ワニなつノート

入試という差別





≪公立高校の学力選抜は知的障害者にとって「差別制度」である≫


学力選抜は、本来、知的障害を差別した所で成り立っている「制度」であり、
知的障害者にとっては、明らかに差別である、
というのが、私たちの元々の出発点です。

「視力検査」をして、
「視覚障害者」の「社会参加」を排除することが差別であり、
「聴覚検査」をして、
「聴覚障害者」を「社会参加」排除することが差別であり、
公共施設にエレベーター等の交通アクセスがないことで、
「身体障害者」の「社会参加」を排除することが差別であるのなら、

「学力検査」(知的検査)をして、
「知的障害者」の「社会参加」を排除することは差別である。



97~8%の中学卒業生が進学する高校は、同世代の社会であり、
若者が生きたい場所そのものであり、
その高校への「参加を排除する」役割をもつ、
「学力検査」は差別以外の何物でもない。

それが、差別と認められないのは、
この社会が「障害者へ理解」が遅れているからに他ならない。

視覚障害者に点字が認められているのは、
それは、必要なものだからです。

それを奪われたら、社会参加すること、生きていくことが困難になり、
人としての尊厳を奪うことになるから、
当然の権利として認められているのです。

健常者の恩恵、社会の恩恵、ましてや行政の恩恵で、
点字が認められている訳ではないです。

障害者にとっての「独自の生活手段」が、どういうものか。
それを保障することは、
「予算」を口にしていいこととそうでないことがある、
という障害者の基本的人権の基本が分かっていないのだ。
つまりは、障害者差別について、何も分かっていないのだ。

「障害者」にとって、
「点字」「手話」「時間」
「言葉以外のコミュニケーション」
「食事、移動、等の手段や介助者」の存在が、
「基本的生存権」であり、
人権の基本、憲法の基本だということが、理解できていないのだ。

それは、健常者である私自身も理解が足りない、実感がない、
自らの「生存」や「尊厳」に係わるという「自覚」がないから、
ちゃんと伝えられないのだ。

それは、障害児の親も同じ。
障害児の親も健常者である限り、そこの理解の遅れは、ある。

高校進学にしたって、
いつだって、親よりも子どもの方が何倍も本気だった。

そして、それは当たり前のことなのだ。
子どもにとって、自分の人生のことなんだから。


1.≪私たちにできること≫

「障害のある子どもが、なぜ高校に行くのか?」と、
おかしなことを聞く人がいる。

15才で就職する子に出会うことの方が難しいこの時代に、
「なぜ高校に行くのか?」と聞く人がいる。

障害児にも後期中等教育を保障するのが当然のことだから、
養護学校に高等部も作られた。

それならば、普通の小学校・中学校を終えた子どもにとって、
次に行くところは普通高校だ。
他に選択肢はない。

「でも入試があるから難しい?」
「点数が取れないから難しい?」

 何を今さら。

そんなことは小学校に入る前から分かっている。
今さら、子どものできなさを言いたてて何になるのか。
この子たちがどんなにがんばってもできないことを
最初に「障害」と呼んだのではなかったか。

それは、この子たち一人ひとりの責任ではない。

この子たちの努力や根性の問題ではない。

この子たちの「できない」ことを理由にして、
社会が「できない」というのはおかしな話だろう。

問わなければならないのは、
「この子のできなさ」ではなく、「私たちに何ができるか」だ。

この子たちの「障害の不自由」を知っている私たちが、
「どうしたらこの子の意欲と希望をかなえられるか」を
考えなければならないのだ。

「本当に本人の意思で高校に行きたいのか?」と問う人は、
「本人が心の底から高校に行きたい」と分かった時に、
どういう手立てを持ち合わせているのだろう? 

