ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

その味戴冠!クラウンエース(上野)

2010年09月24日 | グルメ
今回は建物というより上野にある昭和の香り漂う食べ物屋の話題など。

メガ盛り画像で食い意地自慢・・・

貧しい味覚で五段階評価のグルメ記者気取り・・・

 上野の駅前が昨年様変わりしました。上野公園に隣接した飲食店「聚楽台」が取り壊されてしまったのです。聚楽台のレストランは蝋細工のサンプルメニュー発祥の地で、内装も部分的にパリのようであったり、十二単の女性の壁画などがあったり、和洋入り乱れたコテコテの装飾に溢れていました。お客も戦後の集団就職の一行かと見まごうようなレトロな服装の人でごった返していてびっくり。上野駅が見渡せる窓際はカフェスペースで、アイスクリームを頼むと蝶ネクタイをした店員が、ウエハースの乗った銀の高月型アイスカップを持ってきたものです。向かいには聚楽のタイル張りの物々しいビルがあって、古びた洋館の上野駅、活気はあるけれど闇市の空気がいまだ色濃いアメ横の雰囲気と相まってまこと古めかしい空気でした。今の上野は2つの向かい合う聚楽ビルを失って当時の面影がかなり薄れてしまいました。(こちらに聚楽台の詳細がありますのでご参考までにリンクさせて頂きました。)
 アメ横は飴屋横丁ともアメリカ横丁とも言われます。終戦後新宿駅と同じく、駅前に闇市が立ち、闇米やアメリカ軍の横流しの物資が売られてたためです。配給の物資意外は違法の取引で物を売るに買うにも命がけだったなんて・・・戦争はするもんじゃないですね。ここはいつも変わらぬ光景と活気に溢れています。
   



 高架下の通りににクラウンエースはあります。返す返すも無くなったのが惜しい聚楽台のビルも赤い外壁でしたが、カレー専門店クラウンエースも赤いテントの覆いがあって昭和のテイスト。東西の通りに挟まれている店舗なので、どちらにも入り口があります。

 
 昭和を体感(戴冠)してください。
  

 ここでも蝋細工のメニューは大活躍。冷房中とわざわざ表示する心遣い!
 

 600円で、巨大なカツカレーに舌鼓。ちょっと塩辛いルーは胃にもたれますが・・・。外の丸窓はカレーの味を視覚化した最先端のアート?
   

 2階は喫茶室ということですが、人を寄せ付けないムードです。
   

君知るやアートの島その二(瀬戸内)

2010年09月05日 | 瀬戸内の名所・旧跡
 9月を過ぎましたが、まれに見る猛暑のおかげでいまだ夏気分。
「瀬戸内国際芸術祭2010」の会場のひとつ、男木島。君知るやアートの島その一の続きです。 
    

 今回展示会場に選ばれたのは、島で使われなくなった廃墟同然の木造建物で、修繕された後に、アート作品が展示されています。廃墟に訪れた事がある方ならご存知とは思いますが、住む人の居なくなった建物は凄まじい雰囲気を放つものです。かつての住人の歴史が痛ましく風化していくことを示す生活用品の残骸やら、朽ちていく木や壁の放つ埃やカビの匂い・・・。
何名かの作家は、男木島ののどかな風土よりも、廃屋が散在する朽ちた島ということに焦点を当てて作品つくりをしているようでした。若手の作家の作品で、蔵の中は、残酷な殺人事件の新聞の切抜きで一杯というインスタレーションがありましたが、島全体がお祭りムードだったために凄惨な感じは受けませんでした。

   

 こちらは殆ど修繕されてういないボロボロの民家の中で、小型モーターをつけられた羽がプルプル震える作品でした。鈴がつけられていて、羽が動くと切なくチリチリと鳴くのですが、とても怖くて声を上げてしまいました。
   

 急勾配の島に住むお婆さん達の生活を支えるオンバという乳母車に焦点を当てたオンバファクトリーは、実際に今でも使われているオンバに無料で、ユニークな装飾を施すカスタマイズの工房と、島に訪れた人をもてなすカフェを作り、楽しい憩いの場を提供しようという試みです。また様々な島の人の家屋がカフェやお休みどころとして提供されていました。

     

 うちわの骨の家は、香川県丸亀の名産品である、うちわの骨をかつて駄菓子屋だった建物中に張り巡らした展示。昔ながらの生活用具として親しまれたうちわの骨に囲まれると、まるで瀬戸という風土、歴史そのもののカタコンベのようであり、すだれで日光をさえぎった町屋のような美に時すら忘れる心地でした・・・。 
   

 

 と思いきや、島のガキども数名がけたたましく叫びながら出たり入ったり、挙句の果ては家屋の中で飛び跳ねてうちわが取れそうだったので、「壊れたらどうするの?君たちは島の子なのか?」と聞いたら、そのうちの主犯格のガキが「わしゃ丸亀の子じゃあけん、島の子じゃないきん、でもこの男木島は丸亀よりおもろいで~」と一声叫んだかと思うと、山猿のように山の中に消えて行きました。・・・まあ、丸亀より面白いというのは頷けます。丸亀の息苦しくなるような町の過疎っぷりを知るだけに、ここは、ガキにとっては特別羽目をはずせる島なのでしょう。

 島の海沿いにある加茂神社の参道にもアートがありました。ユーカリの木の根を積み上げているのだそうです。 
   

 あまりの暑さにフラフラ、小さな路地に駄菓子屋を発見、ペットボトルを買うと、店のバー様の発した粗忽な物言いに軽く失神・・・。

   

 この島の言葉、正気の沙汰じゃないわ!
 陸の言葉を知らないのね!
 ソコチュな物言いがアートなんでちゅ!

 イライラは禁物・・・そこへ地元の人の浮きを改造した和みアート登場で、気分がほぐれます。正式にエントリーしているわけじゃありませんが、インパクトで他を圧倒中。島では他にも多数作品を目に出来ました。
   

 帰りの船の時間が近づいたので、海岸に戻る事にします。ちょうど、船の通ったあとが、ファスナーの開閉のように見えるこれもアート作品のファスナー船が湾に入りました。
   

 海岸近く、公民館だった場所に鏡を張って、巨大なモノトーンの壁画を登場させた大岩オスカールの作品。イメージしたのが瀬戸内の島々ということだが、絵は西表島のようなジャングルの植生に近い感じ。これは接してきた風土の違いでしょうか。
  

 
  他の島と違って会期中のみの作品が主ですが、男木島は古い石段の町並みが得がたい雰囲気をかもし出していて、思い出深い場所です。(瀬戸内芸術祭の思い出その一に続く)

君知るやアートの島その一(瀬戸内)

2010年08月26日 | 瀬戸内の名所・旧跡
 君知るやアートの島。 「瀬戸内国際芸術祭2010」 が、岡山県と香川県の島々で行われております。1992年、岡山よりの孤島に宿泊施設と美術館が一体となった、安藤忠雄設計のベネッセハウスミュージアムが建設されたことで、アートの島として海外でも注目を集めている今回のメイン会場とも言える「直島」と、会期中のみアート作品が展示される大小の島のひとつ、「男木島」に行ってきました。また、この芸術祭会期後も女木島、犬島、豊島などは現代美術を扱う美術館や施設は残され、瀬戸内全体がアートの島となる日も近いようです。

