Sideway

気のおもむくまま。たこやきの日記的雑記。

現在(いま)と未来(あす)

2005-12-28 | ネタとしての生物学
前回に引き続き、人間と環境、未来について。
ネタ生物としてはかなり真面目な方ですね。

「沈黙の春」のレイチェル・カーソン、「奪われし未来」のシーア・コルボーン、二人に焦点を当てた(主にカーソンに、でしたが)ビデオを見てきました。
その中で、繰り返されていた言葉。
それは「人間は、自然に謙虚にならなければいけない」「私たちは、未来に対して責任を持たなければいけない」というものです。
私はこういった考え方を、比較的早くから知り、共感し、自分の立場としてきました。

しかし、この間ふとしたきっかけで、「この考え方自体」がとても恵まれた、豊かな環境でのみ生まれうる言葉なのだ――と、唐突に気付きました。
苦労してきた世代の方々にとって、それは当然のことでしょう。
しかし、何不自由なく生まれ育って来た、同時に「環境問題」の顕在化と共に育ってきた私にとって、それは驚くべきことだったのです。
そのきっかけをご紹介します。
その日、私たちは食用ガエルを用いた実験をしていました。
解剖して心臓や坐骨神経を取り出す必要があったので、私の近くには腹を開かれ、血を流すカエルの入ったバット(四角い皿というか盆というか)がありました。
同じ実験台の向こうで、「痛っ!」と声が上がりました。
どうやら刺したらしく、指を押さえています。
先生が、「怪我をしたのか、早く洗いなさい!」と急いだように指示します。
「あ、ただシャーペンの芯で刺しただけなんで」とその子は言いますが、先生は「いいから早く!」となおも急かします。
私も、恐らくその子も、「タダのシャーペンの芯だし、変な薬品が付いたモンじゃないから大したことないや」と思っていました。しかし、その後の先生のぼやきに、私は目から鱗を落としたのです。
「全く、とりあえずこういう時には洗う! 知らないって言うのは幸せだよね~、ホントは顕微鏡で見れば、このカエルの血にはトリパノソーマ(寄生性の原生動物)がうようよしてるってのに……」
トリパノソーマは家畜や人間にも感染する寄生性の原生動物(ゾウリムシとか、アメーバとか、ミドリムシとか……というイメージ)で、感染するとある種のトリパノソーマでは「眠り病」を引き起こし、致死率も高い危険なものです。

完全に、「寄生虫」「病原体」に対して(特に寄生虫)平和ボケをしていた私にとって、これは衝撃的な事でした。食用ガエルといったら、実家の近くの川や池に、普通にいる生物ですから。
そしてこの話を聞いた時、普段料理をしながら思っていたことが思い出されました。普段、フライパンから飛んで逃げた具材を「勿体無い」と思い、洗ってもう一度フライパンに入れようとするとき、何を恐れますか?
何が怖くて、一度洗いますか?
私は「洗剤」でした。勿論、変なばい菌(寄生虫も含む)は熱処理で殺せる、ということもありますが、あまりに身近に「ばい菌」がなさ過ぎて、「そっちは少々平気だろ」と思っていた面があったのです。
そして、「洗剤」……ひいては科学化合物全般に対する怖れは、それよりも遥かに身近なものでした。今、1回口から入る量はごく微量でも、そのうち体の中に蓄積されていくんだよな……という恐怖感があったのです。

