ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

高台の迷宮・文士村~その1(大田区馬込)

2013年08月10日 | 近代建築
狂おしいほどの暑さが列島を覆う、今日この頃ですが、いかがお過ごしですか?
 当ブログの画素数が低い、見づらい画像を提供していたデジカメですが、雑な扱い故にとうとう大破してしまい、変わりに少しだけ画素数の高い、同仕様のカメラを使って、うきうきと向かったのが、馬込の文士村です。文士村とは、まだTVがメディアの主流で無かった時代、話題を独占していた文壇や画壇の作家たちが、互いの情報交換もかねて、寄り添うようにして住居を構えたお屋敷町の事です。主に高台の見晴らしの良い土地を中心とした独特な雰囲気は、庶民の羨望を掻き立てました。現在の感覚で言えば、芸能人の高級住宅街のようなものかもしれません。
 都内の主な文士村は、馬込文士村(大田区)、下落合文士村(新宿区)、田端文士村(北区)などです。しかし大正時代末期から昭和初期まで栄えた文士村も遠い昔話。都営浅草線の西の終点駅、言葉は悪いですが辺鄙な土地に、西馬込駅から馬込文士村に向かいました。駅前からこれといって何があるわけでも無い景観が続き、少し不安を募らせます。
 
 
 住居の立て替えが進んでいるため、現存している文士達の住居は博物館(画家の川端龍子記念館、書家の熊谷恒子記念館、赤毛のアンの翻訳家村岡花子文庫)になっていましたが、それ以外は、路上に点在している文士村の案内板を手がかりに、くねくねとわかりにくい道をひたすら歩くだけです。
 入り口に灯篭を据えたお宅は60年代に建てられた豪邸で、現在私設ギャラリーに。書家の熊谷恒子記念館は、数奇屋作りの船底天井になっている居間など、建物も見所。
  

 江戸時代以前、江戸城の基礎を築いた太田道灌が、はるか遠く富士山まで望めるこの馬込の場所に居城を構えようとしましたが、「九十九谷」と呼ばれる坂だらけの地形ゆえに、築城を諦めたという話が残ってます。心なしか、お屋敷町と言われた割には、住居の規模が小さいのはその為かもしれません。
 途中、物々しい神社に立ち寄りました。シイの木の原生林が残る一種霊的な雰囲気に包まれた神社です。
 

 やっと、古く文化的な香りのするお宅を発見。ダイヤと呼ばれるキラキラ光るガラスがはまったこれまたダイヤ型の明り取り。
 

 
 見晴らしは良いのですが、本当にこんな場所に北原白秋や、山本周五郎を初めとした作家の大先生が好んで住んでいたのでしょうか?そして今回の一番の目的は「旧三島由紀夫邸」を拝むというものですが、このお宅はご遺族の管理の下にあるために、詳しい住所が公開されていません。照り付ける太陽の下、もう歩けない・・・と思い始めた頃、道端に小さなお堂を発見しました。


 

 見晴らしの良い場所のお堂ということは、富士山そのものを崇めた富士講のお堂かもしれません。そのお堂と数件の住居を隔てた道には、これまた意味深な大谷石のブロックを配した坂道がありました。上部には富士山から運んできた溶岩石が所々残っていて、富士山の祭礼の場所として富士塚と呼ばれる塚がこの周辺に築かれた痕跡ではないでしょうか?

 三島関連の本を調べると、三島由紀夫が市谷の駐屯地で衝撃的な自決(三島事件)をしたのが1970年、そして馬込の文士村に転居してくるのが、1959年。わずか10年程の居住期間となった白亜の宮殿と呼ばれたその自宅で、作家は自分の人生の最後の仕上げとばかりに「豊饒の海」という4部作の大長編小説を書き続けます。そして最終ページの入稿後に、盾の会の4名を率いて、凄惨な死を遂げるのです。
 「豊穣の海」の物語は輪廻転生をテーマとした物語ですが、そのキーとなるのが暁に染まる富士山です。「富士」という呼び名は「不死」とも重なり、あまたある山岳の中でも、もっとも強大で霊的な力を有すると言われ、江戸時代は庶民の信仰や文化的価値の頂点にありました。高さ10数メートルの富士塚は、富士登山に行きたくても行けない庶民の為に、至る所に築かれ、お山開きの日には、老若男女が本当の登山さながらに、地域地域の富士塚に訪れました。もしかすると三島由紀夫は自宅を建てるにあたって、その富士山から不老不死のパワーを得ようと、富士講の聖地の上に自宅を建て、それゆえに溶岩石や富士講のお堂が、三島邸の建築と共に再度整備された可能性があるかもしれません。
 
 名前だって、静岡の三島からだし憶測だとしても放っておけない話ね。

ご近所では富士塚先生と呼ばれてたりして。

富士は日本のこころです。

富士は甦りの聖地です。

 三島由紀夫は自殺を示唆するような作品を多く残し、血潮に染まり苦悶に呻く男の肉体を、論理や精神を超越した崇高な形態(偶像)として、作品世界で描き続ける事のみならず、時には自らが血潮を浴びたヌードの被写体となってまで欲し続けました。ところが良識のある人々なら眉を潜めそうな退廃的な妄想に耽溺していた反面、「生」に対する執着もまた顕著で、時として作品は非常に楽天的であったり、「潮騒」のように、おおらかで瑞々しい生命の賛歌を描くことをも得意としていました。また代表作「金閣寺」では、自害しようとして金閣寺に火を放つも、勢いよく出る煙に恐怖を感じ、一人山に逃げ込む僧侶の姿が描かれています。欲していた死と、同時に沸き起こる生への渇望・・・おそらく作家が青年期に遭遇した、東京を襲った空襲の凄まじい殺戮の光景は、一方で血なまぐさく猛々しい死の妄想を育み、一方では動物的に死を恐れる忌避の本能を与えたに違いありません。死への潜在的恐怖心と対峙して生きていくこと、それはもしかしたら人類共通の一番大きなテーマかもそれません。全知全能の神ですらその解決を与えてくれない、絶対的に不可避な死の訪れを誰よりも恐怖するばかりに、かえって死を繰り返し直視し、限りなく装飾し、作品として描き続けてしまう・・・一見、死を美的なモチーフとして扱う作家とられられがちな三島ですが、本当は超絶的な「生」そのものを死の累積の奥に炙り出そうとしていたのではないでしょうか。一方では瑞々しい生、一方では凄惨な死、そのどちらを振り子のように均一のバランスで行き交っていた作家の相反する死生観の闘争は、やがて生死の倫理観を超えうる「輪廻転生」というテーマへと向かい、生と死が融和してそのどちらも傷つけない平和的な決着をつけるかに見えました。しかしその作品世界の総仕上げと言わんばかりに、カーキ色の軍服を血で染め抜いて、恍惚として旅立った作家自身によって、生と死の争いがより謎に包まれたものになってしまいました。その最後が、あまりにもセンセーショナルで不可解だった故に・・・。
 けれど死後、作品世界は芸術をこよなく尊んだ貴族的な作家の趣向と相まって、絢爛な巻物に描かれた読み物語を、蝋燭の明かりで眺め見るような不思議な感慨を読む人に与え続けます。


ポカーン・・・。

 旧居が近い・・・そう感じても、古い家の建て壊しの重機が道を塞いでいたりで、いっこうに目指す物件が見えません。諦めかけたその時、小道沿いに目に飛び込んだ「三島由紀夫」の表札。


