ここのとこ、共時性とメタファーに関して個人的に考えている。
共時性(シンクロニシティー)は意味のある偶然の一致のこと。
科学(医学)がやや停滞していると思うのだが、そこを突破するのは、やはりこの辺りの概念をどう折り合いつけて行くかだと思う。
今までは因果的思考が主流だった。
心が原因で身体の症状という結果が起こる。
身体が原因で心の症状という結果が起こる。
因果関係は二元論をベースにしているため、二元的思考から逃れることはできない。
そして、どちらを主語でどちらを目的語にするかで全く話は変わる。
ある人の思い込みが因果関係を作り出す事もあるので、偏見を強化する方向に働く事もある。
ただ、人間はそう単純ではない。
心=身体だと思うので、どちらが先でどちらかが後ということはないと思う。
つまり、心の症状はそのまま身体の症状であり、身体の症状はそのまま心の症状である。
出力が二か所で表現されていると考える。
そうなると、心と体は因果的なつながりではなく、共時的な現象だと言う事になる。
同時に、二つの場所で現象として現れている。
共時性で重要なのは、その意味を読み解くと言う事。
暗号を解読すること。
暗号とは、身体症状である。それは痛いとか違和感があるとかの身体言語。
身体言語は常にメタファーとして語られる。
嘔吐するのは、何かを飲みこみたくないという身体言語だし、
耳鳴りがするのは、何かを聞きたくないと言う身体言語。
もちろん、メタファーというのは多層の意味を持つ。シンボルはさらに抽象的で多層の意味構造をしている。
だから、一対一対応しているわけではなく、人によって、状況によってメタファーの意味は変わる。
そんな暗号化された身体言語を読み解くのがプロの仕事だろう。
人間が病気なのであって、体は病気ではない。
体は舞台のようなものだから、人間そのもの演劇や脚本そのものが病気なのだと思う。
舞台としての身体は病気を表現している場所に過ぎない。
人間が病気になる主な理由は、人間と言う全体性のものが何か部分に分割されることだと思う。
それは色んな意味での分離。意識と無意識の分離もそうだし、臓器別の分離もそう。
部分から全体性への復帰のアピールとして病という現象が起きる。
だから、ほとんど全ての人間は病気なのだ。
だからこそ日々生きている価値がある。
生きる中で全体性を日々獲得していき、調和へ至るのが生きるということなのだろう。
おそらく、因果的な思考だけでは限界がある。
共時的な現象を因果論で説明しようとすると、偽の因果律になる。
例えば飲尿療法というものがあるのだが、尿を飲めばガンが治る、と因果律で説明してしまうと、それは偽の因果律になる。
なぜなら、それで全員のガンが治るわけではないから。
ただ、時々、自分の尿を飲むことでガンが治る人がいる。それは厳然としてあるので否定する必要はない。
事実はありのまま受け止めないといけない。
因果律で説明するのではなく、心=体という共時的な現象と同じで、
尿を飲むという行為とガンが治った、という現象が共時的に起きた、と考えるのだ。
それは意味のある偶然の一致と考え、そこからその人が主観的に意味を見いだしていく。
飲尿という行為に至るほど意識の転換が起きたから、ガンの治癒という現象が起きたのかもしれないし、その因果関係は分からない。
ただ、その人の主観を大切にしていく。
究極的には、1億人いれば1億通りの治療法が存在することになる。
因果律をベースとする客観的な医学は大切にしながら、
共時性も重要視する主観的な医術も同時並行で行う。それで丁度いいのではないかと思う。
だからこそ、プロの医療者は身体言語としてその人に表現されてくるメタファー(暗号)の読み解き手のプロであることが求められる。
暗号解読の共同作業。暗号の意味が分かると、その人の自我でもとらえることのできなかった高次の素直な表現が判明する。
メタファーを読み解くためにも、人間には芸術が必要である。芸術はそういう実践的価値もあるのだ。
絵画やインスタレーションだけがその人のイメージの表現ではなく、生きることそのもの、その人の身体言語全てが奥底のイメージの表現なのだ。
そんな深いイメージ言語もすべて含め、井筒先生はコトバと総称したのだと思う。意識のゼロポイントから、コトバの阿頼耶識(集合的無意識。元型成立の場)を通過してコトバが生まれてくる。コトバには脳が作り出した分離を主目的とした日常言語以外にも、メタファーやシンボルを含んだイメージ言語があるのだ。それは詩となり芸術となる。
そういうことで、共時性というものとメタファーを考えている。
共時性は、因果律や偽の因果律を超えて行くものとして。心=体に関する基本メカニズムとして。
メタファーは、人間の生命そのものである身体言語やイメージ言語(それは嘘をつく事はできない)の表現の型として。暗号として。
だから、自分は村上春樹さんが好きなのだ。そこにはメタファーが溢れている。
メタファーを読み解くには、通常の日常意識では読み解けない。
日常意識での日常言語は、言葉を表層的な一つの意味だけに還元する。<たかがその程度のもの>とコトバのタカをくくらせる。偏見などの手垢がついている。その人がなにか分かった錯覚にさせる。便宜的な意思疎通の言葉に過ぎない。
元々、そういう手垢を落として自由になるのが禅問答や公案の目的だった。禅僧曰く。「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)」「片手で叩く音、それはどういう音か。」by.白隠禅師 など。
脱線した。
