ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

あな恐ろし!弁天洞窟(東京都稲城市)

2011年08月15日 | 寺社仏閣
 東京都稲城市、多摩丘陵にあるよみうりランドの近くに、東京では屈指の奇怪な名所があるというので訪れました。お寺は「威光寺」で、弁財天を奉る「弁天洞窟」というところです。
 
 京王よみうりランド駅から坂を上がると風雅なお休みどころと、死後の行先の看板・・・。
 

 程なく見える境内、案外普通の外観のお寺です。赤いお太鼓橋の向こうの只ならぬ気配・・・。
 

 通常、七福神のうちの大黒様・恵比寿様に並ぶ神様、弁財天様を奉る際は、赤いお堂の前に池をしつらえ、参拝者は赤い太鼓橋を渡って拝むというスタイルを取ります。関東で有名どころは、井ノ頭の池に浮かぶ井ノ頭弁才天、海を池の水に見立てた江ノ島の弁天堂などです。こちらの弁天洞窟は、たしかに洞窟の前に池がしつらえていますが、お堂に参拝する代わりに、真っ暗な洞窟の中を胎内巡りの趣向で進んでいきます。そこで姿を現すのは、琵琶を持った弁天様ではなく、巨大な岩盤に掘り込まれた5メートル以上の二匹の蛇です。弁天様は、日本では水の神様、つまり蛇の化身であり、弁天様で頂くお守りには鱗文様が施されていたりしますが、蛇そのものをご神体として崇めるスタイルは珍しいと思います。

 ちなみに中野区中野新橋と、吉祥寺井ノ頭弁才天の池の近くにはそれぞれ、人頭蛇の宇賀神様が祀られています。
 
 
 受け付けで可愛い絵柄のマッチと蝋燭を¥300と引き換えに頂きました。旧日本軍の武器庫のような入り口。
 

 ライトアップされてない洞窟は始めて。蝋燭はちょっと動かすとすぐ消えるので怖いです。
 

 
 小さな蛇のご神体や石仏。
 

 蛇の姿はある程度下調べいていましたが、実物はとても怖いです。
 
 
 触る人がいるからフェンスをかけたのでしょうが、暗がりで見ると噛み付いてきそうです。


 明治17年に、境内にあった古墳墓の横穴をお坊さんが掘り進めたこの洞窟。周囲の山は、鎌倉などに多く分布する凝灰岩質砂岩層の10m程の洞窟を境内に持つ「穴澤天神社」、昭和初期に関東大震災で行き場を失った駒込周辺の数千の無縁仏を集めた「妙覚寺」(室町時代の終わり頃開山)の「ありがた山」などがあり、地域一帯がちょっとした仏教パークのようでした。

 妙覚寺は、室町時代の板碑や筆塚など史跡が沢山。境内は小さいながら急斜面をクネクネと上がる石段脇に、ありがた山の無縁仏と共に表情豊かな石仏が安置してありました。
 

さようなら蛇洞窟。
 
 

お喋りは禁物!日光東照宮(栃木県)

2011年07月30日 | 寺社仏閣
 悪い事は、見ざる言わざる聞かざる・・・それがどんなに真実でも口に出す事がはばかられる様なお話をご紹介いたします。
  
 栃木は『日光東照宮』に行ってきました。東洋のバロック建築とも言われる荘厳華麗な世界遺産です。日光東照宮は、宮ですので、入り口に鳥居が建っていますが、境内には五重塔があり、泣き竜がある本地堂の薬師如来のご本尊の前には鏡があったりと、神社でもなければお寺でもない神仏習合の建物です。墓所(寺)であると同時に、家康の死後、神格化された仏を天照大権現として奉る神殿(宮)は、明治以降の神仏分離令により、東照宮は母体の日光山輪王寺と分けられたということです。しかしこの東照宮という建物は日光だけでなく、各地にあると皆様ご存知でしたか・・・?始めは港区の芝公園に東照宮がポツンとあるのが不思議でしょうがなくて、各地の東照宮巡りをしているうちに分かったのですが、江戸時代の寺院同士の利権争いのため、沢山作られる事になったようです。東照宮があるとなれば将軍様直々の参拝の為に街道筋のや宿場街が整備され、東照宮を管轄する寺院の格が桁違いに上がります。今のように市民がおいそれと参拝する事ができない代わりに、幕府や大名から寄進される金品と、将軍家の神々(仏)を奉る場所としての威信が、寺社とその周辺域を大いに潤したのです。
 全てではありませんが、関東に散在する東照宮についておおまかな説明をいたします。

 久能山東照宮(家康の駿河に眠りたいとする遺言により、今の静岡駿河に作られた東照宮である。のちに久能山から栃木の日光へと家康の遺骸は移される事になるが、指揮したのは徳川幕府成立以前から家康側近の僧侶であった南光坊天海。天海は家康の晩年、日光山最高権威の貫主に納まり、家康死後も三代将軍家光の代まで、政治に大いに関わり、方位学と陰陽道で江戸城を守護する都市計画を推し進めたと言われる人物である。)

 日光東照宮(南光坊天海が駿河から移した家康の墓所を栃木の日光輪王寺に作る。当初慎ましい規模の東照宮であったが、三代将軍家光が自らの菩提寺を日光東照宮の隣、輪王寺大猷院に定め建立すると同時に、初期の東照宮を改築、細部まで極彩色の装飾で埋め尽くした現在の姿にする。)
   
 
 世良田東照宮 (家光が改築する以前の日光東照宮の社殿を群馬県大田市世良田に移築。その際、莫大な軍資金の徳川埋蔵金も大田に収めたと言う噂もある。)

 芝東照宮 (江戸城の裏鬼門、申の方角にあたる芝増上寺にあった二代目将軍秀忠および代々将軍の仏を奉る墓所。将軍の墓所ごとに門を頂く荘厳な建築物群は大戦で消失し、遺骸は改めて掘り起こされ、荼毘に付し増上寺の裏手に納められ、焼け残った門など一部は、芝公園内と埼玉狭山不動尊に西武グループが移築。東照宮があった名残として小規模の拝殿は都が管轄する芝公園の中に戦後再建された。)
   
 
 上野東照宮 (江戸城の鬼門、寅の方角にあたる上野寛永寺にある家光の代に建立された徳川家の祈祷寺。はじめは将軍の仏を奉る菩提寺ではなかったが、ここでも寛永寺の貫主である南光坊天海が二代目将軍秀忠の菩提寺の芝増上寺と権利を争い、菩提寺としての権利を勝ち得、三代目家光の葬儀を寛永寺で行い、墓所は日光輪王寺とした。しかし芝増上寺の反発もあり六代目以降の将軍の菩提は交代制となる。討幕軍との上野戦争で寛永寺は大伽藍の大部分を消失するが、東照宮拝殿拝殿と周囲の巨大な銅の灯篭等の建築群は当時のまま現存、華麗な装飾を持つ拝殿は現在修復中。今見られる寛永寺本堂は小江戸川越の喜多院の建造物を移築したものである。)
   

 川越仙波東照宮 (南光坊天海が住職を勤めていた川越喜多院は、家康死後、家康を神とする仙波東照宮を喜多院の中に作る。そこは、久能山から家康の遺骸を日光へと向かわせる旅路の途中、遺骸を数日留めて祈祷を行った場所であった。川越の大火で喜多院は寺院の殆どを失うが、家光の計らいで、再建が行われ、喜多院書院には当時江戸城にあった家光誕生の間、および春日局の化粧の間が移築されており、明治政府により解体され、現在は石垣と堀を残すのみとなった江戸城の遺構が唯一見ることができる場所となっている。)
   
 
 上記3つの東照宮は、静岡久能山から栃木日光まで山岳信仰の霊場として名高い富士山を通過して一直線に並び、江戸を守護していると言われ、東照宮の増設には方位学の見地から場所選びがなされたようです。江戸は戦国時代の終盤に作られた巨大な軍事要塞都市であると共に、方位学と陰陽道によって守られた宗教都市としての側面があります。その都市計画の中枢の人が南光坊天海であったようです。家康より賜った日光輪王山の最高権威の貫主の地位を更に巨大にするために、家康の霊廟を誘致して利権を得た後も、のちの将軍達の菩提寺を巡って他の寺社にも圧力を加えたと言われる南光坊天海の異名は、「黒衣の宰相」・・・邪魔者には暗殺も度々行っていたとの噂もありますし、その人物の素性も年齢も謎に満ちています。なんとまあ仏に仕える身でありながら恐ろしいお坊さんです。しかもこの人物が得意としていた方位学や陰陽道は、江戸時代が終わった後も後世の都市計画の中に息づき、高尾山と成田山を繋ぐ中央線、陰陽の図形を描く山の手線などに反映しているなどとまことしやかに言われています。

天海様は東洋の怪僧ラスプーチンだなんて口が避けても言わざるでござる。
怖!

