今現在地球にあり、人間を育んできた自然環境は、人間にとって失う事の出来ない大切な「生存の場」であると私は考える。よって、他の何の為でもなく、人間の未来の生存のために、人間は今の自然環境を守らなければならない。その「自然環境」とは、この地球上の全てであり、一見人間とは何の関わりもないような人里から遠くはなれた生態系も、人間には害を為す動植物もそれに含まれる。
なぜなら、人間が暮らすうちで必要なものの多くは自然環境によって作られ、維持されているものであるからである。空気の成分も、水質も、土壌も、もっと直接的には魚や外の畑でとれる作物も、ある程度人間が手を加える部分はあれ、大体自然に頼っている。人間は外界と完全に――空気すらも――切り離された世界に生きているわけではない。そして、その外界を形作っているものは、現存する自然環境全てである。そうである以上、それらのどこかを破壊し、全体のバランスを崩すことはすなわち、人間の未来を破壊することである。
まだ、この地球上の、全ての生物や生態系がどういった仕組みで、どう相互作用しているのか、何処を引っ張れば何が出て、何処を崩せばどう傾くかを人間は知らない。そうである以上、近視的な考え方で行動し、手の届く範囲だけで自分たちの都合が良いように自然環境をいじりまわせば、この自然環境という緻密な立体パズルが、全く形を変えてしまうことは必至だ。その形の変化はこれまでにも良くあったことかもしれないし、形が変化したらしたで、適応し、生き延びる生命はいるかもしれない。問題は、今の形が崩れてしまえば「人間は」生きていけないということである。
しかし、人間は自然環境をいじりまわすことでここまでの繁栄を得た。今更いじりまわすことをやめてしまう事はできない。それをすれば、大半の人間は生きていけなくなるからだ。ならばせめて、いじった部分とそれによる影響を、予想できる範囲内に収めるよう努力すべきである。そして、崩す事があれば修復し、完全にとはいかないまでも変わらぬ形で後の世代に引き継いでいかなければならない。また、それをしながら自然環境という緻密な立体パズルの構造を理解していかなければならない。そうすることが、「安全に人間がいじれる範囲」を増やす、唯一の手段だからである。
自然環境とは人間にとって、絶対に維持しなければならないものであり、同時にいじらずには生きてゆけないものでもあるのだ。今後は、その辺りのさじ加減、理性的な判断が巨大化した人間の脳に求められるものだと思う。――何より人間が生き残るために。
とか何とか、タイトルのお題のレポートに書き散らして提出してきました。
自分の考えなので、調べまわる必要はなかったのですが、書いていてどうも「こりゃレポっちゅーより、日記ネタの口調だわな……」と思いまして。
何かこう、やたら無駄に論説文風というか、偉げというか(笑)
レポート仕様にしては文章がはちゃけております。
昨日の講義~今日の講義で興味深かったキーワード。それは「共生」
普段授業でやる細胞内共生ではなく、多細胞生物個体相互の共利共生の方です。
東南アジアの熱帯雨林は、生物相互の共生の例が非常に多くあるんだそうです。たとえば、高さ70mにもなる大樹とキノコの共生関係とか、植物とカイガラムシ、アリの関係とか。
熱帯雨林は温帯(この辺とか)などと違って、氷河期にも氷漬けにならず、長い間ずーっと生物が途切れず暮らしてきた場所なのだそうです。その分、そこの生態系の歴史は他より年季が入っている。
加えて、氷河期には他の地域で(寒すぎて)暮らせなくなった生物が避難してきて、とても多くの種がギュウギュウといる状態になった。
その結果、他の地域より遥かに生態系が成熟している、と考えられるのだそうです。生物の歴史といったら競争原理ですが、もう熱帯雨林は既に、競争の時代を終えて、共生の時代に入っているとか。
激しい競争に次ぐ競争の結果、強いだけのものは生き残れず、他者と共生することを選んだものが生き残った。適者生存と言いますが、その生態系における「最適者」とは必ずしも「最強者」ではない、ということみたいです。
何かちょっと感動(笑)
なるほど~、行き着くところまで行き着いた感じかあ、と。
この「共生」という概念が、これから人間が地球環境で生き延びていく時のキーワードではなのか、というお話でした。
(授業で取り上げられたのは、故・井上民二教授のことを取り扱った「未来潮流」のビデオです)
ただ、その中でも言っておられたのが、
「共生」という言葉は最近良く耳にするが、この場合の生物同士の「共生」とは、決して普段使われるような甘っちょろいものではない、ということでした。
自分が生き残るための戦いの中、ぶつかり合いながらギリギリで見い出した妥協点のようなもので、「相手の為に、誰かの為に云々」とかいうものではない、と。
競争が行くところまで行き着いた結果ですから当然ですね。
とても興味深かったので、井上民二さんにも興味を持ちました。著作物を調べてみようかな。
ちなみに、種の寿命はその進化の度合いに大体反比例するらしいです。哺乳類は大体800万年くらいだそうです。人間の歴史はあと大体300万年くらいかな~、とか。
長くてそのくらい。それまでに地球生命全てと一蓮托生、無理心中してしまえば話は別ですが、それなりに種の寿命を全うするなりなんなり、人間という種の寿命のみが終わった時を空想してみました。
他の種は大体、まだ続くわけです。それから先もずっと。
その時、私たちが残した創作物や、過去への考察はどうなるんでしょうね?
