gooブログはじめました!古代からのウソの歴史の訂正と真実を

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ歴史の隠れ話に本物の光を、誠を伝える勇気を子孫のために、

鳥居耀蔵没す 明治7年(1874)

2011-06-29 00:37:31 | 「妖怪」と言われた人物である。

2006年10月03日






鳥居耀蔵没す 明治7年(1874)

鳥居耀蔵は、その政界でのやり口から「妖怪」と言われた人物である。耀蔵の官職がちょうど甲斐守であったから、耀蔵の「耀」に甲斐守の「甲斐」で「ようかい=妖怪」である。

鳥居耀蔵は、洋学にきわめて強い反感を持っており、完全に敵視していた。
ある時は西洋流の砲術を取り入れた高島秋帆を目の敵にして追い落としたり、水野忠邦の命で江戸湾海防巡検で測量を行った時には、海防改革案で洋学者と親しく、その意見を取り入れた江川太郎左衛門と対立したりした(江川案が採用されたので、なおさら鳥居は怒ったらしい)。

やがて、まんまと水野忠邦に取り入って、洋学者たちを成敗することに成功(蛮社の獄)。さらには江戸の南町奉行となり、市中に平民を装った密偵を放って、苛烈な取締りを行ったりした。耀蔵の悪口を言うものも取り締まられたらしいので、さながら平安時代の平家による禿の如しである。

しかし、水野忠邦失脚後は、耀蔵の権威も弱まり、阿部正弘が老中になると、オランダ国書をめぐる評議で対立。阿部は、以前から鳥居の在任中の悪事について洗い出しを進めており、幕府の御用商人後藤三右衛門と組んでの、貨幣改悪による不当な利益を得ていた件の他、事実隠蔽、金銭横領などなど多数の悪事を指摘されて、免職改易。四国丸亀藩へお預けとなった。

と言っても、丸亀藩もいやいや耀蔵の引き取りを承諾したから、耀蔵は一室に押し込められて、ほぼ23年間の間外にでることすらなかったという。だが、明治維新で丸亀藩そのものが消滅すると、耀蔵も解き放たれる。
一応家族のもとに戻った耀蔵は、「幕府が滅びたのはわしの言うことを聞かなかったからだ」などと相変わらずの悪態をついて、明治6年にこの世を去った。享年78歳。

※写真は『妖怪といわれた男 鳥居耀蔵』。小説です。耀蔵の見方が変わるかもしれない作品。悪人耀蔵のイメージは覆されるかも。


--------------------------------------------------------------------------------

(その他の10月3日の出来事)

●大津皇子処刑される 朱鳥元年(686)
⇒天武天皇の皇子で、皇位継承問題や恋愛問題から讒言されて処刑された。

●北条氏康没す 元亀2年(1571)
⇒小田原後北条氏3代目。武田信玄や今川義元と手を結び、関東へ大きく進出して、北条家の名を天下に知らしめた名将。

●山鹿素行が配流となる 寛文6年(1666)
⇒山鹿素行は山鹿流兵法などで著名な兵法家。朱子学に反対的で、「聖教要録」を刊行。これが大老・保科正之の怒りを買い、赤穂藩に配流となる。ただし、赤穂藩は素行の旧主であったし、10年後には赦免されている。

●山内容堂が大政奉還を建白 慶応3年(1867)
⇒山内容堂は山内一豊で有名な土佐の大名。大政奉還については、坂本龍馬の案を後藤象二郎がまとめて、容堂に進言し、それを容堂が建白したものだという。


--------------------------------------------------------------------------------

鳥居耀蔵もわかりやすい悪人ですなあ。「妖怪」とか庶民に言われていた時点で、「あ、悪いヤツだったんだね」ってわかりますよね。

今回あえて「耀蔵没」をメインの記事にしたのは、個人的に昔からその悪人ぶりに興味ある人物だったからです(笑)。ちなみに参考文献は、『日本史人物辞典』とおなじみ『風雲児たち (16)』(18巻くらいまで登場します)です。興味ある人はどうぞ~。