 私は東照宮の中の総本山というべき日光東照宮に行った事が無く、ずっと憧れでしたが、泊りがけで行く崖の連なる大秘境だと思っていたので、行かずじまい。そんな私を不憫に思ってか田舎出身の土地勘の無い私を友人が車で連れて行ってくれました。実は行かなかったもうひとつの理由は芝の東照宮、川越の仙波東照宮では厳かな「 気 」に打たれて体調を崩すスピリチャル野朗な私です。もう日光なんてその場で白目むいて倒れてしまうのでないかと思っていましたが、数百年の樹齢の木々に守られた社殿は、境内でおおはしゃぎする観光客のためか何も感じませんでした。国宝の本殿が彩色塗装の修繕中でビニールの覆いが被せられていたせいかもしれませんし、特に本堂脇、眠り猫の下を潜って奥宮の家康墓所までの聖域が、ごく普通~の空気なのです。家康公の御霊は現代文明の呪い放射能や、世界遺産フィーバーを逃れて当初埋葬されていた駿河の久能山に隠れているのでしょうか・・・?
    

 雷が鳴る雨の中、仁王門での入場料大人1,300円世界遺産価格に驚き・・・。
   

 どこも絵になる過装飾空間、手水舎は石の柱に金の金具、ああ黄金の国!
   

 
 
 

 南を向いて日光の建築群の中で群を抜いて特異な装飾の陽明門。写真を撮るのに没頭してその奇矯な美しさを堪能できなかったのが残念・・・。写真などで見ると凄まじい感じがしますが、実際見ると黒い漆と胡粉の白い色がシックで仰々しいとは感じず、雨に煙る門はとても落ち着いた雰囲気でした。

   
 
   

   

今回一番興味深かったのが、江戸の名彫刻氏左甚五郎作、眠り猫。周囲の木彫も美しいことこの上なし。
    
 
 東照宮の動物や人物の華麗な木彫りの装飾には全て意味がありますが、眠り猫にも諸説あり、ネズミを通さないように寝た振りをしているなどと言われていますがが、本当の意味は分からないそうです。私の空想ですが、江戸から見て北のネズミ(子)の方角の奥宮の入り口に、ネズミを遮る猫を掘り込み、ひとたび方位の流れの気をストップさせ、ここからは方位と時間を司る十二支に無い動物の猫が寝る冥界の入り口であることを示唆しているのではないかと思います。また東照宮の中の奥宮の墓所は、そこから死を表す北極星が見えるということです。また奥宮の帰り道となる猫の裏側には雀が掘り込まれていました。徳川幕府が統治していた頃、日光の奥宮に入る事ができるのは歴代将軍を始めごくごく限られた人のみ、「貴方もおしゃべり雀のようにここで見聞きした事をみだりに他の人たちに喋ってはいけませんよ。」という意味だったのではないかと勝手に推理していますがどうでしょうか?「たとえば遺骸はまだ久能山にありますよ。」とか「埋蔵金は東照宮増設で全部使っちゃいました。」とか。
 
 アワワ!

 帰りに、日光金屋ホテルに入ってラウンジでお茶をしました。
     

 最近改装したようで何の飾りも無い病院の待合室みたいなラウンジでしたが、ホテルは明治時代に創始者が避暑地として訪れる外人観光客向けに作った和洋折衷様式の洋館です。私は、いつか雑誌で見た内装が竜宮城のような熱海の富士屋ホテルと勘違いしていたので、何か面白い部屋でも無いかと奥へと進むと、期待とは裏腹にどんどん建物は静けさを増して行きます。
 
 
 廊下がとても狭く、まるで客船の中を探検しているような感じでしたが、一番建物の奥、山の斜面に切り開かれたプールやスケートリンクの傍に洒落た展望室がありました。
  
 
 展望室の中に入るとかなり古いスケート靴など並べてあり、なぜか全身総毛立つような感じがしました。窓からは遠くに補修中のため巨大な覆いが被せられた輪王寺の本堂が見えましたが、足早に立ち去りました。
  
 
 スケートリンク脇の談話室(竜宮)には今まで泊まった戦前の海外の著名人や日本の要人達の写真が掲示してありました。夏場のスケート場と、金屋ホテル直営のおみやげ物屋でくつろぐ外国人観光客です。写真を眺めているとスティーブンキングの小説「シャイニング」をふと思い出しました。古きよき時代、ホテルには楽しい思い出が沢山あるだけに、その過去の記憶が享楽を求める亡霊となってさ迷う・・・というお話です。東照宮はお祭りの縁日のように賑々しい雰囲気でしたが、逆にこの金屋ホテル、風もなく木立に囲まれた風景は厳粛でした。
  
 
  一方、たくさんの人が行き交うラウンジは暖かい雰囲気で、ラウンジの随所に、東照宮を思わせる和風の意匠が施されていて、海外のお客様のみならず、日本人の目を大いに楽しませています。
  
 
 談話室(竜宮)の暖炉に掲げてあった今にも動き出しそうで怖かった竜の彫り物。ロビーからラウンジに向かう入り口には朱塗りの門。
   

 門の裏側には眠り猫の木彫です。下部に螺鈿細工まで施していますが、本家に微塵も似てないふてぶてしさが笑いを誘います。

犬屋敷と薬師芸者(中野区)

2011年07月26日 | 芸者町・三業地跡
 JR中野駅から降り立って、北口から出ると、中野区役所があり、その隣の中野区役所には犬の銅像があります。
  
ここは江戸時代、天下の悪法と言われる徳川綱吉の『生類哀れみの令』の犬屋敷のあった場所とか。その広さは30万坪、飼われていた犬の数は8万とも10万とも・・・綱吉が無くなったのを機に、犬屋敷は無くなり、あとに行楽の為に植えられた桃園が出来ますが、それも今は枯れてしまい、南口の公共施設やアパートなどに桃園という名前がついていてかつての名ごりを見ることができます。では人間よりもその命の価値が高いと言われていたお犬様達の迷える魂の名残はどこにあるかというと・・・。
 
 区役所の隣、中野駅前の中野サンプラザが犬の頭になっています。

 
ワン!
怖!
夏向きじゃない。
 
 怖いついでに北口の中野ブロードウエィ脇の仲見世商店街のワールド会館をまた撮影しました。
  

 廃墟でもないのにこの廃墟っぷり。 
  

 周辺の背徳感も健在。このデジタルの時代に新規でアナログ電波を入り口から出しまくっているお店も増えて益々魅力的な景観です。
   

 さらに北へ進むと早稲田通りがあり、新井薬師梅照院への参道となる薬師あいロード商店街の入り口があります。新井薬師は、空襲で全焼しましたが、戦後建てられた趣のある木造の本堂で、かつてはとても広い境内を持つお寺でした。二代目将軍の子の眼病を治したと言われる事から、眼病治癒の薬師様として広く親しまれ、そこで商店街の名前もあいロードというわけです。

 新井薬師アイロードとほぼ平行に伸び、薬師薬師の山門へと向かう「薬師柳通り」。こちらは新井薬師の参拝客の行楽地として薬師芸者が接待した三業地のメインストリートの跡です。

 戦前最盛期、芸者さんの数は500人。(80年代に最後の料亭がなくなったそうです。)芸者さんとお遊びをする待合(お茶屋)さんの建物がチラホラ柳通りを挟んで奥まった場所に建っていましたが、殆どの待合が廃業していて民家と区別がつかなくなっています。通常、三業地が廃れると広い座敷を持つ待合はラブホテルか料亭へと鞍替えをします。こちらの場合は民家へとシフトしたようですが、中には待合とは思えないような不思議な建物もあります。現在、裏通りにスナックなども多いことから遊郭および青線のお店があったのでは、と花街に詳しいブログなどに指摘がありました。いずれにせよ、いかにも参道の近くに発展した花街として純和風の作りの建物が多く、どの建物もとても大切に使われて新築同様です。