人間が絶滅した時、次に地球を席巻する種が、人間から派生しているとは考えにくいらしいです。ドコで聞いたんだったか、(多分誰かの授業)もし次の世界に生き残る可能性があるとすれば、アマゾンの奥地に孤立して住む人々くらいらしい。
今までの進化を見ても、一旦大繁栄した種は大体他に取って代わられているし。
そしたら、次の種は、私たちがやった、「文化」「文明」を持つ、という流れを踏襲していくんでしょうか?
それとも、全然そんなのナシ? この文字も、あの絵も、全部自然の模様の一部になってしまうのでしょうか。
それとも、どこかにその知識の蓄積は残って、次の種の文明に影響を与え、次の種の更なる進化の土台(踏み台)となりえるのでしょうか。
その種と人間が系統的にかけ離れていたら、
彼らが知りたいのは人間の歴史じゃなくてその種の歴史だろうから、
「人間の進化史とかだけ、無駄に詳しいし! 役に立たない!」
とか思われたりして~などと妄想してみたり。
「文明を持つ」ということが、生物進化全体の本流の最先端なのか、ただの先細りの支流の一つに過ぎないのか、人間には分かりません。先になって、人類が別の種に取って代わられたあとでないと。
それどころか、脳がでっかくなることが進化の方向性なのかも私には良く分からない。体の仕組みがどんどん複雑になってきたのは、生物の進化の方向性として明確にある。だけど、「これからどう複雑になるのか」は、何もその生物が「意識を持つようになる」という方向だけではないだろうと思うので。
(いかん、頭が死んでる; 文章にならない;)
もしも「脳が大きくなって、生物一個体が意識と自我を持つ」ことが今後の進化の方向だったとして、その「脳」が今の私たちと同じである保障もない。
私らの脳は、大脳新皮質がでっかくなってるのが特徴です。
大脳とは、脳の中で一番前側(てっぺん側)の、元々は嗅覚を司っていた部分です。哺乳類の脳はこの、嗅覚の脳がよく発達してます。それに対して、鳥類は元々視覚の脳である、中脳のあたりもよく発達しています。
もし、鳥とか、脳の別の部分を良く使う動物から文明を持つ種が進化したとき、その種は私らと同じ思考回路を持ってるのでしょうか?