ここで、私は唐突に思い至りました。
「そうか、昔は……衛生状態が確保されていない状態では、『いつかそのうちの危険』になんて、考えが及ぶはずがないんだ。だって、今、この時不注意で何かに感染してしまえば、明日すらもないんだから」
何を当たり前のことを、と思われるかもしれません。でも、それまでの自分に、そしてそれまで学んできた「環境問題」の中に、そういう前提……それを気にする事ができる『今』が、どれほど恵まれた状況か、という認識は抜け落ちていた気がするのです。
環境問題、といわれれば、取り扱われるのは人工物質のネガティブな側面ばかり。勿論それに焦点を当てているのだから当たり前です。でも、そればかり学んで、それが使われ始めた時代の背景を見過ごし、まるで化学物質は悪そのものであるように捉えるのは危険なのではないでしょうか。
自分たちが、どれだけその恩恵に預かっているかも――その恩恵が生活に深く浸透しすぎ、当たり前になりすぎて――無自覚なまま、ただ「エコロジーブーム」、「天然・有機ブーム」に身を任せるのは、あまりに滑稽で愚かしい事なのではないか。「未来の事を考える」「未来に責任を持つ」ということそのものが、どれだけ贅沢な事かも気付かぬまま、それが出来ることへの感謝もないまま、「当然の義務」として十字架のように背負うのは何か歪んでいないだろうか。そう考えたのです。
清潔な、細菌もほとんど居なさそうなピカピカの台所で、テレビ画面の向こうに望む鮮やかな緑を夢想して「自然が一番!」と言う。このことに違和感を覚えていたのもあります。
(実際昔に比べて、私たち自身から取れる細菌の量は減ってるみたいです。髪の毛をシャーレに置いて培養した所で、指紋を付けて培養した所で、コロニーなんかできやしない、と先生が嘆いておいででした。昔はもっと、生徒の体自体に細菌が一杯くっついていたのだそうです)

繰り返すように、今、警告を叫ぶ方々にとってこの前提は当然過ぎるものでしょう。だから、「当然でない事」として化学物質と環境問題を叫び、広げよう、伝えようとするのは当然です。しかし、若い世代の私たちは、その前提自体を自覚していない。そのことにまで気付いて、その前提から包括的に環境問題を広め、伝えようという事は少ないのではないでしょうか。

私たちにとって、「現在(いま)」は、あって当たり前のものなのです。

それが、人類の歴史においてどれだけ特殊な状態であるかの認識も、自覚もない。
この状態で、暗雲垂れ込める「未来(あす)」の十字架ばかりを背負ってみようとしたところで、上手く行くはずがない。歪んでしまう。そう私には思えます。
今回のビデオでインタビュアーをしていた年配の女性が、60年代に始めて「沈黙の春」の話を知った時、
「正直、それは野生動物のことであって、私たち日本人はすごくお腹が空いているんだから仕方がないじゃない……って思ったんです。お恥ずかしいことですけれど」
と言っておられました。
私は、それは当然だろう、と思います。そうで当たり前なのです。恥ずかしくも、何ともない。事実だと。その事実を認めずに進む環境対策など、成功するはずがないと。
私たちは多分、野生動物の為に環境を守っているんじゃありません。
何より自分自身の為に、環境を、明日を保護していかなければならないのです。
そうである以上、日本にとってはかつての、世界の多くの国々では今直面している、「現在(いま)を生き抜くこと」を無視するのは間違っていると思うのです。現在を生き抜くために、たとえ未来を犠牲にしてでも、否、未来のことなど考える余地などありはしない状況で、化学肥料を使い、農薬を散布する。その行為を、それをしなければならない現実を無視して進む自然保護なんて、所詮空調の効いた室内で繰り広げられる机上の空論なのではないでしょうか。言葉をきつくして言えば、そう思うのです。
そんな状態で、何が「自然に謙虚」なのでしょう。
自分が何の上に胡坐をかいているかも自覚しないままの「謙虚」ほど、虚しいものはないのではないでしょうか。

多くの、自然保護を唱える専門家、研究者たちは当然そのことを知っているでしょう。
年配の、大人の方々も。
しかし、問題は私。そして、失礼を覚悟で言い切れば「私たち」です。
学ぶ立場であり、知る立場であり、引き継ぐ立場である私たちに、果たして「環境問題」に取り組むだけの土壌……それを行う為の基礎となる認識が十分なのか。その事に対して、私は懐疑的です。
もしも読まれた貴方が、私と同じような罠に嵌まっていたのなら、そしてこの文章でそれに気付いていただけたのなら、それ以上はありません。

明日帰省いたします。

2005-12-28 | 日記。
本をドッサリ抱えて(笑)
読むぞ~! きっと読んでる場合じゃ全然ないけど!
年明けからやっべえぞ~~~!!!