 

 いまや直島は、アートの竜宮城。アートファン、とりわけ安藤忠雄の建築物の愛好家なら一度は訪れてみたいところ・・・といっても私の郷里は瀬戸内で、毎日嫌でも眼に入る海に浮かぶ島々に今更何ができようと知ったことは無いのでした。
 子供のころから、私は郷里を呪い、海を呪っていました。いや、呪われていたというほうが正しいのです。瀬戸内海はそれは恐ろしい場所でした。鉛色の海面を度々、海水汚染の赤潮に染める瀬戸内は、今でこそ瀬戸大橋が開通していますが、それ以前は本州へ行くのは連絡船のフェリーや高速艇のホバークラフトのみで、海難事故とは背中合わせでした。瀬戸大橋開通後も、本州とのアクセスは俄然便利になると思いきや、ひとたび風が吹けば橋は通行不可、ここでもまたかつての連絡線登場で、荒れ狂う海の中をタイタニック号やさながら船室の中を横滑りしつつ海を渡らねばならないなどと、海の猛威は海沿いに住まうわわれに度々襲い掛かります。その他にも、人食いザメの島、産業廃棄物の島、ハンセン病患者を隔離した島、(今は人権侵害的な隔離は行われていません。)土葬がいまだに行われている島、鬼が住まったといわれる島など、奇々怪々な島々は、打ち捨てられた網や魚貝の死骸がジリジリと焼け付く日差しによって放つ腐敗臭を海岸に漂わせ、地中海ブルーの海面を飛び交うカモメやオリーブの林が誘う楽園のような穏やかな瀬戸内のイメージという作られた虚像をあざ笑います。
 でも、なんだか、周囲が「安藤忠雄の地中美術館ってとっても凄いのよ!」とか騒いでいると「なんがでっきょん、なんしよん(何か行われるのですか)」と、田舎者根性で覗き見したくなってしまって、帰省も兼ねてアート巡りに勤しんできました。
・・・とその前に、島へ行く方への三カ条、

   その1、島は田舎者だらけです。

 田舎のひとは基本的に無礼です。彼らが観光客へ向けての挨拶代わりに行う罵倒や悪態には深い意味もありません。洗練された物腰は期待せず、いかに無礼とはいえ、サルやコウモリしか居ない無人島でない事に感謝しましょう。

  その2、水は井戸かため池で汲みましょう。蛇口をひねると出るのはウドンの出汁です。

 瀬戸内、とりわけ香川県寄りは雨が降りません。喉を潤す水は井戸か、あらかじめ讃岐平野に点在するため池で汲みましょう。自販機には飲み物は無く、避妊具、乾電池が中心です。また蛇口を捻って出てくるのはウドン出汁です。ちなみに愛媛県ではミカンジュースが出ます。

  その3、島へのアクセスは連絡船および高速艇で。 

瀬戸内には芸術祭の会場を周遊する船がありません。島に行っては陸に引き返す、連絡船および高速艇をご利用ください。なおどうしても周遊したい方へはたらいウドンのたらいでどうぞ。快適な海の旅をお約束します。

 いい加減分かっているつもりでも、毎回この三カ条を忘れるために、田舎では、難儀をする私です。それでは、香川で一泊後、アートの島、直島にいざと思いきや、香川県側の高松港で、連絡線か高速艇のアクセスどちらかで迷っているうちに、どちらも出航してしまうという味噌っかすぶりを発揮してしまい、次の出航を待っていると日が暮れるので、比較的アクセスの簡単な男木島へ行きました。「♪瀬戸は日暮れて夕凪小凪~ あなたの元へお嫁に行くの~」と、船内に流れる「瀬戸の花嫁」が旅情を誘います。同名の映画で主演した森なんとかさんも、歌を歌っていた小柳何とかさんも「♪愛があるから大丈夫なの~」と歌どおりにはいかないのは皮肉です。
    

 男木島は地元では鬼が島と呼ばれていた女木島とセットの島で、泳ぎに自信のあるものは、陸地から泳いで渡るような場所です。たらいウドンのたらいが見当たらなかったので、男木島連絡船に乗ると40分の航行でした。出航を見守るのが、今は廃墟のかつての高松港管理事務所。芸術祭期間中は鏡でおめかししてます。大空襲を経験している高松市街地では唯一残る戦前の近代建物です。20年前は、栗林動物園の苔むした門、被災して黒こげのまま戦後も使われた琴平電鉄瓦町駅舎の十角堂など、古い建築物がチラホラ残っていました。

     

 みじかい船旅の末に見えてきた男木島の町並み。尾道みたいな綺麗で味のある屋根の連なりに期待が高まります。
 「瀬戸内海いうて馬鹿にしょったけど、こんなん知らなんだわ!」
 白い建物は、男木島の総合案内所となるジャウメ・プレンサ作「男木島の魂」です。外堀を持つ建物で、貝を模した白い屋根はとても綺麗でした。しかし今年の夏は異常な暑さ。世界中の文字を透かし彫りにした屋根からは殺人紫外線が中の我々を照射!おまけに建物の中のうどん屋の店員が島のばーさま連中で、空腹に喘ぐ客を尻目に、ドリフのコントみたいな鈍さ具合はもうアートでした。ようやく出てきた腰の無いソフト麺みたいなウドンを食っていると、足元には船虫が熱でやられて転がってしました。


    

 男木島は急勾配の島で、アートの展示場となるのは海の航行を見守る山の中腹に立つ、安産の神様の豊玉姫神社の参道となります。海岸からも小さく山の鳥居が見えてとても神聖な感じがします。
      

 鳥居を潜ってひたすら、石段をあがります。明治以降に作られたという石組みですが、所々崖だったり、石組みがずれていたりで、下駄やサンダルでは歩き回るのは無理です。すごい場所をアート会場にしたな、と呆れつつも、見た事の無い景色、町並みの連続で驚嘆しました。まさに海に浮かぶ迷宮!
     