 扇子の意匠の扉が印象的な豪邸。
 
 
 今は踊りのお師匠さんのお宅となっているのでしょうか?アパートになってしまった建物の入り口に灯篭、井戸、すり鉢などがあってかつては純和風の建物であった事を伺わせます。
   

 立派な門と、粋な遊びのある郵便受け。
 

日本庭園が無い代わりに、塀に玉砂利を巡らしたお宅。緑色の外壁がとてもキッチュ。山の庵のような二階のあるお宅。
  

 メインストリートの奥のさらに奥、突然開ける小道や飲み屋の看板の不思議さと言ったら・・・。

 
 ひっそりとした通り、まさに里・・・。
  

 民家なのに、玄関に粋な小料理屋のような建具や丸窓のあるお宅が周辺に数々あります。
 

 産婦人科の裏側に、二階は日本家屋、一階は洋風の入り口にしてある建物がありました。一瞬洋風のカフェーの店舗(遊郭)かと思いましたが、だいたい昔の歯科医や美容院はカフェーっぽく見えるつくりをしています。
   

 表の柳通りにはとてもユニークな建物があります。スペイン瓦のひさしがとてもいい感じです。あいロードの商店街エリアには古いお茶の専門店がありました。
 

 柳通り沿いのモソモソした一角はかつての花も色も奪っていくような佇まい・・・。
 
 今にも崩れそうな長屋や店舗が集積して、今もテナント募集の張り紙。売れ筋を気取る年増の娼婦のようなずうずうしさ・・・。でも無くなるとこれまた寂しい。
  
 表通りから小道へ入った所、銭湯の周囲にも賑わいの跡や、粋な建具を新築の家に残したお宅がチラホラあります。
 

 銭湯は既に廃業しましたが、その名も花園湯。兵どもが夢の跡・・・。

よどみなき純喫茶 (上野)

2011年07月14日 | 純喫茶
    
 音楽喫茶は物珍しさから何軒か見て回ったりしましてきましたが、純喫茶となると何かハードルが高いような気がして初めて某純喫茶に入ったのは去年の事でした。入って愕然。レトロな木の家具、インチキ臭いヨーロッパ調の調度品、所々ほころんだ革張り椅子、汚れてバリバリの雑誌が入ったマガジンラック、タバコの染み、コーヒーの染み、時代の染みが店中を汚しつくし、飲食空間=清潔という定義を覆します。そもそも純喫茶とは、赤線にあったカフェー(遊郭)が飲食よりも女性の接待を主とした特殊飲食店、または特殊喫茶店という法的な括りであったために、お茶をたしなむ場所は「純喫茶」という名称にしたということですが、本当でしょうか?私は勝手に、純喫茶が登場したであろう時を同じくして1960~1970年代に流行したフォークソングの似合う「純情をお茶を共に供する喫茶店」という切ない意味だと思っていたのです。

 純喫茶のいわれはともかく、先日名店と言われている御徒町はアメ横商店街にある『丘』に行ってみる事にしました。
    
 入ると驚きの連続でした。このお店は、東京五輪の年、1964年に開店したそうです。元々は戦後にアメリカ軍の物資を横流しする巨大な闇市場であったアメ横ですが、上野公園に1961年に日本で始めて本格的なクラシック音楽の劇場である東京文化会館が建ち、東京五輪開催を前に、上野界隈には時代の気運と共に文化的、国際的な風が吹いていた事でしょう。また当時の日本は芸能でもファッションでも、ヨーロピアンスタイルが流行でしたから、この時代の純喫茶はレンガと安物のステンドガラスで飾り立てた北欧の古城のようであったり、ガス灯を模した照明器具を配置した酒場のようであったりする事が多いようです。こちらの丘も中世の貴族の古城の中のようなスタイルでした。
    

 店舗は地下2階吹き抜けの豪華な作り。吹き抜けの階段部分には大きなシャンデリアがありきたりの日常を送る人々の心に揺さぶりをかけます。
  

 テーブルとテーブルの仕切りはオパール加工のプラスチック。内装が統一感が無くバラバラですが、タバコの煙で褐色に変色したシャンデリアは、お寺の伽藍を飾る装飾のように神秘的でした。
 

 
    
  上野は変わらない良さがある、そして変われない良さもまた上野にはある。

なんといっても地下2階吹き抜けですから大きな店舗です。上野駅前のレストラン「聚楽台」が無くなって上野、御徒町界隈では貴重な昭和を体感できる場所でしょう。かかっていた曲のディスコサウンド、少々年増のホステスさん達の筒抜けの会話も此方ならではの情景でした。

タイルが誘う夢の街(墨田区)

2011年05月11日 | 赤線・青線のある町
墨田区にスカイツリーが建設中で、なにかと取りざたされることが多くなった墨田区界隈ですが、レトロな街「鳩の街」と「玉の井」についてご紹介します。
  
 
 都心から隅田川を隔てて東側にある、向島芸者街(三業地)の隣街にあった通称「鳩の街」。東武線の東向島駅(旧玉の井駅)近くにあった「玉の井」と並ぶ「カフェー街」(赤線地帯)でした。建設中の大きなスタイツリーが望める東武線曳船駅から、徒歩で行くには骨の折れる鳩の街ですが、カフェー街が栄えていた頃は都電が通っていて、浅草からもアクセスが便利な土地だったと言います。
 鳩の街は、終戦後から、売春防止条例(1958年)が施行されるまでの短い間、空襲で焼け出された近隣の玉の井遊郭から流れて来た業者によって開かれたカフェー街として栄えていた場所です。鳩の街商店街から小道に入り、路地のそのまた路地の奥・・・といった場所に、ごくごく小さな通りがあります。 
 
 昔から遊郭、新地と呼ばれていた場所は戦後、「カフェー街」と呼び名が変わりました。カフェーは、飲食を供するカッフェーではなく、女給さんによる性的な接待を主としたために、銘酒屋や特殊飲食店とも呼ばれ、警察の管理下に置かれ、決められた敷地内で、店舗も一目でそれと分かるような外観にするように指導されていたそうです。
 大正時代から昭和初期にかけては、小さな商店までがこぞって、人々の目を引く、趣向を凝らしたモルタル作りの看板建築や銅板張りの看板建築で往来を賑やかに飾っていた時代がありました。この世を忘れさせる遊郭の流れを汲むカフェーなら、なおさら派手な外観にネオン看板を掲げて、えも言われぬ世界を演出していた事でしょう。
 鳩の街も玉の井も、戦後の復興の最中、業者が民家を買い上げて一階部分だけをサロン風に改装したにわかこしらえなので、大規模な赤線地帯の州崎遊郭や吉原遊郭のように凝った店舗はありません。ただ、豆タイル装飾の技が優れていて、鳩の街に数軒、玉の井には路地が行き止まりになった民家の影に隠れて一軒、パステル調の可憐な色合いに配色されたタイルの装飾の建物があり、とても印象的でした。
     
 法律も物事の価値観も今とは大きく違う当時、闇夜にネオン管に点されて、建物を蛇のウロコのように包み、色味を艶かしく変えていたタイル装飾は、今は何も語りません。
 


 円柱を囲む青いタイルの所々にピンク色のタイルがさし色で入っています。のぞき窓は和風で全体的に和洋折衷です。
 
 一階部分だけの装飾ですが、市松模様に若草色と桃色が踊る青いスペイン瓦の日よけがついた建物。
 
 ラブホなどは入り口が宇宙船みたいな所が多いですが、このお宅もSF風。
  

   
トタンもタイルもカーキ色で統一されてて、とってもシックです。

 和洋折衷のお宅はとても不思議な外観。そしてさらに謎だったのはオフリミット(立ち入り禁止)の文字。
 
 調べてみると進駐軍(GHQ)が終戦後、出入りしていた名残でオフリミットと壁に書かれていたのです。戦後業者と国家が組織的に、遊郭に進駐軍の遊興場として出入りを推し進めたために、戦前からの生業としていた遊女や新たに民間人の女性が大勢、新聞広告で募集されました。江戸時代からあった吉原のような巨大遊郭街や、戦後新しくできた新興の鳩の街のようなカフェー街、またダンスホール形式の大規模なキャバレーが、新たに小岩や、アメリカ軍の空軍基地が置かれた立川、将校住宅のあった三鷹等で、国家の支援の下、業者によって営業されていたという事です。しかし戦後一年足らずで1946年、マッカーサーによって公娼廃止令が出ると、入口に「オフリミット」が掲げられた多くの遊郭街は、日本人相手の合法的な赤線地帯として整備されました。ダンスホール形式のキャバレーは日本人のニーズにあわないので、解体されました。しかしたまったものではないのが解雇された女給達です。立川で解雇された大勢の元ホステス達は、パンパンガールとして米兵相手の街娼になり、連れ込み旅館にしけこんだり、赤線の傍に形成される事の多い、非合法の青線地帯(私娼街)に組み込まれていく他ありませんでした。
 