やっとバカの壁を買いまして。うん、面白そう。
キツイ題名は怖い……っちゅうか、流行ってる本は基本的に買わないので、今更。
あとは同じ養老さんと古舘さんの対談集、図解雑学「民俗学」に、ミルトンの失楽園、現代小説のレッスン、エレガントな宇宙、センスをみがく文章上達辞典。他、未読(積読;)のラノベを二冊。あ、あとレイチェル・カーソンの「沈黙の春」。これは先生に「生物をやる人間なら最低限読んでおくべき本だ」と言われたので。
…………なんだこのラインナップ。

エレガント~は以前にも言いました、ひも理論の本です。今読んでるところはまだ相対性理論と量子力学の説明ですが、なかなか分かりやすいですよ。一般向けに書かれているので数式はほぼ全く出てきません。算数さえなければとてもとても興味深い分野です、物理学。(電磁気がサッパリカッパリ掴めないから苦手だけど)
翻訳本なので、英語独特の言い回しが残ってて読みづらい部分もありますが、英語論文を多少なりとも齧ってると、「あ、これは多分元はこう書いてあったんだろうな」的な予測が立てられるので結構引っかからずに読めます。

センスをみがく~は、ちょっと興味があって借りてみました。結構色々な項目を立てて、詳しく説明してあります。結構いつもは無意識に使っている言葉の技術を、(自分が上手い下手は別にして)再認識・意識化していくのは、上達の手段として悪いことではなかろうと。一度意識化されたことは、後々自分の、あるいは他人の文章を読むときにも認識できるだろうし。

図解雑学。民俗学面白そう。っていうか、好き。図解雑学なんで、広範囲のトピックスを紹介した入門書だろうけど。イケショウとクナのクナちゃん辺りに役に立つのか立たないのか……立たないか。
まあ、妖怪とか何とか好きなんでv うふふ。

養老さんの本。何となくきついイメージあった気もするけど、読めば至極納得。うんうんと頷きながら読むことになりそうですが、「考えなさいね」と書いてある本の内容を、丸呑みして自分の頭をそれに書き換えるのも阿呆な気がするので、注意深く読んでいきたいです。
「当たりだ!」と思う論説にぶちあたると、大抵日頃考えている事に形を与えてもらえた気がして、何かスイスイ分かった気になりますが、実は全く同じなはずもなく、「当たりだ!」と思ったからって鵜呑みにするのは良くないかな~、と考える今日この頃です。
なんちゅうか、それと同時に、自力で形にならなかった悔しさみたいなのも感じますが(笑・ナマイキな)

失楽園。いや、不倫の方でなく。
ネタ仕入れというか、資料集め。岩波文庫でござい。現代語訳してあったから買った。
やっぱ、リアル宗教交えた、SF入った伝奇小説は憧れっす。ヨハネ黙示録とか、ダンテの神曲とか、セフィロトとか(笑)
百億の昼と千億の夜の漫画版とか、結構理想としてありますね。小説版は持ってるけど読んだ事ない。あとブレインヴァレーも!! 宗教+科学という題材が好きらしい。

現代小説のレッスン。
様々な現代小説に対する考察? かな?
帯には、「ブンガクはこう読め!」と書いてある。基本的に「ブンガクが読めない」奴なので興味が湧きました。日頃読むのは「物語」であって、「文学」にあまり興味はないのです。あ、大塚英志さんが何か出してる……きづかなんだ。今度チェーック。大塚さんの論説文が好きです。