 
 迷路を只管登っていくと、程なくしてパラパラ姿を現す、アート作品。屋外展示の雨の降らない島で井戸水が生活の糧だった頃を偲ばせるインスタレーシュンは面白かったです。景色にもなじんでいるし、穴があけられて、水が滴り落ちる容器も生活感があります。絵画や彫刻しか見た事の無い地元の親族などは理解に苦しんだようですが。
  
 
 昔の人は太鼓橋が大好き。意図的なのか、青い一輪車が置いてありました。猛暑でしたが、かすかな海風が複雑な家並みの間をソロリと駆け抜けていきます。


これといった案内も無い道を右往左往。有料の地図も心もとないもので、スタッフも居るだけで質疑応答は出来ない人が殆どでした。ですので、少し時間に余裕をもって、周囲の町並みを含めてブラブラ見るのがお勧め。
   

 山の中腹、豊玉姫神社の眺めと境内にあった椅子とゴーヤの蔓で木陰を作った展示。
 
      

 こんなに暑くさえなければ楽園のような景色。
   
 
 見晴の良い場所にある中西ひろむと中井岳夫合作「空の海と石垣の町」。景色の赤い屋根、小さな小人のお家、家並みの複雑さを視覚化したようでもあり、自由研究課題の巣箱のようであり・・・。作品上部の壁は古い船底の板で不思議な風合いです。

   



 男木島では誰でもきっと好きな光景に出会えると思います。(君知るやアートの島そのニへ続く)

つくりつけ(武蔵関~上石神井・練馬区)

2010年08月18日 | 古い建物
西武新宿線の駅のご紹介です。上石神井駅と武蔵関駅(練馬区)です。
 武蔵関駅は、その名の通り、昔関所があった場所です。武蔵関駅南口の煎餅屋。一応画像を撮る許可は頂きました。お店は立派なデザインです。湾曲したガラスケースや、煎餅を入れるガラスの丸い菓子容器、すべてつくりつけの特注だと仰っていました。お煎餅は固焼きで、香ばしいです。


  
武蔵関の料理店。色あせたビニールの雨よけに赤いガムテープを貼りなおしてドットのようにしているセンスもさることながら、ガラス戸に描かれた奇怪な動物達の顔、そしてオリジナルの手書き暖簾と、見所がつきません。
  
変ですとしか言いようがないですが、練馬区はアニメの聖地。案外プロのアニメーターが・・・。


 上石神井駅の傍、富士見商店街、季節料理おざきは、路面に面した小さい入り口の、白いモルタル壁の下の部分だけ、黒い溶岩石を貼り付けてあります。この溶岩石は静岡産で、富士石とも浅間石とも言います。神社では、狛犬やお稲荷さんの狐の台座に使われるゴツゴツとしたいかにも神秘的な雰囲気を醸し出す石で、私はこの溶岩石が殊の外好きです。
 
 
 富士石はまた、古い居酒屋の店舗のいけすを飾ります。現在のようにチルド輸送の発達していない頃は、猟師が船上で絞めた魚よりも、路面に晒された瀕死のいけす魚のほうが、生きていると言う点でいかにも新鮮に目に映り、重宝されたようです。
  
 
 青い呪縛。店内の化粧品も青で統一されていました。(上石神井・富士見商店街)
 

 青ほど高貴な色があるでしょうか?そしてすぐ隣には愛らしいフランス菓子の店チロル。(上石神井・富士見商店街)
  

チロルは昔の遊園地のおとぎの館のような、そんな夢とロマンのある店舗です。つくりつけの唯一無二のデザイン。昔の商店は、看板のロゴ、包装紙から粗品の手ぬぐい、家具にショーケース、すべてがオリジナルなので、時代を経ても古びた感じがしません。チロルの山がグラスに入ったロゴマーク、とても良いです。

三鷹探索~その3(三鷹市)

2010年08月15日 | 飲み屋街
 三鷹を探索します。三鷹探索~2の続きです。
 三鷹には、駅南口を出て中央通り左側に数百メートル続く白いビルがります。地下~2階までが店舗で、その上は公団住宅です。遠目には白く輝きいかにも真新しそうなビルですが、所々見えるタイルが古風な豆タイルなので、不動産のサイトを見たら、建てられたのはS38年ということで、築年数ほぼ半世紀、名称はUR都市機構三鷹駅前第1~第3アパート三鷹センタービル。やはり、階段の部分などとてもレトロ、どちらかというと地下鉄や市民病院とかに近い作りでした。
  

 駅よりの第1アパートのテナント。子供マネキンの切なそうな表情。お店の名前はプリティ富士・・・。
   

 看板のカッティングの曲線がこれからの子育てへの期待にロマンを沿えて・・・。研ナオコ似は美人の系譜。プリティ富士・・・。
  

 赤ちゃんの誕生は、宝船がやってくるような喜びに満ちて・・・プリティ富士・・・。(手は?)
   

 三鷹はユニークな店舗デザインが楽しめる街です。笹団子の店舗は残念ながら閉店中。タイルに描かれた鰻の文字は面白いです。(仲町通り)
   

 清楚な髪型は聖女(マドンナ)の証。白百合美容室。(仲町通り)
   

 修理部は大会に向けて修理の日々?
  
 有楽地下街はマッミがお勧め・・・・。(本町通り)ファンタジーサロンは夜も微笑む美女の顔が目印・・・。(三鷹駅北口)
   

 男のおしゃれ、デザインパーマ、カット、アイパー。黒タイルできめた店舗はKING理容館。(仲町通り)
   

 手書き看板がレトロなナガシマ。(連雀通り)
  

 三鷹の丸正がこの度、長崎屋を制圧いたしました。看板としての機能をまるで無視しているようなアバウトさ。(中央通り)ナガシマも看板の地にうっすら英字の文字が見えます。こういう所を都心の外れのルーズさと見るか、それとも大らかさと見るか・・・。
 

神の目は見ていた(国分寺市)

2010年08月14日 | 飲み屋街
 
 中央線国分寺駅、北口の秘境のご紹介です。中央線新宿~八王子間の駅の殆どの主要な駅が北にロータリーがあり、商業施設などが充実していますが、国分寺駅北口はロータリーも無く、タクシー乗り場も草ボウボウで、殆ど駅前としての機能を満たしていません。南口は若干整備されていますが、東に湧き水と徳川家の鷹狩の場所であったことで有名な「お鷹の道」、西に三菱創始者の別邸であった「殿ヶ谷戸庭園」と歴史のある場所があるので面目が保たれています。国分寺駅は、そもそも国分寺崖線の上に立ち、駅を出ると周囲の道は崖から転がるように下り坂へ転じるという地形の理由もあるのかもしれませんが、前々からなされている北口再開発計画が現在も宙ぶらりんであるというのが、北口が秘境である大きな理由かもしれません。
     

 そんな北口に、ようやく再開発の兆しです。市制のHPを見ると、大型商業施設のビルとロータリーを有する構想模型が掲載されていました。今現在、北口は多くの土地が空き地のまま放置されていて、北口から徒歩数分の所にあったサウナとボーリング場施設の国分寺パークレーンが更地になり、隣接していたピンク街や飲み屋街の店舗も大部分が撤退しているようです。
 しかし、待てども暮らせども、肝心の工事のほうは着工してない様子で、店舗が更地になって日照が良くなった結果、わずかに残った建物を蔦が覆いつくし、風の谷のナウシカに出てくる腐海のようにこのまま国分寺北口界隈は草木で覆い尽くされてしまうのでしょうか。このまま密林化したら、「ココ分寺」とか言われそうな勢いです。そのうち多摩スネークセンターとか国分寺オラウータン研究所とか出来るかもしれません。

駅前のシュロの木やバラックの民家が南国ムード。
 

 タクシーのロータリーにある2メートル未満の電柱は街を明るく見守って・・・。
   

 時勢の勢いは何処へやら・・・密林化まっしぐら。水牛の鳴き声が聞こえてきそうです。
  
 
 国分寺本町の飲み屋街もサバンナ気味。
  

 ジャングルの進出を止めようとするバリケードも空しく・・・ビルがジプリ化(緑化)。
  

 自然(ジャングル)との共存を提唱する名曲喫茶。家庭菜園ならぬ家庭ジャングル付き。
   

  
 