全然全く、根本的に違う思考なんて、所詮私たちは理解できませんが、多分、見る世界そのものが違うだろうと思います。今でもとても賢い鴉が進化したとして、いつか文明を持っても、それを私たちが理解できる保証もないわけです。
魚の目は、四原色で世界を見ているそうです。
世界の色彩が三原色から成り立つのは、単に人間の視細胞が三種類の色素しか持っていないからです。四種の色素を持っていれば、世界は四原色なわけ。
その世界では、高い彩度の紫色と黄色の中間色があるし、赤と緑の中間色もある。
私らにはこの二つは、どっちも濁った灰色にしかならないけど、四原色なら別の色。
私らの目で見てアースカラーに統一された、落ち着いた色彩の絵画も、魚の目で見れば悪趣味な極彩色かもしれない(笑)といったら言いすぎでしょうか。
ナニが言いたいかというと、
人間の見る世界は絶対のものではないし、私たちが何より価値を置くものも、種の世代交代が起きてしまえば何の価値も為さず、地層の奥に埋もれていくものの一つかもしれない、ということです。
自分たちが先細りの傍流なんじゃないか、私たちの見る世界とその真実は、私たちが消えた瞬間に消滅し、後に残るものでも、理解されるものでもないのではないか。
そんな考えは人間にとって、とてもとても耐え難いことのような気がします。
だから大抵、私たちが「未来」として想像するのは更に進化した人類か、さもなくば生命が何一つ存在しない不毛の大地なのかもしれない、とちらりと考えたのでした。
「私たちが最終段階」でないという事実は、(もしその事実があるとしたら)人間にはとてもではないが受け入れられるものではないから。
それが証明されるくらいならば、いっそのこと地球と心中してしまうかも(笑)
などとネタ的な事を考えたわけです。
自分たちが生き延びる為には、そりゃあ必死で環境維持に努めなければならないけど、その反面、もし自分たちが滅びても生命も地球も存続し、更なる進化をしていくなら、そんな未来ない方がマシだ。それくらいなら自分らと一緒に滅ぼしてやる、そうすれば自分たちが永久に、生命進化の最終段階であれる。
そんな事を考えてもおかしくない気がしてます。
心のどこかで、滅びを望んでいる部分がある……とまで言ったらネタ的すぎますけど(笑)
その心理は、とてもとても人間臭いものだと思うので。
だって、それはそのまま、人間一個人が死を怖れるのと同じ心理ではないでしょうか。
自分がいた証を残したい。自分がそこにいる価値が欲しい。誰も自分が居たことに、いなくなったことに気付いてくれないのなんて耐えがたい。
そんな感じで。
一個人ならば、周りに覚えていてくれる人々がいる。
一民族ならば、隣り合う民族や交流のあった人々の歴史に残る。
でも、人類全体の寿命が来てしまえば、もう他の誰一人として理解し、記憶し、その存在の証を認めてくれるものはいなくなる。
それは大いなる絶望かもしれません。
科学が示す、神様のいない世界の一番冷酷な面は、もしかしたらそこかもしれない。神様がいれば、神様はちゃんと、人間がいたことを覚えていてくれるからね。
なーんちゃって。
この、「自分の意識の存在の証を残したい!」という衝動は、「ミーム」からも考察できると思います。
このミームという概念も、とてもとても興味深いので、気になる方はチェックしてみましょう。私のお勧めは佐倉統さんの本です。同じミームでも、文系(教育系?)からのアプローチとなると、またちょっと違うので、個人的には理系なミームの本をお勧めします。ネタ的に。
ではでは、ながなが~く書いてしまいましたが、いつものよーに裏は特別とっていないので、その作業は各自でお願いします。鵜呑みにしないように。
私も、ただ1回どっかで小耳に挟んだ事をネタに妄想してるだけなんで。
なぜなら、人間が暮らすうちで必要なものの多くは自然環境によって作られ、維持されているものであるからである。空気の成分も、水質も、土壌も、もっと直接的には魚や外の畑でとれる作物も、ある程度人間が手を加える部分はあれ、大体自然に頼っている。人間は外界と完全に――空気すらも――切り離された世界に生きているわけではない。そして、その外界を形作っているものは、現存する自然環境全てである。そうである以上、それらのどこかを破壊し、全体のバランスを崩すことはすなわち、人間の未来を破壊することである。
まだ、この地球上の、全ての生物や生態系がどういった仕組みで、どう相互作用しているのか、何処を引っ張れば何が出て、何処を崩せばどう傾くかを人間は知らない。そうである以上、近視的な考え方で行動し、手の届く範囲だけで自分たちの都合が良いように自然環境をいじりまわせば、この自然環境という緻密な立体パズルが、全く形を変えてしまうことは必至だ。その形の変化はこれまでにも良くあったことかもしれないし、形が変化したらしたで、適応し、生き延びる生命はいるかもしれない。問題は、今の形が崩れてしまえば「人間は」生きていけないということである。
しかし、人間は自然環境をいじりまわすことでここまでの繁栄を得た。今更いじりまわすことをやめてしまう事はできない。それをすれば、大半の人間は生きていけなくなるからだ。ならばせめて、いじった部分とそれによる影響を、予想できる範囲内に収めるよう努力すべきである。そして、崩す事があれば修復し、完全にとはいかないまでも変わらぬ形で後の世代に引き継いでいかなければならない。また、それをしながら自然環境という緻密な立体パズルの構造を理解していかなければならない。そうすることが、「安全に人間がいじれる範囲」を増やす、唯一の手段だからである。