 「玉の井」は、関東大震災以降に、浅草観音堂界隈から流れて来た遊郭の業者が築いた非合法の私娼街でした。しかし、戦後に晴れて合法の赤線地帯となった場所です。戦前の玉の井は小説家永井荷風の「濹東綺譚」でドブ川沿いのうらびれた娼館の様子が詳細に描かれたために、悲しい私娼窟の代名詞として知れ渡る事になりました。大正時代から戦中大空襲を受けるまでは、表通りにあたる、商店街の「いろは通り」を挟んだ東側に広がっていた私娼街でしたが、空襲で全焼した以後は、通りの西側に焼け残っていた民家を業者が買い上げて、外装をカフェー調にして、赤線の町を築いたということです。
 
 かつて湿地帯だった場所に無秩序に建てられた家屋の名残で、そこは大の大人一人しか通れないような小さな道が曲がりくねって形成されたラビリントと化しました。通りの入口には「この道抜けられます」と書かれた看板が立てられて、秘密の入り口を指し示していたと言うことです。戦前、戦後といろは通りを挟んで営業していた場所は推移しましたが、くねくねと折れ曲がる道筋が独特の雰囲気を醸し出す場所です。
 現在は、玉の井という地名は無く、カフェー調の建物も数軒スナックに転業していたりしますが、建物の殆どが民家に転用され、通り抜け道だった場所も垣根や覆いで塞がれ、女給さんが入り口に立ち、おいでおいでと手招きした猥雑な雰囲気はなくなりつつあります。
  

 
 緑色のタイルがまぶしいお宅。外壁の赤と緑のコントラストが奇抜なお宅。

  

 
 角に当たる部分を高く塔のように盛り上げて目立たせた、和洋折衷の建物。二階部分のバルコニーは洋風、一階部分は和風な旅館風の作り、いびつな中にも風格があります。
  
 細い路地にある洋風の円柱のある建築。瓦や外壁がコバルト色で美しいお宅。大きく窓を取って中を覗きやすくするのもカフェー調の建物の特徴です。

 
 縞柄の外壁が不思議なスナック。古い洋風の電柱はかつてそこが色町や花街であったことを示しています。

  
 殆どの建物の外壁はペンキで一緒くたに塗りつぶされていますが、当時はもっと派手な色合いだったのかもしれません。

   
 ここでは銭湯もカフェー風。ひさしにはスペイン瓦、上部に鏝絵で波が描かれていました。

 
 ちょっとカフェー風な作りの教会と、タイル貼りの櫓があるいろは通りの玩具屋。

 
 角がカーブを描いて、入り口を開放的に取った洋館のようですが、木造の民家です。日が落ちると、窓枠にまで菊の花の意匠を施しているお宅を見つけました。

戦後派な街(池袋・豊島区)

2011年05月10日 | 赤線・青線のある町
 現在山の手線沿線上では、新宿、渋谷につぐ大繁華街の池袋ですが、その発展の歴史は最も新しく、大正~昭和頃と言われています。1885年にようやく鉄道が開通されますが、駅は無く、赤羽、田端のほうがいち早く貨物用の駅として整備され、1903年にようやく新宿~田端間に池袋駅が出来たということです。それまでは田畑が広がるだけの池袋はかつて、巣鴨村と呼ばれ、中山道の板橋宿の手前の休憩所を擁し、巣鴨地蔵尊のある信仰の場所として大いに賑わった巣鴨界隈と違って、辺ぴな場所であったようです。江戸時代には旅人をねらった辻斬りが横行し、歴史に残る未解決事件の供養塔として建てられた四面塔尊のお堂が今も駅東口の小さな公園にあります。
 しかし転機は訪れます。埼玉方面のターミナル駅として当初目白が起点となるはずでしたが、目白は学習院のある閑静な高台の場所、近所住民の反対運動に合い、池袋が今見るように西武線、東武線を初めとした西の玄関口となってから、急速に発展する事になったのです。今はもうありませんが戦前は思想犯を収容し、戦後はA級戦犯を裁いた巣鴨プリズンと言われた東京拘置所(現在サンシャインシティ)があった事も昔話。サインシャインシティの水の流れる憩いの場に、戦争の歴史を物語る慰霊碑があるのを知っている人は少ないのではないでしょうか。

  
 池袋の東側、東池袋にグリーン大通りという緑のまぶしい通りがありますが、ここは市電が以前走っていて、その両隣の周辺一体は、大きな雑木林で、「根津山」と言われる丘がありました。今は削り取られて、跡形もありませんが、根津山の林の境界にあたる部分が以前ご紹介したアップダウン著しく、古い家屋が立ち並ぶ「日之出町」なのではないかと思います。根津山は戦時中、大きな防空壕があり、大空襲の際、多くの死傷者を仮埋葬した場所でもあります。現在、本立寺などお寺が集積する場所に、単純に空き地として解放されている池袋南公園があり、そこが仮埋葬の墓地であると言われ、建物が今現在も建てられない所以となっているようです。


 グリーン大通り沿いに昔ながらの薬局の建物が残ってます。

 グリーン大通り、北側の東池袋一丁目は人々でごったがえす大繁華街です。しかし、大きな通りの奥には闇市の跡がまだあります。戦後の焼け野原、駅の周辺など突如現れたのは廃材など建てられたバラックの店舗が軒を連ねる闇市で、政府の侘しい配給品では飢え死にすると、闇で流通していた米や焼き鳥などを初めとする食品やアメリカ軍の横流しの物資が公然と売られていました。武蔵野市吉祥寺のハモニカ横丁、現在は駅周辺が整備されていますが荻窪の荻窪銀座商店街などは、闇市が商店街へとゆるやかな時間をかけてシフトしていったために、かつての世相などを知る手がかりになると思います。池袋の闇市のあとを示す通りは、「美久仁横丁」、「栄町」、「人生横丁」、「ひかり町」という小さな折れ曲がった路地でしたが、現在人生横丁、ひかり町は惜しくも更地となり、再開発のためビルが建設中です。
  
 この横丁・・・飲み屋が主ですが、ラブホテルも周辺に多数あるので一見すると違法に客とやり取りする青線地帯のような場所です。池袋は新宿、板橋のように、赤線地帯(宿場町に併設された色町として、売春防止条例が出来るまで長く政府に容認されていた公娼がいた遊郭町)がありません。しかし駅のどの出口もビジネスホテルやファッションホテル街が連なる地域が数多くあり、街中が歓楽街と言ってもいいでしょう。

   
「栄町」はL字に折れ曲がって見晴らしの利かない不思議な通りです。

    
 飲めば天国?それともお酒に溺れる地獄?

