「自我」と呼ぶと小難しくなるので、「自我くん」と親しみを込めて呼んでみる。
「自我くん」は、自己(全体的な自分をこう呼んでみる)の司令塔の役割を果たしている。
「自我くん」は、イイ・ワルイ、タダシイ・マチガイ、ウツクシイ・ミニクイ、、という風に価値判断をする。
こどものときは、そういうのはモヤモヤしていて、誰もがよくわからなかった。
感じるときは、いわゆる直観(直感)なるもので、ダイレクトに感じていた気がする。
もろもろの価値判断は、こどもからおとなになるプロセスで得たものだと思う。
それは、「自我くん」の成長にも例えられる。
こどもから、おとなになるとき、その寄る辺なさに耐えられないから、「自我くん」を作るよう頑張る。でも、その「自我くん」はいづれ固定して固まって、もうどうにもならないくらい凝り固まる。それがひどくなると、偏見に満ちた目でしか世界を見ることはできなくなる。
だから、時には「自我くん」の手綱を引いて抑えて、現象そのものに自分を開くことは大事だ。
それは、現象そのものに物語らせるということ。
それを静かに聞くということ。
「自我くん」は、基本的には自分の全体となる「自己」にとって司令塔だから、メインの働きを担っている。
非常事態のときとか、とりあえず指揮系統を任せるにはそれなりの安心感はある。
でも、「自我くん」は、損得勘定とかプラスマイナスの単純な原理で動くことが多いから、「自我くん」という暴れ馬にあまりに付き合いすぎてもいけない。
「自我くん」は、あくまでも「自己」という全体の部分にすぎない。
もちろん「自己」っていう全体性は、広大すぎていつまでたっても分からないかもしれない。
「自己」は伸縮自由に伸び縮みするし、「自我くん」が自己をどう定義づけるかで、自己はどこまででも狭くもなれるし、どこまででも広くもなれるものだと思う。
部分的な「自我くん」と全体的な「自己」は、「脳」と「からだ」でもイメージできる。
脳はからだの一つのパーツだけど、基本的には指示系統の多くをお任せしてる。
脳は言語を駆使して直列回路でものごとを考えていく癖があるけど、からだは、いろんなものを同時並行に並列回路で進めていくことができる。
脳の中で、いろんなものをひとまとめに凝縮させたものが「自我くん」のようなもの。
「自我くん」は、因果律を武器にして、直列回路で直線的に突き進むから頼もしいときもあるけど、あまり凝縮力が強くて固まりすぎると、その秩序を維持するために無理やり世界を狭くして、閉じていく傾向にある。
全体の自己を無視して、暴走したり、反逆したりする。
「自己」という全体の中の部分にすぎない「自我くん」の判断基準は、よくよく落ち着いて考えてみると、何がいいんだかよくわかんないものが多い。
それは、大抵はどこかの誰かさんが、その人の都合いい方向に誘導しようとしたものに由来してることが多い気がする。
だからこそ、時には「自我くん」を抑えて、現象そのものに心を開いて、そのものを見つめたり、そのものを聞いたりすることは大事だ。
ブルースリーは「考えるな、感じるんだ! Don't think, feel」っていう名台詞を吐いている。それは、「自我くん」を抑えろってことだと思う。(違うかもしれんけど)
「自我くん」は、自己(全体的な自分をこう呼んでみる)の司令塔の役割を果たしている。
「自我くん」は、イイ・ワルイ、タダシイ・マチガイ、ウツクシイ・ミニクイ、、という風に価値判断をする。
こどものときは、そういうのはモヤモヤしていて、誰もがよくわからなかった。
感じるときは、いわゆる直観(直感)なるもので、ダイレクトに感じていた気がする。
もろもろの価値判断は、こどもからおとなになるプロセスで得たものだと思う。
それは、「自我くん」の成長にも例えられる。
