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足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられる 延元3年・暦応元年(1338)

2011-06-10 10:36:43 | 江戸時代のビッグ二ユース



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2006年08月11日


足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられる 延元3年・暦応元年(1338)

足利尊氏は室町幕府の初代将軍として知られているが、もとは鎌倉幕府の有力御家人である。足利家は関東の下野(栃木県)などを領する源氏の一族で、尊氏は、最初は「高氏」と書いた。

当時、鎌倉幕府の事実上の権力者である執権は、14代北条高時だったが、高時は政治を顧みず、闘犬など趣味に夢中になって、世間の評判を大いに落としていた。
この状況を何とかしようと、討幕を考えたのが後醍醐天皇だ。後醍醐天皇は民のため、幾度か失敗しながらもついに討幕を成功させるが、この時鎌倉幕府の中にも高時の堕落ぶりを憂い、天皇に味方したものがいた。その一人が足利高氏である。

高氏は、倒幕に成功した後も後醍醐天皇の建武政権に従った。天皇からの信頼も厚く、天皇の諱である「尊治」から一字を賜り、「尊氏」と名乗ることを許されるほどであった。

ところが、建武政権の理想は、かつての天皇親政で善政を強いていた時代にあり、公家を中心としたものであったため、公家に比べて武家は冷遇され、武士たちの間には不満の声が聞こえ始めていた。やがて、これらの武士たちは、源氏の血を引く有力武士である尊氏の決起に期待するようになっていった。

そんな折、北条高時の遺児・時行が東国で反乱を起こした(中先代の乱)。後醍醐天皇は、満を持して尊氏にこれの討伐に向かうよう命を出したので、尊氏はそれならばと、征夷大将軍の位を望んだ。
征夷大将軍とは、もともと朝廷に反抗する東国の夷荻討伐の司令官としての任であり、そのための称号であったから好都合だと思ったのであろう。しかし、後醍醐天皇は尊氏の任官は許さなかった。天皇もこの頃には尊氏を警戒していたのである。

実はこの時点では、尊氏本人にはまだ後醍醐天皇に叛くという明確な意思はなかったようであるが、弟・直義などから説得され、中先代の乱を鎮圧後も、尊氏は京都に戻らなかった。そして、間もなく、天皇に対して叛旗を翻すのである。

尊氏は、天皇軍の北畠顕家、新田義貞、楠木正成などと戦い、その間に光明天皇を即位させる。後醍醐天皇も状況を鑑みて、一旦はこれを認めるそぶりを見せたが、すぐに密かに大和(奈良県)の吉野に脱出し、吉野を都と定め、自身が正式の天皇であると主張した。これにより、南北朝の動乱が始まるのである。

尊氏が征夷大将軍に任じられたのは、こうした激動の時代の真っ最中。北畠顕家や新田義貞を敗死させた後、ついに光明天皇から征夷大将軍に任じられたのだ。しかし、この時点では、すでに尊氏はほぼ政権を手中にしており、征夷大将軍への補任は、名目をも備えたにすぎないとも言える。


※写真は尊氏の小説『風の群像―小説・足利尊氏〈上〉』。この小説は、時代背景をあまり知らなくて、読みながらわかっていくので問題ないという、面白くて知識も増える良質な小説です。尊氏・直義を中心に人物の描写も個性的で生き生きとしており、個人的にお気に入りの作品です。
…今、この記事書くのに本棚あさったんですが、上巻しか見つからないんですが…。下巻どこいったんだろ…。最悪買いなおしか…!!?


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(キーワード)

●足利尊氏(あしかがたかうじ)

足利幕府初代将軍。初名は高氏。貞氏の子。「尊氏」の「尊」は後醍醐天皇の諱「尊治」の一字である。

元は鎌倉幕府の将であったが、14代執権北条高時の堕落ぶりから幕府に見切りをつけて、当初倒幕計画を進めていた後醍醐天皇に寝返って、京都の六波羅探題を攻略した。

その後、後醍醐天皇の建武の新政に従うが、これも尊氏の理想とは異なるものだったため、北条高時の遺児・時行の乱(中先代の乱)の討伐のため東国に下った際、そのまま東国に残って、間もなく反後醍醐天皇の兵を挙げる。
1336年、新しく持明院統の光明天皇をたてて、幕府を開く目的のもとに、当面の政治方針を明らかにした建武式目を発表。しかし、後醍醐天皇も自身の親政を諦めてはおらず、吉野に移って正当な皇位は自分にあることを主張したため、ここに南北朝の動乱が勃発する。

尊氏は、1338年、ついに光明天皇から念願の征夷大将軍に任じられ、弟の直義と共に政治をとった。しかし、直義と、尊氏の執事で幕府内でも大きな発言力を持っていた高師直の意見が衝突。この対立の構図は、やがて尊氏と直義の対立にシフトしていき、ついに1350年、骨肉の争いに発展してしまった(観応の擾乱)。この乱は、結局和睦となったが、その後、直義の存在を危ぶんだ尊氏が直義を毒殺したと言われている。

有名な髷を落とした尊氏画像があるが、あれは、中先代の乱の後、当初は後醍醐天皇に叛く気はなかった尊氏が、直義らの説得を受けて、京都に帰ろうかどうしようか迷っているうちに天皇が尊氏を本格的に疑い始めたと聞いて、「髷を落として謝罪する」と言い出して落としたものであるという。結局直義らの説得を受けて後醍醐天皇に叛くのだが、勢いで切った髷はどうにもならないので、そのままだというわけだ。
ただし、この画像については、近年「尊氏ではなく、高氏(こうし:師直の一族)の誰かだ」という指摘が成されている。どうやら腰に指している刀の柄に高氏の家紋があるというのがその根拠であるようだ。うーむ、真実は如何に…??


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尊氏像と伝わる画像は実はあの画像だけではないのですが、尊氏といえば、あの顔を思い浮かべてしまいます。今更「実は違う人でした」って言われてもなあ。ピンとこないよ。あの顔はやっぱり尊氏でこそピンとくるッス。

ちなみに尊氏の他にも源頼朝像が実は足利直義と言われていたり、武田信玄像が実は能登半島の大名・畠山義継であると言われていたりします。あと、お札にもなった聖徳太子像が「本当は太子じゃなくて中国の偉い人じゃないの?」とかいう説もあるとか。…どないやねん


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