スペインで入手したと言われる陶板タイルには、苦悶にうめく闘牛士の図柄。徹底した美学ぶり・・・。
 

 お庭には入れませんが、今も輝きを失わない白い壁面と大理石のアポロのレプリカの上半身が見えます。下には12宮の星座が描かれた雪のように白いモザイクタイルが敷きつめられ、最上階には、富士山を眺める物見のドームが取り付けられていたそうです。ここは、安らぎをえる住居というよりは、映画や写真などのメディアにも積極的に自分をアピールしたスター三島のいわば荘厳な舞台装置でした。



 ご近所の人の話を伺うと「中は非公開なのよ。こんな事なら都が買い取ればいいのに。」なんて仰っていましたが・・・。都心でもっとも標高の高い市ヶ谷台から、不老不死の命を得ようとして、お気に入りの刀、凛々しい軍服、そして武士道の美徳を体現していた部下を携えて、まるで歌舞伎の幕切れのようにして、暁に染まる富士山が誘う永遠の命の世界へ旅立って行った作家の、壮大な生き様に少しだけ触れたような気がしました。

 帰りに、池上本門寺に行きました。正直日蓮さんのお寺は、あまり雅な感じがしません。境内は広く、空襲を逃れた歴史的建造物もわずかですが残っています。江戸時代に作られた石段はとても急です。
 

 古風な酒屋さんが参道にありました。あと、自由雲と書いてジュンと読む変わった喫茶店もありました。
 



 おかしな左官屋さんに、戦前から変わらない風情の古い池上駅です。
  

交通安全の母子像(さぬきうどん県)

2013年06月01日 | 瀬戸内の名所・旧跡
 さぬきうどん県にしばし里帰りしましたが、体調が優れず、セルフうどんの店でうどんを食しただけで貴重な休日は無くなってしまいました。

 のっけからシュールな光景。刑務所の三文字よりも、うどんの三文字に目が行くのはもう、うどん王国民の悲しい性・・・。


 どこもかしこもうどん。うどん焼きに、うどん130円の行列店・・・。
 

郊外から国道11号線沿いに徒歩で市街地まで歩くと、目に留まる異形の交通安全親子。


 割烹着を着ている母親の姿か形からすると戦後すぐの作品かもしれません。
   そうかもね!

 母子像・・・。


 この町に育つと「あれな~に?」と親に問うことが戒律に触れるということを覚えます。
 

 瓦町の商店街にある鳥居を潜ると、ブルーフィルム映画館で「男の壺飼育」を上映中。
  

 バーりぼん・・・。


 でもやっぱり順子の部屋は瀬戸の玉石!
 
 
 商店街中心部は、クリスタルパレス風・・・うどん県らしからぬ感じ。
   

 さぬきうどん駅。徹底したうどん主義にナチを思う今日この頃。
  そうかもね!

甲府の寺社巡り~(山梨県・甲府)

2012年11月12日 | 寺社仏閣
 寺社巡りがしたくて鎌倉か奈良に一泊・・・と思ったのですが、ふいに山梨の観光案内を見て、武田信玄にゆかりのある史跡の数々が誘う戦国ロマンに浸りたく甲府に行く事にしました。都内から、特急で山を超え、ぶどう畑が各所に見え始めたら程なく甲府駅に到着でした。甲府駅は明治政府によって取り潰しにあった舞鶴城の城址の上に建てられているという事で、ホームから南北に復元された石垣を望む事ができます。そして駅から北へ武田通りを直進いざ「武田神社」へ。しかし坂道なので、途中、電動サイクルをレンタルして、すいすいと登り到着。
 「武田神社」は武田氏三代の居城の跡で、平城の空堀なども残り、現在は武田信玄公を祀る神社です。桧皮葺が美しい屋根ですが、京都や鎌倉の寺社と比べるとアレだ、なんて思うのは無粋です。 
 
 白い洋館は、武田神社の敷地から駅前に移転させられた古い小学校の建物です。
 

 武田通り途中にある寺「満蔵院」は明治以前の神仏習合がまだ残っていました。お寺の中にあった鏡をお祀りする神道のお堂です。
 

 歴史のある街ですから、寺院の多いエリアに向かう道の途中で、いたるところに不思議な屋敷神があります。また都内では見かけない丸い石に道祖神と刻まれた道標もありました。(都心は村の入口の道標の代わりになるものは、庚申塚及び地蔵が主流です。)
 
 
 小川にかかる橋は昭和4年とあります。


 電動自転車でぶどう畑を眺めつつ曲がりくねった道を進み、2駅隣の「甲斐善光寺」へ。信玄が信濃善光寺の消失を恐れて本尊を移転する為に作った甲斐の善光寺です。本家の長野の善光寺を知らないのでなんとも言えませんが、本堂が大きい以外は見所は控えめだと思いました。


 今度は少々迷ってようやく墓地の中に佇む、「法蓋山東光寺」に向かいました。周囲はぶどう畑と住宅地以外は何もなく、物凄く凡庸な光景です。実は、甲府は広範囲に空襲(甲府空襲)があったので、市街地も寺院の周辺も期待していた程、古めかしい建物や史跡が残ってないようでした。車の行き交う音に包まれた中途半端に開発された山々に抱かれた室町時代から伝わる桧皮葺の「仏殿」は不思議な光景でした。この建物だけは奇跡的に戦火から免れたという事です。
 

 しかし東光寺のさらなる見所は、本堂の裏手の庭園にあります。僧侶の蘭溪道隆禅師が作ったとされる日本庭園です。築山や人口の川を巡る回遊式庭園ではなく、座敷から眺める池泉鑑賞式庭園で、古い庭園らしく、こぶりの奇岩をゴロゴロと並べ、池を隔てた斜面部分は部分的に枯山水になっていて、想像力をかきたてます。山梨には、他にも恵林寺方丈庭園という名園があります。
 

 近所に廃寺を見つけて暗い気持ちになっていたら、山道に妙な仏様の姿がチラチラ見えるような気がします。・・・カメラでズームにするとガイドブックにも載らない、大仏が映っているではありませんか・・・喜び勇んで行くと、山道の途中にある巨大地蔵でした。胴体が自然岩で、首だけ人工という珍しい石仏…。首地蔵というらしく、巨石信仰みたいで面白いです。
 



 熊野権現神社と巨大地蔵とご婦人。その眼の見据える先が善光寺でした。


 途中の参拝道には茶店の跡?土壁に葡萄の柄を装飾する粋な建物。
 

 線路脇の自殺防止のお説法は、効果あるのでしょうか?甲府名産、水晶で作った名物鳥もつ料理です。そこはかとない田舎の風情に満ちた山梨でした。
 

甲府の夜(山梨県・甲府市)

2012年11月08日 | 飲み屋街
 甲府の「鏡温泉」に行きました。温泉といっても殆ど銭湯のような施設です。県民ホールの近くにあるというので、夜間に行くと、異変に気がつきます。役所などがひしめく場所に、夜間人通りが少ないことは納得が行くのですが、街灯が明らかに少ないのです。真っ暗な中を地図もなしに当てずっぽうにさまよっていると、これまた省エネモードの暗闇に浮かぶレトロ建築の建物がありました。明かりの漏れるドアの向こうはすぐ脱衣場になっていて、通りからお年寄りのご婦人のヌードを見たような見なかったような・・・。番台のようなものも無く、お金を払うときに女湯の脱衣場が見えまくりという困った作りの内部をどう説明したら良いでしょう?天井で回る送風機、鍵の壊れた木製のロッカーは文化遺産級・・・。昭和のレトロな作りの浴槽はアールを描いた豆タイル仕立てで、奥には源泉の打たせ湯がありました。しかし冷泉なので、一人で打たれていると滝修行・・・。何処へ行っても同じ雰囲気のスパ銭に飽きた方はお試し下さい。
 