こどもから、おとなになるとき、その寄る辺なさに耐えられないから、「自我くん」を作るよう頑張る。でも、その「自我くん」はいづれ固定して固まって、もうどうにもならないくらい凝り固まる。それがひどくなると、偏見に満ちた目でしか世界を見ることはできなくなる。
だから、時には「自我くん」の手綱を引いて抑えて、現象そのものに自分を開くことは大事だ。
それは、現象そのものに物語らせるということ。
それを静かに聞くということ。
「自我くん」は、基本的には自分の全体となる「自己」にとって司令塔だから、メインの働きを担っている。
非常事態のときとか、とりあえず指揮系統を任せるにはそれなりの安心感はある。
でも、「自我くん」は、損得勘定とかプラスマイナスの単純な原理で動くことが多いから、「自我くん」という暴れ馬にあまりに付き合いすぎてもいけない。
「自我くん」は、あくまでも「自己」という全体の部分にすぎない。
もちろん「自己」っていう全体性は、広大すぎていつまでたっても分からないかもしれない。
「自己」は伸縮自由に伸び縮みするし、「自我くん」が自己をどう定義づけるかで、自己はどこまででも狭くもなれるし、どこまででも広くもなれるものだと思う。
部分的な「自我くん」と全体的な「自己」は、「脳」と「からだ」でもイメージできる。
脳はからだの一つのパーツだけど、基本的には指示系統の多くをお任せしてる。
脳は言語を駆使して直列回路でものごとを考えていく癖があるけど、からだは、いろんなものを同時並行に並列回路で進めていくことができる。
脳の中で、いろんなものをひとまとめに凝縮させたものが「自我くん」のようなもの。
「自我くん」は、因果律を武器にして、直列回路で直線的に突き進むから頼もしいときもあるけど、あまり凝縮力が強くて固まりすぎると、その秩序を維持するために無理やり世界を狭くして、閉じていく傾向にある。
全体の自己を無視して、暴走したり、反逆したりする。
「自己」という全体の中の部分にすぎない「自我くん」の判断基準は、よくよく落ち着いて考えてみると、何がいいんだかよくわかんないものが多い。
それは、大抵はどこかの誰かさんが、その人の都合いい方向に誘導しようとしたものに由来してることが多い気がする。
だからこそ、時には「自我くん」を抑えて、現象そのものに心を開いて、そのものを見つめたり、そのものを聞いたりすることは大事だ。
ブルースリーは「考えるな、感じるんだ! Don't think, feel」っていう名台詞を吐いている。それは、「自我くん」を抑えろってことだと思う。(違うかもしれんけど)
かたまって固定化されてしまった自我くんロボ。最初は固定化でもいいと思うんだけど、ある程度自分が成熟すると、その型から離れてくる時期があると思うんだよね。
『自我くんロボが動かなくなっちゃうとき』。たぶん、普段の生活では使わない回路を使おうとするときなんだと思うんだよね。
自分の思考回路からはみでたとき、それを無視したりするのは容易いのだけど、むしろ、いろんな水路があらゆる場所から通じているように、自分で水路をひけば、そこは水溜りではなくて、泉や川として、流れはじめるのだと思うのです。まあ、わしも金融やお金関係になると自我クンロボがフリーズしかけるので、好き嫌いせずに、お金の事もちゃんと勉強しようとは常々思ってますよ。資本主義勉強するには、やっぱりいろんなこと勉強しなくちゃいかんもんねぇ。
判断基準を作ったことで、迷う時間を少なくすることは出来たけど、本当の、本質をついた問題のときは、対処が出来なくて、エイヤーってなっちゃうのがよくないです。
>それは、現象そのものに物語らせるということ。
>それを静かに聞くということ。
こういうとき、感想が思い浮かばないことがよくあります。自我くんロボが動かなくなっちゃうときがあります。
そういうときは、自我くんロボが人間になろうとしているときだから、もっと大切に考えないといけないなぁと思いました。