前回に引き続き、人間と環境、未来について。
ネタ生物としてはかなり真面目な方ですね。
「沈黙の春」のレイチェル・カーソン、「奪われし未来」のシーア・コルボーン、二人に焦点を当てた(主にカーソンに、でしたが)ビデオを見てきました。
その中で、繰り返されていた言葉。
それは「人間は、自然に謙虚にならなければいけない」「私たちは、未来に対して責任を持たなければいけない」というものです。
私はこういった考え方を、比較的早くから知り、共感し、自分の立場としてきました。
しかし、この間ふとしたきっかけで、「この考え方自体」がとても恵まれた、豊かな環境でのみ生まれうる言葉なのだ――と、唐突に気付きました。
苦労してきた世代の方々にとって、それは当然のことでしょう。
しかし、何不自由なく生まれ育って来た、同時に「環境問題」の顕在化と共に育ってきた私にとって、それは驚くべきことだったのです。
そのきっかけをご紹介します。
その日、私たちは食用ガエルを用いた実験をしていました。
解剖して心臓や坐骨神経を取り出す必要があったので、私の近くには腹を開かれ、血を流すカエルの入ったバット(四角い皿というか盆というか)がありました。
同じ実験台の向こうで、「痛っ!」と声が上がりました。
どうやら刺したらしく、指を押さえています。
先生が、「怪我をしたのか、早く洗いなさい!」と急いだように指示します。
「あ、ただシャーペンの芯で刺しただけなんで」とその子は言いますが、先生は「いいから早く!」となおも急かします。
私も、恐らくその子も、「タダのシャーペンの芯だし、変な薬品が付いたモンじゃないから大したことないや」と思っていました。しかし、その後の先生のぼやきに、私は目から鱗を落としたのです。
「全く、とりあえずこういう時には洗う! 知らないって言うのは幸せだよね~、ホントは顕微鏡で見れば、このカエルの血にはトリパノソーマ(寄生性の原生動物)がうようよしてるってのに……」
トリパノソーマは家畜や人間にも感染する寄生性の原生動物(ゾウリムシとか、アメーバとか、ミドリムシとか……というイメージ)で、感染するとある種のトリパノソーマでは「眠り病」を引き起こし、致死率も高い危険なものです。
完全に、「寄生虫」「病原体」に対して(特に寄生虫)平和ボケをしていた私にとって、これは衝撃的な事でした。食用ガエルといったら、実家の近くの川や池に、普通にいる生物ですから。
そしてこの話を聞いた時、普段料理をしながら思っていたことが思い出されました。普段、フライパンから飛んで逃げた具材を「勿体無い」と思い、洗ってもう一度フライパンに入れようとするとき、何を恐れますか?
何が怖くて、一度洗いますか?
私は「洗剤」でした。勿論、変なばい菌(寄生虫も含む)は熱処理で殺せる、ということもありますが、あまりに身近に「ばい菌」がなさ過ぎて、「そっちは少々平気だろ」と思っていた面があったのです。
そして、「洗剤」……ひいては科学化合物全般に対する怖れは、それよりも遥かに身近なものでした。今、1回口から入る量はごく微量でも、そのうち体の中に蓄積されていくんだよな……という恐怖感があったのです。
ここで、私は唐突に思い至りました。
「そうか、昔は……衛生状態が確保されていない状態では、『いつかそのうちの危険』になんて、考えが及ぶはずがないんだ。だって、今、この時不注意で何かに感染してしまえば、明日すらもないんだから」
何を当たり前のことを、と思われるかもしれません。でも、それまでの自分に、そしてそれまで学んできた「環境問題」の中に、そういう前提……それを気にする事ができる『今』が、どれほど恵まれた状況か、という認識は抜け落ちていた気がするのです。
環境問題、といわれれば、取り扱われるのは人工物質のネガティブな側面ばかり。勿論それに焦点を当てているのだから当たり前です。でも、そればかり学んで、それが使われ始めた時代の背景を見過ごし、まるで化学物質は悪そのものであるように捉えるのは危険なのではないでしょうか。
自分たちが、どれだけその恩恵に預かっているかも――その恩恵が生活に深く浸透しすぎ、当たり前になりすぎて――無自覚なまま、ただ「エコロジーブーム」、「天然・有機ブーム」に身を任せるのは、あまりに滑稽で愚かしい事なのではないか。「未来の事を考える」「未来に責任を持つ」ということそのものが、どれだけ贅沢な事かも気付かぬまま、それが出来ることへの感謝もないまま、「当然の義務」として十字架のように背負うのは何か歪んでいないだろうか。そう考えたのです。
清潔な、細菌もほとんど居なさそうなピカピカの台所で、テレビ画面の向こうに望む鮮やかな緑を夢想して「自然が一番!」と言う。このことに違和感を覚えていたのもあります。
(実際昔に比べて、私たち自身から取れる細菌の量は減ってるみたいです。髪の毛をシャーレに置いて培養した所で、指紋を付けて培養した所で、コロニーなんかできやしない、と先生が嘆いておいででした。昔はもっと、生徒の体自体に細菌が一杯くっついていたのだそうです)