 帰りは何か食事でも、と思ったのですが、とりあえず役所の裏通りを歩くとこれがなんと歓楽街でした。大通りは呼び込みがギロリと睨んでいたので、かろうじて小さな路地を撮影しました。あとで調べて分かったことですが、甲府駅(甲府城)の南側に位置するこの周辺は昔から旅籠屋に付属する歓楽街であったということです。南西部に穴切遊郭という計画的に作られた新地(戦後は赤線)がありましたが、業者は撤退したようで、今は区割りや古びた日本家屋で花街の面影を見る程度だと言います。
 
 
 オリンピック通り・・・カフェーとか直球勝負のネーミングセンス。
 

スナックシェルブール・・・よろしく・・・。小料理屋もありましたが、色っぽい外装。
  

柳小路飲食店街は民家ばかりで、青線酒場の成れの果てだと思います。

 次の日、一時間に一本しか来ないバスに愛想をつかして2キロ程歩くと、見えてきたのはぶどう畑ばかりでした。こちらは農家が吊るしている偽物です。のどかですね。

 

富士のふもとの不夜城~その2(山梨・下吉田)

2012年11月07日 | 赤線・青線のある町
富士のふもとの不夜城~その1の続きです。
 
 富士山に行きました。富士急行から見える富士だけが雲から僅かにお裾が見えて富士山だと確認できました。終点駅富士吉田から、金鳥居をくぐり富士を見据えながら進むと、道沿いに江戸時代の富士登山者の人々を世話する「御師」の宿坊を目にする事になります。江戸時代の市民にとって遊興の為の旅は禁じられていましたが、信仰のための旅は許されていました。霊峰の富士山登山、伊勢参り、金毘羅参りなどの旅です。しかし高さのみならず日本一気象条件の厳しい霊峰富士を目指すことは命懸けの旅でした。ところが、その危険とは裏腹に富士信仰は爆発的な人気で広がり、関東の神社の境内には必ずと言っていいほど、浅間神社の祠と共に、高さ10mに満たない富士山のミニチュア(富士塚)が富士の溶岩石で築かれ、そのミニチュアを登ることが市民の間で大流行したのです。そこで、市民は個人でまかなえない旅費や引率の登山のプロに支払う賃金を積立金として近隣のものと行う「富士講」の宗教的組織に参加しました。毎年行われるクジで、代表者だけが参拝する講のシステムは他の山々にある山岳信仰でも見られます。富士講は人気だったために、富士登山口にある「北口本宮冨士浅間神社」はその規模も雰囲気も歴史的重みも素晴らしいものがありました。

金鳥居をくぐると、雲の中の富士山を見据えながら「御師」の宿坊が連なる坂道を登ることになります。
  

「北口本宮冨士浅間神社」の入り口。植樹された杉並木と朽ちた灯篭が畏怖の念を駆り立てます。
 

 境内の拝殿の右隣にある白木の鳥居の奥が富士登山口です。そこに立つこの不敵な笑みを浮かべる富士講の石像・・・。
   
 
 安土桃山様式の素晴らしい拝殿。奥の本殿は金箔張りで、木花開耶姫を祀るもの。冨士山の神様はなんと女性だったのです!?
 

 拝殿には天狗の絵馬があって気分を盛り上げます。
 

 神社を堪能したあとは、下吉田の歓楽街の続きです。屋根が富士型になっている店舗もあります。
  
 
 細い暗がりの路地に面している壁に、大きな窓を設えるのは、中にいる女給さんが良く見えるようにという行政の指導によるものです。戦前の旧遊郭の建物は、日本家屋特有の格子窓だったので、そこで女給さんが手招きしたり、媚を売ると牢屋のように見えたから・・・と確かそのような理由で大きく採光窓が取り付けられました。今はユースホステルになっている店舗もありました。
 

 

コカコーラの富士社交組合看板。明朗会計の店という表示も。人魚の看板がとても可愛いのですが、場所はとても怖い廃墟の折り重なる路地でした。
 

見ているだけで吸い込まれちゃうアールの入口。まだ営業しているお店はキュートな色使い。
 
 
 歓楽街が途切れる場所に、病院と真向かいに「角田医院」というお神輿がそのまま建物になったようなお宅を目にしました。今は病院が管理していますが当時は大宴会場だったという事です。東京の宮大工に作らせた昭和初期の建物です。芸者遊びをする温泉宿をもはるかに凌ぐ豪華な建築だと思います。文化的価値が認められて内部公開とかにならないでしょうか?財閥や大富豪なんて言葉が現存していた頃の栄華がまだ富士の裾に眠っているのです。
 日本一の意地と張りだわね!

富士のふもとの不夜城~その1(山梨・下吉田)

2012年11月07日 | 赤線・青線のある町
 富士山が見たくなって、富士急行に乗りました。しかし関東が記録的な濃霧の為に、終点の富士吉田に到着するかしないかの時に電車の窓から見えた一瞬のみが、富士山のお目見えでした。あとは、雲の中・・・。富士吉田は、江戸時代からの富士登山口です。霊峰を崇める「北口本宮富士浅間神社」に参拝したあとは、古い建物を探索する事にしました。溶岩石をタイルがわりに張り巡らした商店など、いかにも富士のふもとの店といった感じです。
 
 富士吉田駅から、隣の月江寺駅、下吉田駅に下る国道の坂道はかつては富士道と言われていた通りで、ユニークな看板建築が軒を連ねます。戦前は、下吉田は絹織物の産地として、織物商の仲買人が泊まりがけで月江寺、下吉田界隈に多く訪れたために、遊郭、宴会場のような遊興の歓楽街が国道と並行した「西裏通り」周辺に出来ました。また富士には陸軍の演習場があったために、戦後は進駐軍がそこを盛り場とし、遊郭を母体とした赤線、私娼街の青線がその周辺にくまなく張り巡らされる結果となりました。進駐軍が撤退したあとは自衛隊が、そして観光客がそれらの施設を利用したようですが、街並みも裏通りの歓楽街も不思議と、1970年代頃から時間がストップしているように感じます。戦後織物産業は廃れ、国内旅行ブームの終焉などの為、宿泊客が激減して地方にお金を落としていかなくなったからでしょうか。
 

 

 所謂、瀕死の街をレトロタウンとして、魅力再発掘をアピールする観光振興会のパンフなどを見ると、「西裏通り」を歓楽街とはっきり明記しています。法の整備が地方によって曖昧なので、都内の歓楽街巡りよりも危険を承知で探索してみました。西裏通りを中心としてその横に入る路地にも様々な名前の通りがありました。
  
 
  

 戦後は赤線の店舗はカフェーといって、洋風に設える事が殆どなのですが、私娼街の青線に至っては千変万化です。スナック風、和風の小料理屋風店舗、二階に隠し部屋を持つ長屋店舗、戦前の旧遊郭をそのまま利用したもの、入口にブルーのペンキを塗って進駐軍のための目印にした店舗など様々でした。
 

 

 2つの店舗が向かい合う大正ロマン的な装置のような一角はどうでしょう。あまりにも作りが良いので戦後の赤線時代のものか、最近のキャバレーのものか判断つきかねる程でした。




  

 

 さらにデォープな雰囲気の場所。色町のタイル装飾は本来、綺麗なものと相場が決まっているのですが、こちらは少し趣が違うようです。
 

 

 「子之神通り」の富士が見える3階建ての豪奢な木造建築。通りに面してではなく、細い路地側に破風のある入口がある事から、たぶん遊郭でしょう。看板を見ると寿司屋に転業したようです。


 

