ワニなつノート

わたしたちは「みんな誰かに守られた子ども」(4)



わたしたちは「みんな誰かに守られた子ども」(4)

《手をかすように知恵をかすこと 2019 障害者差別禁止条例編




「障害のある人の権利に関する条約」の第24条、「教育」。

ここにも、「手をかすように知恵をかすこと」が書いてある。


「みんな誰かに守られた子ども」であるはずなのに、今まで「障害」を理由として、「守り」を奪われてきた子どもがいた。

だから、新しい「条約」の「守り」によって、障害があっても「みんな誰かに守られた子ども」として排除されないことが世界に求められている。


それが、
(a)「障害のある人が障害を理由として一般教育制度から排除されないこと」。


具体的に言えば、
《(b)障害のある子どもが障害を理由として無償のかつ義務的な初等教育又は中等教育から排除されないこと》 だ。


現代の高校は「無償」であり、かつ「99%の進学率」で語られる準義務的な、「後期中等教育」である。


また、
《(c) 障害のある人が、他の者との平等を基礎として、その生活する地域社会において、インクルーシブで質の高い無償の初等教育及び中等教育にアクセスすることができること。》とある。



普通高校と特別支援学校のどちらが「インクルーシブで質の高い無償の中等教育」かは、現状では、本人が決めるしかない。


            ■


また「他の者との平等を基礎として」の、「平等」は、「他の者と同じ条件で競争し、他の者と同等の能力を示す」ことではない。

「障害」があることは、「能力」に何らかの「制限」が働いていることだ。


だから目の見えない人に、他の者との「見ることの競争」はしない。

「見えない」という障害を、「無茶な検査法」で試すことはしない。

そんなことはせずに、「他の者との平等を基礎として」、「その生活する地域社会において、インクルーシブで質の高い無償の初等教育及び中等教育にアクセスする」ことができる。



だから聞こえない人に、他の者との「聞くことの競争」はしない。

聞こえないという障害を、「無茶な検査法」で試すことはしない。

そんなことはせずに、「他の者との平等を基礎として」、「その生活する地域社会において、インクルーシブで質の高い無償の初等教育及び中等教育にアクセスする」ことができる。


だから身体障害のある人にも、呼吸器を利用する人にも、他の者との身体能力の競争はしない。
身体の障害を、「無茶な検査法」で試すことはしない。

そんなことはせずに、「他の者との平等を基礎として」、「その生活する地域社会において、インクルーシブで質の高い無償の初等教育及び中等教育にアクセスする」ことができる。


          ■


なぜ、「知的障害」のある子どもだけが、「他の者との平等を基礎として」と言われて排除されるのだろう。

「障害」があるために「文字が書けない」子に、なぜ「作文」を書かせて試すのだろう。

「障害」があるために「初対面」でのコミュニケーション、「言葉」でのコミュニケーションが苦手な子に、なぜ一方的な「言葉の面接」をして試すのか。しかも、その結果、「定員内」で「入学拒否」。



「公立」学校である。

教員・支援員・看護師の加配が可能である。

定員が空いている。

つまり、「インクルーシブで質の高い無償の中等教育にアクセス」できる環境は整っているのに、だ。


東京、大阪、神奈川、兵庫では実現している「平等」。

にもかかわらず、入学を拒否する地域格差がある。

これは、「差別」そのものだ。



しかし、2019年の日本の社会は、未だそれを「差別」とは認めない。

認めないどころか、一緒に育ってきた99%の同級生たちと一生に高校に行きたいと「願う」その気持ちさえ、「ズルい」とみなす。

なんと貧しく、寂しい教育だろう。
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