そういうことで、人間の心と体の関係性を考えていたら、共時性やメタファーのことになり、コトバを深く勉強しなければいけないということが自分につきつけられ、改めて村上春樹さんを読んでいる。
***********************
「もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。
我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」
『詩学』アリストテレス
***********************
***********************
大男は次にヴィデオ・デッキを持ちあげ、TVのかどにパネルの部分を何度か思い切り叩きつけた。
スィッチがいくつかはじけとび、コードがショートして白い煙が一筋、救済された魂みたいに空中に浮かんだ。
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 村上春樹
***********************
エレベーターはあらゆる音を吸いとるために作られた特殊な様式の金属箱であるようだった。
私はためしに口笛で『ダニー・ボーイ』を吹いてみたが、肺炎をこじらせた犬のため息のような音しか出てこなかった。
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 村上春樹
***********************
かつては美しい水をたたえ荷船やランチが往き来した大運河も今はその水門を閉ざし、ところどころでは水が干あがって底が露出していた。
白くこわばった泥が、巨大な古代生物のしわだらけの死体のように浮き上がっている。
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 村上春樹
***********************
***********************
僕の手はいじめられた動物の心みたいに硬くねじくれた灌木の枝にしか触れない。
『海辺のカフカ』 村上春樹
***********************
何度でも何度でも、まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰りかえされる。
『海辺のカフカ』 村上春樹
***********************
***********************
ときどきつれあいが「今日頭が痛いのよ」などと言っているが、そう言われても「へえ、そう」としか答えようがない。
そんなのは半魚人に「今日は鰓とうろこがすれて痛い」と言われているのと同じ事で、悪いとは思うけれど自分が経験したことのない肉体的痛み・苦しみというのは正確には想像することができないのだ。
『村上朝日堂の逆襲』 村上春樹
***********************
***********************
どうしてかはわからないが、自分のからだにぴたりとあったくぼみを壁の隅にみつけたときのような心地良さがそこにはあった。
『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹
***********************
何かをまともに考えようとすると、やわらかな万力で締め上げられるみたいに頭が鈍く痛んだ。
『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹
***********************
ときおり雪が舞ったけれど、まるで薄れかけた遠い記憶のように細かく儚い雪だった。
『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹
***********************
そんなことをあれこれと考えているうちに僕はひどく眠くなってきた。それも普通の眠さではない。
それは暴力的と言ってもいいくらい激しい眠気だった。
誰かが無抵抗な人間からその着衣を剥ぎ取るみたいに、眠りが僕から覚めた意識を剥ぎ取ろうとしているのだ。
『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹
***********************
笠原メイは僕の顔を長いあいだ仔細に眺めていた。そして小さく眉をしかめた。
「どうしたの、ねじまき鳥さん、なんだかひどい顔をしてるわよ。
しばらくどっかに埋められててさっきやっと掘りだされたばかりっていう感じの顔よ。…」
『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹
***********************
僕とクミコは結婚した当初は、月に二度ばかりなかば義務的に彼らの家を訪れて食事を一緒にしたものだったが、それは本当にうんざりする経験だった。
それは無意味な苦行と残忍な拷問のちょうど中間あたりに位置する行為だった。
『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹
***********************
***********************
小人の踊りは他の誰の踊りとも違っていた。
ひとことで言えば小人の踊りは観客の心の中にある普段使われていなくて、
そんなものがあることを本人さえ気づかなかったような感情を白日のもとに
―まるで魚のはらわたを抜くみたいに―ひっぱり出すことができたのだ。
『踊る小人』 村上春樹
