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源頼家が暗殺される 元久元年(1204)

2011-06-05 10:17:17 | 歴史隠れ話


歴史のウラ話&「今日は何の日」です!

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2006年07月18日


源頼家が暗殺される 元久元年(1204)

源頼家は、頼朝の嫡男で鎌倉幕府2代将軍である。

正治元年(1199)の頼朝の急死後に家督を継ぎ、建仁2年(1202)には2代将軍となった頼家は、当初は将軍としての意気込みも充分で、政治にも意欲を示していたという。しかし、頼朝が死亡した際、、頼家がまだ18歳で若すぎるという理由から、幕府の政治の実権は北条氏をはじめ、有力御家人たち13名に握られており、思うように行動することができなかった。

やる気も地位もあるのに、実際には政治を動かすことができない。頼家のストレスはたまってゆき、彼は蹴鞠にふけるようになってしまう。蹴鞠への入れ込みようはすさまじく、後鳥羽院にも見込まれて、京都から専属のコーチを呼び寄せたといわれる。

また、頼朝以来の御家人の土地を削ったり、自らの近臣だけを厚遇するなど、有力御家人たちを無視するような行動をとり始めた。頼家にすれば、「将軍は私だ」という思いがあっただろうが、結局、こうした行動は、ますます有力御家人たちの反発を招くようになってしまう。

頼家の近臣のなかでも頼家の乳母の任を勤めた比企氏は、さらに当主・能員の娘・若狭局を頼家の妻としてますます将軍家に近づいた。ところが、当然のごとく、ほかの有力御家人はこれが面白くない。また、頼家の母である北条政子でさえ、これをよくは思わず、頼家は、次第に御家人たちのみならず、母・政子とも対立するようになっていった。

そんな時に頼家は重い病に倒れる。
頼家の病を口実に、北条氏は将軍職委譲を目論んで動き始めた。北条氏は頼家の弟・実朝と頼家の嫡子・一幡に権限を分割させようとしたが、頼家の義父である比企能員は、娘・若狭局が産んだ一幡に後を継がせたいので、これに猛反対。北条氏と激しく対立した。しかし、能員の動きはすぐに北条政子にも知られてしまい、能員は北条時政の名越亭で謀殺され、一幡も殺された。

御家人間の権力争いが激化するなか、頼家は奇跡的に回復する。頼家は、北条氏の討伐を謀るが、和田義盛が裏切るなどして計画は頓挫。頼家は強制的に出家させられて、伊豆の修善寺に流される。頼家は、そこでしばらく不本意な幽閉生活を送った。

実母である政子にも何度も許しを乞うたが、結局許されず、元久元年(1204)7月18日に暗殺された。享年23歳。

幼い頃から才気煥発で、頼朝も期待した2代目だったというが、なにしろ、草創期の鎌倉幕府は御家人の絶対的な統制ができていなかった。頼家は、経歴を見ると愚鈍な君主に思えてしまうが、実はチャンスが与えられなかったというだけなのかもしれない。

⇒頼家の墓周辺の地図(livedoor地図情報)


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(キーワード)

●源頼家(みなもとよりいえ)

頼朝の子。幼名万寿。鎌倉幕府の2代将軍。
1199年、父・頼朝の死により、源氏の家督を継ぎ、やがて将軍職も継ぐことになる。しかし、頼朝が死亡した際に、すでに政治は有力御家人13人の合議によって行うという取り決めがなされていて、将軍といっても名ばかりであった。

これを不満に思った頼家は、自らの近臣を厚遇したり、安達景盛の愛妾を奪って景盛追討をはかるなどしたほか、蹴鞠にふけるようになり、御家人たちの反発を招いた。

そんな状態だったから、やがて頼家が重い病に倒れると、ただちに後継者擁立の争いが勃発。自らの娘・若狭局の産んだ一幡を推す比企氏と、一幡と頼家の弟・実朝に権限を分割させようとする北条氏の対立が激化した。

結局、この争いは比企氏が敗死して終結するのだが、北条氏は、この時点で朝廷に対し、頼家を死んだものとして報告し、時期将軍に実朝を、と要請していたらしい。

ところが、頼家は奇跡的に回復。北条氏の動きを知った頼家は、和田義盛や仁田忠常に北条氏討伐を命じたが、和田義盛は、これを北条時政に告げたため、忠常はあっさり討たれ、頼家も出家を強制されることになる。頼家は抵抗しようとしたが、実母である政子におさえられ、伊豆の修善寺に幽閉された。

そして、幽閉された翌年の7月18日、北条氏からの討手の手にかかり、殺害された。刺客によるもの、毒殺など、暗殺方法や場所には諸説あってはっきりしていない。


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源頼家は、将軍としての実権が最初からなかったので、どちらかというと「能力はあるのに、活かす場がなかった」という捉えられ方をしているようです。しかし、それで、いじけたようになってしまったのがまずかった…。蹴鞠に走ったりするのはともかく、近臣だけを厚遇したりしたら、他の御家人たちはやっぱり面白くないですよね。

なんとか自分の能力とやる気をうまくアピールできたらよかったんでしょうが…、あの時代じゃあそういうのは無理なのかなあ…。

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