Sideway

気のおもむくまま。たこやきの日記的雑記。

くらくらする。

2005-05-11 | 日記。
真面目に英語をやるぞ! と夕食後図書館に篭り。
風の谷のナウシカの漫画を読んでいたたこやきです。こんばんは。

全七巻か八巻。一冊は薄いし、まあ読んでみるか……などと手に取ったのが運の尽き。
その薄い一冊の長いことといったら!
こゆい。もんのすごく、濃い。

まあ要するに、「漫画でハマりました! マジお勧めです!!」
この一言に尽きるかと。
オフラインでは何かについて「語る」のは大好きなのですが、
オンラインという不特定多数、ドコの誰かも知らない相手の「作品観」に介入してしまうのは好きではありません。
(自分がやるのが、ですよ。書いてあるものに文句をつけるつもりはないです)
ひとえに自分が影響されやすいから。

誰かに影響を与えられるほど、偉い人間ではないとも思っていますし。

一般パンピーな私が誰かの「作品」について語るとき、きっと多くを語らなくていいんです。
的確に表現なんかしなくていいんです。
「マジ最高!!」
これだけで十分。ナニがどう最高だったかなんて、きっと本当は要らない。
それは興味を持った人が自分で感じれば良いのです。
「私」を知っている人間が、「私」がどう感じたかを聞き、それを解釈するのは正しい。
「ああ、あいつはこういう奴だから、ここでこう感じたんだな」と考えることができるから。
でもオンラインで、誰とも知らない、語る者を知らないままに、個人の感想を詳しく聞き、それに影響されるのが本当に正しいのか? と思います。
そこで自分を動かされず、ちゃんと「それは他人の意見だ」という区別がしっかり付く人でないと、その感想を読んだ人はその感想を読んだことによって、損をすることがあるのではないか。

そんなことを考えます。

珍しく語ってしまったな。
強い断定形を使うのは……本当は好きで、だからこそ嫌いです。
自分がそうして、他人に影響を与えたがっている部分が自分で分かるから。
周囲の大人にぶつけるのなら、下から上への突き上げなのでまあさして気になりませんがね。
そういうのに揺るがず、エッセンスだけうまく取り出せる相手に恵まれてきましたので。

話題変わって。
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/news/2005/jr_fukuchiyama_accident.html
にて、JRの脱線事故について触れておられます。
このブログのリンクにもご紹介しております、「心理学 総合案内 心の散歩道」様です。
もしも何かを述べるのであれば、このような視点に立って述べたい、と心から思います。
こっちもこっちで、つつけばワヤワヤと語ってしまいそうなので口に封印。

ついでにもう一つ触れておきましょう。
(そこ、現実逃避だ! とか言わない!)
私が、そしてきっとあなたが何かを語るとき、その立場は「論者」「発言者」です。
コミュニケーション。伝達。何かを相手に伝える。
その時、あいまいであっては非常に伝わりにくい。
何か拠って立つ立場を明確にし、明快な論理で伝えるのが最も良いでしょう。
でなければ相手を混乱させるだけで、自分の言いたいことが伝わらない。
誰かと議論を交わすとき、「論者」としての私は「ある一つの主張の元」にいます。
しかし、その「論者」としての自分を、真実の自分と取り違えてしまうことは恐ろしいと考えます。

たとえば「理系」の立場で語るとき、相手の友人は「文系」だったとしますね。
学校の討論の授業で、「お弁当か、給食か」なんてやってるのとはワケが違い、両方ともその立場で語るだけの内的な根拠や確信を持っています。
よって、「論者」としての自分と、本当の自分を取り違えやすいのではないでしょうか。
手短に言ってしまえば、「熱くなりすぎる」というやつです。
私は理系で、非常に理屈っぽい考え方をしています。そしていつの間にやら科学的考え方に頭を占拠され、はっと気付けば「証明され得ないものは存在しない」と当たり前のように信じています。
これに対し、文系の友人が、「科学での証明に限界はない、と思うことこそ科学の驕りだ」と反論しました。科学に限界はない、と思うことは傲慢だ、と言う考え方です。

議論を交わす間、私は「理系」で、友人は「文系」です。
しかし、私と理系は等しいでしょうか? 私の志望学部には文学部も入っていたぞ(笑)
同じく、友人と文系は等しいでしょうか?
答えはきっと、否です。

発信される全ての「論」や「意見」は、その人自身では決してない。
私の中にだって、文系の部分があります。
私たちが誰かの発言を聞くとき、それを肝に銘じておく必要があるのだな~、と思います。
そして自分の中に、たとえ自分が「論者」であったとしても、あいまいで、白黒交じり合った「聴者」としての自分を見失ってはいけないのだな、とも。

それに最初から気付いていて、なおかつそのせいで自分の意見を述べることが苦手な方もおられるかと思います。
「自分ここまで極端なことおもってねーよ(汗)断言しちまっていいのかなあ?」
と。
一旦断言し、明確な立場を相手に伝えなければ、何も始まらないかもしれません。
(ここ最近公的なディスカッションに関わってないんで、あまり強いことは言えませんが)
後はどれだけ自分で、その「灰色部分」の存在を忘れず、相手の意見を聞くか、ですかねえ?

まあそれはともかく(汗。本当に最近、議論なんてやってないんで~)
自分も他人も、言葉にされて出てくる部分だけが全てではない、と常に意識していられることが、
一個の個人としてのあるべき姿かな、と思います。
個人同士、友人同士の議論で溝ができるのも問題ですが、それよりもやっぱり、
「ああ言ったからあの人はこういうひと」
「あの人がああ言ったから正しい」
「私はこういう立場だからこう考えるのが正しい」
などなど、発言と個人を混同することが、思考停止状態を招くことこそ恐ろしいと思います。
「論者」である自分と別に、一歩離れた「聴者としての、曖昧で多面的な」自分を保っておくことはとりもなおさず、自分の中で情報を処理し、咀嚼し、自分で考えることなのではないか。
そう思うからです。
なんでそう思ったかとか聞かないでくださいまし。
それがナニに繋がって、どう社会が危ないとかいうつもりは毛頭ありません。
ただのたこやきの独り言です。「だから考えなさいよ~」なんて口が裂けても言える立場じゃありません。
ただ、願わくば、
そう感じた自分がここにいて、どこかに同意してくれる他人がいれば嬉しい。
そう思うだけです。

一応以下に、初めはこの上に書かれていた漫画版の感想を置いておきます。
たこやきの言うことなんか、まあ聞き流しときゃいいや、ナニ書いてやがんだ?
と、かる~く読み流して明日には忘れられる方にお勧めします。

一冊あの濃度で七冊くらいあったやつを、一体全体どうやって一時間半の映画に収めたんだ!?

と、思ったら、かな~り削ってありました。
映画部分だけなら、一巻のダイジェストだけみたいなもんです。
もったいね~(汗
あれは漫画を読んで初めてその世界の深さと、テーマの重さに入り込むものではないのか。
そう思いました。
小説並の密度で、蟲の描写は漫画、絵だからこそのインパクトがあります。
宮崎アニメはまあまあ見てますが、はまることは無かったのですが、
アレは絶対、短すぎるからだ!
と確信した今日この頃。

あの、漫画に出てくるだけの背景設定とドラマ、物語の大きなうねりがあって始めて素晴らしい作品なのではないか。
そうえらそうなことを書いてみたり。