日常

五木寛之「愛について―人間に関する12章」

2012-10-16 21:59:54 | 
五木寛之さんの「愛について―人間に関する12章」角川文庫(2004/6)を読みました。
ブックオフで100円。世間でのお金の尺度はよくわかりません・・・。

Amazonで「愛について」で検索すると、白岩玄、北川悦吏子、ペーター・ラウシュター(Peter Lauster)、今道友信、ドニ ド・ルージュモン(Denis De Rougemont)、竹村和子、レイモンド カーヴァー(Raymond Carver)、ワジム・フロロフ、ユーリイ・ワシーリエフというたくさんの方々が同じタイトルで本を書いていて驚きました。


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<内容(「BOOK」データベースより)>
自分と他人と仕事を愛することが出来たなら、なんと幸せな人生だろう。
この一冊は、よりよく生きるための12種類の愛について、その光と影、始まりと終わりを語りつくした究極の愛のバイブルである。
豊かで深い思索にみちた作家の提言は、陳腐なマニュアルから遠く離れたあなただけのラブスタイルを見出す。
そしてそれがあなたの新しい幸福への第一歩となるにちがいない。

<著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)>
五木/寛之
1932年福岡県生まれ。
『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞、『青春の門筑豊篇』ほかで第十回吉川英治文学賞を受賞。
81年より一時休筆して京都の龍谷大学に聴講生として通学。
ニューヨークで刊行された英文版『TARIKI』が2001年度ブック・オブ・ザ・イヤー(スピリチュアル部門)に。
2002年、菊池寛賞を受賞
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【 目次 】
第一章  自分を愛する─ナルシシズムが教える愛のレッスン
第二章  同性を愛する─その愛情により深いものがあるかどうか
第三章  家族愛─この振り払っても振り払ってもついてくる情
第四章  人間愛─慈しむ心と悲しむ心と
第五章  小さいものへの愛
       ─つらい現実から一瞬目をそらせる隠れ家のような愛
第六章  恋愛─恋と愛という二つの核をもつ楕円形
第七章  仕事への愛─仕事がもたらす生きている手ごたえ
第八章  性愛─万物生成の源
第九章  物への愛─人間の言葉を理解する物たち
弟十章  言葉と愛─言葉に託された愛の形
第十一章 静かなる愛─肉体と精神がつながる新しい恍惚
第十二章 新しい愛の形─「第三の性」はなにをもたらすのか
あとがきにかえて─愛と性の荒野に旅立つあなたへ
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「これが愛だ、というような決めつけはまちがっているんじゃないか。 どんな愛のかたちでも、それを認めるところから出発すべきではないか。 許されない愛などというものはない。」

こういう声明から始まります。
いろんな愛があるけれど、その強い感情を善悪で峻別したり区別したりする前に、まず受け入れる事から始まる。



慈悲について。
五木さんは仏教に造詣が深い。

慈悲はマイトリーとカルナー。慈しみと哀しみ。正反対の感情がひとつの言葉になっている。

マイトリー、ミトラ(朋友、兄弟)は、フレンドシップ、ヒューマニズム。
血のつがらない他者との共存のため、必要によって作りだされた知的な愛情のことを慈悲という。


慈が明るく近代的で、悲は暗く本能的で前近代的。その両方を結びつける。


ちなみに、Compassionはキリストの受難(Passion)を共有することから来ている。
他人の苦しみを担うことがCompassion(思いやり)。


慈の愛と悲の愛は、それぞれ「励まし」と「慰め」を意味する。



仏教では「与楽抜苦」と言う。
慈は人を元気づけて希望を与える。
悲は人間が抱えている痛みや苦しみを少しでも軽くする、苦しみを抜く。

慈悲の心が、「与楽抜苦」へとつながる。





聖書より。
愛は忍耐強く、愛は情け深い。
ねたまず、自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。全てをしのび、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。


愛と恋の違い。

愛は不変で不滅だが、恋は逆。恋は変わるもの、消えるもの。
禁じられた恋はあっても禁じられた愛はない。
恋は盲目的で感情的で理性の判断を超えたものだが、愛は知的で理性的なもの。



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(ふと思い出す)
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(高校生から「愛と恋との違いは」と聞かれた時の返答)
詩人:まどみちおさん
『「恋」というのは人間同士の間で言われるものです。
 「愛」というのはね。森羅万象いっさいについてのものです。』

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『あい(2012-05-13)』



恋愛とは、そんな恋のPassionと、愛のEnergyとが一つになったものを言う。




16世紀、ザビエルが日本に来たとき、日本には愛と言う言葉がなかった。
代わりに「お大切」という言葉で置き換えた。
「恋」は万葉集で「孤悲」という漢字があてられていた。


・・・
面白いですね。「お大切」と言う言葉、なんだかしっくりきます。
さりげなく、それでいて深いものですよね。



小川洋子さんの解説より
『対象を選ばずにどんな隣人をも愛さなければいけない、というキリスト教的な概念に対して、日本古来の愛はもっと自然発生的だった。隣人を愛せ、と天から指示されるまでもなく、同じ社会の家族、友人、男女がいればおのずと愛情は芽生えるものであり、そこに理屈はない。

どんな愛の形でも、それを認めるところから出発しなければいけない。
愛と言う名のレッテルが張られたものがあるわけではなく、それを愛と感じる心があるかないかの違い。』





「あい(愛)」と一言で言うと一瞬ですが、その二音の内部に収まりきれないほどのCosmicな広がりと響きが感じられます。


仕事でも日常生活でも、「愛」をもって行えば、いくら表面的な誤解を受けようとも、深層ではかならず伝わるもんだと、自分は信じています。

行為の中に愛があるかないか、それは隠そうと思っても絶対に隠せないと思います。それは必ず伝わっている。
人間の奥底には、愛の塊のような泉が、深い深い場所に大切に保管されていると思いますし、そこにアクセスする鍵は外的な世界のどこかに必ず落ちていると思うわけです。それは信じないと、見えてこない。 信じる、という鍵を差し込むことで、ホログラフのようにこの世に実在して感受されてくるとも言えましょうか。
泉に到達する鍵を探し出して見つけた後は、そこで深呼吸をして鍵を差し込むかどうかを決める。それはその人の自由意思に関わる問題なのでしょう。最終的には、そこは自由意思という形で「自由」が残されているように思うのです。