しているような気がします。

甘えることも、泣くことも、暴れることも、叫ぶことも、子どもにとって、それなしでは生きていけない大切な「ねがい」「てをかして」「ちえをかして」を、表現している姿。
目の前の子どもの思いは、一つ。みんなと同じように、自分にも、自分だけをみつめ、自分だけを大事にしてくれる人がいてほしい。自分も、みんなと同じように、手をかりるように知恵をかりて、共同で生きたい。
その、自分だけを愛してくれる人を求める思いは、人と人とのつながりを求める必死の思いであり、その先にある自分もまた誰かのために、手をかすように知恵をかして、ともにいきたいという希望につながっているのだと思います。
そこを信じられない大人だから、子どもの「個のわがまま」と見、それゆえ、「試し」とみなす理解が自然と頭に浮かび了解してしまうのかもしれません。

私が「試し行動」という言葉を「分かりたくない」のは、無条件に子どもの側に立つためには、そうした言葉の使い方を疑う必要があると感じているからのようです。虐待された子どもであっても、障害故に困っている子どもであっても、その必死の願いの表現は同じように私には感じられます。
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