ワニなつノート

ほうきと生米(その5)

ほうきと生米(その5)


今日、読売新聞にhideの記事が載りました。
昨日、仲井さんが新聞記者に話をするのを聞きながら、この2カ月のことが少しずつ整理できてきました。

そのメモをとりあえず、以下に記します。


      ◇   ◇     ◇


「箒の柄で殴られること」
「シャツとポロシャツの上からでも、背中が紫に腫れあがるほどの傷ができる殴り方がどれほどのものであるか」
それ以前に、「日常的にスリッパで殴られていたこと」。
そして、殴られた恐怖のあとに、出されたものに抵抗できない場面で、「めんつゆをかけた生米」を「これでも食ってろ」と食べさせられること。

まず、hideの痛みと恐怖と屈辱が、一番の問題。
そのことを聞かされる、親の痛み。

それだけで、耐えがたい問題ではある。

しかし、そのhideの痛みと、親の痛みを、「たいしたことではない」という扱いが、また二人を傷つけることになる。

被害にあったhideは、すぐに病院に連れていってもらえず、親への一報も、「ちょっとトラブルで怪我をしました…」程度のもの。

ところが、加害者であるヘルパーを守るためには、理事長、副理事長からすぐに親に電話が入る。
「このヘルパーがいなくなると困るから、このまま仕事を続けさせたい」

また、事件から2カ月がたつが、「こらからの対応策」は、なにも示されない。
話し合いの中では、hideが暴れたときにヘルパーを守ること、に話がすり替わっている。

今回、hideが暴れてヘルパーに殴りかかったのではない。
ヘルパーが、自分の身を守るために、箒を持ち出したのではない。
Hideが、食事の準備中に、何か食べたいと訴えて、待てなかったために、罰を受けたのだ。


      ◇   ◇     ◇


すり替えないでほしい。
ずらさないでほしい。
まず事実を、あるがままを、受けとめてほしい。

言葉にすれば、「問題」を「問題」として受けとめてほしいということです。

「ヘルパーの問題」を、「障害当事者の問題」に、すり替えないでほしい。
「殴った側の問題」を、「殴られた側の問題」に、すり替えないでほしい。
圧倒的な「支配・被支配」の力関係にある場合、弱い立場の側の「抵抗」を「暴力」と表現して片づけてしまってはいけない。


「親と子」「健常者と障害者」「健常者・認知症の老人」「先生と生徒」「集団でいじめる側といじめられる側」
それぞれの「力」の表現がある。
立場の強い側が、弱い側に「暴力」を使わせて、「罰」を与えることは簡単にできる。
それを、「しつけ」という人がいる。
それを、「指導」という人がいる。
それを「本人のため」という人がいる。
それを「教育」という人がいる。
「支配する側」、「しつける側」「言うことを聞かせる側」の力を、この社会は「暴力」と言わない。

ところが、それに「抵抗」する力は、すぐに「暴力」とか「反抗期」とか「問題行動」と呼ばれる。

私たちの社会が、「言葉」を間違っている。
まさに、言葉の意味を、社会全体ですり替えることで、弱い立場の人を、黙らせていく。
それこそが、関係の「言語障害」だろう。
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