 遊郭の通りの奥はタイル張りのカフェー風店舗がひしめき、さらに赤線感漂う一角です。赤線は、本来計画的な区割り上に建てられるのですが、こちらは迷宮化しています。おどろおどしいタイルや欲望をそのまま視覚化したような看板に興味深々。
 

 




 再び国内旅行や、山登りなど、脚光を浴びる日本の観光地ですが、下吉田界隈もぜひともそのレトロさ(?)を保ちつつ完全に廃れるような事の無いことを願います。

秩父ロマン

2012年10月14日 | 赤線・青線のある町
 山に囲まれた埼玉県の秩父は、市街地を流れる川の周辺に形成されたひな壇状の街です。34箇所観音霊場を始め、市街地には秩父総鎮守の「秩父神社」、山間には「宝登山神社」、「三峯神社」などがあり、見所は豊富です。この3つの神社には江戸時代から伝わる社殿に破風を飾る豪華絢爛な木彫の装飾(懸魚)が施されています。

秩父の長瀞にある「宝登山神社」は白地に極彩色の龍の木彫。
 

秩父神社は、家康公によって建てられているので、日光東照宮の木彫の装飾で名高い左甚五郎による「つなぎの竜」の彫刻などを見る事ができます。江戸時代のこうした寺院における彫刻は、様々な、なぞ賭けを見るものに与えます。鎖で繋がれた竜…川を中心とし、一筋縄ではいかない修験者達が山間部に居たと言われるこの秩父は、幕府にとってまさに繋ぎの竜そのものだったのかもしれません。
 

 町並みは普通に古ぼけた町ですが、50年前にタイムスリップしたようだ・・・と言っても大げさではありません。西武秩父線の終点、西武秩父駅の近くには34箇所観音霊場の13番「慈眼寺」があります。本堂の観音様の隣にはお薬師様の眼病治癒のお堂が奉られています。こじんまりとしたお寺ですが、これが市街地のお寺かと驚く程のひなびた佇まいに驚かされます。明治時代に建てられた本堂には、秩父独特の懸魚が施されています。琴の名手応婦人と龍の模様は、秩父の名物「夜祭」の主役、華麗な山車を飾る懸魚でも見ることができます。
  

 慈眼寺の裏側の路地はとても怪しく必見です。古くからの宿場がある大通りには、木造建築の旧遊郭(赤線)があるようですが、それとは別の青線が駅やお寺の傍に出来たと仮定すれば、だいたいこのあたりではないかと思うのですが、推測の域を出ていません。ただの民家だとしたら御免なさい。
  

狭い路地に所々にある不思議な作りの建物や色っぽい意匠などに、もしかしたら・・・と思いながらの散策でした。
 
 
 白壁の蔵造の本堂がモダンな風情を漂わせている「少林寺」の近くには小規模のスナック街がありました。ここも青線ストリートだったようです。
 
 
 小さな路地に不思議を極めた、「クラブ湯」がありました。男湯と女湯が扇形の意匠で、鮮やかな豆タイルの装飾がとても怪しい感じです。卓球場のようでもあり、カフェーのようでもあり・・・。
  

 
 
 番場通りと昭和通りの交差点には、誰もが足を止める、大正~昭和初期の見事な看板建築が現存しています。その周辺にも華麗な洋館が立ち並び、その保存状態の良さなどから、まるで建物のミュージアムに居るような気さえしてきます。俗に言う大正ロマンの退廃的な雰囲気がここまで残された場所は、本郷や千駄ヶ谷の古書街かこの秩父の通りと言ったところでしょうか?
 
 
 埼玉の山奥にパリ出現。大衆食堂「パリー」。なんてデカダンス!
 

 ネオン管がまだ残っていて、お店の横にはかわいい屋敷神様が・・・。
 
 
 パリーもこちらの「小池煙草店」の看板建築も、登録有形文化財になっています。看板建築は表面は木造モルタルですが、あたかも西洋の石作りのビルで、3~4階建てに見せかけるのが特徴で、中の家屋よりも路面側の天井高は相当高めに作ってあります。裏側をつっかえ棒などで立てているものまであって、まさに看板なのです。


 お寺や神社巡りもいいですが、近代建築を巡る楽しさも秩父にはあります。
 

順子の部屋(さぬきうどん県)

2012年06月12日 | 赤線・青線のある町
 久々に郷里のうどん県に帰りました。誰が決めたか知らないが、玄関口の高松駅はさぬきうどん駅に変わっていました。四国香川はしばらく故郷を離れているうちに、さぬきうどん自治区になってしまったのです。でもさぬきうどん県の人々はたらいうどんで産湯を使い、朝昼晩うどん、死に水ですらうどんの出汁なのですから、それも致し方ないことです。
 
 この度めでたく、観光地を賑やかに(騒々しく)するミシュランガイドから三ツ星を頂いた松平家の下屋敷跡の栗林公園に、海を渡る世界一の瀬戸大橋、四国88箇所巡り・・・と見所はたくさんあるうどん県ですが、今回ご紹介する場所は子供の頃、知らずに踏み込んだときに、その雰囲気の凄まじさに圧倒された場所です。思えばそれが初めての青線地帯との出会いでした。そこは高松市街地の中心部分に近い、琴平電鉄片原町駅の前にある場所です。近隣には江戸~大正時代からある海に張り出した出島の「城東町」(旧遊郭~赤線~現在も全国区に知れ渡る歓楽街)があるので、そこへのアクセスに使う片原町駅前が青線になったのでしょうか。
〈赤線・青線のある町〉


 気品すら漂うボロさ。 

 ここ20年、半廃墟のような佇まいで、開発も入りません。

 完全に遊郭そのものの出入り口が、駅前に出現する異様。

 昔のお店の手書き地図ですがネーミングの多彩さにご注目。「泥棒貴族」「ボントン」「バンボリーナ」「子子子」「鳩子」・・・。
 
 建築意匠は当時のまま残っています。
  
 とある一番奥まった所にあったお店には夜間保育の看板が出ていました。さらに小道に入ると力強い看板文字と場末の極限のような店舗の数々。
 

 
 通るたびに何も変わっていなくてほっとするのです。この界隈、はたして今も営業しているのかどうか不思議なのですが、流石に夜に出向いて確かめる勇気はありません。

  
 四国一の歓楽街であった高松市にも過疎の波が押し寄せ、ずいぶん街中が寂しい気がするのが残念です。お店の看板の多彩な文字に田舎の逞しさを感じます。

鶯の鳴く隠れ里(台東区・根岸)

2012年01月24日 | 芸者町・三業地跡
 今回はJR山手線の駅周辺『鶯谷』をご紹介いたします。もともと鶯谷という地名はなく、根岸の里(鶯谷駅北東側の根岸1~5丁目)と呼ばれていたこの界隈の由緒を調べると、駅の南側の高台には歴代将軍の墓所を構え、江戸時代には城北で唯一の武家屋敷街となり、明治には正岡子規をはじめとした文人墨客の住いや料亭があり、北に灌漑用水の音無川が流れる、風光明媚な場所だった・・・と書いてありました。 
 隣駅は高台から富士山を望める遊行の土地として賑わった日暮里ですから、鶯谷も由緒だけ聞けば、鶯の鳴き声が聞こえてきそうな風情ですが、現在は山の手線の各駅の中でもおそらくダントツの大場末です。関東大震災は免れたものの、広大な加賀の前田邸は戦争で焼け、駅前近辺で街娼がうろつく、連れ込み宿やラブホテルの街へと転じていきました。(山手線では連れ込み旅館やコリアンタウンのある大久保も以前は高級住宅街だった経歴があります。)根岸一丁目~二丁目の駅前周辺はホテルだらけ。巨大なホテル同士が立ち並び、日中でも夜のような通路に、昼間から外国人の娼婦が流しをやっています。
  