国分寺の移ろいを見守る神の目も再開発で姿を消すのか、あるいは消えるのは人間のほうで、残るのは自然のみなのか・・・。
 

 南口の岡部眼科の看板がある北口の神の目の下、パチンコ店ナポリの脇にある細長い階段を上ると、古風な喫茶店アミーがあります。内装外装が古城風で、看板代わりのコーヒーミルがユニークです。
   

赤いロマンの要塞(光座・中野区)

2010年08月07日 | 古い建物
 中野南口から、徒歩三分の所に、中野五差路一帯のシンボル的な存在の「中野光座」はありました。半廃墟といった具合の用途不明な建物で、その周囲も全て、同調するように古くレトロな建物ばかり、通るたびに不思議な後ろめたい感覚を味わったものです。中野光座はドス黒い赤のトタン張りの3階建ての建物で、隣接するマッチョな男性の色あせた手描き看板が掲げられていた中野ヘルスクラブというトレーニングジムの建物と共に、異彩を放っていました。長らく光座の赤い要塞は夜ともなると悪徳が巣食う魔物のネグラのようで、近寄る事も憚られていましたが、いつしか中野ヘルスクラブが駐車場になり、この再開発ブームの中では、光座も無くなる日も近いのではないかと思い、撮影してみることにしました。撮影後、ネットで調べると、中野光座は、昭和30年代に建てられたにっかつロマンポルノの上映を行う映画館であったということで、光座一帯を取り囲む後ろめたい空気の元凶の謎が解けました。ここ数年光座は、貸し小屋などを行っていたようですが、去る今年の5月に光座の解体のお知らせが貼られていました。

 現在はこの有様です。シートに覆われてしまったのは、赤いロマンの要塞。右は一昨年、夜中に撮影した光座です。1階は闇市のようなマーケットや飲み屋街で、様々な商店が入れ変わり立ち代り入るテナントでした。そして2階、3階は映画館でした。
 

 1階の印鑑屋の看板。
 

 一階の中の通路は吹き抜けで、上部から自然光が入る仕組みでした。光座の赤くて高い外壁は、側面だけだったようです。路面に面した店は営業していましたが、内部は長い事、廃墟化していました。


 初めて見たのに、何か懐かしい、廃墟が心の原風景であるのはどうしたことでしょうか?


 光座の向かいには、やはりこの度、閉店してしまったサウナ中野スワークのネオン看板が。ボーリング場、バッティングセンター、サウナ・・・70~80年代初頭に開店したお店や看板は何かこうデザインが斬新で訴えかけてくるものがあります。 


 五差路の角地に立つ店はとてもレトロな感じを与えます。こちらも昭和30年代の建物でしょうか?飾り窓が大正ロマンの雰囲気を残しています。


 五差路周辺は坂道なので、看板建築が若干傾いているように見えてしまいます。
 
 
 近くの暗渠の上にはモダンなデザインの橋。製菓の商店はとことんまで古いです。
  

 光座から通りをさらに南下すると、裏道沿いに2棟の古いアパートがありました。所々、ステンドグラスが入り、海外のアパルトマンのような作りですが、大木があって全容をお見せできる事ができません。中野は、地下鉄新中野もそうですが、半世紀ほど時間が止まっているような場所が沢山あって、興味がつきません。
 

 映画館の受付は黒いタイル張りで、2階にあったロビーは豪華な作りであったと言うことです。映画館の下は寿司屋、立ち飲み屋でした。映画館が独立した建物でなく、下をテナントに貸していたので、当時としては、先進的な施設だったのではないでしょうか。現在の映画館施設はショッピングモールやファッションビルに吸収されてしまう事が多く、以前のように独立した繁華街の花形といえなくなってきています。銭湯、映画館など人々の社交場はどんどん町から姿を消して行きます。銀座の景観と、日本人の文化的価値を形作ってきた歌舞伎座のような殿堂すらもガラス張りの高層貸しビルに建替えという殺伐とした時代・・・この風潮、なんとかならないものでしょうか。

秘所山口観音(所沢市・埼玉県)

2010年08月05日 | 寺社仏閣
 私は江戸時代の寺院の豪華な彫刻が好きです。かといって日光東照宮参りは大変なので、代わりに上野公園内にある上野東照宮をお参りしたら、補修工事中でした。芝増上寺にも東照宮があったというので伺いましたが、東照宮は現在では隣の芝公園にある戦後立てられた小さな神社の事を指し、かつて芝増上寺にあった東照宮は大空襲でその殆どが残っていないようでした。部分的に華麗な装飾を施された仁王門など数点現存しますが、当時を偲ぶにはあまりにも周囲の様子が変わりすぎているようです。かつては広大な敷地だった増上寺の土地は現在、芝公園や、東京タワーやプリンスホテルのあるシマリノない敷地となっているようです。
 ネットでつらつら調べていたら、かつて芝増上寺東照宮にあり、戦災から逃れた重要文化財の「勅額門」と「御成門」が西武線の西武球場駅傍にある、狭山不動尊に移築されているというので、喜び勇んで行ってみました。
 僻地も僻地、大僻地の西武球場前駅を降り立つと、物凄い人だかり。どうやらアニメ系のアイドルのコンサートが球場で催されるらしくて、ファンの期待の高まりぶりの凄まじさに驚愕。

 今か今かと待ち焦がれ、掛け声練習などをしている方達を尻目に、狭山不動尊へ。近隣には西武グループが、1951年に開園した、ユネスコ村の跡地がありました。1970年代、大阪万博終了後のマレーシア館やオランダの風車などを移築した、世界の建築物が楽しめる公園施設でしたが、客の不入りにより一時閉園。その後、電動仕掛けの恐竜ロボットとジャングルのパノラマを移動ライドで観覧する恐竜テーマパークとして再開して話題を集めましたが、またもや集客難で完全に閉園してしまいました。ちなみに私がかつて恐竜のライドに乗ったときは園内にお客は、私と知人の2人だけでした・・・。

 不動尊は狭山湖の丘陵を背にして存在します。まず入り口に「勅額門」が。黄色と浅黄色の色使いが中国の建築のようです。無傷なのが不思議です。東照宮は戦争で焼けたなんて言ってますが、本当は開発の為に戦後のどさくさにまぎれてぶっ壊したんじゃないかと邪推してしまいました。
  
 