普段、私が読むのも書くのも「物語」です。
母が持っていたり、書店で出会ったりして、今まで中島梓(栗本薫)さんと、大塚英志さんの物語論(?)を各2冊、計4冊読んでいます。
この程度では、自身が何か論説を展開できるほどの知識には到底及びませんが、どちらもとても参考になって、今の私の物語……小説に対するスタンスを決めています。
中島さんのが、「わが心のフラッシュマン」と「コミュニケーション不全症候群」。とてもとてもお勧め。書き手としても、物語を欲する読み手としても。あ、あと「小説道場」シリーズも参考になります。こちらは書いてる方に特に。もともとボーイズラブ系の雑誌での企画なので、投稿作はすべてソチラ系ですが。
あ、「タナトス~」が文庫になってる……! 買わなきゃ、買わなきゃ!!(暴走)また一つ読むのが増えたよ、大丈夫?
大塚さんのが、「物語の体操」と「キャラクター小説の作り方」です。キャラクター~の方を先に買って、「物語~の○○ページを少し立ち読みしていただければ…」という記述を目にし、素直に立ち読みしようと書店に行ったが見つからず、挙句レジで店員に「物語~っていう本ドコにありますか?」と尋ねるなどという愚挙をおかして(勿論店員さんはレジまで持って来てくれた)買わざるを得なくなったというの顛末が。買ってよかったと心から思ってますが。
キャラ小説だし、物語だし、やおいだし、ラノベな人種にしか用のないもの……とは思わないでほしいな~、と思います。
物語って何なのか、小説ってなんなのか。ドコが違うのか。実際的な書き方から、その根幹を考察する理論まで内容に富んでいて、とてもためになりましたので。
中島さんは、多分ご自身が物語作家だ、と物語を肯定してらっしゃるんだろうし、大塚さんは、小説・文学の価値とかそういうのを物語とはナニで、小説はどう違うのかから浮き彫りにしようとしてらっしゃるのかな、と(昔なのでうろ覚えですが)読んで思った気がします。読むならお二人とも読まれるとなお面白いかも。
また、日常生活に関わる価値観や情報処理(?)のことにも触れておられます。

自分は物語、キャラ小説、ラノベを読み、書いてるつもりです。文学に慣れ親しんだことはないし、リアルな事はリアル(自分の現実)で十分だと思い、活字の世界には、それとは異なる興奮・快感を求めるタイプです。
母上の至言(?)ですが、
「フィクションの世界でまで、普段の生活に転がってそうな事読んでどうするの」
だそうです。基本的に賛成。「お約束」の世界の安心感、痛快感が好きだし。
月の杖にしてもイケショウにしても、そこを外すつもりはありません。
お約束な骨格丸出しにしては面白くないですが、下手な所を壊すと「そこ壊してどうするよ! そりゃあ現実の可能性としてはあるかもしれないけど、ソレ書いて、読んでなんか価値あるワケ?」的な代物になっちゃうと思うので。
難しいだろうけどね~。うふ~。

ちなみに陽炎は、ネタだけあってナニも考えずに書き始めたら、結局まあまあ収まりのつくラスト(バッドエンドだけど、「物語」の範囲内かと思われ)に持っていけなくなった(笑)
ので、微妙に小説もどきをやっているかもしれません。
「瞑する条件」は、分かりやすくお約束だと思います。
良くあるツボ系のネタですぜ、あれは。
自分にとって何かが欠けている状態→事件→欠けたものを取り戻せた(満足した)
だから。この場合は欠けたもの=安らかに死ぬ条件(題名まんまや)ですが。
ちなみに、いつもこんなにグダグダ考えて書いてる訳ではないです(笑)長編書いてると、どうしても考える事になりますけど。見せ場を考えないとナニ見せたくて書いてるのか分からなくなるんで。

とか、こんな事グダグダ書いてると、「作家になる気か、お前は」と思われそうですが、その辺は微妙。多分、目指したりは……しないかも?
それよりはバイオ系、エコ系の研究者かライターになりたいなあ。学者さんとゆーか、自分も論説文書いてみたい。やりたい事は色々あって、環境保護だったり、地域貢献だったり、研究だったり……研究したいというより、研究成果、世界中で次々と発見されていく新たな事実を、すぐに見られる最前線に近いところにいたい。
一つの事を極めたいのか、理想を持って広い視野を見て、目的の方向へ持って行きたいのか、自分の好きなことがやりたいのか、何かの為に尽くしたいのか。
まだ全然定まらなくて困ったもんですが。
環境関係やると、またぞろその辺に関わりたくなって困ったもんです、本当に。
古生物学なんてドコの大学行ったら出来たんだろう? むが~!
でも分子レベルの生物学も好き。
頭の中が非常に散らかっておりますな。ヤレヤレ。

科学雑誌のライター……憧れ筆頭に来てるかも知れません、今日この頃。