   
 美久仁小路は、その小粋な当て字の名称や、少し折れ曲がった通りの様子などからあれこれ想像を掻き立てられます。そして従業員しか通らない真っ暗な裏小路まで、「通り抜けられます」と書いてありますが、これは墨田区の玉の井遊郭の「この先抜けられます。」をもじっているのでしょうか。
 

通りの中央にあたる店舗がなくなった為に、かつてはジメジメして真っ暗な通りが現在は見晴らしが利くようになってしまいました。 
   

 新婚姉妹や和・・・美人姉妹の店なんていうと聞こえがいいですが、ママはもう相当なお年の筈。しかし3階建で小料理屋のような丸窓が粋です。3階建ての木造建築が他にも何軒かありましたが、隠し部屋がありそうで興味深いものがあります。
  

   

 今もこの通りには根強いファンがいると言うことです。
  

 黄色い外壁が昭和な雰囲気をかもし出す池袋区役所の近くはボロボロのビルが多いのですが、少しずつ壊されていく建物が増えてきました。画像のお弁当屋さんは今はもうありません。
   

 区役所通りの北側、明治通りと山の手線を挟んだ細長い土地は、大きな再開発もなく古びた場所です。わずかなお店がかろうじて営業している寂しい場所です。
     

そこは昭和の大迷宮(新仲見世商店街・中野区)

2011年05月04日 | 飲み屋街
 本当に、どこもかしこも新開発新開発で、あれよあれよといううちに似たり寄ったりのタイル張りのマンションやガラス張りのテナントビルばかりになりつつある都心です。しかし昭和の香りをピタリと封じ込めたまま濃密なカオスを放ち続ける中野区に関しては、それは当てはまりません。昭和60~70年代に行われた大きな駅前開発から、トンと平成の洗練された町並作りとはご縁が無いようで、近未来的デザインがかえって古色蒼然となってしまった中野サンプラザや、中野サンモール商店街、そしてその奥に中野ブロードウェイが、口を開けて中野駅に降り立った人々を、昭和の世界に誘います。
 ・・・主婦は電話機にカラフルな水玉色の電話カバーをかけて
 ・・・昭和のウエイトレスはカレースプーンを水の入ったコップに入れて運び
 ・・・家具調テレビを見ないときはレースの覆いを画面にかぶせ
 ・・・ブルジョアの子はピアノのお稽古
 ・・・新幹線にフルコースを食べれる食堂車があって
 ・・・木曜日になるとUFO特集番組が子供たちを震え上がらせ
 ・・・ケシゴムを忘れた子はウルトラ大怪獣のケシゴムでテストに挑む
あったらいいなは殆ど無くて、無くていいものだらけ、人情やお節介がまだ市井に残っていて、旅行に行けばみんなが熊の木彫りやこけし人形を買い求めて、町中に配り歩いてた、毎日が完成できないパズルのようで、それ故に明るい未来を鼓舞していた昭和の世界に誘うのです。
 中野は街全体が異彩を放っています。まず中野駅前北口の中野五丁目に、中野サンモールとそれに続くマンションを有する巨大なテナントビルの中野ブロードウェイ、その東側の裏路地は櫛の歯のように、一番街、二番街、三番街・・・と裏路地が形成されています。

 中野サンモール商店街の時計店の装飾。
  
 裏路地は多くの店が定食屋、居酒屋などの飲食店ですが、部分的に風俗店と混合になってるようです。
 
 電信柱の新年飾りがとても似合う鰻屋の一角。
  
 そのひとつひとつのお店を見て歩くと方向感覚が失われるような眩暈のような雑多さを見せる裏路地の通りなのですが、とりわけ「新仲見世商店街」はその奇異な様子から多くのブログなどで紹介されています。

 平行に並ぶ路地裏の中、少し中庭のように開けた場所に、バラックのスナックが立ち並び、今は既に無い香港の九龍城もかくやと思わせるような不定形な佇まいに、誰もが声を上げます。

 ポスター貼りまくりでパリなんて文字まで浮かび佐伯祐三の絵みたいになってる扉。スナックユンケルにもご注目。
 
ワールド会館は群を抜いて奇抜な建物です。飲み屋ビルなのですが、ウルトラセブンの目のようなダイヤ形の階段を囲む外壁の装飾など、作られた当初はかなり豪華で斬新なビルだったのでしょう。
 
 こちらは路地のさらに北側、中野ブロードウェイのマンションビルの隣の再開発地域で、かつてあった飲み屋街を壊している最中です。建て壊しになった空き地を覆う白い幌布の向こう、ポツンと廃屋のような店舗で営業を続けている店もありました。

 まだ何かを語りかけてくるようでもあり・・・。
  
おでんとお酒を研究中。

 
 中野駅から北へ、古めかしい新井薬師あいロード商店街を抜けると、眼病に効果ありとされ、徳川家の加護を受け、江戸時代から信仰を集めた「新井薬師」(梅照院)があり、ちょっとした江戸情緒溢れるスポットとなっています。
 
 新井薬師の参道でしょう、薬師柳通りという商店街もありますが、そこの柳並木は芸者街があった名残で、もう営業をやめた裏の小道に花園湯という銭湯もあるので、その意味深な名前からして、芸者街と共に遊郭街も形成されていたようです。
 
 旅行や観光という概念が無い時代から、様々なご利益を詠うお寺や神社は人々の非日常への好奇心を満たす別天地で、それに付随する土産物屋や芸者街もその賑わいの恩恵を受けていました。俗な娯楽と尊い信仰、一見相反するものが一元化した所に大きな富が生まれるスタイルは今も同じです。逆に崇拝や信仰心の欠けている娯楽は、一過性のものでその生命は短いとも言えます。
 
 新井薬師は「西の浅草寺、東の新井薬師」なんて言われていた時代もあるそうで・・・。今でこそ新井薬師は小さな境内ですが、裏に大きな児童公園や北野神社があり、それが当時は全てお寺の土地であったと考えるととても大きな規模であったようです。

柳橋から両国へ(両国・柳橋・墨田区)

2011年02月08日 | 芸者町・三業地跡
 ここの所、内部の腐敗が叫ばれている大相撲、もう呆れるばかりなのですが、はたして大相撲の国技としての資格を剥奪してしまえという議論に関してはどうかと思うのです。田舎出身者としては、相撲取りが浴衣で電車に乗っていたり、髷を結った幕下力士が自転車に乗ってプラプラしてるのを見ると都会ならではの光景だな~と思ってしまうわけです。同じく大激震真っ最中の歌舞伎界、絶滅寸前の花柳界、そしてこの相撲界・・・江戸の華を形作り、時代の移り変わりと共に時に即し、時にそのスタイルを頑なに変えずに、今も息づく時代の後継者達の運命は彼ら当事者だけのものではありません。彼らの衣食住を支えるスタッフさん、職人さん、興行主の人たち、そして劇場、競技場、御茶屋さんの周囲に立つ飲食店やそこに出入りするお客様達全てが共有する価値観、すなわち「伝統文化」というものが、たとえどんなに大きな問題を抱えていようとも、ある日突然途絶えてしまうような事があってはならないと思うのです。
   
 JRの浅草橋駅から降りて、隅田川と神田川が合流する地点の柳橋を眺めてから隅田川にかかる橋を眺めつつ柳橋へ行きました。雛人形の大手メーカーのある浅草橋のすぐ傍にある柳橋界隈は以前は都内でも屈指の高級芸者街(置屋、待合、料理屋の提携する三業地)でしたが、現在は芸者さんの置屋は姿を消し、お座敷を貸す待合も殆どが廃業し、人通りの少ないさびしい場所です。
 
 待合に料理を出していた料理屋は小料理屋や割烹料亭に転業しています。この柳橋には、芸者歌手として数々のヒットを飛ばした浅草芸者の市丸が、芸者を引退してから川沿いに家を構えた場所で、今はギャラリーになっているようです。あえて浅草の地でなく、高級芸者町の柳橋へ移った所に「心意気」があったのかもしれません。 
 
 また川岸では現在も営業している屋形船の乗り場があります。現在では船などめったに乗りませんが、江戸時代の江戸は川や堀が多く、水運が発達していたのに加えて、夏などは舟遊びに興じる市民で溢れかえっていたようです。有名な芸者の小唄「梅は咲いたか」の歌詞の中には♪柳橋から 小舟で急がせ 舟はゆらゆら 波次第 舟から上がって土手八町 吉原へご案内~とありますが、柳橋や蔵前あたりから吉原へ船で向かう当時の交通経路が伺えます。
 
 白黒写真はかつての柳橋の光景。橋の袂に立派な少なくとも3階建て以上の木造建築が黒いシルエットで見て取れます。こちらは江戸時代から続く「亀清楼」で、現在は横綱評議会などが行われる老舗料亭のビルに姿を変えました。