 外壁の擬似木が大胆なデザインの温泉旅館のようなホテル。
  

 山の手線から見える「元三島神社」は、一階に食堂や飲み屋が入り、かつて旅館だった入り口の跡のある妖しい通りを過ぎればお参りできます。
   
 
 バーが一階に入っている神社の佇まい。しかも鳥居の前で堂々と街娼がお商売しています。
   
 
 そして一騒動。外国人街娼が玉垣周辺にたむろしてると思ったら、新参者の街娼を囲んで、野太い声であたりはばからず大喧嘩。
「チョーとあんた!あたしらは¥○X△でショーバイしてるのよ!なのに、あんたイクラ!」
「¥□△@よ!」
「ンマーそんなネダンでヤリクサッテ!このバショにはこのバショのルールがあるのよ!」
「そんなのアタシのジユウでしょ!」
「ジユウが聞いてアキレルよ!さっさと出て行くかルールを守るかドッチかにしなさいよ!」
「ワカータワヨ!その値段でヤルワヨ!」

 若い新参者も素直に納得したようで、映画「肉体の門」を見ているような街娼同士の小競り合いのケリはついたようでしたが、彼女たちの存在そのものが違法なのでは?捕まらないのは、いろいろな法的な抜け道でもあるのでしょうか?
きっと街娼という生活様式を守り伝える無形文化財なのよ。

 昔ながらの連れ込み旅館の残る通りは、のんびり散歩できます。
 

 志ほ原という名前に時代を感じます。
 

 ホテル街の端っこのほうに、戦火で消失した正岡子規の屋敷を再現した『子規庵』や『書道博物館』の通りがあります。大名屋敷の敷地が後の文人達の住いとなったようです。
 

 北側には石神井公園の池を水源として吉原の前を通り隅田川に注ぐ音無川が流れていたようですが、現在は大部分が暗渠となって若干の風情を嗅ぎ取るのさえ難しい雰囲気です。この近所の民家はそこそこ立派な門構えだったりするので、屋敷町だった雰囲気はあります。また一軒の豆腐料理屋は黒塀で、かつてのこの界隈の歴史と風格を残していました。夜ともなればけばけばしいネオン街に豹変する町は、もともと大名屋敷で、日本庭園や能楽堂まであっただなんて誰が想像できるでしょうか?
  

 根岸4丁目にあったのは根岸三業地(料理屋・待合・置屋の三業)です。現在は芸者さんは居ませんが、『柳通り』という花街特有の柳が街路樹の通りがあって、小料理屋や老舗の染物屋がありました。通り沿いのスナックの名前に「花」「藤」などがあるのも花街の雰囲気です。
 

待合の建物は京都のお茶屋に相当しますが、狭い路地の奥に並ぶ待合の建物。座敷の欄干がまるで寺社か御殿のようです。殆どの待合は昔の外観のまま建て替えも無い事から、かろうじて最近まで何らかの形で営業していたであろう様子が伺えました。
 
 塀や屋根の形など非日常的な感じです。
 

 

  

 また待合から割烹料理屋に鞍替えしたお店もひっそり営業中でした。
 

 入谷と根岸の境にある金杉通りは、旧街道があった場所で、戦前の商店の光景を目にすることができます。蔵作り、出桁作り、看板建築なんでもありで、楽しませてくれます。
 

 
 
 金杉通りから一本奥の根岸3丁目にある鶯通りは旧遊郭だったあたりでしょうか。3丁目は寺町で朝顔市で賑わう入谷鬼子母神や、江戸名所として見物客を集めた西蔵院の「御行の松」(現在枯死)が近隣に在った事から、人通りに事欠かない土地にできた遊郭だったのかもしれません。左手の看板建築と寄り添っているユニークな煎餅屋が目を引きます。
 

 戦後は同じ台東区の吉原や玉ノ井ように、戦前の遊郭街を母体として引き継いだ赤線地帯にはならず、通常の町になったようですが、所沢、川越、船橋、八王子、と郊外に行けば見ることができる戦前の旧遊郭の雰囲気が都内で見られるのはおそらくここだけだと思います。小さな通りに斜めに設えた入り口の産婦人科があったりする様子にドキっとさせられます。
 

 古いネオン管の看板にかろうじて残る旅館の文字。 

千住宿と千住遊郭(足立区)

2012年01月02日 | 赤線・青線のある町
謹んで新春のお喜びを申し上げます。

 今回ご紹介するのは、足立区、北千住駅に近い「千住宿」です。現在の日光街道と平行に並ぶ商店街が、江戸時代の旧日光街道(現在宿場町通り)で、その周辺に形成されていたのが千住宿で、江戸四宿(新宿、板橋宿、品川宿、千住宿)のうちの一つです。震災と、戦火から免れた場所が多く、千住には歴史的な景観や細くて折れ曲がった路地が残っています。
  

 駅、徒歩一分で連れ込み旅館とは下町パワー、いえ千住パワー。
     

「毎日通り飲食店街」が街道沿いの小道にありました。昔の歓楽街や色町を示すレトロな電柱がありました。
 

旅館の看板が郷愁誘う通り。屋根瓦にも風格があります。


街道近くにある氷川神社は大黒天が旧本殿に納められています。花こそ咲いていませんが、藤棚があって、風雅な雰囲気が感じられた神社です。
  

重々しい銭湯の建物と、歴史的建造物の横山家住宅。
  

 宿場町ですから宿場女郎も当然居ました。大正10年に、旧日光街道沿いの宿場町に散在していた女郎達を、現在の日光街道を跨いでさらに西へ進んだ場所に指定地を設けて移動させ、「千住遊郭(柳新地)」とし、戦後は千住の赤線地帯として売春防止条例が発布されるまで繁栄したという事です。現在は千住柳町と言って、大門通り、いろは通り、仲通りなどといった、いかにも赤線的な名称の商店街が並ぶひっそりとした雰囲気の住宅地となっています。駅から15分も歩くような遠い土地ですから、スナックなども少なく、如何わしさは皆無です。

 大門(おおもん)通りといろは通り。かつて柳新地だった千住柳町を取り囲む形で、様々な商店街があるのですから、赤線が地域にもたらした利潤には驚かされます。
 

美容室は女給さん達のため。寿司屋も花街周辺ではよく見かけます。
 

おどろおどろしいアパートの廃屋。電柱には古い地名の「廓」の文字。廓町って、露骨すぎですね。
 

柳町の隣町、大川町の物干し台が印象的な家屋。この遊郭にはお堀やどぶ川などの他の地域と色町を隔てた結界がありません。しかし目と鼻の先には荒川と隅田川が流れています。自然が生んだ結界という事でしょうか?