繰り返すように、今、警告を叫ぶ方々にとってこの前提は当然過ぎるものでしょう。だから、「当然でない事」として化学物質と環境問題を叫び、広げよう、伝えようとするのは当然です。しかし、若い世代の私たちは、その前提自体を自覚していない。そのことにまで気付いて、その前提から包括的に環境問題を広め、伝えようという事は少ないのではないでしょうか。
私たちにとって、「現在(いま)」は、あって当たり前のものなのです。
それが、人類の歴史においてどれだけ特殊な状態であるかの認識も、自覚もない。
この状態で、暗雲垂れ込める「未来(あす)」の十字架ばかりを背負ってみようとしたところで、上手く行くはずがない。歪んでしまう。そう私には思えます。
今回のビデオでインタビュアーをしていた年配の女性が、60年代に始めて「沈黙の春」の話を知った時、
「正直、それは野生動物のことであって、私たち日本人はすごくお腹が空いているんだから仕方がないじゃない……って思ったんです。お恥ずかしいことですけれど」
と言っておられました。
私は、それは当然だろう、と思います。そうで当たり前なのです。恥ずかしくも、何ともない。事実だと。その事実を認めずに進む環境対策など、成功するはずがないと。
私たちは多分、野生動物の為に環境を守っているんじゃありません。
何より自分自身の為に、環境を、明日を保護していかなければならないのです。
そうである以上、日本にとってはかつての、世界の多くの国々では今直面している、「現在(いま)を生き抜くこと」を無視するのは間違っていると思うのです。現在を生き抜くために、たとえ未来を犠牲にしてでも、否、未来のことなど考える余地などありはしない状況で、化学肥料を使い、農薬を散布する。その行為を、それをしなければならない現実を無視して進む自然保護なんて、所詮空調の効いた室内で繰り広げられる机上の空論なのではないでしょうか。言葉をきつくして言えば、そう思うのです。
そんな状態で、何が「自然に謙虚」なのでしょう。
自分が何の上に胡坐をかいているかも自覚しないままの「謙虚」ほど、虚しいものはないのではないでしょうか。
多くの、自然保護を唱える専門家、研究者たちは当然そのことを知っているでしょう。
年配の、大人の方々も。
しかし、問題は私。そして、失礼を覚悟で言い切れば「私たち」です。
学ぶ立場であり、知る立場であり、引き継ぐ立場である私たちに、果たして「環境問題」に取り組むだけの土壌……それを行う為の基礎となる認識が十分なのか。その事に対して、私は懐疑的です。
もしも読まれた貴方が、私と同じような罠に嵌まっていたのなら、そしてこの文章でそれに気付いていただけたのなら、それ以上はありません。
ネタ生物としてはかなり真面目な方ですね。
「沈黙の春」のレイチェル・カーソン、「奪われし未来」のシーア・コルボーン、二人に焦点を当てた(主にカーソンに、でしたが)ビデオを見てきました。
その中で、繰り返されていた言葉。
それは「人間は、自然に謙虚にならなければいけない」「私たちは、未来に対して責任を持たなければいけない」というものです。
私はこういった考え方を、比較的早くから知り、共感し、自分の立場としてきました。
しかし、この間ふとしたきっかけで、「この考え方自体」がとても恵まれた、豊かな環境でのみ生まれうる言葉なのだ――と、唐突に気付きました。
苦労してきた世代の方々にとって、それは当然のことでしょう。
しかし、何不自由なく生まれ育って来た、同時に「環境問題」の顕在化と共に育ってきた私にとって、それは驚くべきことだったのです。
そのきっかけをご紹介します。
その日、私たちは食用ガエルを用いた実験をしていました。
解剖して心臓や坐骨神経を取り出す必要があったので、私の近くには腹を開かれ、血を流すカエルの入ったバット(四角い皿というか盆というか)がありました。
同じ実験台の向こうで、「痛っ!」と声が上がりました。
どうやら刺したらしく、指を押さえています。
先生が、「怪我をしたのか、早く洗いなさい!」と急いだように指示します。
「あ、ただシャーペンの芯で刺しただけなんで」とその子は言いますが、先生は「いいから早く!」となおも急かします。
私も、恐らくその子も、「タダのシャーペンの芯だし、変な薬品が付いたモンじゃないから大したことないや」と思っていました。しかし、その後の先生のぼやきに、私は目から鱗を落としたのです。
「全く、とりあえずこういう時には洗う! 知らないって言うのは幸せだよね~、ホントは顕微鏡で見れば、このカエルの血にはトリパノソーマ(寄生性の原生動物)がうようよしてるってのに……」
トリパノソーマは家畜や人間にも感染する寄生性の原生動物(ゾウリムシとか、アメーバとか、ミドリムシとか……というイメージ)で、感染するとある種のトリパノソーマでは「眠り病」を引き起こし、致死率も高い危険なものです。
完全に、「寄生虫」「病原体」に対して(特に寄生虫)平和ボケをしていた私にとって、これは衝撃的な事でした。食用ガエルといったら、実家の近くの川や池に、普通にいる生物ですから。
そしてこの話を聞いた時、普段料理をしながら思っていたことが思い出されました。普段、フライパンから飛んで逃げた具材を「勿体無い」と思い、洗ってもう一度フライパンに入れようとするとき、何を恐れますか?