自然環境とは人間にとって、絶対に維持しなければならないものであり、同時にいじらずには生きてゆけないものでもあるのだ。今後は、その辺りのさじ加減、理性的な判断が巨大化した人間の脳に求められるものだと思う。――何より人間が生き残るために。
とか何とか、タイトルのお題のレポートに書き散らして提出してきました。
自分の考えなので、調べまわる必要はなかったのですが、書いていてどうも「こりゃレポっちゅーより、日記ネタの口調だわな……」と思いまして。
何かこう、やたら無駄に論説文風というか、偉げというか(笑)
レポート仕様にしては文章がはちゃけております。
昨日の講義~今日の講義で興味深かったキーワード。それは「共生」
普段授業でやる細胞内共生ではなく、多細胞生物個体相互の共利共生の方です。
東南アジアの熱帯雨林は、生物相互の共生の例が非常に多くあるんだそうです。たとえば、高さ70mにもなる大樹とキノコの共生関係とか、植物とカイガラムシ、アリの関係とか。
熱帯雨林は温帯(この辺とか)などと違って、氷河期にも氷漬けにならず、長い間ずーっと生物が途切れず暮らしてきた場所なのだそうです。その分、そこの生態系の歴史は他より年季が入っている。
加えて、氷河期には他の地域で(寒すぎて)暮らせなくなった生物が避難してきて、とても多くの種がギュウギュウといる状態になった。
その結果、他の地域より遥かに生態系が成熟している、と考えられるのだそうです。生物の歴史といったら競争原理ですが、もう熱帯雨林は既に、競争の時代を終えて、共生の時代に入っているとか。
激しい競争に次ぐ競争の結果、強いだけのものは生き残れず、他者と共生することを選んだものが生き残った。適者生存と言いますが、その生態系における「最適者」とは必ずしも「最強者」ではない、ということみたいです。
何かちょっと感動(笑)
なるほど~、行き着くところまで行き着いた感じかあ、と。
この「共生」という概念が、これから人間が地球環境で生き延びていく時のキーワードではなのか、というお話でした。
(授業で取り上げられたのは、故・井上民二教授のことを取り扱った「未来潮流」のビデオです)
ただ、その中でも言っておられたのが、
「共生」という言葉は最近良く耳にするが、この場合の生物同士の「共生」とは、決して普段使われるような甘っちょろいものではない、ということでした。
自分が生き残るための戦いの中、ぶつかり合いながらギリギリで見い出した妥協点のようなもので、「相手の為に、誰かの為に云々」とかいうものではない、と。
競争が行くところまで行き着いた結果ですから当然ですね。
とても興味深かったので、井上民二さんにも興味を持ちました。著作物を調べてみようかな。
ちなみに、種の寿命はその進化の度合いに大体反比例するらしいです。哺乳類は大体800万年くらいだそうです。人間の歴史はあと大体300万年くらいかな~、とか。
長くてそのくらい。それまでに地球生命全てと一蓮托生、無理心中してしまえば話は別ですが、それなりに種の寿命を全うするなりなんなり、人間という種の寿命のみが終わった時を空想してみました。
他の種は大体、まだ続くわけです。それから先もずっと。
その時、私たちが残した創作物や、過去への考察はどうなるんでしょうね?
人間が絶滅した時、次に地球を席巻する種が、人間から派生しているとは考えにくいらしいです。ドコで聞いたんだったか、(多分誰かの授業)もし次の世界に生き残る可能性があるとすれば、アマゾンの奥地に孤立して住む人々くらいらしい。
今までの進化を見ても、一旦大繁栄した種は大体他に取って代わられているし。
そしたら、次の種は、私たちがやった、「文化」「文明」を持つ、という流れを踏襲していくんでしょうか?
それとも、全然そんなのナシ? この文字も、あの絵も、全部自然の模様の一部になってしまうのでしょうか。
それとも、どこかにその知識の蓄積は残って、次の種の文明に影響を与え、次の種の更なる進化の土台(踏み台)となりえるのでしょうか。
その種と人間が系統的にかけ離れていたら、
彼らが知りたいのは人間の歴史じゃなくてその種の歴史だろうから、
「人間の進化史とかだけ、無駄に詳しいし! 役に立たない!」
とか思われたりして~などと妄想してみたり。
「文明を持つ」ということが、生物進化全体の本流の最先端なのか、ただの先細りの支流の一つに過ぎないのか、人間には分かりません。先になって、人類が別の種に取って代わられたあとでないと。
それどころか、脳がでっかくなることが進化の方向性なのかも私には良く分からない。体の仕組みがどんどん複雑になってきたのは、生物の進化の方向性として明確にある。だけど、「これからどう複雑になるのか」は、何もその生物が「意識を持つようになる」という方向だけではないだろうと思うので。
(いかん、頭が死んでる; 文章にならない;)
もしも「脳が大きくなって、生物一個体が意識と自我を持つ」ことが今後の進化の方向だったとして、その「脳」が今の私たちと同じである保障もない。
私らの脳は、大脳新皮質がでっかくなってるのが特徴です。
大脳とは、脳の中で一番前側(てっぺん側)の、元々は嗅覚を司っていた部分です。哺乳類の脳はこの、嗅覚の脳がよく発達してます。それに対して、鳥類は元々視覚の脳である、中脳のあたりもよく発達しています。
もし、鳥とか、脳の別の部分を良く使う動物から文明を持つ種が進化したとき、その種は私らと同じ思考回路を持ってるのでしょうか?