 階段を登ると「御成門」が階段の中腹に。とても派手ですが単体で見ると味気無いです。さらに進むと、山深い寺社のような灯篭の演出。
  

 桃山時代の県有形文化財の多宝堂です。すべては日本全国様々な場所から移築された建造物がチグハグな印象を与える不思議な境内・・・。正直悪趣味。
   

 狭山不動尊は戦後、西武グループが行った、様々なリゾートやホテル開発で生じたお荷物文化財を一箇所に集めて1975年、継ぎはぎ霊場として開山されたようです。芝のプリンスホテルの敷地にあったであろうかつての東照宮の名残の「勅額門」や「御成門」はこんな僻地に追いやられていたのでした。西武グループは、増上寺の他にも戦後の政府によってその権威を失墜させられた旧華族の所有する土地の買収などを行って成り立った経緯があり、品川の高輪プリンスホテルには旧華族の洋館が現存します。今でこそ、西武グループは拡大しすぎた事業のために破綻した落ち目感がぬぐえませんが、その栄華の跡を杉並区天沼に見ることができます。西武グループ創始者がお妾さんを住まわせていた囲い屋敷の跡です。回遊式の立派な日本庭園に門が残っていますが、現在、児童公園として開放されています。今は廃線となった西武の都電が新宿~鍋谷横町を通過し荻窪を終点としていた事にも関連しているようです。


 狭山不動尊は午後四時で閉園。住職でもなんでもない管理者のおじさんに追い立てられて、下山。今度は不動尊の傍にある、山口観音(吾庵山金乗院放光寺)へ。近隣の民宿施設の様子にも時代を感じます。
  



 山口観音は何を隠そう、弘法大師が開山した由緒正しきお寺です。意外と小さな仁王門に心癒されます。馬が顔を出しているのは、名馬により戦に勝った新田義貞が奉納したお堂。中には馬に関する絵馬が一杯でした。もともと、絵馬というのも馬を神様に奉納した事から始まっているので、絵馬の五角形の上辺部分が屋根型をしているのは馬屋を模してるからだそうです。
   

 山林の中の閻魔堂にかかる絵馬、本堂の七福神の縁起絵馬など、絵馬は充実しています。
  

 のどかで緊張感の無い境内、食べ物を売る茶店が堂々とあるのも不思議です。
  
 
 本堂の欄干にはチベット寺院のマニ車(経文が書かれた回転車を手で回すと経文を読んだのと同じ功徳が与えられるという装置。)が設えていました。梁には様々な絵馬、触ると病気が治るおつるびん様の像、千羽鶴、お釈迦様のメダルが張り込まれた金ぴかの塔となんでもありで、仏教のテーマパーク化してます。 
  

 奥に目をやると、壮大な水子地蔵の丘。アンパンマンの玩具が備えられた水子観音などありましたが、流石にシャッターは切れませんでした。四国88箇所巡りトンネルは怖いのでパスです。
   

 シンガポールのタイガーバームガーデンのような一角。ここの住職やりたい放題。


 

 他にもタイのお堂、ビルマのお堂と、ここにお参りすればチベット、中国、タイ・・・仏教国の聖地めぐりをしたのと同じ霊験が一度に得られるのです。山口観音の真言宗豊山派は密教ですが、東京の大本山は豊島区にあるいかにも落ち着いた雰囲気の護国寺。とても宗派が同じとは思えません。もともとお寺は金ぴかの仏像やカッパのミイラで参拝客を集め、露店や茶店も現代よりも頻繁に出ていたために、元祖テーマパークと言うべきの側面をもって居ます。しかしここまで悪乗りな境内になってしまった背景には、西武グループが近隣に西武球場を作ったり、ユネスコ村を作ったりした、巨大レジャー構想に住職が感化されてしまったとしか考えられません。
 そしてこの散漫な光景こそが、山口観音の全体のイメージを表わしていると思います。灯篭の葵の御門があるとすると芝増上寺からの移築でしょか?狭山不動尊に安置すべき灯篭が周辺にいくつも佇んでいます。


 しかしここまで大判振る舞いして置きながら、本尊の千手観音は絶対秘仏だとか。本堂裏からレプリカの小さい「裏観音」が覗けるあまり有難くないサービス付き。西武球場前から出ているレオライナー(かつてはおとぎ鉄道と呼ばれていた路線を使っています)で場末感漂う西武遊園地の園内を眺めつつ、終点西武遊園地駅から、西武鉄道に乗り換えで小さな旅は終わりです。
 
 
 巨大資本が戦後のどさくさに紛れてそこかしこにばら撒き散らした負のベクトルが渦巻いて、お大師様もビックリの大曼荼羅を形作る狭山不動尊と山口観音でした。

セピア色の街(荻窪銀座商店街・杉並)

2010年08月02日 | 飲み屋街
古い通りやレトロな街を称するときに、われわれは映画「三丁目の夕日」を引き合いに出します。三輪自動車のカブが往来を走って、駄菓子屋があって、TVには力道山のプロレス中継・・・しかしあれは映画の中だけの事じゃありません。今現在も東京タワーが出来る前の時代の空気そのままに、営業を営む商店街が荻窪にあります。それもJR荻窪駅の北口前に。


 荻窪駅北口ロータリーの脇、青梅街道とJR中央線の線路の間に、戦後闇市が形成されました。そのマーケットに、アーケードをかけた通りや、公共の井戸を有する昔ながらの飲み屋街の一角が「荻窪銀座商店街」です。バラックの個人商店や飲み屋の中に、大手チェーン店の飲食店やパチンコの大型店舗も入り、新旧の建物が入り乱れています。大きく懸念されていた、北口ローターリーの再開発の用地から逸れてくれたようすですが、北口駅の出口に大きく陣取っていた立ち飲み屋の「鳥元」や古い不動産の建物をそのまま居抜きで使用していた飲み屋のバラックは流石になくなりました。

 北口出口より。以前は、立ち飲み屋や果物屋などが駅の出口に迫っていましたが、現在撤去。幾分すっきりしてしまった荻窪商店街の遠景です。


線路側から、衣料店の並びを眺めます。




アーケードの架かる北口駅前商店会。半透明のトタン屋根が時代を感じます。隣のアサヒ通りは薄暗いピンク通り。

  

 共同井戸のある飲み屋の通り。荻窪は辺り一帯、飲み屋や焼き鳥屋が多く、町全体が白煙を吹き上げるといった感じです。店の前に椅子を出して飲むお店が多く、夜はアジアの屋台町のような活気があります。
 

 一番奥に男子専科いずみやの店舗が見えます。夕刻は電飾看板が虹色に辺りを染めています。


 荻窪銀座商店会にある富士食堂。


 富士食堂の真向かい、純喫茶の邪宗門です。狭い間取りの3階建て(店舗は2階まで)で、急な階段を上がるのも一苦労。テーブル席につけば、不思議な窮屈さに落ち着くような・・・白雪姫が迷い込んだこ小人のお家のような空間です。ローマ皇帝の文様が入ったカップがコーヒーの味わいを深めます。
 

酔って前後不覚になったら、ベニヤに手書きの地図が道案内。


セピア色の街、バラックが誘う昭和の香り・・・。

末広通り(吉祥寺・武蔵野市)