 危惧していた通り、古い建物は相当建て替えが進んでいるようで、戦後のカフェーの建物は見当たりません。戦後の赤線の店舗はカフェー(特殊飲食店)といって、建築そのものは木造で、座敷があったりするのですが、窓は大きく、入り口は西洋風、または和洋折衷様式を基調としていました。モルタルでひさしに段を重ねたり、スペイン瓦や色とりどりの豆タイルで一階部分に装飾を施し、華麗なネオンサインで粋な店名を掲げます。しかし、ほんの僅かにカフェーの痕跡を残す店舗跡がある他は、曳船にある「鳩の町」のようなカフェー独特の建物にはお目にかかりませんでした。

複雑に折れ曲がった路地の中にカフェーと見まごうばかりの左官屋さんの店がありました。看板建築にありそうな中国風の文様を施した入り口、戸袋にコンクリートで擬似木をあしらったり・・・。 
 

やっと目にしたお店はカフェーでしょうか?バルコニーやら二色に色分けされた外壁などが粋な感じでした。
 

通りから入り口は塀を建てて隠していましたが、ひさしのディテールが綺麗です。
  

ひさしがアール状である事を除けばまるきり新しい建物にも見えます。


ちょっと装飾が物足りないのですが、建て替えを免れるのはむしろこういう一見普通のお宅なのかもしれません。


灯篭と楓の木がむちゃくちゃな和風テイストをかもし出す珍住居。
    

色町には質屋が必ずあります。左官屋がイタズラしたようなポストの下に小さな擬似木の装飾のある普通のお宅。右端の建物は入り口が2つあるのがカフェーっぽいのですが普通の民家かもしれません。当時、女給が客引きを行うのは、ひとつの入り口につき一人と決められていたために、女給の多いカフェーは無理やり沢山の入り口を設けていました。
  

出前は敏速、そしてニコニコ商店街。
  

色町の粋。お風呂タイルを貼った染み抜き屋の入り口。竹の格子も数奇屋をイメージしたのでしょうか。
    

江戸情緒の和風ビジネスホテル~その2(都内)

2011年11月14日 | 旅荘・簡易宿所
 和風ビジネスホテル~その1の続きです。

  池袋「水○」
 ハイソな目白から一転、ラブホらだけの池袋です。戦前は電車も止まらない、巣鴨刑務所があるだけの辺ぴな巣鴨村という場所でしたが、戦後は、国鉄、西武池袋線、地下鉄が繋がるターミナルとして目覚しい発展を遂げました。また池袋は西口駅前から池袋1丁目~3丁目とはてしなく続くホテル街があって、その規模は歌舞伎町や鶯谷のホテル街を凌いでたぶん都内最大です。ホテル街の最も入り組んだ果ての静かな民家が立ち並ぶ場所にあったビジネスホテルの水○。長期滞在の方が多いようで、ドヤ街にある簡易宿泊所のような雰囲気もありますが、コンクリートの擬木を使った装飾に、ささやかな高級感が見て取れます。
 

 
 裏口の茶室のような擬似木と、青いゴミバケツの取り合わせ。
 

 砂利の洗出しの塀に光るご案内看板。
 

 長期滞在もご歓迎いたします。


 大久保「なが○き」
 大久保界隈は江戸時代は、徳川将軍の警護にあたる百人同心の住んでいた場所(百人町)で、のちに音楽家などが住まう高級住宅街になりましたが、東京大空襲で焼け野原になった後は、木賃宿のドヤ街、コリアンタウン、街娼御用達のラブホテル街・・・と場末に転じていきましたが、今現在は韓流ブームのお陰で、かつての後ろめたい雰囲気のホテル街は、韓流スターのグッズショップや焼肉屋さんがひしめく賑やかな通りに変変わりました。でも古めかしいビジネスホテルの通りもまだ健在でした。
 
 まるでカフェーのように不思議なタイルの柱や、V型にえぐれた屋根の斬新なデザインに昭和のセンスを感じます。
  
 和洋折衷の店舗が二店舗続いていますが、どちらのアプローチも上品です。夜の看板の色合い・・・。
  

 昼は静かな心の奥の情念が 日暮れとともに騒ぎ出し
   

暗がりに佇む人に マドンナの微笑を見出してしまうそんな夜
月よりも明るいネオンが そっと囁く愛の秘密
  

 またのお越しをお待ちいたしております。

江戸情緒の和風ビジネスホテル~その1(都内)

2011年11月13日 | 旅荘・簡易宿所
 和風ビジネスホテルがとても気になります。昔は逆さくらげのマークがついていた「連れ込み旅館」と呼んでいたそうなのですが、今現在は和風ビジネスホテル、または「旅荘」と呼びます。
 ビジネス・・・こんなに都合の良い響きがまたとあるでしょうか?お父さんが後ろめたい事を突かれた場合、ここぞとばかり「これは仕事の上の付き合いだから仕方が無いだろう!」といぶかる妻を叱責しつつ煙に巻く時、「ビジネス」の言葉の威力は絶大です。
 もうお仕事ならしかたないわね!

 今回ご紹介するビジネスホテル(旅荘)とは、営業や出張などのお仕事の為や、観光ホテルを敬遠して旅費を抑える旅行者のための簡易宿泊施設としての事ではありません。なんだかウドン屋と蕎麦屋と小料理屋がごっちゃになったような外観の純和風を売りにしたビジネスホテルです。そういったビジネスホテルはラブホテル街に存在する事が多いようですが、殆どの場合、その前身は、連れ込み旅館でした。その他、芸者さんとの宴席を持つ御茶屋さん(待合)が不景気で連れ込み旅館に転業したり、もともと日雇い労働者の木賃宿(ドヤ)だったり・・・様々です。
 和風ビジネスホテルはやはりその古風な外観こそ命。仲居さんが接待して、中に景色抜群の露天風呂でも装備して居るんじゃないだろうかとさえ思わせてしまう、ビジネス旅館をご紹介いたします。

 吉祥寺「旅荘 和歌○」
 
 神田川の源流でもあり吉祥寺の駅から近い井之頭公園にある井の頭のお池は、徳川家光候のお鷹狩の場所として、また井の頭の池に浮かぶ井の頭弁財天は、江戸郊外の名所として古くから人々に親しまれておりました。そんな場所にある緑色の外壁が木立に溶けて眩しく微笑む和歌○です。
 

 

 料金表の看板が扇型なのが洒落ています。吉祥寺は、戦後は連れ込み旅館のメッカで、池の周辺は旅館だらけであったと言います。現在は静かな住宅地に囲まれていますが、和歌水はそんな数少ない連れ込み宿の生き残り。池の北側の繁華街の近くには小規模ながらホテル街があります。
  

 駒込「江○駒」
 江戸時代、城下に暮らす諸大名の娯楽と言えば、広大な下屋敷に繰り広げられた日本庭園造りで、その庭園を飾ったのが駒込で生産される桜やサツキといった花々の立木でした。また駒込には六義園、旧古河庭園など、都内でも屈指の日本庭園が現存していて、町全体が風雅な雰囲気に溢れています。駒込駅の近くにある坂道を登ると神社があり、その石段脇に立つ江○駒。入り口には植木と石を配して江戸情緒を存分にアピールしているようでした。なんといっても石段の隣というロケーションがたまりません。
   

   

  

 高田馬場「多○旅館」
 高田馬場は言わずと知れた早稲田大生が多く集う街。いわゆる新宿や池袋のような大規模な歓楽街というものは形成されていないようです。しかし、小さな通りのそこかしこに連れ込み旅館があったであろう通りが残っていて、今はラブホテルやスナックに転業したりしているようです。この多○旅館、所々下目張り板だったり、石張りの壁だったり、チグハグの印象を受ける外装が、かえってお洒落な雪山の山荘のようにも見えます。
 

 今は民家ですが、やはり連れ込み旅館のような建物もチラホラ。
  
 
 
 目白「ビジネス塩○屋」
 目白駅周辺は皇室の方々もご通学されていた学習院があるために歓楽街は形成されていません。しかし大きな目白の大地を掘削して通された山の手線の駅の傍は、切り通しの崖になっていて、坂道沿いに料亭や風情のあるお稲荷さんがひっそりと並んでいました。目白から下落合、中井にかけての台地は、戦前は高級住宅地で、政治家、洋画家、文人達の住まう豪奢な洋館と、広々とした田園が織り成すのどかな場所であったということです。ビジネスホテルひとつとってもこの雰囲気、確かに頷けます。
    