伊藤博文暗殺 明治42年(1909)

2011-06-25 17:34:21 | 歴史隠れ話

歴史かくれ話と今日は何の日



「「今日は何の日?」明治時代」カテゴリ 記事一覧

・伊藤博文暗殺 明治42年(1909)
・鳥居耀蔵没す 明治7年(1874)
・黄海海戦 明治27年(1894)
・大村益次郎襲撃される 明治2年(1869)
・「君が代」が正式に国家となる 明治26年(1893)
・ちょんまげを落とすことを認められる 明治4年(1871)
・明治天皇崩御 明治45年(1912年)
・廃藩置県の詔書出る 明治4年(1871)
・明治天皇に国産ビールが献上される 明治10年(1877)
・版籍奉還 明治2年(1869)


2006年10月26日




伊藤博文暗殺 明治42年(1909)



この暗殺事件が起きたのは日本国内ではなく、満州のハルピンであった。

伊藤博文は、南満州鉄道などの権益の確認のために満州に渡っていたが、日露戦争の敗戦後もロシアは不凍港を求めて東進を狙っていたため、伊藤はこの時にロシア側の要人と会談を行って、利害関係の調整をすることになった。

伊藤博文は部下と共に奉天からの列車に乗って、午前9時にハルピンに到着。ハルピンではロシア側とハルピン駐在の警備員、ロシアの軍楽隊などが待っており、列車が到着するとロシアの使者であるココチェプ財務大臣が列車の中に入っていって、伊藤に挨拶をして連れ立って列車を出たという。

ホームで軍楽隊の演奏が鳴り、伊藤は儀杖兵を閲兵、列国外交官らの挨拶を受けた後、ロシア兵の前のさしかかった。

その時銃声が響いた。まず3発。人々がざわめく中でさらに4発。弾丸は伊藤と側近に命中しており、伊藤はうめき声をあげて崩れた。

その直後である。ロシア兵の後ろから一人の東洋人が「朝鮮万歳!」と叫んで拳銃を高々とあげると、それを捨てた。この男こそ、伊藤博文暗殺の犯人とされる安重根30歳であった。

撃たれた伊藤はすぐに列車内のベッドに運ばれた。意識はあったので、勧められたブランデー一杯を飲み干した。
「誰がやったのか?」
「朝鮮人のようです。」
それを聞いた伊藤は愕然として「馬鹿な…」と言いかけて絶命したという。

安重根はただちに取り押さえられていた。カトリック教徒だった彼は、伊藤の死を聞かされると、神に感謝の言葉を捧げた。安重根は以前から反日運動を繰り広げていた男で、今回も伊藤を狙ったものである。旅順の監獄に投獄された後、翌年3月26日に処刑された。
その行動から朝鮮では英雄として扱われている。

※写真は『伊藤博文を撃った男―革命義士安重根の原像』。暗殺事件の詳細を遺品資料と、地道な取材で追うノンフィクション。事件に興味がある方は必見。


--------------------------------------------------------------------------------

(補足情報)

●巻き添えで重傷を負った人
安重根の放った弾は全部で7発。伊藤の側にいた人間にも当たった。
被害者は、ハルピン駐在総領事川上俊彦、宮内大臣秘書官森泰次郎、満鉄理事田中清次郎の3人。


--------------------------------------------------------------------------------

伊藤をはじめ日本政府は、朝鮮のためとうたって朝鮮に介入していたんですが、朝鮮人にとっては、はた迷惑な話だったのかもしれませんね。当時の日本は日清戦争、日露戦争と意外な大勝利。ちょっといやらしい言い方をすると、のぼせていたのかもしれませんねぇ。

大村益次郎襲撃される 明治2年(1869)

2011-06-25 17:29:39 | 歴史隠れ話

大村益次郎襲撃される 明治2年(1869)