  
 石塚稲荷の玉垣には左右に柳橋芸伎組合と柳橋料亭組合の文字が刻まれています。


 隅田川の橋を徒歩で渡り、両国で以前から気になっていた割烹吉葉に行きました。漆喰と瓦の概観がまるで劇場のような店舗です。故横綱吉葉山の宮城野部屋を改装したので、本物の土俵が今も店舗の中央にあります。築年数は半世紀も経っていないのですが、総檜造りという吹き抜け空間が素晴らしく、両国駅の隣にある近代建築の旧駅舎を改装した居酒屋と共に、両国の名物となるでしょう。
 
 火曜日、木曜日はアコーディオン奏者が浴衣を着て見事な演奏を披露してくれます。♪春のうららの隅田川~を始め、様々な音楽が聞けます。

美醜対決(渋谷区・表参道ヒルズ&代々木会館)

2011年01月19日 | 古い建物
 「青山同潤会アパート」が無くなってから、表参道周辺を行き来することが無くなって幾年月・・・。楽しかったハナエモリビルの企画展示の数々を見に行ったりの他は、なんとはなしに買い物や飲食をするでもなく、ただJR原宿駅から渋谷までよくブラブラしたものです。長年排気ガスを受けたためか、コールタールをまぶしたようにドロッとした外壁の同潤会アパートの通りに面した一階部分、絵画ギャラリーやアンティークギャラリーの窓から見えるのは、様々な絵やガレやドームのランプシェードの夢のような色合いで、夏には青々とした蔦が絡みセミがかしましく鳴いていました。都内の各所に震災後に建てられた災害に強い鉄筋コンクリートアパートの走りだった同潤会アパートが、いつごろからか急速に都内から姿を消してゆき、昭和2年に建てられた青山同潤会アパートも惜しまれつつ建て替えとなりました。2006年に表参道ヒルズとして安藤忠雄設計のオサレなファッションビルとして生まれ変わりました。
オサレと聞いて黙っていられるか。
 
 先日、たまたま青山のギャラリー巡りついでに表参道ヒルズを覗きましたが、細くとがった立地の建物の中は、広大な吹き抜け空間で、造船工場を上から覗いているように感じました。
    
 とても綺麗な照明設備と神秘的な音楽が流れていましたが、なんとなく落ち着きません。それは路地裏までガラス張りのテナントビルだらけになってしまった表参道周辺にも言える事です。明治神宮の参道として、江戸時代は林だった傾斜地を切り開いて出来た表参道が、こんな未来都市のように変貌するなんて誰が想像しえたでしょうか。
未来都市ですって、これだから田舎者は・・・。

 明治時代、参道は切通しで、斜面は石垣でしたが、その当時の姿を残しているビルです。
  

 同潤会アパートの遺構が、一部残されていましたが、綺麗に補修されていて、ちょっとがっかりです。汚く古びた雰囲気のまま残してほしかった・・・といってもテナントに活用する為にも補修は必要だったのでしょうが、なんだか白骨標本を見ているようでした。
  

 

 キラー通りの公団原宿団地も、建てかえです。
 

 代々木周辺にも足を伸ばしました。こちらは大きな変化といえばニューヨークの摩天楼のようなドコモビルが建った事でしょうが、駅前に非開発地域が僅かに残っています。専門学校や予備校の町なので、どこかしら垢抜けないのに加えて、西側のJR駅舎の外観は新しいながらも、周辺の高架下や東側の駅の出入り口は、未だにとてもクラシックなデザインです。 
 

 ドコモビルの足元には、一軒家まるごとカフェの古民家カフェ。築50年程度ですが、建て替えの多い都心では十分古民家です。板張りの垣根に風情があって隣の駐車場には屋敷守だったのか比較的小さなお稲荷様の社がありました。
 

 代々木駅の傍らにある、やはり築50年ほどの「代々木会館」のビルです。

2001年に解体予定でしたが、権利問題がこじれてまだテナントが入っていますが、2階の飲み屋街には明かりはなく、殆ど廃墟状態です。1970年代にTVドラマの撮影に使われていたようですが、その時から廃墟のような外観だったと言うことです。


 私が上京したての20年前には、軍関係の施設や、近代建築は各所にあり、このようなオンボロビルは珍しくなかったように記憶しますが、この古び方は、アジア的とでも申しましょうか・・・。
  

 勇気を振り絞って中へ。
 

 

 何ゆえに歪みが生じているのか、中途半端に螺旋のような階段・・・。
 あざ笑え洗練されたデザインを!ぶっ飛ばせ有名建築家のオサレビル!

  

 

  パ・・・。

恐れ雑司ヶ谷の鬼子母神(豊島区)

2011年01月17日 | 寺社仏閣
 恐れ入谷の鬼子母神、ではなく今回ご紹介するのは、東京都豊島区雑司ヶ谷にある威光山明法寺の「鬼子母神堂」です。アクセスは都電荒川線の鬼子母神前駅が便利です。
 
駅前の古い美容院は豆タイルで覆われて、窓からパーマの美人がこちらを幻惑。
  

 雑司ヶ谷鬼子母神は、その歴史が古く室町時代からありました。駅から続く参道とけやき並木は江戸時代の雰囲気を今に残しています。現在参道の左右は商店半分、民家半分と寂しい感じです。白い壁面装飾が印象的な長屋や仕立て屋の建物は大正モダンなデザイン。
 

 参道は一度左折、すると鬼子母神堂の境内が正面に姿を現します。 
 

 
 入り口に山門は無く、小ぶりな石作りの仁王像が睨みを利かしています。視界を遮るものが何も無い故に、眼前に広がるいかにも江戸時代に建造された極彩色の装飾を有したお堂の眺めは素晴らしいです。鬼子母神堂を管轄する明法寺は残念ながら震災と空襲で往時の姿をとどめていませんが、鬼子母神堂は江戸時代のまま。参道も含めての景観美を残す場所は、柴又の帝釈天が有名ですが、こちらの鬼子母神もなかなかです。

 

 掲げている鬼子母神の文字の鬼の字には、一画目のツノがありません。またお堂のいたる所に石榴の意匠があります。それは古来インドのお釈迦様の説話に所以します。かつて大勢の子を持ちながら人間の子をさらって食らう人食い鬼の母が居て、人々に恐れられていました。そんな彼女をいさめるためにお釈迦様は母が一番可愛がっている末の子鬼を隠してしまいます。母は我が子が居ないことに気づくと、気も狂わんばかりにお釈迦様に助けを求けます。お釈迦様は「お前には大勢の子がありながら何故たったひとりの子の為に嘆き悲しむのだ。お前は、泣きじゃり取り乱しながら、末の子供の名を呼んでいた。その涙は今までお前が食べた子の母親たちが流した涙と同じだ。これからは人の子をけして食べてはならない。」と諭します。鬼子母神は悔い改めた後、安産子育ての神様として人々に崇められる事になります。鬼子母神が食人への欲望を抑えられなくなると、お釈迦様が石榴を与えて気持ちを静めさせた事から、石榴は鬼子母神の象徴となりました。実は近年女性ホルモンの働きを助ける効果があると注目を浴びる石榴、お釈迦様の教えには科学的根拠もあったのでしょうか?
まあこれぞおそれいりやの鬼子母神ね!