どうやったら0点でも高校生になれるのか、
それを本気で考えたことがあるだろうか。

私たちはそれを考え続けてきた。

ある高校の先生は障害児の受け入れに反対して、
「私たちは知的学習を仕事にしているから…」と言った。

しかし、この問題こそ「知的学習の成果」が試される絶好の機会だ。

この子たちを「知的障害」と呼ぶ私たちが、
この子の学ぶ機会を保障するために、
どんな手立てを考えることができるかという「知性」が問われているのだ。

保育園、小学校、中学校と、
一緒に生活をしてきた仲間がみんな高校へ行くという時に、
この子だけがその仲間と一緒に生活することができないという
「非常事態」なのだ。

一人の子どもにとって、それは大震災に等しい非常事態ではないか。

今この時に手をかさないなどということがあり得るものか。

私たちは、知的障害の子どもの入試という非常事態に、
ありったけの「知的補助具」を利用して救援する。

今の時代には、障害に応じて、
電動車椅子や補聴器や音声案内などの様々な「補助具」がある。

入浴のための入浴補助具や移動用リフトは
年をとれば誰でも利用することになる。

1992年には厚生労働省の規定する
「重度身体障害者日常生活用具給付等事業」の給付種目に
「トーキングエイド」が加えられた。
トーキングエイドは、キーボードに入力した文字を音声で話してくれる機械だが、
厚生労働省は「携帯用会話補助装置」とした。

障害児者が、ふつうの日常生活を送るために
必要な様々な「補助具」を考えるのは当然のことなのだ。

だから、「知的」障害をもつ子どもが、
その「知的障害」のために
「あたりまえの社会参加=後期中等教育を受ける機会」を
得られないのであれば、
私たちがそれを実現するための『知的補助具』を考えなければいけないのだ。

一定の子どもたちに「知的障害」という障害名をつけたのだから、
「知的補助具」を考えるのは、健常者である私たちの役目だろう。

私たちに与えられた「知的能力」を、
「知的障害」のために不利な状況に置かれた子どもたちのために
最大限使うのは当たり前のことだ。

それはただ、「手をかすように知恵をかすこと」ということであり、
人として当たり前のことだと私は思う。

知的障害の子どもに、「学力テスト」をすることは、
目の見えない人に「視力検査選抜」をすること。
歩けない子に、100メートル走の検査選抜をするのと同じこと。

そしてスタート地点で、動かないでいる寝たきりの子どもを、
斜面に連れていって、スタートの合図で、
少し「押してあげる」配慮をする。

子どもは斜面を5メートル転がって止まる。
記録5メートル、6秒。

その結果で、仲間といっしょに学べるかどうかが決めるようなもの。

だけど、そのことを割り切って、差別の儀式の場へ子どもを送り出すのだ。

どんなに「配慮」しようが、本質は差別の場所に参加するのだ。


それは何のためか、
差別の儀式を通過したその先に、
また、今までと同じ仲間のいる場所、生活の場所がそこにあるからだ。

点数や障害とは関係ない日々の生活があるからだ。

「自分ができないこと・点数が取れないこと」が
悪いことだと間違わないように。
そうではないよと、伝えてあげるために。

障害のあることは恥ずかしいことでもなんでもない。

人は、それぞれに、いろんな事情で、
自分ではどうにもならないこと、
一人ではできないことを抱えて生きている。

あなたは、あなたの人生をがんばって、
精一杯生きるだけで十分なんだよ、と。

私たちはあなたがいてくれて嬉しいと、
この社会はあなたが大人になり、社会に参加してくれることを待っていると。

あなたができること、あなたに教えてもらうことがいっぱいあると。

そのことを伝えるために、高校にこそ、障害児が必要なのだ。

だから、そのための「選抜方法」を実現すればいい。

たとえば、
「同世代の仲間のいる環境で学ぶことを一番必要としている者」
から選抜すること。

そうすれば、その障害の特性から、他の生徒よりも、
「体験学習」「観察学習」を通して
「後期中等教育」を実感することが必要な生徒が選抜されるだろう。
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