(その1の続き)内藤新宿は、飯盛女郎を有した飯盛旅籠が多数あり、明治~大正と吉原や州崎に並ぶ大型の花街(新宿一丁目~三丁目までの広範囲)になります。大震災の被害はありませんでしたが、大空襲で当時の遊郭は被害を受けて、戦後は靖国通りと新宿通りに挟まれた二丁目の一角が赤線地帯となり、売春禁止法が制定されて以降は、ヌードスタジオやトルコ風呂、ビジネスホテルなどと共に、当初新橋にあったゲイバーが進出して街をゲイ一色に染めて行きます。かつては武士道や仏門に加護され、軍国主義の台頭で歴史の狭間に追いやられた隠花植物達が再び、ゲイボーイやシスターボーイなどと、呼ばれてお茶の間を賑わした礎は、元々赤線があった新宿で大きく花開いたのです。
しかし、もと赤線に共通するうらびれた感じ・・・仲通り沿いにある古い建物。作りが地味ですが、入り口が何か所もあることから、カフェーの店舗跡ではないでしょうか?
花街と言えば質屋。
ひさしが、アールを描いて、とても古めかしい雰囲気のバー、酒寮奴。
通りに面して外壁を大きく取ってますが中は日本家屋のちゃんぽん屋さんに、古い焼き鳥屋さん。
人がやっと通れるぐらいの路地には天蓋があって、異世界の雰囲気。明るい時間でも酔客のカラオケの声が聞こえるバー・・・。プレイスポットデイトライン・・・。
宿場があった以前からの江戸時代の史跡が豊富にあるのが、この二丁目界隈です。3軒お寺があり、かつて新宿御苑に屋敷を構えていた内藤家の菩提寺「太宗寺」がその中では最大です。入り口の大きな銅造地蔵菩薩坐像は、江戸の街道の入り口に立つ江戸六地蔵の一つで、通行人を見下ろすように建っています。
夏の縁日には、境内で閻魔堂ご開帳が行われていました。塩だらけの塩地蔵は江戸時代ならではの風変わりな民間信仰のスタイル。屋根が立派な本堂もなかなか風情があります。
こちらの閻魔堂は都内でも最大。中に座している6m近くある閻魔様に誰もが驚嘆の声を上げます。閻魔大王は、地獄に落ちて命乞いをする罪人の嘘を暴き、罪を制裁する怖い存在ですが、元々浄土に住まう仏であった事から、江戸時代では信仰の対象となっていました。
その隣のこれまた巨大な奪衣婆は阿鼻叫喚。
ひぃ!
目に血管の浮き出た生々しいガラス球を使っている事などから、これは仏像ではなく、江戸時代に流行した生き人形の類だと思われます。当時お祭りの際などに、見上げるばかりの山車の中央に鎮座していたのが巨大な生き人形で、菊人形などの見せ物興行などでも大活躍しましたが、今現在人形の需要と言えば、ひな祭りと五月人形ぐらいです。脱衣婆は地獄へ向かう三途の川を渡る死者の衣を剥ぐ事から、遊郭の守り神とされていました。「こちらで衣服を脱いでお遊び下さい。」というわけです。他にも遊郭の守り神は、布袋様(時には狸が化けた布袋様)、弁天様などですが、皆お腹を出して半裸であることが共通していて、成る程と思います。
大宋寺の北側、靖国通り沿いには「正受院」と「成覚寺」があります。正受院にはこれまた小ぶりの脱衣婆の像があって、こぎれいな境内です。一方、成覚寺はどうにもこうにも、傍を通るだけで嫌な気持ちになってしまうのです。特に境内の裏側の細い通り道など昼でも薄暗く怖い感じがします。
このお寺の由来を聞いて納得したのですが、以前は遊郭で死んだ女郎達の投げ込み寺であったという事です。遊女は生前、贅沢な成りをしていても、死ねばお墓すら立ててくれないのです。またこの界隈で遊女と心中したものを供養する旭地蔵が、遊女達を弔う子供合埋碑と共に残されています。遊女との心中というのはご法度だったのでしょうか、今も目黒不動尊の門前や、池袋界隈にもそのような碑があります。今現在地蔵や子供合理碑は靖国通りから眺められる本堂の前にありますが、当時は境内の裏の墓地、裏通りの近くにあったというのです。
二丁目を出て、御苑大通りを渡り、伊勢丹のある新宿三丁目界隈までかつては宿場でしたが、今現在は商業施設が並び、かつての面影はありません。こちらには末広通りという通りがあって、昔懐かしい雰囲気の寄席、末広亭があります。終戦後すぐ建てられた木造の劇場で、外壁のスクラッチタイルや白い提灯形のガラス電灯、豆タイルが縁取りされた切符販売所が素晴らしく、寄席の内部の客席は緩く傾斜した畳席があり、一般の劇場には無い雰囲気があります。
およそ文化的な雰囲気とはかけ離れた新宿ですが、戦前は「新宿ムーランルージュ」などといった軽演劇を上演する劇場もあり、伊勢丹デパートの豪華な装飾などに代表されるように、今よりも格段洒落た場所であったという事です。
(その3に続く)
しかし、もと赤線に共通するうらびれた感じ・・・仲通り沿いにある古い建物。作りが地味ですが、入り口が何か所もあることから、カフェーの店舗跡ではないでしょうか?