大村益次郎は、幕末期を代表する軍政家で、もと医師。実家が医者の家だが、村医者であり、特に裕福というわけでもなかったらしい。

そんな益次郎だが、緒方洪庵の適々斎塾で、医学以外に兵学や築城学、砲術などを学んで、兵法家の道も切り開いた。益次郎は、実はこの後、故郷に戻って実家の医業を継ぐのだが、幕末の動乱のなか、益次郎の才能は伊予宇和島藩に聞こえていて、やがて招かれて宇和島藩で兵法家として活躍することになる。

紆余曲折あって、37歳で故郷の長州藩に仕えてその兵法や軍政の才能を発揮する運びとなった。益次郎の兵法、軍政は素晴らしく、戊辰戦争における上野彰義隊討伐、続く会津戦争、函館五稜郭と新政府軍の本部で辣腕を振るい、新政府軍の中心人物となっていった。

益次郎が襲撃されたのは維新成った明治2年。維新が成ったと言っても、まだまだ改革の途上であった。明治維新は、根本的に世の中の仕組みを変えるという一大改革であったから、新体制で不利を得る者は、改革に反対意見を唱えるものもいた。そして、その改革を主導した人物が狙われることもあったわけである。その風潮の中で大村益次郎も襲われた。

益次郎は、軍政家であったから、改革でも兵制の改革に取り組んだ。そして、こういう方針を打ち立てた。「武士の軍隊の解散と廃刀」である。これが、旧藩士の連中に猛反対された。武士の特権がなくなるわけだから、まあ当然といえば当然である。

益次郎が襲撃されたのは、軍事施設調査のために京阪地方に来ていた時であった。
益次郎が京都木屋町に旅館に帰ると、静間彦太郎、安達幸之助、山田善次郎などが訪ねてきた。いずれも益次郎の知人で、静間は大隊司令官、安達は英学教授であった。そして、明るいうちであったが、酒宴を催しながら談笑に及んでいたらしい。

やがて暗くなり始めたころに8人の刺客の襲撃を受けたのである。刺客の目標はもちろん益次郎で、真っ先に狙われた。益次郎は初太刀で額に浅傷を負う。そして、咄嗟ににとった刀で次太刀を受けようとしたが、振り下ろされた刀は鞘を伝って、右膝に骨まで刺さる重傷を負った。しかし、益次郎はそこでは死ななかった。うまく隠れて難を逃れたのである。他の3人はあえなく斬殺されたのだが。

だが、益次郎の膝の傷はやがて破傷風となり、右大腿部を切断。その後再び悪化して11月5日に死亡した。ちなみに刺客の8人は全員逮捕されて、斬首になっている。

⇒大村益次郎殉難碑周辺の地図(livedoor地図情報)
※地図にはありませんが、この辺にあります。

※写真は『風雲児たち 幕末編 8 (8)』。表紙が益次郎です。「歴史大河ギャグ」の本作ですが、割と細かいことまで描かれています。この巻は表紙になっているだけあって、最初の方は益次郎が多めに登場。この他に『風雲児たち 幕末編 5 (5)』にも登場して、シーボルトの娘・イネにいい台詞を言ってくれます。ちなみに『風雲児たち 幕末編 (9)』にも登場。

※大村益次郎を主人公とした大河ドラマもあります。司馬遼太郎原作の『NHK大河ドラマ総集編 花神』。大河の幕末モノはヒットしないというジンクスがあるようですが、…まあこの作品も地味といえば地味ですかね…(笑)。幕末好きなら絶対面白いと思うんですがねぇ。
原作はこちらです⇒『花神〈上〉』、『花神 (中)』、『花神 (下巻)』


--------------------------------------------------------------------------------

(キーワード)

●大村益次郎(おおむらますじろう)

村田良庵、村田蔵六と称し、のち大村益次郎。

緒方洪庵の適塾の門下生で、塾頭にまでなった傑物。宇和島藩の伊達宗城に招かれ出仕し、藩の蘭学推進や西洋船建造計画に力を尽くした。この頃、シーボルトの娘イネに医学を教授したという。