何が怖くて、一度洗いますか?
私は「洗剤」でした。勿論、変なばい菌(寄生虫も含む)は熱処理で殺せる、ということもありますが、あまりに身近に「ばい菌」がなさ過ぎて、「そっちは少々平気だろ」と思っていた面があったのです。
そして、「洗剤」……ひいては科学化合物全般に対する怖れは、それよりも遥かに身近なものでした。今、1回口から入る量はごく微量でも、そのうち体の中に蓄積されていくんだよな……という恐怖感があったのです。
ここで、私は唐突に思い至りました。
「そうか、昔は……衛生状態が確保されていない状態では、『いつかそのうちの危険』になんて、考えが及ぶはずがないんだ。だって、今、この時不注意で何かに感染してしまえば、明日すらもないんだから」
何を当たり前のことを、と思われるかもしれません。でも、それまでの自分に、そしてそれまで学んできた「環境問題」の中に、そういう前提……それを気にする事ができる『今』が、どれほど恵まれた状況か、という認識は抜け落ちていた気がするのです。
環境問題、といわれれば、取り扱われるのは人工物質のネガティブな側面ばかり。勿論それに焦点を当てているのだから当たり前です。でも、そればかり学んで、それが使われ始めた時代の背景を見過ごし、まるで化学物質は悪そのものであるように捉えるのは危険なのではないでしょうか。
自分たちが、どれだけその恩恵に預かっているかも――その恩恵が生活に深く浸透しすぎ、当たり前になりすぎて――無自覚なまま、ただ「エコロジーブーム」、「天然・有機ブーム」に身を任せるのは、あまりに滑稽で愚かしい事なのではないか。「未来の事を考える」「未来に責任を持つ」ということそのものが、どれだけ贅沢な事かも気付かぬまま、それが出来ることへの感謝もないまま、「当然の義務」として十字架のように背負うのは何か歪んでいないだろうか。そう考えたのです。
清潔な、細菌もほとんど居なさそうなピカピカの台所で、テレビ画面の向こうに望む鮮やかな緑を夢想して「自然が一番!」と言う。このことに違和感を覚えていたのもあります。
(実際昔に比べて、私たち自身から取れる細菌の量は減ってるみたいです。髪の毛をシャーレに置いて培養した所で、指紋を付けて培養した所で、コロニーなんかできやしない、と先生が嘆いておいででした。昔はもっと、生徒の体自体に細菌が一杯くっついていたのだそうです)
繰り返すように、今、警告を叫ぶ方々にとってこの前提は当然過ぎるものでしょう。だから、「当然でない事」として化学物質と環境問題を叫び、広げよう、伝えようとするのは当然です。しかし、若い世代の私たちは、その前提自体を自覚していない。そのことにまで気付いて、その前提から包括的に環境問題を広め、伝えようという事は少ないのではないでしょうか。
私たちにとって、「現在(いま)」は、あって当たり前のものなのです。
それが、人類の歴史においてどれだけ特殊な状態であるかの認識も、自覚もない。
この状態で、暗雲垂れ込める「未来(あす)」の十字架ばかりを背負ってみようとしたところで、上手く行くはずがない。歪んでしまう。そう私には思えます。
今回のビデオでインタビュアーをしていた年配の女性が、60年代に始めて「沈黙の春」の話を知った時、
「正直、それは野生動物のことであって、私たち日本人はすごくお腹が空いているんだから仕方がないじゃない……って思ったんです。お恥ずかしいことですけれど」
と言っておられました。
私は、それは当然だろう、と思います。そうで当たり前なのです。恥ずかしくも、何ともない。事実だと。その事実を認めずに進む環境対策など、成功するはずがないと。
私たちは多分、野生動物の為に環境を守っているんじゃありません。
何より自分自身の為に、環境を、明日を保護していかなければならないのです。
そうである以上、日本にとってはかつての、世界の多くの国々では今直面している、「現在(いま)を生き抜くこと」を無視するのは間違っていると思うのです。現在を生き抜くために、たとえ未来を犠牲にしてでも、否、未来のことなど考える余地などありはしない状況で、化学肥料を使い、農薬を散布する。その行為を、それをしなければならない現実を無視して進む自然保護なんて、所詮空調の効いた室内で繰り広げられる机上の空論なのではないでしょうか。言葉をきつくして言えば、そう思うのです。