 お正月に点された提灯に、華やかな石榴の意匠を見ることができます。
 
 
 境内には、お稲荷さんもあります。
 

 絵馬の絵柄に惹かれます。

 
 都電荒川線に乗り、庚申塚駅で降りると、かつての民間信仰を見ることが出来ます。「巣鴨猿田彦大神庚申堂」です。
  

 庚申堂、または庚申塚は、街道筋など各地にあり、「庚申講」という古い民間信仰が行われた場所を示すものです。庚申講は道教の教えで、庚申の日に寝ると、体の中の虫が悪さ(秘密を勝手に告げ口)をするというので、村人一同集まって、寝ずにお茶を飲んだり宴席を催すなどして、その日をやり過ごすという風習になりました。一年に数度訪れる夜通しの会合は、地域の青年団と同じく、打ち明け話などをして村人の結束を固める意味もあったのでしょうが、戦後、村のくくりは崩壊し、庚申講は廃れていきます。庚申講で信仰されていたのが、猿田彦天神で石造りの庚申塚には必ず彫りこまれる姿ですが、同時に申も信仰されました。(動物が主神と同列に信仰される例では稲荷信仰があります。)申は十二支の寅、鬼門の反対側の裏鬼門の方位ですから、魔よけの意味があります。そこで、見ざる言わざる聞かざるの3匹のお猿さんを庚申塚に掘り込んだり、狛犬のように左右に鎮座してお堂を守らせたりしました。
 関西では今も続く地蔵信仰、商売の神様として関東では人気のある稲荷信仰と違い、一気に廃れた感のある庚申講ですが、此方の庚申塚ではまだその信仰が残っています。
 しかし沿道が時が止まったような景色です。パチンコ天国・・・・・・。
 

 歩を進めると、「刺抜き地蔵尊」(曹洞宗萬頂山高岩寺)がある参道としてお年寄りから絶大な支持を仰ぐ「巣鴨地蔵通り商店街」になります。ちなみに境内でご婦人がこすり続けるお地蔵さんが刺抜き地蔵かと思いきや、本堂の中にある絶対秘仏が、刺抜き地蔵であると言う事です。
 巣鴨は、板橋宿の手前、旧中山道の休憩所として栄えた町で、お寺も多いことからお婆ちゃんの原宿と異名をとる以前から賑わう場所だったのです。

 
この商店街の心憎い飾りつけ。毎日が縁日のにぎわいです。
  
 
 江戸六地蔵尊の一つ、「眞性寺」の提灯。またJR巣鴨駅周辺には刷りガラスの模様がなんとも言えないすし屋がありました。
  

日の出優良商店会(豊島区・東池袋)

2011年01月02日 | 古い建物
 豊島区、かつて巣鴨プリズン(東京拘置所)と呼ばれていたサンシャインシティの東、造幣局跡地が現在、東池袋駅東池袋駅再開発で、建設中のアウルタワーを始め、高層ビルが沢山建てられています。それと同時に行われている道路の拡張による民家や商店の立ち退きやらで、周辺は殺風景を極めています。以前ラーメンブームの時などは、ラーメンの名店大勝軒がある町としてよくTVでも取材があった場所です。しかしそんな中、奇跡的に開発を免れた場所があります。アップダウンが大きい土地で開発に適していなかったのが幸いしたのでしょう。昭和の雰囲気が色濃く残っているそこは、都電荒川線東池袋四丁目駅近く、かつて「日の出町」と呼ばれていた場所です。元旦にご来光を仰ぐ意味で、この日の出町に訪れました。

 
 道路拡張され見晴らしが良くなった通りの場所に、ポツンとある鮮魚屋。物干し台がいい感じです。この建物のさらに先に吸い寄せられていくと・・・都電荒川線と造幣局跡地との間に帯のように広がる非開発地域です。

  
 すでに町名として消えてしまった日之出町を偲ぶ「日之出ハウス」の文字のアパートや、蔵のあるちょっといかした工場など、不思議な雰囲気です。

  
 城壁のような石組みの下は窪地で、下った先は個性的な建物がひしめいていました。

 
 
    
 中華食材の工場、明らかに2階から上は建て増しで、強度が足りなくて震度5ぐらいで崩れてきそうな・・・。

    
 開楽・・・股に挟んで餃子を作っていそうです・・・。線路脇の不安を駆り立てる倉庫。

   
 荒川線が見えました。線路脇の建物の色合いが抹茶色。

     
 線路を渡ると日の出優良商店会です。松本零二の漫画に出てきそうなオンボロ商店街と再開発された近代都市との対比が凄いです。 

     
 ボロくもあり、懐かしくもある個性的な店舗の数々。都電沿いの商店街はかつては想像もつかない賑わいがあったと言います。隣町の大塚には芸者町の三業地もあります。


10円玉で日本旅行。

  
 強力ヂアトミン。スナックやすらぎは霊場の雰囲気でおもてなし。

瀬戸内国際芸術祭の思い出その二(瀬戸内)

2010年12月30日 | 瀬戸内の名所・旧跡
 直島の続きです。「木村エリア」を堪能した後、島の反対側の宮浦港にある「宮浦エリア」へ向かう事にしました。標高は低いですが、行きは、港から木村エリアまでバスでの山越えでした。帰りは何を血迷ったか、炎天下の中徒歩での強行軍を自らに強いたのです・・・が迷子ちゃん。アスファルトの道を行きつ戻りつ、地図を逆さにしたり回したり、そうこうしているうちに、熱中症で意識が朦朧としてきて、ようやく分かりやすいバスの一本道を見つけて、ヨタヨタ歩くうちに出会った横断歩道を渡るこのぼくちゃん。




小学校の前とは言え、車といってもバスが一時間に数本・・・。この人形、本当に必要なのか・・・頭が煮えたカニ味噌になりそうになりながら、ようやく宮浦港へ到着。

 
 古びた食堂のある小さな路地に、見えてきた直島の銭湯。こちらは銭湯自体がアート、入浴できるので究極の体感型アートです。「Iラブ湯」の正式表記はラブの部分がハートです。

 直島銭湯「Iラブ湯」大竹伸朗
  

 目を奪う、女性が座ったシルエットのネオンサイン。これを見た父は「遊郭だ」と言っていました。戦後のある時期、遊郭はタイルとネオンサインで入り口を飾りたてられていたのでさもありなんです。私は、昭和に開催された神戸や筑波の博覧会や今はもう閉園してない奈良や横浜のドリームランドを見たときに感じたある種のものを感じました。「体が浮遊するほどのワクワク」・・・最近のイベントや建物にはこれがありません。子供の頃いろいろなものを見聞きして、感じたものは思い出の中で美化されているわけではなく、やはり造形が力強かったからだと思うのです。田舎のデパートの屋上にもささやかな遊園地があって、お城にモノレール、鬼にボールをぶつけるゲーム、ウルトラマンショー・・・全て子供だましですが、克明に覚えています。

    
 壁面は湘南の海の家のような、廃材アートの数々。汚れているような壁面は丁寧に色づけされていて、不思議なオブジェの置き方にも相当気を配っているようです。
   

 もう何処を切り取っても面白い造形の花畑。上も下も、縦横無尽にコラージュされたオブジェの博覧会、機知と冗談が交じり合う夢の遊戯場・・・けれど用途は島の人も入りに来る銭湯なのです。
      
 近隣の民家にまで不思議なオブジェは飛び火してます。屋根の上には船まで・・・。ラブホテルやアミューズメント系のレストランでたまに見かけるおかしな内装や看板も5分も見れば見飽きます。しかしこの銭湯の概観、見飽ることはありません。
      

 中の浴室では、泥だらけの素足でウロウロしたり、撮影禁止なのに撮影したりの無法者達にゲンナリさせられましたが、そこそこ楽しい空間でした。カランには小さな日活ロマンポルノのポスターがアクリルで閉じ込められていたり、窓の外はジャングル風呂のような観葉植物の傍にエマニエルチェアー、半透明の浴槽には春画がコラージュされていて、性と欲の博物館のようでした。不謹慎の象徴として、とある秘法館の入り口にあった象さんのオブジェが、男湯と女湯のちょうど間に鎮座しています。浴室にあの世感漂う電子音楽も流れていて、半透明の天蓋からはやさしい光が注いで、日中熱中症になった事もあって、しばらく浴槽から出れませんでした。

   

 
 入り口のタイルも色とりどり。銭湯が派手な破風を構えた寺社のようだったり、浴槽のタイルがド派手であった時代、楽園は人々の生活の身近にありました。さて現代の楽園はいずこへ・・・パソコンの中の仮想現実やキャバクラだけだとしたら悲しいですよね。直島に現れたお湯の流れる竜宮城は艶やかでありつつも、楽園不在の世の中を憂いているような気がしました。

  


  
 宮浦港にあるカボチャのオブジェは物凄い違和感・・・だけどこの異物がここから無くなってしまったらどうしようと思わせる・・・いい造形にはそんな力があります。太陽の塔、エッフェル塔、そしてこの港のカボチャ。このカボチャを見つつ、直島からフェリーで岡山の宇野港へと向かい帰途につきました。

 瀬戸内国際芸術祭2010

瀬戸内国際芸術祭の思い出その一(瀬戸内)