***********************
***********************
胃の底の方に何かどんよりとしたものが溜まっていて、ちっとも集中できないのです。
まるで嫌な臭いのする虫を呑み込んでしまったような気分でした。
『沈黙』 村上春樹
***********************
***********************
ふと気がつくとどこかずっと遠くの方からぼそぼそという、奇妙にくぐもった音が聞こえてきた。
最初のうちはそれはまるで私自身の体の中から聞こえてくるように思えた。
何かの幻聴のように。体が紡ぎだす暗黒の予兆のように。
『緑色の獣』 村上春樹
***********************
***********************
生暖かい闇の汁のように 孤独が生暖かい闇の汁のようにふたたび彼を浸した。
『レキシントンの幽霊』村上春樹
***********************
***********************
それは質問ですらなかった。僕は彼女のブラウスの襟もとのレースを眺めていた。
それは上品な動物の清潔な内臓のひだのように見えた。
『ダンス・ダンス・ダンス』 村上春樹
***********************
二人は抑圧された夢みたいに妙にリアルな非現実性を漂わせながら、僕の視点を右から左へとゆっくりと横断して消えていった。
『ダンス・ダンス・ダンス』 村上春樹
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共時性(シンクロニシティー)は意味のある偶然の一致のこと。
科学(医学)がやや停滞していると思うのだが、そこを突破するのは、やはりこの辺りの概念をどう折り合いつけて行くかだと思う。
今までは因果的思考が主流だった。
心が原因で身体の症状という結果が起こる。
身体が原因で心の症状という結果が起こる。
因果関係は二元論をベースにしているため、二元的思考から逃れることはできない。
そして、どちらを主語でどちらを目的語にするかで全く話は変わる。
ある人の思い込みが因果関係を作り出す事もあるので、偏見を強化する方向に働く事もある。
ただ、人間はそう単純ではない。
心=身体だと思うので、どちらが先でどちらかが後ということはないと思う。
つまり、心の症状はそのまま身体の症状であり、身体の症状はそのまま心の症状である。
出力が二か所で表現されていると考える。
そうなると、心と体は因果的なつながりではなく、共時的な現象だと言う事になる。
同時に、二つの場所で現象として現れている。
共時性で重要なのは、その意味を読み解くと言う事。
暗号を解読すること。
暗号とは、身体症状である。それは痛いとか違和感があるとかの身体言語。
身体言語は常にメタファーとして語られる。
嘔吐するのは、何かを飲みこみたくないという身体言語だし、
耳鳴りがするのは、何かを聞きたくないと言う身体言語。
もちろん、メタファーというのは多層の意味を持つ。シンボルはさらに抽象的で多層の意味構造をしている。
だから、一対一対応しているわけではなく、人によって、状況によってメタファーの意味は変わる。
そんな暗号化された身体言語を読み解くのがプロの仕事だろう。
人間が病気なのであって、体は病気ではない。
体は舞台のようなものだから、人間そのもの演劇や脚本そのものが病気なのだと思う。
舞台としての身体は病気を表現している場所に過ぎない。
人間が病気になる主な理由は、人間と言う全体性のものが何か部分に分割されることだと思う。
それは色んな意味での分離。意識と無意識の分離もそうだし、臓器別の分離もそう。
部分から全体性への復帰のアピールとして病という現象が起きる。
だから、ほとんど全ての人間は病気なのだ。
だからこそ日々生きている価値がある。
生きる中で全体性を日々獲得していき、調和へ至るのが生きるということなのだろう。
おそらく、因果的な思考だけでは限界がある。
共時的な現象を因果論で説明しようとすると、偽の因果律になる。
例えば飲尿療法というものがあるのだが、尿を飲めばガンが治る、と因果律で説明してしまうと、それは偽の因果律になる。
なぜなら、それで全員のガンが治るわけではないから。
ただ、時々、自分の尿を飲むことでガンが治る人がいる。それは厳然としてあるので否定する必要はない。
事実はありのまま受け止めないといけない。
因果律で説明するのではなく、心=体という共時的な現象と同じで、
尿を飲むという行為とガンが治った、という現象が共時的に起きた、と考えるのだ。
それは意味のある偶然の一致と考え、そこからその人が主観的に意味を見いだしていく。
飲尿という行為に至るほど意識の転換が起きたから、ガンの治癒という現象が起きたのかもしれないし、その因果関係は分からない。
ただ、その人の主観を大切にしていく。
究極的には、1億人いれば1億通りの治療法が存在することになる。
因果律をベースとする客観的な医学は大切にしながら、
共時性も重要視する主観的な医術も同時並行で行う。それで丁度いいのではないかと思う。
だからこそ、プロの医療者は身体言語としてその人に表現されてくるメタファー(暗号)の読み解き手のプロであることが求められる。
暗号解読の共同作業。暗号の意味が分かると、その人の自我でもとらえることのできなかった高次の素直な表現が判明する。
メタファーを読み解くためにも、人間には芸術が必要である。芸術はそういう実践的価値もあるのだ。
絵画やインスタレーションだけがその人のイメージの表現ではなく、生きることそのもの、その人の身体言語全てが奥底のイメージの表現なのだ。