のち、幕府に出仕し、蕃書調所教授手伝、講武所教授。1860年には萩藩(長州)に迎えられ、66年の幕府による第二次長州征伐で、軍略の冴えを見せつけた。次いで、戊辰戦争でも軍略面で活躍し、明治維新後は、新政府の軍制改革を提案した。しかし、革新的な発言をしてきたため、守旧派からは恨まれ、69年9月、京都木屋町の旅館で襲撃を受け、11月に没した。

肖像画を見ると、やたら額が広く、頭がでかい。脳みそギッシリなのね。
⇒肖像画を見たい方はこちらへ(国立国会図書館『近代日本人の肖像画』様)。


--------------------------------------------------------------------------------

大村益次郎は、私は『風雲児たち』で詳しく知りました。すごいカタブツとして描かれてましたがマジなのかな…?
しかし、襲撃の様子がどことなく坂本龍馬と似ているような…。書き方ひとつで変わるというヤツですかねえ。

「君が代」が正式に国家となる 明治26年(1893)

2011-06-25 17:26:03 | 歴史隠れ話

2006年08月12日






「君が代は 千代に八千代に 細石の 巌となりて 苔のむすまで」

これが日本の国家・君が代の歌詞である。君が代は、もとは祝祭日の祝礼儀式に選定唱歌が必要だったため、文部省が選定して国家となったものだという。

歌詞は「主君(我が君)の寿命(御代)が、千代にも八千代にも末永く続きますように。小石がやがて大岩となって、そこに苔が生えるようになる時までも」という意味で、つまり、主君の命(統治時代)の永遠を願う歌というわけである。

この歌詞には原型があって、それが歴史上の著名な歌集に収録されている和歌であるらしい。代表的なものとして二首が挙げられるが、その一つ目は奈良時代に編集された『万葉集』の228「妹が名は 千代に流れむ 姫鳥の 小松がうれに 苔生すまでに」。もう一つは平安時代の『古今和歌集』の巻第七賀歌343「わが君は 千代に八千代に 細れ石の いはほとなりて 苔のむすまで」。

ただし、これらの他に、平安時代の『和漢朗詠集』の下巻には、今記載した『古今和歌集』に出ている歌の「わが君」の部分が「君が代」になっている歌が記載されているらしく、「君が代」の原典はこれであるとも言われる。

要するに国家制定当時の国民感情が、この歌にぴったりであったということであろう。

君が代には、はじめ英国調の曲がついていたという。これはイギリスの軍楽長だったジョン・ウイリアム・フェントンという人が作ったもので、薩摩藩の幹部が彼の指揮する軍楽を大変気に入り、頼み込んで作ってもらったものらしい。

しかし、やはりイギリス人のつくったものでもあるし、英国調の曲であったため、和歌にはいま一つしっくりこないということで、明治9年ごろ、海軍の中村祐庸という人物が、「新たな楽譜の作成の建議を」と申し出た。そこで、海軍が依頼して宮内省が作曲にあたることになったのである。

現在もそのときに作られた曲が歌われているが、これは林廣守作曲、ドイツ人のエッケルト編曲のものである。

⇒君が代の由来となったといわれるさざれ石がある岐阜県のさざれ石公園周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は君が代を様々なバージョンで収録した最強の君が代CD『君が代のすべて』。こんなん売っていたんですね~。CDショップで3年くらいバイトしてたことありますけど、こいつは知りませんでしたよ。なんかウイリアム氏の作った君が代初期バージョンも収録されているっぽいですよ。(確認はしてないので気になる方は問い合わせてから購入してネ。)

※君が代歌唱強制問題についての本⇒『「日の丸・君が代」強制の次に来るもの』。


--------------------------------------------------------------------------------

君が代は、今は学校の卒業式なんかで「歌いたくない」と言って、歌わない先生や生徒もいるようです。それで処分を受けた人もいるんですよね。拒否の理由は詳しくはわかりませんが、歌詞の内容の解釈によっては、「そのような内容の歌を強制的に歌唱せねばならないというのはおかしい」ともなるのかもしれないですね。私は特に気になりませんけど…。

歌詞の内容に関することでの歌唱拒否となると、やはり根本的な問題ですからね。今後は、いろいろと協議しなくてはならないようにも思います。

ちょんまげを落とすことを認められる 明治4年(1871)