花街と言えば質屋。
ひさしが、アールを描いて、とても古めかしい雰囲気のバー、酒寮奴。
通りに面して外壁を大きく取ってますが中は日本家屋のちゃんぽん屋さんに、古い焼き鳥屋さん。
人がやっと通れるぐらいの路地には天蓋があって、異世界の雰囲気。明るい時間でも酔客のカラオケの声が聞こえるバー・・・。プレイスポットデイトライン・・・。
宿場があった以前からの江戸時代の史跡が豊富にあるのが、この二丁目界隈です。3軒お寺があり、かつて新宿御苑に屋敷を構えていた内藤家の菩提寺「太宗寺」がその中では最大です。入り口の大きな銅造地蔵菩薩坐像は、江戸の街道の入り口に立つ江戸六地蔵の一つで、通行人を見下ろすように建っています。
夏の縁日には、境内で閻魔堂ご開帳が行われていました。塩だらけの塩地蔵は江戸時代ならではの風変わりな民間信仰のスタイル。屋根が立派な本堂もなかなか風情があります。
こちらの閻魔堂は都内でも最大。中に座している6m近くある閻魔様に誰もが驚嘆の声を上げます。閻魔大王は、地獄に落ちて命乞いをする罪人の嘘を暴き、罪を制裁する怖い存在ですが、元々浄土に住まう仏であった事から、江戸時代では信仰の対象となっていました。
その隣のこれまた巨大な奪衣婆は阿鼻叫喚。
ひぃ!
目に血管の浮き出た生々しいガラス球を使っている事などから、これは仏像ではなく、江戸時代に流行した生き人形の類だと思われます。当時お祭りの際などに、見上げるばかりの山車の中央に鎮座していたのが巨大な生き人形で、菊人形などの見せ物興行などでも大活躍しましたが、今現在人形の需要と言えば、ひな祭りと五月人形ぐらいです。脱衣婆は地獄へ向かう三途の川を渡る死者の衣を剥ぐ事から、遊郭の守り神とされていました。「こちらで衣服を脱いでお遊び下さい。」というわけです。他にも遊郭の守り神は、布袋様(時には狸が化けた布袋様)、弁天様などですが、皆お腹を出して半裸であることが共通していて、成る程と思います。
大宋寺の北側、靖国通り沿いには「正受院」と「成覚寺」があります。正受院にはこれまた小ぶりの脱衣婆の像があって、こぎれいな境内です。一方、成覚寺はどうにもこうにも、傍を通るだけで嫌な気持ちになってしまうのです。特に境内の裏側の細い通り道など昼でも薄暗く怖い感じがします。
このお寺の由来を聞いて納得したのですが、以前は遊郭で死んだ女郎達の投げ込み寺であったという事です。遊女は生前、贅沢な成りをしていても、死ねばお墓すら立ててくれないのです。またこの界隈で遊女と心中したものを供養する旭地蔵が、遊女達を弔う子供合埋碑と共に残されています。遊女との心中というのはご法度だったのでしょうか、今も目黒不動尊の門前や、池袋界隈にもそのような碑があります。今現在地蔵や子供合理碑は靖国通りから眺められる本堂の前にありますが、当時は境内の裏の墓地、裏通りの近くにあったというのです。
二丁目を出て、御苑大通りを渡り、伊勢丹のある新宿三丁目界隈までかつては宿場でしたが、今現在は商業施設が並び、かつての面影はありません。こちらには末広通りという通りがあって、昔懐かしい雰囲気の寄席、末広亭があります。終戦後すぐ建てられた木造の劇場で、外壁のスクラッチタイルや白い提灯形のガラス電灯、豆タイルが縁取りされた切符販売所が素晴らしく、寄席の内部の客席は緩く傾斜した畳席があり、一般の劇場には無い雰囲気があります。
およそ文化的な雰囲気とはかけ離れた新宿ですが、戦前は「新宿ムーランルージュ」などといった軽演劇を上演する劇場もあり、伊勢丹デパートの豪華な装飾などに代表されるように、今よりも格段洒落た場所であったという事です。
(その3に続く)
宿場、芸者町、赤線、青線、すべて包括していた新宿ですが、唯一無いのが外部のものを威嚇する処刑場です。(新宿を起点とする青梅街道が、産業道路だったので必要無かったのかもしれませんが・・・)そこで用意されたのが、中野坂上近辺にある「淀橋」にまつわる、女子供は通るだけで祟られるという中野長者の伝説であると推測しています。このお話はまた改めて更新したいと思います。