 入り口の目隠し。


 近くにあったとある大豪邸の洋館に引けを取らない堂々とした和風ビジネスホテルです。
   

ビジネス旅館・・・そこは都会の風雅な隠れ里。
 和風ビジネス旅館~その2へ続く。

古民家カフェ絵巻

2011年11月05日 | 古い建物
 数年前まで、遠くに足を伸ばさないと行けなかった古民家カフェが、東京に少しずつ増えてきているような気がします。これは家の相続の問題や家屋の老朽化などで、古い持ち家を手放す人が増えているのにも関係していると思いますが、やはり人々が日本家屋の間取りや、古い材木がかもし出す雰囲気に癒しを感じ始めているのでしょう。人々のライフスタイルは古く手のかかるものをバッサリと切り離し、身軽になった便利さと引き換えに、精神面では個々が持て余すほどのストレスを享受する生活になってしまいました。かといって、漆喰の壁や、花を飾った床の間、手入れの行き届いた庭先を照らす石灯籠などを、突然生活に持ち込む事は不可能です。その代わりにお客は古民家カフェに来さえすれば、お茶を飲む一時だけは、田舎の祖父母の家に帰省したような錯覚に囚われ、情報や雑音に振り回されている日々をしばし忘れるのです。
 しかし京都の町屋カフェなどと違って、関東では築浅の古ぼけた家屋に、古道具のテーブルを並べた、古民家もどきのお店が多いのも実情・・ここでは比較的、周囲の環境も含めて歴史を感じさせてくれる場所をご紹介いたします。

 
 東京ではありませんが、一軒家カフェ「パチャンガ」は小江戸、川越にある、一見すると、ど根性ガエルのひろしのお家みたいな、大正時代に建てられた慎ましい平屋のカフェです。廃材なんかをアートっぽく配したエントランスが面白いです。観光コースの蔵の街の通りが有名な川越ですが、カラオケや百貨店の立ち並ぶ繁華街の路地にありました。

 
 
 テラスを張り出したために庭が手狭な感じになっていますが、それがTVドラマの中庭の風景のようで、非現実的空気が流れていました。


 自由が丘にある抹茶や甘味が味わえる「古桑庵」です。大変由緒あるお家を改装したという事ですが、自由が丘は人気スポットで、休日となれば席が空くまで順番待ちで、若年層でごったがえしていました。平日にコソっと訪れるのが良いかもしれません。




 ちょっと騒々しい街ですが、古桑庵は高台に立ち、隣の敷地は神社なので、この高級住宅が並ぶ周辺でもさらにハイソな感じが漂います。ギャラリーも併設しています。
 

 このお店利用したお方々の感想が、なぜか一様に「お婆ちゃんの家みたい~♪」なのよ。どんだけ立派な家柄のお出なんだと・・・。
隣は田園調布だから、お嬢様方しか来ないんじゃない。あとは脳内お嬢様とか。

 中央線阿佐ヶ谷駅の南口を降りてパールセンターという商店街の傍にあるアジアン食堂「ワラビヤ」です。雑貨販売の店舗スペースと共に住居スペースだった場所では、2部屋でお茶や食事が出来るようになっています。天井をぶち抜いて梁を見せて、大正時代に建てられたという古民家独特の狭さを解消しています。通りにはひょうたんを栽培しているご家庭があったりと周辺もいい雰囲気です。
 

お茶室のような住居スペース部分の玄関口。
 

 同じ中央線の駅、西荻窪に普通の民家を改装したカフェレストランと衣類雑貨のお店「りげんどう」というお店があります。古民家再生のスペシャリスト達による大改装という事で、店内の内装や補修に隙がありません。
  

 荷物を運ぶリヤカーを看板代わりに使ったり、センスが光ります。
 
 
 料亭のような入り口の庭の草木の色使い・・・。
 

 最後に、三鷹にある大豆・和風創作料理「田舎」です。カフェではありませんが、平屋を大正ロマンの隠れ里的な雰囲気に改装している面白い場所です。
 

 板戸には何故か欄間が・・・。中を覗くとリゾート風の芝生やパラソル。
 

 板戸で周囲を目隠しして玄関まで歩かせる演出です。
  

  

不夜城新宿~その2(新宿区)

2011年10月31日 | 赤線・青線のある町
 (その1の続き)内藤新宿は、飯盛女郎を有した飯盛旅籠が多数あり、明治~大正と吉原や州崎に並ぶ大型の花街(新宿一丁目~三丁目までの広範囲)になります。大震災の被害はありませんでしたが、大空襲で当時の遊郭は被害を受けて、戦後は靖国通りと新宿通りに挟まれた二丁目の一角が赤線地帯となり、売春禁止法が制定されて以降は、ヌードスタジオやトルコ風呂、ビジネスホテルなどと共に、当初新橋にあったゲイバーが進出して街をゲイ一色に染めて行きます。かつては武士道や仏門に加護され、軍国主義の台頭で歴史の狭間に追いやられた隠花植物達が再び、ゲイボーイやシスターボーイなどと、呼ばれてお茶の間を賑わした礎は、元々赤線があった新宿で大きく花開いたのです。
 

 しかし、もと赤線に共通するうらびれた感じ・・・仲通り沿いにある古い建物。作りが地味ですが、入り口が何か所もあることから、カフェーの店舗跡ではないでしょうか?
  

 花街と言えば質屋。
 

 ひさしが、アールを描いて、とても古めかしい雰囲気のバー、酒寮奴。
  

 通りに面して外壁を大きく取ってますが中は日本家屋のちゃんぽん屋さんに、古い焼き鳥屋さん。
 

 人がやっと通れるぐらいの路地には天蓋があって、異世界の雰囲気。明るい時間でも酔客のカラオケの声が聞こえるバー・・・。プレイスポットデイトライン・・・。
 
 
 宿場があった以前からの江戸時代の史跡が豊富にあるのが、この二丁目界隈です。3軒お寺があり、かつて新宿御苑に屋敷を構えていた内藤家の菩提寺「太宗寺」がその中では最大です。入り口の大きな銅造地蔵菩薩坐像は、江戸の街道の入り口に立つ江戸六地蔵の一つで、通行人を見下ろすように建っています。 
   

 夏の縁日には、境内で閻魔堂ご開帳が行われていました。塩だらけの塩地蔵は江戸時代ならではの風変わりな民間信仰のスタイル。屋根が立派な本堂もなかなか風情があります。
  



 こちらの閻魔堂は都内でも最大。中に座している6m近くある閻魔様に誰もが驚嘆の声を上げます。閻魔大王は、地獄に落ちて命乞いをする罪人の嘘を暴き、罪を制裁する怖い存在ですが、元々浄土に住まう仏であった事から、江戸時代では信仰の対象となっていました。
 

 その隣のこれまた巨大な奪衣婆は阿鼻叫喚。
 ひぃ!