2010年07月30日 | 古い建物
 開発された巨大なビル群に隠れて小さな飲み屋や商店が、忘れ去られた路地裏でひっそりと息づく様に惹かれます。
 今回は若者が住みたい町ナンバーワン(?)の吉祥寺の魅力を余すところなくお伝えします。でもお洒落なカフェに、渋いジャズバー、美味しいパン屋の類は専門外ですので不思議な場所をご紹介いたします。
 まず、井の頭公園口から出ますと、狭く、騒々しいです。バスのロータリーが無いので、バス通るとなると大騒ぎ、それに居酒屋の呼び込みが拍車をかけて、毎日がお祭りです。
 そんな祭りの中のエレガントな総合ビル。『井の頭ビル』。ロゴがなんだか昔の「女囚さそり」とか「性獣学園」とか、ちょっと怖い昭和の映画のタイトルみたいです。「井の頭ヒル(蛭)」みたいな。


 井の頭ビルに入ってるテナントのご案内の看板が、文字が猛烈にひしめき合って並んでてカッコいいです。
 
 
 カラフルで見飽きる事はありません。
 

 井の頭ビルに佇む、銅像。何気に怖いです。銅像のタイトルは「花の精」。定礎は昭和49年です。
 

 東へ進むと、井の頭線のガード下です。ガードも駅に隣接するユザワヤのビルも現在改装工事中。以前は高架下に公共トイレがあって、昼でも薄暗い場所だったんですが、これからは変わるのでしょうか?南東へ500メートル程伸びている、大きな井の頭通りの裏通り的な「末広通り」をご紹介します。
  

 末広通りのわき道にある阿羅耶識院というお寺。とてもお寺には見えない駐車場に絵馬や地蔵ががズラリ。その近くには堂々とシャボンの国のネオン管・・・。
 

 宝古堂は何時もご店主が店先に座り込んで古物というより何か朽ち果てた物を売っていますが、閉店時に店の横を覗くと、ゴミ屋敷風味が若干効いています。お店の中も多分・・・。
 

 古い商店が並んでいます。吉祥寺では珍しく雰囲気のある一角。


 整髪院「ロダン」に「ぴかそ」に「ドガ」。美術の巨匠の名前が乱立している割にはアートな雰囲気は乏しいです。
  

 アートがありました・・・でも怖いです。お化け屋敷居酒屋ならぬ、恐怖バーでしょうか?それともただのアート作品?

   

そうこう言ってると、恐怖スポット浄霊導所に。建て増ししまくった2棟の物件の、非常階段と階段が繋がって、互いに行き来できるようです。
   

末広通りの表、井の頭通り沿いにも看板が沢山あります。なんだか、建物の内部からは刺すような視線を感じます。所々、バリケードのような柵もあって、全体の雰囲気が浅間山荘を思わせます。

 
 インチキなんて口が裂けてもいえません。末広通りは、大きな井の頭通りとの高低差があるために、時空そのものがずれているような雰囲気です。500メートルほど駅前から進むと途中で、井の頭通りに合流する形で、末広通りはなくなります。
   

 末広通りからそう遠くない所、井の頭公園傍にある高級住宅街の中、まことちゃんハウスは君臨します。針葉樹と赤のストライプが絵画的な雰囲気で、春は花々で満たされます。
   
 吉祥寺の魅力を伝えるつもりがなんだかオカルト案内になってしまいました・・・。

宮殿(西武柳沢駅・西東京市)

2010年07月28日 | 純喫茶
 西武新宿線の各駅にある様々な名所もご紹介もしてみることにします。西武線はおわい鉄道と呼ばれていた時期がありまして、もともと肥を運ぶ農業鉄道だったたそうです。そのためか、特に西武新宿線の沿線の駅前は開発が遅れ気味です。
 そんな西武新宿線でも特異なのは西武柳沢柳沢駅です。たぶん、西武新宿線の中で一番何も無い駅でしょう。無人駅でも驚かないといえば大げさですが、駅北側は廃屋と化した店舗に囲まれた駅前の広場が西部映画の無法者に荒らされた町のような佇まいです。そんな柳沢の駅前の片隅でかろうじて営業している喫茶店「宮殿」に行きました。昭和の空気満々の純喫茶店です。

 廃れに廃れた駅前の北口。買い手のつかない空き地や、窮屈な狭い飲み屋の路地が降りて直の場所にあります。

 駅前の宮殿の入り口。純喫茶にありがちなステンドガラスが建物上部にありますが、光を透かさない擬似ステンドグラスのようです。もうひとつの入り口は、鉄格子が入ったガラス窓が中世の宮殿のようです。そのどちらの入り口にも蝋細工の食品サンプルのケースがありました。
 

 コーヒーのお味も、内装も至って普通ですが、よくよく見れば奇妙な絵が飾ってあったり、用途の無い籠にウサギのマスコットが入っていたり、接客も知り合いの家にあがり込んで喋っているような砕けた感じがあります。店内にガラス張りの電話ボックスがあったりしたのは昭和の遺産を見るようでした。
 
 夜は結構、地元のお客で繁盛していましたし、卓上のシャンデリアが明々として綺麗です。


 宮殿のサンプルメニューです。蝋細工のサンプルのパスタが持ち上がるのはまあいいとして、ラップがけなのはいただけません。

 最後に西武柳沢の気になるお店。ふれあい・・・。ロゴデザインが情熱的です。

三鷹探索~その2(三鷹市)

2010年07月25日 | 飲み屋街
 三鷹探求です。
三鷹探索~その1の続きです。三鷹の南口は1990年に駅前の歩道が高架化したと同時に、駅前の様相は一転、戦後の写真などを見ると、三鷹周辺の鎮守である八幡神社へ向かう参道口の赤鳥居にネオン看板が掲げられていて、もし現在もあったらさぞキッチュで面白い光景であったあろうと思います。駅の下を北西から、南東に流れる多摩川上水から分離して、三鷹市を南東へ流れる品川用水路を暗渠化したさくら通り周辺も、経済の破綻のため、北口の光景同様だだっ広い駐輪場が広がっています。
 
しかし、さくら通り沿いの小道に入れば、ちょっと昭和ムードの小料理屋やスナックがひしめいています。旭町、本町通り、すずかけ通りと並ぶ三本の小道、この周辺こそ、まさに三鷹で最後の日々を送り、愛人と情死を遂げた太宰治の縁の地域だと知ると、
デカダンな香りにクラクラします。大衆酒場、「斜陽」に出てくるヤサグレ男が出てきそうな雰囲気です。「斜陽」に出てくる居酒屋は高円寺にあったようですが。


