ワニなつノート

HalとNaoちゃんの待ち時間(+やっち)(15)

HalとNaoちゃんの待ち時間(+やっち)(15)


(a)【普通学級は、「障害のあるふつうの子ども」の、
「ふつう」を育てる所】

(b)【普通学級は、「障害のあるふつうの子ども」の、
「ふつうの親」を育てる所】


「障害児」の親だからといって、
「障害児」を差別しないという訳ではありません。
出生前検診で、「障害」が分かったときに、
「障害児」を産まない「自己決定」をするのは、「親」です。
それは、「障害児」はいらない、ということであると同時に、
「障害児の親」は嫌だということでもあります。

それは「個人」の問題であると同時に、この社会がそうした検査を
開発し推進している社会であるということです。
この社会の中では、子どもを生むだけで、
子どもの味方になれるとは限らず、
子どもを差別しない親であることもできない社会だということです。

そうであるなら、生まれてきた子どもに「障害」があるとき、
その子どもを差別せず、子どもの味方でいるためには、
この社会の「障害児への差別」と、
この社会で育った自分自身の差別に、
きちんと向き合わなければなりません。
そうしないと、子どもをこの社会の差別から
守れないことになるからです。


(☆「出生前検診」という言葉を使うときは、
この言葉がどんなふうに理解されているのかが気になるので、
二つだけ紹介します。)

一つは、石川先生が話していたことです。
遺伝子カウンセラーという職業があります。
その遺伝子カウンセラーという仕事をしている人の子どもが、
ダウン症だということがあります。
もちろん、そうでない場合の方が多いでしょう。

で、その遺伝子カウンセラーという職業の人は、
出生前検診やその結果について「説明」するのが仕事です。

ところが、そのカウンセラーの子どもが、ダウン症か否かで、
カウンセリングを受けた人の「自己決定」が変わるのです。

ダウン症の子どもの親がカウンセラーであるとき、
5割以上の人がダウン症であっても子どもを産みます。
そうでないカウンセラーの場合は、
9割以上が堕胎する、ということです。

もう一つは、最近読んだ
「21番目のやさしさに ダウン症のわたしから」という本から。
著者は岩元綾さんです。

「…これは私一人の問題ではない、
今生きているダウン症の人たちを否定することになると思いました。
このような検査に対し、多くの学者や医師、
ダウン症の親の方たちとともに
旧厚生省の先端技術医療専門委員会に意見書を
提出する運動の一員に私も加わり、
二度にわたって意見書を提出しました。
大学卒業式の時の写真なども添えました。
ダウン症者本人が意見書を提出したのは
初めてのことだったそうです。」


前回のつづきを書きたかったのですが、
思いがけず硬い話になってしまいました。
次回もう一回、書きます(@_@;)

でも、やはり、「ひとりの子ども」の話と同時に、
「障害者」がどれほど普通に差別された社会で生きているかを
忘れてはいけないのだと思います。

岩元綾さんの本に、次のような言葉も紹介されています。

【ドイツのダウン症の家族などをサポートしている会の主宰者
Ritaさんは巻頭言で次のように書いています。
『新年を迎えて、ベルリンの障害者の利益代理人に
私は次のような質問を受けた。

「ダウン症活動サークルはなぜまだこれからもあるのですか?
ダウン症児はもう出生前診断で、
世の中に出てくることはないのに」と。

一瞬私は言葉を失い、深く息を吸った。
それから、激しく議論を始めた。】
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