2010年12月27日 | 瀬戸内の名所・旧跡
 朗報。2010年瀬戸内国際芸術祭の数々のアート作品が、会期が終わった後も公開されるという事です。あの猛暑の中、これで見納めと、死にそうになりながら歩いていたのは何だったんだと思いつつも、今度は空いている時に見よう・・・とのん気に旅への期待を膨らませています。
 もう会期が過ぎてしまいましたが、ご紹介するのは直島です。直島は瀬戸内で原発が事故でも起こさない限り、すべての作品が四季を通じて見ることが出来ます。安藤忠雄の建築したベネッセミュージアムや、地中美術館で名高いアートの島ですが・・・しかし今回は大阪万博アメリカ館の月の石を見るよりも困難を極めた安藤忠雄の建築はスルーし、フェリー乗り場周辺の「宮浦エリア」と、民家をそのままアート作品として大胆に改装した家プロジェクトのある「木村エリア」を散策しました。まず、宮浦港からバスに乗り、島の反対側の木村エリアへ。のんびりした小さな集落を地図を片手にうろうろすると、まず綺麗に整備された家並みに驚きます。家々の塀は腐らないように黒く焼かれた焼板で、白い漆喰とのモノトーンの対比が鮮やか、所々にある凝った金具の意匠など、島の集落の建物というよりも武家屋敷や商人町を眺め見ているような風情です。京都ですら、町屋の存続が難しいというのに、古い町並みを建物の保存もかねてアートの島にしたという着眼点、恐れ入ります。
  
 もちろんアートの展示場以外のタバコ屋や喫茶室も店舗は少ないながら、個性的なお店ばかりで、中途半端な草木染や健康グッズなどを売る怪しさ満点の土産物屋が建って、来訪者をゲンナリさせるような事もありません。
   
 真夏の日差しは耐え難いほどでしたが、惚れ惚れするような古い家並みのたたずまいを歩くと、古い日本映画の主人公になったようです。しかしやはり主役はアート、個々の会場の質にばらつきはあるものの、スケールの大きさで魅了した作品を紹介してみます。
 
   
 「はいしゃ」大竹伸朗
 一見ありがちな2階建ての住居は、トタンや廃材、様々なオブジェでくるまれて異形の館となりました。中に入ればポップでクレイジー、とどめは吹き抜けに巨大な自由の女神、見るものの常識や観念を打ち砕く巨大な装置と化したこの民家の元が歯医者だったとの説明を聞いて「そのはいしゃだったのか」とまた笑いが起きる楽しさ。まるでダンボールアートの日比野克彦とかが活躍していた時の80年代の夢が蘇ってきます。芸術か、冗談か、所々に垣間見えるアートかぶれの学生が熱病のようにボロアパートを勝手に改装しているような中途半端さは意図されたものなのか・・・違和感であったり、驚きであったり、笑いであったり・・・そんな感覚がミルフィーユのように記憶の上に確実に層をなして蓄積されていきます。
    

 「門屋」宮島達男
 島の人々にそれぞれ早さを設定してもらって、様々な速さで点滅する無数の光のデジタルカウンターが、築200年経つ、真っ暗な古民家の中で点滅します。目まぐるしく進むカウンターもあれば、時を止めたようにゆっくりと点滅するカウンターもあります。それが示すものは、人のそれぞれ持つ時間の流れの違い、それは人生の長さという神様しか見ることの出来ない生命の時計のなのでしょうか・・・。古い民家の形作る夜のような闇は深く、明り取りの建具を通して降り注ぐ外の光はもはや別の世界、はたして電子蛍のようなカウンターを見ている私は生きているのか死んでいるのか・・・時間や思考を拡散していくように点滅するおびただしい光の中で誰しも、言葉を失うはずです。
  

 「護王神社」杉本博司 
 島の小高い山の上にある神社、森の中に突然開ける広い場所。
   
 夏の日に照らされて輝く、氷のようなガラスの階段は下の石室へと続き、その石室の中ではわずかな光がガラスを通して石室に届きます。 
 
 神聖な存在をガラスというクラシカルな趣とモダンなテイストの両極を併せ持つ素材で視覚化する所に面白さがあると思います。石室は本当の暗がりで、細長く、懐中電灯でも足元が見えないほどでした。この土地がが本当の神社の敷地である事など、スケールの大きな作品です。(下の石室で暗闇にも関わらずガキが大ハシャギしていて、鑑賞どころの騒ぎではありませんでしたが・・・。)
 
 「石橋」千住博
 製塩業で栄えた石橋家の中庭を望む部屋では禅寺風の襖絵、暗い部屋では千住博の有名な滝の絵が鑑賞できます。中庭はけして絶景とは言えません。襖絵はどんな絵だったのか記憶がありません。口々に批評家のように揶揄している関西弁のオバチャン達のオーラに掻き消されてしまったのです。また滝の絵は、いつかデパートの冷房が効いた展示会場で見たときは水しぶきの中に佇むようでその静けさに圧倒されたのに、夏の蒸し風呂のような家屋の中では苦行でした。氏の作品が現代アートというよりはやや古典に傾いているので、日本家屋との相性はいいのですがやや全体的に地味な作品になってしまったようです。
 

 (瀬戸内国際芸術祭の思い出そのニへ続く)

サーラータイは光り輝く(上野)

2010年11月28日 | 寺社仏閣
 最近タイにはまっています。発端は、今年のまだ残暑厳しい秋口に上野動物園に入園すると、象舎の近くに日タイ修好120周年記念としてタイより送られた素晴らしいサーラータイ(タイの東屋)に遭遇したことでした。




カッティングされた鏡を張り巡らしたこの王朝風の建物は、その輝きにおいて他に比類がありません。


独特な風貌のタイの装飾、隅々まで施された神聖な意匠は西日を受けて正視できないほどの眩しさでした。
 

 こちらは横浜レンガ倉庫で催されたタイフェスティバル。日本でかりそめのタイ気分を味わえます。野菜の飾り切り、カービングがとても綺麗でした。

 
 さらにタイ気分を吉祥寺がお勧め。井の頭公園には象がいますし、ハモニカ横丁など、アジアンなテイストにあふれています。ペパーミントカフェという店舗を二店構える井の頭公園周辺をはじめ、駅北口方面の繁華街にも老舗や新規参入のタイ料理屋が多数あり、お店によってそれぞれの味が楽しめます。
 吉祥寺のアムリタ食堂では、11月22日にタイの灯篭流し、ロイクラトン祭りが行われ見物しました。

 川や池の変わりにチョロチョロ水の流れる発泡スチロールの仮設の川があり、色とりどりの灯篭(一個¥100)を流します。しかし生憎の雨、私の願いを乗せた灯篭が、水量の少ない川で座礁、店員さんに指で突付かれながら、ノロノロと進むさまに哀感が募りましたが、タイでは巨大な灯篭や飾り物で埋め尽くされる幻想的なお祭りなようです。

瀬戸内国際芸術祭閉幕間近(瀬戸内)

2010年10月21日 | 瀬戸内の名所・旧跡
 瀬戸内国際芸術祭が10月末に閉幕します。まさに今カウントダウンの段階ですが、ちょっとだけ先月に起きた火災について触れておきたいと思います。男木島で未明に工場から火災が発生して、隣接していたアートの展示会場となった海辺の公民館と共に、画家の大岩オスカールさんの作品「大岩島」が全焼した事についてです。

 壁面に鏡を使って絵画の巨大風景を形作った作品「大岩島」。

 この公民館を含む4棟が焼ける火事でした。

未だに解せなくてよ・・・何ゆえに消火が出来なかったのか・・・。

島じゃ蛇口からはウドン出汁、ホースも下手すりゃウドンなのよ!(不謹慎発言)


瀬戸内の島々はアートの島としてこれからも発展してゆくでしょうから、今回の事故が何がしかの教訓になれば良いと思います。全国区に知れ渡る催しとして明るい期待を寄せていただけに、残念な事故です。
 
 この家並み、守り伝えて欲しいと思います。

  
メイン会場の直島、特に様々なイメージがコラージュされた建築アート『愛ラブ湯』について、芸術祭会期中に更新できんことを祈って・・・。

瀬戸内国際芸術祭2010