ワニなつノート

1月30日「どうして?の日」の準備(その1)


1月30日「どうして?の日」の準備(その1)




《県教委の資料》

1月30日の話し合いの前に、県議と教育長との意見交換会(12月26日)を振り返っておこう。
配布された資料は、《11月27日》に配布された資料とほぼ同じものだ。ただ「法律上・・・学びの保証ができない」という言葉が消えていた。潔く悔い改めのか? いや、そうではない。


①高校では「特別の教育課程の編成」ができない。
②高校では「特別支援学級」が作れないし、(重度知的障害は)「通級」の対象でもない。
③高校卒業には74単位を履修しなければならない。
④「入学後の本人の学びをいかに保証するかという点」を考えなければならない。
⑤「特別の教育課程を用いた授業ができない」。
⑥「高等部では特別支援教育が進められている」

            ◇

一つ一つは、間違いでもない。ただしひとつながりにすると悪意が現れる。その思考回路を解説しよう。【「入学後の本人の学びをいかに保証するかという点」④を考えてみたが、「高校卒業には74単位の履修」が必要③。だが「特別の教育課程」が作れないし①、「通級」も対象外だ②。だから「特別の授業ができない」⑤。「高等部では特別支援教育が進められている」からそっちに行けばいいのに⑥。結論=沖縄では「法的に教育の保証ができない」。】


要するに、彼らの頭の中には、「伊織君に74単位を取れる訳がない!」「だから無理!」しかないのだ。文科省通知の「障害の種類や程度等に応じた適切な評価」や「評価尺度の多元化を図る」という言葉は理解不能らしい。もしかしたら、自らの「教育評価」を顧みるのが怖いのかもしれない。

           ◇

話を戻す。そもそも伊織君は、「特別の教育課程」を望んでいない。彼は高校の「支援級」に行きたいのではない。小中学校と同じように、みんなと同じ教育を学びたいのだ。だから、よけいな説明はせずに、③④に知恵を絞ればいい。どうやれば履修が可能か③。どうやれば学びを保証できるか④。したがって①②⑤⑥の説明は不要なのだ。


そして、答えは平成4年の神戸地裁判決にある。

【学校教育法施行規則26条は、小学校の児童が心身の状況によって履修することが困難な各教科は、その児童の心身の状況に適合するように課されなければならないと規定し、同規則65条は、高等学校の生徒についても26条を準用しているので、身体障害などのため体育などの履修が困難であっても障害の程度に応じて柔軟に履修方法を工夫すべきであり、障害児の高校受入れに当たっては障害のため単位認定が困難というだけの理由でその受入れを拒否することのないようにすべきであるとの障害児教育に関する国としての方針を示している】

           ■


《「身体障害」と「知的障害」》


判決文には「落とし穴」がある。「履修困難」は、本来すべての教科が含まれる。しかし判決文には「身体」・「体育」と書かれている。それは「校長が車椅子の生徒は体育の履修ができない」と発言したからであって、それに応えているに過ぎない。

だが、多くの人は、「点数が取れる障害」だから認められたのだと考える。もちろん偏差値も競争率も高い高校だったから、点数が取れることも必要ではあっただろう。しかし、それと「履修困難」な教科の問題は別だ。結局のところ、これを読む人の人権意識の問題だ。


《平成5年通知》の問題も同じだ。沖縄県教委は、「定員内不合格の根拠は?」という県議の質問に「平成5年通知」と答えた。ここでひとつの疑問が湧く。通知は平成9年にも出されているのに、なぜ古い通知を持ち出すのか? 

平成5年通知には「身体に障害」と書かれている。これなら「知的な障害」を「能力・適性がない」と解釈することも可能だが、平成9年通知には「身体」が消えている。「身体」と「知的」の区別をせず、「障害」という一語ですべてを含みこんでいる。「これでは、障害を理由に能力・適性がない」とは言えない・・・、困る。だから県教委は、「平成5年通知」を後生大事にあがめるしかないのだ。

(ちなみに千葉県教委も、校長が「能力・適性」を判断する法的根拠は何かという質問に、「平成5年通知」と答えた。差別の根拠はどこも同じだ。)


改めて平成9年通知を読む。【障害のある者については,障害の種類や程度等に応じて適切な評価が可能となるよう,学力検査の実施に際して一層の配慮を行うとともに,選抜方法の多様化や評価尺度の多元化を図ること。】 身体障害と知的障害を分ける言葉は、ない。

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《「選抜方法」が違っても公平・公正》

さらに9年通知には、【選抜の改善に具体的に取り組む際には,同一学科の入学定員を区分して,部分的に異なる選抜方法を導入するなどの取組についても工夫すること】と書かれている。

「定員を区分してもいいよぉ」、「異なる選抜方法も可能だよぉ」と、丁寧に説明している。

例えば、「インクルーシブ教育推進枠」を作り、従来の「五教科の学力に偏った試験」で不利益を被ってきた知的障害のある生徒の「定員」を設けることもできる。「子どもの貧困防止法枠」で、貧困や虐待環境に置かれ、中3時点の学力選抜では不利益を被る生徒のための「定員」があってもOKなのだ。つまり、高校入試選抜とは、定員を別にしても、選抜方法を別しても、「公平・公正」だと、国が明言しているのだ。


障害者基本法。障害者差別禁止条約。障害者差別解消法。これらの法律のどこにも、「身体障害」と「知的障害」を分けていいとは書かれていない。

《障害者基本法・第1条》

【この法律は、全ての国民が、障害の有無にかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのつとり、全ての国民が、障害の有無によつて分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するため、障害者の自立及び社会参加の支援等のための施策に関し、基本原則を定め、及び国、地方公共団体等の責務を明らかにするとともに、障害者の自立及び社会参加の支援等のための施策の基本となる事項を定めること等により、障害者の自立及び社会参加の支援等のための施策を総合的かつ計画的に推進することを目的とする。】


沖縄県教委や千葉県教委や、その他ほとんど全国の古い頭の県教委が、勝手に「障害」の中から、「知的障害」や「重度障害」「医療的ケア」を分けて考えているだけなのだ。「高校は義務教育じゃない」という言葉がどれほど意味のない言葉かは明らかだろう。今の時代、「義務教育じゃないから」という言葉は、「義務教育じゃないから、知的障害は差別していい」と主張でしかないのだから。

             ◇

もちろん私は「別枠」を望まない。入試だけ「別枠」にする意味はない。

ただ、「障害児の高校受入れに当たっては障害のため単位認定が困難というだけの理由で拒否することのないようにすべき」という「国としての方針」はさらに進化し、「同一学科の入学定員を区分」「異なる選抜方法を導入」とまで示す時代になった。子どもの学ぶ権利を明白にくつがえす法律や校長判断は、もはや容認できない時代になったのだ。

ここまでくれば、真のインクルーシブ教育を行う覚悟さえあれば、別枠など作らずとも希望者全入は可能だ。別枠などなくても、共に学ぶ高校は30年以上前から現場で実現されてきたのだから。


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