そんな深いイメージ言語もすべて含め、井筒先生はコトバと総称したのだと思う。意識のゼロポイントから、コトバの阿頼耶識(集合的無意識。元型成立の場)を通過してコトバが生まれてくる。コトバには脳が作り出した分離を主目的とした日常言語以外にも、メタファーやシンボルを含んだイメージ言語があるのだ。それは詩となり芸術となる。
そういうことで、共時性というものとメタファーを考えている。
共時性は、因果律や偽の因果律を超えて行くものとして。心=体に関する基本メカニズムとして。
メタファーは、人間の生命そのものである身体言語やイメージ言語(それは嘘をつく事はできない)の表現の型として。暗号として。
だから、自分は村上春樹さんが好きなのだ。そこにはメタファーが溢れている。
メタファーを読み解くには、通常の日常意識では読み解けない。
日常意識での日常言語は、言葉を表層的な一つの意味だけに還元する。<たかがその程度のもの>とコトバのタカをくくらせる。偏見などの手垢がついている。その人がなにか分かった錯覚にさせる。便宜的な意思疎通の言葉に過ぎない。
元々、そういう手垢を落として自由になるのが禅問答や公案の目的だった。禅僧曰く。「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)」「片手で叩く音、それはどういう音か。」by.白隠禅師 など。
脱線した。
そういうことで、人間の心と体の関係性を考えていたら、共時性やメタファーのことになり、コトバを深く勉強しなければいけないということが自分につきつけられ、改めて村上春樹さんを読んでいる。
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「もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。
我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」
『詩学』アリストテレス
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大男は次にヴィデオ・デッキを持ちあげ、TVのかどにパネルの部分を何度か思い切り叩きつけた。
スィッチがいくつかはじけとび、コードがショートして白い煙が一筋、救済された魂みたいに空中に浮かんだ。
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 村上春樹
***********************
エレベーターはあらゆる音を吸いとるために作られた特殊な様式の金属箱であるようだった。
私はためしに口笛で『ダニー・ボーイ』を吹いてみたが、肺炎をこじらせた犬のため息のような音しか出てこなかった。
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 村上春樹
***********************
かつては美しい水をたたえ荷船やランチが往き来した大運河も今はその水門を閉ざし、ところどころでは水が干あがって底が露出していた。
白くこわばった泥が、巨大な古代生物のしわだらけの死体のように浮き上がっている。
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 村上春樹
***********************
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僕の手はいじめられた動物の心みたいに硬くねじくれた灌木の枝にしか触れない。
『海辺のカフカ』 村上春樹
***********************
何度でも何度でも、まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰りかえされる。
『海辺のカフカ』 村上春樹
***********************
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ときどきつれあいが「今日頭が痛いのよ」などと言っているが、そう言われても「へえ、そう」としか答えようがない。
そんなのは半魚人に「今日は鰓とうろこがすれて痛い」と言われているのと同じ事で、悪いとは思うけれど自分が経験したことのない肉体的痛み・苦しみというのは正確には想像することができないのだ。
『村上朝日堂の逆襲』 村上春樹
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どうしてかはわからないが、自分のからだにぴたりとあったくぼみを壁の隅にみつけたときのような心地良さがそこにはあった。
『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹
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何かをまともに考えようとすると、やわらかな万力で締め上げられるみたいに頭が鈍く痛んだ。
『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹
***********************
ときおり雪が舞ったけれど、まるで薄れかけた遠い記憶のように細かく儚い雪だった。
『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹
