乱鳥の書きなぐり

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飛鳥の苑池から出土した『土馬』そして、絵馬の起源を探る。   (絵馬の起源2)

2009-11-19 | 民俗考・伝承・講演
 
   



 以前からこのブログで何度か絵馬については取り上げている。

 橿原の今井町にある絵馬の数の多さに驚き、絵馬の起源についてわかる範囲で絵馬の起源を調べたことがある。


    今井町;春日神社の大型絵馬 3  絵馬(写真2枚) 奈良県橿原市
                            2009-05-04 | 奈良千鳥足

 橿原市今井町の春日神社内にある大型絵馬の全体のごく一部を写した写真です。

 絵馬は字の通り、馬の絵を描いたものが多くあります。

 馬の絵はこの成長を願っておさめられたようです。


 絵馬そのものの歴史は古いとのこと。

 もとは生馬を神に献じていたことに由来。

 生馬は奈良時代に馬をかたどった木馬や陶馬に変わり、また平安時代には板立馬となる。

 簡略化された形が現在のような絵馬になったらしい。


 絵馬の奉納が盛んになったのは室町時代の末。

 題材も馬だけではなく、武者絵、歌仙絵なども姿を現す。

 大型絵馬となって残っている中には、歴史や話などを表すものもみられる。

 これは大型絵馬1、2でも記録させていただいた通り。


 大型絵馬が多く奉納されていると、その土地の氏子の豊かな生活を想像する、

 実際に、豊かな暮らしを営んでいた、

 橿原の今井町は江戸時代には武士などにお金を貸したという 今村家などの屋敷が今も残されている。

 河原には巾着の方をかたどった柄。

 屋敷の表には馬つなぎの様子なども見られる。


 ここ今井町は江戸のにおいが細やかなところに残り、歩いていて見飽きることはない。

 そういった独特の美しい町の一角に、立派な大型絵馬が数多く残されているのは、納得のいくことである。

   


 上を読み返すと、今井町の神社で大量の絵馬を見つけた当時の気持ちが思い出される。


 話はとぶがつい先日のこと。

 わたくしはKN先生のお話を聴拝した。

 テーマは『飛鳥の苑池』について。


 飛鳥京苑池については論理的に環境を求め、話は進められる。

 苑池は中国に対しての禁苑といった立場から話された。

 苑池についてはなされた内容はノートにとってはいるが、ここでは割愛させていただきたい。

 今回はK先生の飛鳥の苑池のお話の中で出てきた馬から発展させられた絵馬に関する内容にとどめることにした。


 苑池は北の池と南の池に分かれていたという。

 南の苑池は基本的に景色を楽しむためだったであろうと先生はおっしゃっていた。

 また北の池からは大量の木簡が出土したという。

 この木簡が出たところはヘドロ状になっており、現在の都市問題を流水を持って解決したとのと。

 
 流水によっての処理。

 考えられるのは

    し尿処理

    ゴミ(役所)

    飛鳥の夏の暑さの澱みを流水を持って解決

    防火

    打ち水効果

などらしい。

 石舞台古墳付近から飛鳥宮跡に向かって水路の跡がある。

 水路跡、すなわち溝の水は 宮人のし尿を流し塵芥や不要品を流したということか。

 石舞台古墳(宮)のゴミなどは北西の苑池の北池に流れ込む。

 上澄みだけが飛鳥川に環流。

 ゴミ(役所)で不要になった木簡などを流して捨てたと言うことを考えると、先人の知恵の深さに感心する。


 そういった近代感覚と秩序を持っていたであろう飛鳥。

 この飛鳥の水源とした石舞台古墳の西方向の池跡。

 そこには飛鳥の水源の井戸があり 井戸付近の溝から『土馬』が出土。

 上のようすをパソコンを通じて拝見した。

 土から顔を見せた『土馬』の色合いは重厚であり、美しい姿を横たえていた。


『土馬』

 なんと言う美しい響き。

 この『土馬』には雨乞い祈願や呪術的要素が含まれているという。


 K先生は次のようにおっしゃった。


 中国南部では 祈雨に際し、天帝に牛を献げたという。

 牛は池に沈められ、浮かび上がり泳ぐと、また沈めたという。

 漢字の『沈』。

『水(サンズイ編)』に『ウマ』と書いて『沈』という文字になったそうである。


 所変わって中国の北部になると牛では無く馬文化となる。

 馬の数が多く、北部では牛に変わって馬を沈められたという。


 日本では中国北部の習慣が伝わり、雨乞い祈願のために馬を沈めたという。

 しかしながら実際に生きた馬を池に沈めるのはたいへん費用もかさみ、次第に生け贄の形は変化を遂げる。


 日本では飛鳥時代中期から後期『木馬』(木製)出会ったが、気を彫るのはたいへん時間がかかると言う理由で、『土馬』(土製)に変わる。

 だが、『土馬』もたいへんだと言うことで、木の板に馬を描いた『絵馬』という現在の形になったという。


 わたくしは以前奈良の楢神社で  牛を描かれた大型絵馬を見たことがある。

 この絵馬に出会った時にはY先生のおっしゃる『牛解き』にちなんだ物かと思っていたが、今回K先生のお話を聞いて、この絵馬の意味合いの真実に近づいたように感じ、喜んでいる。

 
 日本では雨乞いの形は馬にとどまらず、色々な方法をもって祈願されたと宮田登や他の多くの民族学者たちは記している。

 雨乞いや神撰にまつわる生け贄は簡素化というおなじ道を辿ると民族学者たちは言うが、今回見せていただいた飛鳥の『土馬』の姿を見てほっとしたと同時に心が和んだことも付け加えておきたい。



   

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