ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

三鷹探索~その1(三鷹市・武蔵野市)

2010年07月23日 | 赤線・青線のある町
 JR中央線三鷹駅周辺は古い街角の雰囲気をを満喫する場所に乏しい町です。中央線の各駅の中では、いちはやく開発が入って駅の周辺が整備されてしまったからでしょうか。
 中央線の路線を挟んで、南側三鷹市には、むらさき橋通りと、雅な名前が残っています。江戸時代は、武蔵野市の井の頭池から豊富に出る湧き水と、三鷹周辺で取れたむらさき草の根で染められた、紫染め(江戸紫)の産地でした。
 戦時中は、三鷹市、武蔵野市には中島飛行機、日本無線などの工場が建ち、軍事産業の街となりました。したがって、都心から離れた郊外であるにも関わらず、大規模な空襲があり、中島飛行機工場が全壊、周辺の街も大きな被害を受けています。中島飛行機だった場所の広大な土地は現在、武蔵野市役所をはじめとした総合運動場などの公共施設になっています。

 三鷹駅の北側、武蔵野市中町一丁目「八丁通り」周辺は、空き地や、駐車場、閉じた商店が多く、駅前にも関わらず、閑散として寂しい街です。大きな駐車場の傍らには八丁稲荷があります。
 

 いつも気になっている建物。すでに使われていませんが、二階のバルコニーの手すりが砂利で塗装加工されています。向かって右側には溶岩石で出来た小さな滝の跡まであるし、外壁も溶岩石を使った懲りようで、周辺にもニ、三軒既に空き家となった居酒屋があります。
  

 八丁通り沿いには数軒のスナックが立ち、さらに小さな横道を確認しました。
 
 
 舗装されていない砂利道を明かりに誘われていくと、八丁通りの裏にあったであろう、昭和のうらびれた匂いムンムンの裏通りを見つけました。
 
 実はこちらの通りは、かつては武蔵野八丁通りという青線地帯でした。三鷹駅からさらに南へ直進すると、武蔵野市の総合体育館や市役所になりまして、そのあたりは戦時中、中島飛行機工場という広大な軍事工場のあった場所です。激しい空襲に晒された工場の跡地は進駐軍に接収されて、グリーンパークという米軍将校の住宅が出来ました。(現在の緑町という地名が当時の名残です。)そして今の市役所がある場所の西側には、プロ野球の興行を行っていた神宮球場が米軍の接収で使えない為に、新しくグリーンパーク野球場が三鷹にプロ野球の公式野球場として昭和26年にオープンしました。国民的娯楽施設の出現に水商売の業者が期待をかけたのは言うまでもなく、何やら怪しげな特殊飲食店がオープンしだしたのも、丁度昭和25~6年頃と言います。しかし終焉はあっけなく訪れます。水道橋に出来た後楽園球場の出現と、芝生に適さない土壌の問題やらで、グリーンパーク野球場は瞬く間に閉鎖。また武蔵野市の地域住民が、特殊飲食店の業者に対して、立ち退き運動を起こしました。(特殊飲食店街が形成されゆく事に当惑する市民の声は、ネット上で閲覧できる昭和26年の参議院会議録などで知ることが出来、大変興味深いものがあります。)


 今にも消えそうな町並みですが、これが意外と地元のお客さんで賑わっていて、なんともなんとも不思議なスナック通りです。
 夕暮れ時、街角に一人で佇んでいると、ネオンがまた一つ、また一つと明かりを点していく。昼は死んだと見せかけて闇が迫ると同時にその秘密の花弁を開き、生命を得る月見草のような看板たち・・・。

 JR三鷹駅の南側は、駅前に古い町並みはありませんが、まだ小さな通り沿いに、築年数の古い飲み屋が所々残っていて、面白い箇所がありそうなので散策してみました。
 多くのファンを持つ作家の太宰治は、終戦後間もなく、三鷹駅近く、多摩川浄水で情死をしましたが、生前出入りしていたといわれる酒屋の跡地に、現在太宰治の関連資料を集めた文学サロンがあるというのでどんな場所かと赴いて行ったら、これがうらびれた大衆酒場が軒を連ねる通り沿いで、腰を抜かしました。生憎サロンは閉まっていたのですが・・・。
   
 この看板の数・・・。なんでも三鷹は、中央線では阿佐ヶ谷並に次いで飲み屋件数が多い街だとか。戦後、三鷹が都心に並ぶの歓楽街を目指していた過去が微妙に陰りを与えてます。

 このいずみ通り(下連雀)の居酒屋の長屋はとても興味を引かれます。


 こちらの「しの平」。

 ガラス戸の意匠、丸い下地窓、竹の植え込み、縄のれん、モルタル壁に施された熔岩石風のタイル装飾、ガラスケースの中の貝殻、入り口上部の明り取りにはめられた穴空きの板・・・外見だけで酔ってしまいます。
   (その2へ続く)

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