 まず三鷹駅から東へ程近い処、玉川上水上水のとある場所に文学碑のようなものがあります。


 この近辺に、玉川上水の傍、山本雄三文学館がある閑静な住宅街の近くに最後の居を、婦人と共に構えていた太宰治。しかし家族との折り合いが悪かったのか、太宰は三鷹駅前に住まう山崎富江という女性の元(野川住宅)に転がり込んで来ます。やがて訪れる2人の入水事件(昭和23年)の場所が、この玉川上水となります。
 今現在は、浅い流れの用水路ですが、当時は水中で土手に向かって深くえぐれる構造で、梅雨時は流れも強く、入水の場所は確認できたものの、遺体の発見まで6日要しました。文壇の寵児であり、文壇仲間に慕われていた太宰は素早く立派な葬式を出してもらえたものの、方や富江のほうは、遺族が田舎から見取りにくるまで4日も、土手近くに晒されていたと言います。作家として揺るがぬ地位を確立していた太宰を死に至らしめた罪を擦り付けられる形で、富江の素性が、およそ教養の欠片も無い刹那的な女のようなイメージを流布されるに至ります。しかし実際の富江は、戦前、大きな産業だった映画会社に結髪の技術者として出入りしていたキャリアウーマンでした。本郷に店を構えていましたが焼け出され、終戦を境に三鷹へ移った後も、昼は中央通沿いのミタカ美容院、夜は三鷹市役所近辺にあった進駐軍の将校専用のグランドキャバレーニューキャッスルのホステスの美容師として忙しく働いていました。このような女性がはたして入水自殺などを太宰に促したりするのでしょうか?
 太宰は戦前、アカと呼ばれる共産党運動に加担していたことで、三鷹に移り住んだ後も要注意人物として政府からマークされ、太宰は痴情事件と見せかけて暗殺されたとも言われ、真相は闇のままなのです。
 その次の年、昭和24年には、暴走する無人車両が三鷹駅西側にある車庫から民家に激突するという三鷹事件が起こっています。この事件もまた未解決で、当時国鉄職員の中に居た共産党員を投獄する所謂、アカ狩りを行っていた進駐軍による捏造事件であるとも言われています。戦後のドサクサ、不穏な空気を象徴するような事件として、太宰の死の謎と共にここに書き添えて置きます。

 駅前の小道、本町通りの光景ですが、富江の下宿先であった野川住宅跡、太宰が通っていた伊勢元酒店跡(現在太宰治文学サロン)もあります。
 

 本町通り、西部開拓時代の飲み屋のような光景です。
 

 レンガ模様のトタン張り、旭町通りのお店です。正面の店の奥にも赤提灯があってお色気たっぷりです。
 

 道行く人が「こんな店のホステスは婆さんだ。」と大声で言っていましたが、そんな事大きなお世話、婆さんだろうが若い女だろうが飲ませるのは同じお酒!しかし三鷹の何が凄いって、どんなにボロそうなお店も現役であるという事です。夕方にもなるとご高齢気味のママ達が、店の前のアロエの植え込みに水をやったり、いそいそとのれんをあげる光景がそこかしこで見られます。

 
 一見うらびれた通りでも、まだまだ元気。右奥の小料理屋桃川も営業中です。
  飲み屋の秘境三鷹はその3へ続く。

三鷹探索~その1(三鷹市・武蔵野市)

2010年07月23日 | 赤線・青線のある町
 JR中央線三鷹駅周辺は古い街角の雰囲気をを満喫する場所に乏しい町です。中央線の各駅の中では、いちはやく開発が入って駅の周辺が整備されてしまったからでしょうか。
 中央線の路線を挟んで、南側三鷹市には、むらさき橋通りと、雅な名前が残っています。江戸時代は、武蔵野市の井の頭池から豊富に出る湧き水と、三鷹周辺で取れたむらさき草の根で染められた、紫染め(江戸紫)の産地でした。
 戦時中は、三鷹市、武蔵野市には中島飛行機、日本無線などの工場が建ち、軍事産業の街となりました。したがって、都心から離れた郊外であるにも関わらず、大規模な空襲があり、中島飛行機工場が全壊、周辺の街も大きな被害を受けています。中島飛行機だった場所の広大な土地は現在、武蔵野市役所をはじめとした総合運動場などの公共施設になっています。

 三鷹駅の北側、武蔵野市中町一丁目「八丁通り」周辺は、空き地や、駐車場、閉じた商店が多く、駅前にも関わらず、閑散として寂しい街です。大きな駐車場の傍らには八丁稲荷があります。
 

 いつも気になっている建物。すでに使われていませんが、二階のバルコニーの手すりが砂利で塗装加工されています。向かって右側には溶岩石で出来た小さな滝の跡まであるし、外壁も溶岩石を使った懲りようで、周辺にもニ、三軒既に空き家となった居酒屋があります。
  

 八丁通り沿いには数軒のスナックが立ち、さらに小さな横道を確認しました。
 
 
 舗装されていない砂利道を明かりに誘われていくと、八丁通りの裏にあったであろう、昭和のうらびれた匂いムンムンの裏通りを見つけました。
 
 実はこちらの通りは、かつては武蔵野八丁通りという青線地帯でした。三鷹駅からさらに南へ直進すると、武蔵野市の総合体育館や市役所になりまして、そのあたりは戦時中、中島飛行機工場という広大な軍事工場のあった場所です。激しい空襲に晒された工場の跡地は進駐軍に接収されて、グリーンパークという米軍将校の住宅が出来ました。(現在の緑町という地名が当時の名残です。)そして今の市役所がある場所の西側には、プロ野球の興行を行っていた神宮球場が米軍の接収で使えない為に、新しくグリーンパーク野球場が三鷹にプロ野球の公式野球場として昭和26年にオープンしました。国民的娯楽施設の出現に水商売の業者が期待をかけたのは言うまでもなく、何やら怪しげな特殊飲食店がオープンしだしたのも、丁度昭和25~6年頃と言います。しかし終焉はあっけなく訪れます。水道橋に出来た後楽園球場の出現と、芝生に適さない土壌の問題やらで、グリーンパーク野球場は瞬く間に閉鎖。また武蔵野市の地域住民が、特殊飲食店の業者に対して、立ち退き運動を起こしました。(特殊飲食店街が形成されゆく事に当惑する市民の声は、ネット上で閲覧できる昭和26年の参議院会議録などで知ることが出来、大変興味深いものがあります。)


 今にも消えそうな町並みですが、これが意外と地元のお客さんで賑わっていて、なんともなんとも不思議なスナック通りです。
 夕暮れ時、街角に一人で佇んでいると、ネオンがまた一つ、また一つと明かりを点していく。昼は死んだと見せかけて闇が迫ると同時にその秘密の花弁を開き、生命を得る月見草のような看板たち・・・。

 JR三鷹駅の南側は、駅前に古い町並みはありませんが、まだ小さな通り沿いに、築年数の古い飲み屋が所々残っていて、面白い箇所がありそうなので散策してみました。
 多くのファンを持つ作家の太宰治は、終戦後間もなく、三鷹駅近く、多摩川浄水で情死をしましたが、生前出入りしていたといわれる酒屋の跡地に、現在太宰治の関連資料を集めた文学サロンがあるというのでどんな場所かと赴いて行ったら、これがうらびれた大衆酒場が軒を連ねる通り沿いで、腰を抜かしました。生憎サロンは閉まっていたのですが・・・。
   
 この看板の数・・・。なんでも三鷹は、中央線では阿佐ヶ谷並に次いで飲み屋件数が多い街だとか。戦後、三鷹が都心に並ぶの歓楽街を目指していた過去が微妙に陰りを与えてます。

 このいずみ通り(下連雀)の居酒屋の長屋はとても興味を引かれます。


 こちらの「しの平」。

 ガラス戸の意匠、丸い下地窓、竹の植え込み、縄のれん、モルタル壁に施された熔岩石風のタイル装飾、ガラスケースの中の貝殻、入り口上部の明り取りにはめられた穴空きの板・・・外見だけで酔ってしまいます。
   (その2へ続く)

