ワニなつノート

虜囚の記憶

虜囚の記憶


《強制連行》中国人男性と西松建設が和解…補償基金設け謝罪
という今日のニュースを見て、
ふと「一人の少年」の姿が浮かびました。


   □    □    □


少年は14歳のとき、日本軍に拉致され、
福岡県の炭鉱で働かされた。

少年は初め、3年後には帰れると聞かされ、
それを信じていた。
しかし、飢えと疲労で、3カ月もすると多くの人が死んでいき、
半年で40人余りが死んだ。

風呂焚きの男は四十過ぎの朝鮮人だった。
彼は「七年いる」と言った。
それを聞いて、少年は三年たっても帰れないと分かった。
あるとき、彼は建物の後ろの小屋に連れていき、
積まれた袋を見せた。

100人ほどの朝鮮人、中国人労工の骨の箱があった。
彼は「脱出は不可能」、
「日本が負けないかぎり、帰れない」と教えたのだった。


ああ、もう帰ることはできない。
泣いても泣いても、同じだった。
声を殺して泣くしかなかった。

体は帰れなくとも、魂は故郷へ帰る。

それから自殺することばかり考えるようになった。
敷地の後ろは深い谷になっていた。
尖った岩が見える。
岩に向かって頭から落下すれば死ねる。
飛び降りて死のう、そう何度も思った。

しかし、李家が断絶する。
父母がどんなに悲しむか。
やはり死ねないと、堂々巡りするのだった。

そんな李少年を見ていたのだろう、
三人の老人が交代で少年に話しかけてくるようになった。

「心のうちを話してくれ」

「死にたい」とやっと言った。

老人たちは泣きながら、李少年を囲んだ。

「死んではいけない。
若いお前が死んで、誰が生きていかれようか」

「やがて必ず日本は負ける。中国は滅びはしない」

「私たちが死んでも、お前は生きるのだ。
生きて私たちの骨を中国に帰してくれ」

それから三人は交代で自分の食物を残し、
少年のところへ持ってきた。

願国良おじさん、72歳といってた。
60歳過ぎの呉おじさん、周おじさん。
三人とも、孫のように思ってくれた。

一か月の内に、三老人は次々に死んでいった。
体が動かなくなっても、なお働くといって坑道へ近づき、
入口で倒れた。
饅頭を李少年に渡してくれと言って、死んでいった。
力があれば、日本人すべてを殺したかった。



   □    □    □


この夏、少しずつ読んだ『虜囚の記憶』の一節です。

李少年は、1930年生まれ。
話を聞いたときは2006年、76歳とあります。

この本には、多くの人の戦時中の体験が記録されています。

「娘を出さないと殺す」と両親が殴られる音に耐えきれず、
隠れていた家から出て、14歳で慰安婦にされた少女。

この十数年、日本で「裁判」を起こした人たちが訴えているのは、
「この胸の苦しさを外に出したい。
これは一体、何なんだ。なんとかわかりたい、
説明してほしい」
ということでした。

いまもなお悪夢にうなされ飛び起きる人たちにとって、
子どものころの体験は、過去のことではありません。

「いつも心のなかで問うてきた、
日本兵はなぜあんなに酷いことをしたのか。
どうしてなの、どうしてなの、と問うても、分からない。
そして、なぜ私がこんな目にあわなければならないのか、
自問する。全てわからない。」



「なぜ私がこんな目に遭わねばならないのか、
答えは分からないが、その後、
日本の弁護士さんがなぐさめてくれるようになった。

訴訟によって、心の中にあるものを語ることができた。
気分は少し楽になった。

最初に東京に行って、証言できた。
自分は他の老人より、恵まれていると思う。
証言の後、人の前で怯えることが少なくなった。
勇気が戻ってきたように感じる。」


80歳になっても、90歳になっても、
子どものときの苦しみに、うなされ、
悪夢に苛まれる人の声を、言葉を、
私は心から聞けるようになりたいと思います。

苦しみの記憶に苛まれた長い年月をかけて、
それでも人への信頼を取り戻し生き抜き、
苦しい記憶を語ってくれる人たちのお陰で、
私は、いま、目の前にいる子どもの苦しみを、
少しでも間違わず、受けとめられるように
なれると思うからです。


以下の味気ない新聞記事は、
無数の、一人ひとりの子どもの苦しみに、
ようやくほんの微かに答える企業が、
この国に現れたことを伝えています。



【毎日新聞・09・10・23】

<強制連行>中国人男性と西松建設が和解
…補償基金設け謝罪


戦時中に広島県の建設現場に強制連行されて
重労働を強いられた中国人男性と
施工業者の西松建設(東京都港区)が23日、
和解した。

西松側が強制連行の責任を認めて謝罪し
2億5000万円を信託して
補償などのための基金を設ける内容。

戦後補償問題で企業側が自主的に和解を申し出て
補償に応じるのは異例。

和解金の支払い対象は1944年当時、
西松建設の発電所建設工事現場に強制連行された約360人。

裁判外で当事者同士の話し合いがついた場合に
合意内容を調書にまとめる「即決和解」が同日、
東京簡裁で成立した。

中国人側の代理人弁護士によると、和解条項は西松側が
(1)歴史的責任を認識して「深甚なる謝罪の意」を表明
(2)2億5000万円を支払い被害補償や消息不明者の調査、
記念碑建立などを目的とする基金を設立--する内容。

中国人側が西松建設に賠償を求めた訴訟で最高裁は07年4月、
「日中共同声明で裁判では賠償を求められなくなった」
として請求を棄却し、原告の敗訴が確定した。

しかし、判決は強制連行の事実を認め
「被害者の苦痛は極めて大きい。救済に向けた努力を期待する」
と自主的な解決を求めていた。

西松側は「問題は解決済み」という立場を取ってきたが、
違法献金事件を機に企業責任を重視する対応に方針転換した。

今後、新潟に連行された約180人との和解も目指す。
【銭場裕司】




『虜囚の記憶』 野田正彰 みすず書房 ¥3200


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