 目に血管の浮き出た生々しいガラス球を使っている事などから、これは仏像ではなく、江戸時代に流行した生き人形の類だと思われます。当時お祭りの際などに、見上げるばかりの山車の中央に鎮座していたのが巨大な生き人形で、菊人形などの見せ物興行などでも大活躍しましたが、今現在人形の需要と言えば、ひな祭りと五月人形ぐらいです。脱衣婆は地獄へ向かう三途の川を渡る死者の衣を剥ぐ事から、遊郭の守り神とされていました。「こちらで衣服を脱いでお遊び下さい。」というわけです。他にも遊郭の守り神は、布袋様(時には狸が化けた布袋様)、弁天様などですが、皆お腹を出して半裸であることが共通していて、成る程と思います。

 大宋寺の北側、靖国通り沿いには「正受院」と「成覚寺」があります。正受院にはこれまた小ぶりの脱衣婆の像があって、こぎれいな境内です。一方、成覚寺はどうにもこうにも、傍を通るだけで嫌な気持ちになってしまうのです。特に境内の裏側の細い通り道など昼でも薄暗く怖い感じがします。
 

 このお寺の由来を聞いて納得したのですが、以前は遊郭で死んだ女郎達の投げ込み寺であったという事です。遊女は生前、贅沢な成りをしていても、死ねばお墓すら立ててくれないのです。またこの界隈で遊女と心中したものを供養する旭地蔵が、遊女達を弔う子供合埋碑と共に残されています。遊女との心中というのはご法度だったのでしょうか、今も目黒不動尊の門前や、池袋界隈にもそのような碑があります。今現在地蔵や子供合理碑は靖国通りから眺められる本堂の前にありますが、当時は境内の裏の墓地、裏通りの近くにあったというのです。

 二丁目を出て、御苑大通りを渡り、伊勢丹のある新宿三丁目界隈までかつては宿場でしたが、今現在は商業施設が並び、かつての面影はありません。こちらには末広通りという通りがあって、昔懐かしい雰囲気の寄席、末広亭があります。終戦後すぐ建てられた木造の劇場で、外壁のスクラッチタイルや白い提灯形のガラス電灯、豆タイルが縁取りされた切符販売所が素晴らしく、寄席の内部の客席は緩く傾斜した畳席があり、一般の劇場には無い雰囲気があります。
 

  


 およそ文化的な雰囲気とはかけ離れた新宿ですが、戦前は「新宿ムーランルージュ」などといった軽演劇を上演する劇場もあり、伊勢丹デパートの豪華な装飾などに代表されるように、今よりも格段洒落た場所であったという事です。
 (その3に続く)

不夜城新宿~その1(新宿区)

2011年10月31日 | 赤線・青線のある町

 眠らない街、新宿をご紹介いたします。
靖国通り沿いの歌舞伎町一番街のネオン。私が子供の頃は、TVで歌舞伎町の悪の巣窟をルポする番組をやっていましたが、今現在歌舞伎町は、家出中学生が街娼をさせられていたり、ドリンク一杯で目から飛び出るようなな値段を吹っかけられたりするような事はないらしいです。でも親子そろって歩ける健全な街になったかというと、そんな事はなく、歌舞伎町の不健全さは東洋一、眠らぬ不夜城として、この街は人々の悪徳と欲望を吸い込んだり吐き出したりしています。

 最近は、演歌や東宝ミュージカルの興行を行っていた新宿コマ劇場や、広場を囲むように立っていた映画館も消え、文化的にも少々勢いを欠いた歌舞伎町です。この土地が歌舞伎座が無いのに歌舞伎町という名前になったのは戦後の復興に当たって、地域の有力者が歌舞伎の専用劇場のある銀座のように文化的な街にしようと提唱した都市構想から由来しています。しかし、その計画は実現せず、当時大衆娯楽を担っていたレビュー劇団(コマダンサーズ)の専用シアターとして作られた新宿コマ劇場や、映画館の建物がコの字型に取り囲む噴水広場などが出来ましたが、その周辺は、パチンコ屋、風俗店、非合法の青線地帯、連れ込み旅館が幾重にも取り囲む大歓楽街です。
     

 ホテル街に近い昭和の香り漂うキャバレー。
 

 明朗会計~円ポッキリ、という宣伝文句が流行った時代の産物。入り口には様々な団体や同業者お断り!の張り紙が・・・。色電球を無数に取り付けたネオンの入り口が貴重。
   

 古めかしいジュース屋さん。窓の柵の色彩にご注目。
  

 レトロなネオン看板のバッティングセンター。消えかけた看板は長島選手がモデル?
  

 歩き疲れたら、日本庭園を思わせるラブホテル「山○」へ。
 

 石臼を飛び石として利用した茶の湯の庭さながらの装飾。
  

 花園神社の裏手側は、「ゴールデン街」。戦後の焼け跡に出来た非合法の青線地帯でしたが、当時のバラック建築の如何わしさはそのままに人々の憩いの飲み屋街として今も繁盛しています。
  

   

 かつては都電もゴールデン街の傍を走っていました。ストリップ小屋まで隣接する昭和のカオス。
   

 通りの中やお店は撮影許可が必要で、時折ドラマのロケなどでも使われているようです。一切開発されていない、数少ない魔窟の跡としていつまでも残っていて欲しいと思います。


 ゴールデン街の東に位置する「花園神社」は新宿の総鎮守です。参拝客が絶えず、秋の酉の市には大きな熊手が売られ大変な賑わいです。なんでも話によると、水商売のお店は、こちらを購入しないと痛い目に会うとか会わないとかという話を聞いたことがあるのですがさて、真偽のほどはいかばかり?この花園神社、社殿は新しいのですが、お稲荷さんに江戸時代から続く庶民の信仰のスタイルを見て取れます。
  

 性器を模ったご神体が鳥居の頭上に収められています。お稲荷様は豊穣の神様であると同時に、狐が穴を出入りする事から性交を意味します。祠の後ろにも性器を模った石(陰陽石)があります。文明開化と同時に明治政府によって廃止されたのが、性器そのものを御神体として崇める信仰スタイルで、首都圏だと川崎に残るのみですが、花園神社にもこうしてひっそりと迫害を逃れて残っているのです。
  

 花園という名前は、この場所に武家屋敷があり、花が咲き乱れていたから・・・と言いますが、花園という地名がある場所には必ずと言って良いほど、花街が存在します。新宿の花街の起源は宿場にいた女郎達です。新宿は古くは広大な内藤家の武家屋敷(現在の新宿御苑)があった事から内藤新宿と呼ばれ、江戸四宿(品川宿、板橋宿、千住宿、内藤新宿)のうちの一つでした。有事の際に将軍が江戸城から甲州へと逃げるために作られた軍事道路の甲州街道と、江戸城築城の為に奥多摩の石灰を大量に必要としたため作られた青梅街道の起点が、新宿追分で交わる交通の要所で、荷を積んだ馬車が行き交い、馬糞がそこかしこに落ちていた荒っぽい宿場町でした。江戸時代、宿場町にはだいたい宿場女郎が一軒に一人は居て、旅人のお給仕と共に性的なサービスも行っていました。そんな彼女達は幕府公認の吉原の遊女達と分けるために、飯盛り女郎と呼ばれてしました。もともと非公認なので、宿屋が複数の女郎を抱えたり、女郎が吉原の花魁のように派手に着飾ったり・・・その都度、取り締まりが行われたようです。安く遊べる宿場女郎の繁栄は、吉原の存亡の危機・・・天下の吉原と宿場とのいたちごっこが繰り広げられていたのです。
 もともと江戸の町が整備され始めた時に、西の宿場町は、新宿ではなく、下高井戸にありました。ところが、新宿の地に宿場町を作ろうという嘆願が出されるのですが、便宜上というよりは、宿場女郎を包括する宿場町の運営を目論む業者が出した物でした。女郎ありきの宿場構想だったのです。
 その宿場町は、江戸城寄りの四谷大木戸から、今現在の新宿3丁目まで一キロ程、東西に伸びていましたが、宿場町が姿を消すと、今度は遊郭としての機能だけ残り、終戦後は新宿二丁目にある赤線地帯へ整備され、売春禁止法案が発令されるまではカフェー(特殊飲食店)の居並ぶ花街となりました。まだ10数年前まで、赤線跡の二丁目の仲通りには、お稲荷さんがあったり、的を矢で射る的場があったり、花街の名残を示す古風な建物が沢山残っていました。現在も花園通りという通りには柳並木などもありますが、現在はゲイバーがひしめくいささか地味な歓楽街です。(~その2へ続く