瀬戸内の城下町(丸亀市)

2010年07月14日 | 赤線・青線のある町
 瀬戸内に面した香川県は琴平市金毘羅宮参りの帰りに、予讃線の丸亀駅に降りて、散策してみました。


 丸亀駅の北側は湾沿いの港町で、関西との流通はもとより、江戸時代東のお伊勢参りと西の金毘羅参りで人気を二分した参拝客を乗せた金毘羅船が停泊し、大いに賑わった名残として、古い宿が今も沢山軒を連ねます。また駅の南側は、日本一高く築かれた石垣で有名な丸亀城がそびえ、戦火に煽られなかった城下町が江戸時代からの、町並みの面影を留めています。ただ残念なことに殆どがシャッター通りで、空き店舗の老朽化も著しく、観光地としての魅力を欠いています。
 
 和風、洋風の建物を持つ、古いお菓子屋さんの洋館部分。右の建物は眼鏡屋さん。

 黒いタイルの大きな商店は現在NPO法人によってイベントスタジオとなっているようです。

 今回の散策の目的は丸亀駅、北側にある新町のカフェー街(遊郭街)跡を見る為です。丸亀のカフェーの存在を知ったのは、もう20年も前の事。たまたま見た新聞の記事で、「港町に残る古い洋館のアールデコ様式のステンドガラス」と書いていたのに興味を引かれて、わざわざ遠出をして見に行きました。その当時はカフェーを、前掛けした女給さんが銀のお盆でお茶を出す場所だと思っていました。それはカッフェーで、カフェーではありません。しかしステンドグラスのはまった洋風のカフェーを数軒、撮影してもはや満足。ついでに今度は駅の反対側、洋館や「うだつ」という火災よけの漆喰の装飾がある町屋作りの店舗が並ぶ商店街の中にある、古めかしい不動産を撮影していると、中からちょび髭の自由業種の二人組が出てきて脅された事など思い出します。
 
 

この光景にはドキっとします。カフェー街跡にある「厳島神社」ですが、鳥居と玉垣の中にバラックが建って集落を築いています。ここでも客を引く女性がいたのでしょうか?露天商がそのまま居ついてしまったような、なんとも説明がつかない光景ですが、瀬戸内には狭い境内に民家が立ち並ぶこんな場所が他にもあるようです。

 今回、久々に丸亀に訪れて、犬にすら会わない町の静けさに仰天し、悲しくなってしまいました。遊郭町だった海沿いの新町も、開発はなく、やはりカフェー跡は減っていました。




 崩れかかっていますが、華やかな手すりの装飾が遊郭のようでもあり、また芸者を呼ぶお茶さんのようでもあり・・・。

 戦後は、遊郭町(赤線)の整備にあたり、格子戸越しに女給さんが客に媚を売る、和風建築での営業は人道的でないと廃止され、1階に洋風のホールとカウンターを持つ開放的なカフェー(特殊飲食店)を構えていたようです。こちらの遊郭町は関西方面の建物の業者さんが内装外装を担当したのでしょうか?とても華やかなアールデコのデザインです。あまりにも洒落ているので本当に大正時代からあったのかと思ってしまいます。


 津坂洋服店です。丸窓に施されたアールデコの意匠、すすけていますが色違いのステンドグラスの入った出窓などこのように優美な店舗は再現不可能なのではないでしょうか?惜しくも現在取り壊しになったとか。

 20年前に中に入ってお邪魔したとあるクリーニング店では、葡萄模様の建付けのしっかりしたステンドグラスが一階の奥に何枚も入っていました。お店の人は、「そういうものが好奇の対象になっても今の商売には関係ない。」と呟くように言っていましたが、そのお店は無くなってしまったのか、今回見当たりませんでした。次訪れた時には、この町がどう様変わりしているか気になる所です。 こちらの建物はしっかりリフォームされていて目を楽しませてくれます。
  


春駒の恐ろしいまでに鮮やかな青いタイルに衝撃を受けました。
今日の実が明日の虚と入れ替わる時代を乗り越えた花が、港町の水際にその幻影を移したようなそんなインスピレーションを得た旅でした。




 

西荻の小道・・・(杉並区・西荻窪)

2010年07月05日 | 赤線・青線のある町
 北は青梅街道、南は五日市街道に挟まれたJR西荻窪駅の南口周辺のご紹介です。南口の様子は少し刺激的で、まず駅に食い込む形でパチンコ屋があり、南口出てすぐ見える景色は立ち食い蕎麦屋とピンクのハリボテの象がアーケードの上部に吊るされている怪しさこの上無い「仲通り商店街」。ガード下沿いに西へ進めば、「サカエ通り」で、明るい時間から焼き鳥の煙がモウモウ立ち昇る戦後の闇市のような立ち飲みやの通りで、所々にピンサロありで、堂々と従業員の顔写真を往来に貼り出して居ます。
 
 サカエ通りは戦後の闇市の名残です。純喫茶DANTEはいつも繁盛しています。
  

 この仲通り商店街の中は道幅狭く、人工照明の明かりは暗く、天窓部分の覆いの赤と緑の色合いが物悲しげです。また上部にピンクの象は地域のお祭りで活躍するハリボテですが、お祭りが無いときはこうして吊るしてあるのだそうです。
 

駅側から反対側の景色はまた渋く、三丁目の夕日の世界です。 
  

 こちらは西荻窪を代表する不思議な場所です。駅南口から西荻銀座商店街を抜けて、西荻南中央通り商店街にあるお茶と乾物屋さんですが、お客への呼び込みの文句でしょうか、「健康への近道!千年の齢を得る為には茶を服せ!」などとご店主さんの力強い説法が店中に貼り付けられています。そして特筆すべきは店主さんによって描かれたオリジナルイラストです。出桁作りの古い店頭を飾る看板に、茶壷の顔をした女給さんが描かれていますが、そのユーモアセンスに惹かれます。
 

 ご店主さんのありがたい説法は、柱、看板、日曜道具、ありとあらゆるものにペンキで書き付けられています。しかしなんといっても極めつけはご店主が描いた「神農」です。薬業を営む人々の信仰する神様です。
 
 
 ディープスポットに事欠かない西荻窪南口。ガード下脇のサカエ通りに平行したさらに細い通り、「柳小路」という場所です。
  

 ここ数年で知った事ですが、実はこちらは若者の注目スポットなのです。エスニック系の料理屋何軒も入り、いかにも恐ろしげだった、2階建の古い小料理屋風の建物が、リノベーションされて、和洋折衷のインテリアを飾り付けられ、何時行ってもお祭りムードのアジアのマーケットのような雰囲気で通りが統一されつつあります。
  

 しかし夜ともなれば、まだまだこの通りの怪しさは健在、闇と極彩色の渦の中、ちょっとほろ酔い加減で、お店の外のトイレを使うにも、周辺はバラックでトタンの壁の迷路になっていたりと、あまりの非日常の雰囲気に、酔いがさらに進んでしまうようなそんな雰囲気です。