全然全く、根本的に違う思考なんて、所詮私たちは理解できませんが、多分、見る世界そのものが違うだろうと思います。今でもとても賢い鴉が進化したとして、いつか文明を持っても、それを私たちが理解できる保証もないわけです。
魚の目は、四原色で世界を見ているそうです。
世界の色彩が三原色から成り立つのは、単に人間の視細胞が三種類の色素しか持っていないからです。四種の色素を持っていれば、世界は四原色なわけ。
その世界では、高い彩度の紫色と黄色の中間色があるし、赤と緑の中間色もある。
私らにはこの二つは、どっちも濁った灰色にしかならないけど、四原色なら別の色。
私らの目で見てアースカラーに統一された、落ち着いた色彩の絵画も、魚の目で見れば悪趣味な極彩色かもしれない(笑)といったら言いすぎでしょうか。
ナニが言いたいかというと、
人間の見る世界は絶対のものではないし、私たちが何より価値を置くものも、種の世代交代が起きてしまえば何の価値も為さず、地層の奥に埋もれていくものの一つかもしれない、ということです。
自分たちが先細りの傍流なんじゃないか、私たちの見る世界とその真実は、私たちが消えた瞬間に消滅し、後に残るものでも、理解されるものでもないのではないか。
そんな考えは人間にとって、とてもとても耐え難いことのような気がします。
だから大抵、私たちが「未来」として想像するのは更に進化した人類か、さもなくば生命が何一つ存在しない不毛の大地なのかもしれない、とちらりと考えたのでした。
「私たちが最終段階」でないという事実は、(もしその事実があるとしたら)人間にはとてもではないが受け入れられるものではないから。
それが証明されるくらいならば、いっそのこと地球と心中してしまうかも(笑)
などとネタ的な事を考えたわけです。
自分たちが生き延びる為には、そりゃあ必死で環境維持に努めなければならないけど、その反面、もし自分たちが滅びても生命も地球も存続し、更なる進化をしていくなら、そんな未来ない方がマシだ。それくらいなら自分らと一緒に滅ぼしてやる、そうすれば自分たちが永久に、生命進化の最終段階であれる。
そんな事を考えてもおかしくない気がしてます。
心のどこかで、滅びを望んでいる部分がある……とまで言ったらネタ的すぎますけど(笑)
その心理は、とてもとても人間臭いものだと思うので。
だって、それはそのまま、人間一個人が死を怖れるのと同じ心理ではないでしょうか。
自分がいた証を残したい。自分がそこにいる価値が欲しい。誰も自分が居たことに、いなくなったことに気付いてくれないのなんて耐えがたい。
そんな感じで。
一個人ならば、周りに覚えていてくれる人々がいる。
一民族ならば、隣り合う民族や交流のあった人々の歴史に残る。
でも、人類全体の寿命が来てしまえば、もう他の誰一人として理解し、記憶し、その存在の証を認めてくれるものはいなくなる。
それは大いなる絶望かもしれません。
科学が示す、神様のいない世界の一番冷酷な面は、もしかしたらそこかもしれない。神様がいれば、神様はちゃんと、人間がいたことを覚えていてくれるからね。
なーんちゃって。
この、「自分の意識の存在の証を残したい!」という衝動は、「ミーム」からも考察できると思います。
このミームという概念も、とてもとても興味深いので、気になる方はチェックしてみましょう。私のお勧めは佐倉統さんの本です。同じミームでも、文系(教育系?)からのアプローチとなると、またちょっと違うので、個人的には理系なミームの本をお勧めします。ネタ的に。
ではでは、ながなが~く書いてしまいましたが、いつものよーに裏は特別とっていないので、その作業は各自でお願いします。鵜呑みにしないように。
私も、ただ1回どっかで小耳に挟んだ事をネタに妄想してるだけなんで。