㊙定員内不合格根絶計画(其の十)
「おれ、おれ」
「おれ、おれ」
「中3の時に頑張って頑張って、
高校に合格したおれ、おれ」
そう叫んでいる老人の声が、私には聞こえます。
「いまの私の成功のためには、
あの苦しかった受験を乗り越えることが必要だったのだ。」
「選ばれた中学生だけが、高校に進学できた時代、
受験競争に勝ち抜いたおかげで、今の立派な私があるのだ」と。
この人には、自分がどういう時代に生きていたのかを、
客観的に振り返ってみることができません。
受験制度は、避けがたい運命ではなく、
ただ了見の狭い大人のいじわるが、
社会の仕組みとして制度化されだけだと、知りません。
この校長の年齢は知りませんが、
たとえば1950年生まれの人は今59歳で、
1963年から1965年に中学生でした。
この世代の人たちの中学3年生の時の受験とは、
どのようなものだったでしょう。
1963年、舟木和夫の「高校3年生」が大ヒットしました。
この年、高校3年生になった人たちの進学率は62%でした。
この校長の中学時代、高校に進学できるのは
選ばれた人間という感覚があったはずです。
そのころ、高校の制服は、
中卒で就職した若者には手の届かない
《憧憬の対象》だったのですから。
同じ1963年、文部省が通達を出しました。
「選抜は害悪であり、近い将来にはなくす」はずだった
方針を変えました。
そして「高校教育を受けるに足る資格と能力」がなければ
高校生にはさせないというやり方に変えました。
ここから、志願者が定員を超えなくても、
学力検査を行うことになりました。
文部省の歪んだ人格の誰かさんは、
みんなが「苦労せず、楽して」高校生になれることが
どうしても許せなかったのでしょう。
そして、「適格者主義」を思いついたのです。
「15の春を泣かすな?
冗談じゃない、泣く人間がいるから、
そうならないように頑張るんじゃないか。
競争がなくなったら人は堕落する。
もっともっと競争して、強く国家にするのだ」
そんなふうに考えただけなのだと思います。
21世紀のいまも、教育勅語を復活させたいと、
本気で考えている年寄りがあふれているのですから。
ちなみに、1962年はキューバ危機の年でした。
米ソが本気で核戦争をしようとしていた年でした。
(つづく)
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