2011-06-25 17:16:55 | 天武天皇崩御 

2006年08月09日







ちょんまげを落とすことを認められる 明治4年(1871)

「ざんぎり頭をたたいてみれば文明開化の音がする」とは、当時の流行り歌であるというが、江戸時代の象徴とも言うべきちょんまげを、公式に落としてもいいと認めたのが明治4年(1871)のこの日であった。

一応、法令として出されており、法令名は「散髪脱刀令」という。法令名からもわかるが、散髪の他に帯刀についても自由とされていた。ただし、帯刀についてはこれから5年後に廃刀令が出て、禁止されるようになる。

散髪自体は、実は幕末から行われていたのだが、まだ普及率は低かった。しかし、この法令が出ても、多くの人がちょんまげを落とそうとはせず、最初はあまり広まらなかった。江戸時代はちょんまげが普通なのであり、それが明治時代になったからと言ってもそう簡単には落とせない。みんなそう考えるから、街を歩いてみてもちょんまげの人が多い。周りの人と一緒なのを好む人たちは、わざわざ他の人と違うことをしようとはしないのである。

それでも、全国各地に散髪店が普及すると、新し物好きの人は早速散髪をした人もいて、「ざんぎり頭」が少しづつ普及していった。

「ざんぎり」が人々に広く受け入れられるようになったのは、明治6年(1873)のこと。なぜこの年に急に普及したかというと、この年の3月10日、明治天皇が散髪したからであるという。

明治天皇が散髪したことを聞いた国民は「我も我も」と散髪店に行って、一斉に散髪をした。街にざんぎり頭が増ええると、自動的に周りの人と一緒なのを好む人たちもざんぎり頭にする。こうして、1年もすると、ちょんまげをにしている人の方が珍しくなったのであった。

明治天皇のカリスマもうかがわれる一件である。とは言っても、明治天皇がそういうつもりでおられたかどうかは定かではないが。

※写真は『日本の髪型―伝統の美 櫛まつり作品集』。日本の髪型の変遷はそれだけでも一つの文化。古代から現代まで、様々な髪型を実際の人間で再現した写真集です。髪型の変遷がすぐわかります。アマゾンレビュアーの皆さんも軒並み高評価。写真だけでなく解説もあり。値段も内容に比してお安めですヨ。


--------------------------------------------------------------------------------

(キーワード)

●ざんぎり頭(ざんぎりあたま)

漢字で書くと「斬切」、「散切」、「残切」などと書く。明治初期のちょんまげを落とした髪型のこと。

ざんぎり頭は、性格には髷を落として、中央から左右にわけた髪型である。異称は「洋髪」。江戸時代はちょんまげは義務付けられていたので、文明開化の成った明治の時代に古い時代の慣習はふさわしくないとして、わざわざ「散髪脱刀令」なる法令まで出て推奨された。

ちなみに髷を落としても、月代が残る場合は半髪、髷を落としただけだと総髪と呼ばれる。幕末から除々に普及した。
「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という歌も流行ったが、同じように「半髪頭を叩いてみれば因循姑息の音がする」なども流行った。なお、総髪は王政復古の音がするらしい。


--------------------------------------------------------------------------------

明治天皇効果はすごいですなあ。現代も内閣府ではクールビズを推奨して、公務員の方々もそれに倣ってますね。指導者によるお手本は効果があるんですね。

…まあクールビズはね…。暑い夏に当たり前のようにスーツの上着着てる方がおかしいと私は思いますが…。このクソ暑いのに、通勤電車内で上下スーツ着用で汗だくの人見ると、気の毒だなあと思いますよ。まあ営業とかの人は仕方ないかもしれないですが、社内勤務なのに、会社でスーツ着用が決められているとしたら、実に非合理的ですな。夏は暑い!それは当たり前…ならば薄着を認めろ!…という声もあるんでしょうかね…。

それにしても、最近忙しくなってきた!更新がマチマチで申し訳ないです。