そんな状態で、何が「自然に謙虚」なのでしょう。
自分が何の上に胡坐をかいているかも自覚しないままの「謙虚」ほど、虚しいものはないのではないでしょうか。
多くの、自然保護を唱える専門家、研究者たちは当然そのことを知っているでしょう。
年配の、大人の方々も。
しかし、問題は私。そして、失礼を覚悟で言い切れば「私たち」です。
学ぶ立場であり、知る立場であり、引き継ぐ立場である私たちに、果たして「環境問題」に取り組むだけの土壌……それを行う為の基礎となる認識が十分なのか。その事に対して、私は懐疑的です。
もしも読まれた貴方が、私と同じような罠に嵌まっていたのなら、そしてこの文章でそれに気付いていただけたのなら、それ以上はありません。
そういう人に受け入れられるお話の仕方を勉強中です。だから私は学者にはなりたくないの。
ただ……これは一大学生の個人的意見なのですが。
「理系」というのは……科学というのは、「何かを示唆する」つまり、人々に何か、方向性を示して導く存在ではないと思うのですよ。
(たとえ絶対的な客観的事実など存在し得ないにしろ)ある一定の「事実」と、それに基づく何らかの足場……議論の為のステージを用意したり、何かをなすための道具だったり、冷徹・冷血を通り越して「血の通っていないもの」が科学だと思っていますから。そして、その事に科学の価値もあるんじゃないか、と。
まあそれは置いといて。
今回私が書いた文章と言うのが「理系=科学」としての文章か、と言われたらそうとは言い切れないので、「何をすべきか」についてです。
実はこれは、別の項目で一つ書こうと思っていたところです。今回はちょっと長すぎるから削ったのですが。
ただ、
環境問題にしろ何にしろ、速攻で結果が見えないものに対して、とてもデカイ問題に対して、自分一人が取れる行動は微々たるものなんじゃないか、という思いはあります。
その無力感というか、「じゃあどうしろと?」という、苛立ちとか無力感とか入り混じった思いは、いつも私も感じています。
このことについては、また絶対に一つの記事にして出します。
それとは別に、今回出した例ってのがカエルの実験うんぬんと、まあ私にとってはとても身近な発見だったのですが、多分解剖する機会があるか、超・田舎に住んでるかでないかぎり、カエルも解剖も、トリパノソーマも縁がないわけで。
せっかく熱く論じたところで、てんで読み手にリアルじゃねえかもな、と反省してます。
自分にとって「それがきっかけだった」というのは動かし難い事実として、マジで伝える気があるなら、もうちょっと日常生活に身近な例を(発見する努力を含めて)書くべきだったか、とも思いました。
(そこまでの覚悟で書いてなかったです;感覚は日記の延長上だったので。最後らへんのメッセージ間違ったかもしれません)
最後に。
なるほど、あずみさんにとって、学者はご自身のやりたい事にそぐう職業ではないみたいですね。
私は、結構学者という立場に肯定的なので、そういう風に言い切られるとちょんぼり悲しいですが。でも、学者だけでは世の中が回らないのは事実でしょうね(笑)
なんと言っても、学者を志す人に「学問とは?」と尋ねれば、「趣味です!」という人が多いと思いますから。そうでないと出来ない仕事なのだろうと思いますし。基礎研究だと特に、かな。
それを、世の中に広め、運用し、未来を示すのは学者の役割じゃない……と言うのって傲慢でしょうか?
傲慢かもなあ……うーん。
そういうことをされるのは、それこそ文系の方々で、「皆の為にその事実なり技術なりを使い、目的を達したい」と思っておられる方の役割なのかな、と思っていました。
もちろん、科学者が完全無自覚というのは許されないだろうけど。この辺はまた、ご意見を聞かせていただければ嬉しいです。
それでは、長々と失礼しました(汗)