***********************
そんなことをあれこれと考えているうちに僕はひどく眠くなってきた。それも普通の眠さではない。
それは暴力的と言ってもいいくらい激しい眠気だった。
誰かが無抵抗な人間からその着衣を剥ぎ取るみたいに、眠りが僕から覚めた意識を剥ぎ取ろうとしているのだ。
『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹
***********************
笠原メイは僕の顔を長いあいだ仔細に眺めていた。そして小さく眉をしかめた。
「どうしたの、ねじまき鳥さん、なんだかひどい顔をしてるわよ。
しばらくどっかに埋められててさっきやっと掘りだされたばかりっていう感じの顔よ。…」
『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹
***********************
僕とクミコは結婚した当初は、月に二度ばかりなかば義務的に彼らの家を訪れて食事を一緒にしたものだったが、それは本当にうんざりする経験だった。
それは無意味な苦行と残忍な拷問のちょうど中間あたりに位置する行為だった。
『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹
***********************
***********************
小人の踊りは他の誰の踊りとも違っていた。
ひとことで言えば小人の踊りは観客の心の中にある普段使われていなくて、
そんなものがあることを本人さえ気づかなかったような感情を白日のもとに
―まるで魚のはらわたを抜くみたいに―ひっぱり出すことができたのだ。
『踊る小人』 村上春樹
***********************
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胃の底の方に何かどんよりとしたものが溜まっていて、ちっとも集中できないのです。
まるで嫌な臭いのする虫を呑み込んでしまったような気分でした。
『沈黙』 村上春樹
***********************
***********************
ふと気がつくとどこかずっと遠くの方からぼそぼそという、奇妙にくぐもった音が聞こえてきた。
最初のうちはそれはまるで私自身の体の中から聞こえてくるように思えた。
何かの幻聴のように。体が紡ぎだす暗黒の予兆のように。
『緑色の獣』 村上春樹
***********************
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生暖かい闇の汁のように 孤独が生暖かい闇の汁のようにふたたび彼を浸した。
『レキシントンの幽霊』村上春樹
***********************
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それは質問ですらなかった。僕は彼女のブラウスの襟もとのレースを眺めていた。
それは上品な動物の清潔な内臓のひだのように見えた。
『ダンス・ダンス・ダンス』 村上春樹
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二人は抑圧された夢みたいに妙にリアルな非現実性を漂わせながら、僕の視点を右から左へとゆっくりと横断して消えていった。
『ダンス・ダンス・ダンス』 村上春樹
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同時に、二つの場所で現象として現れている。」
これ!なんかこう、だるま落としみたいに、頭のなかでスコンと何かが音をしました。そっかー。すごいなー。言われてみると当たり前なのにね。当たり前すぎて、気付かなかった。そういうことって本当に多いなって最近すごく思う。全身を耳にして、遠くから聞こえてくる音に感覚を澄ますようにすると、当たり前が当たり前にまるごと感じられる時がある。
時についてもよく思っている。時というのはうなぎのような時があって、掴もうとすればするほど手からぬるりと抜け出てしまう。風の吹きだまりと一緒で、時にも吹きだまりがあって、それを遊ばせていると、ふと今の今が溢れてくる。それを日常で色々最近試しているのだけれど、なかなか面白いー。
「太古の始めから
風は吹いていた
つづいて今日に至る迄
風は吹いている
今日の風も 太古から
吹いていた風だ
野口晴哉」
この詩を時折思い出す。すごくいい詩だなぁと思う。遠くから聞こえてくる音に耳を澄まし、遠くから吹いてくる風を感じていると、「ある/ いる」ということがふと満ちてくる。ただそこにいるだけでいい。
安田登さんが、こんなこと呟いておられたよ。
面白いなーー 似た事を仰っている気がするなー。
"娘がはじめて影の存在に気づいて、それを剥がそうとした時があったが、それが彼女がはじめて外部としての(そして統合体としての)身体に気づいた瞬間。それまでは顔の開口部と手足という感覚器官が身体の中心。が、そこから「統合的な身体(身)が見つからない」という焦燥が始まり、鏡をじっと見つめる時間が増えた。が、鏡は背中は映さないし、本当の顔は映さない。肉としての統合的な身体は、結局は見つけることができない。これは「心」も同じ。「我を忘れて」遊んでいた頃は「心」はない。が、ある日、心の身体化が起きる。心に気づいた瞬間にそれは外部の存在なっちゃう。でも、身体と同じように、その全体像を絶対に見ることはできないし、掴まえようとすればするほど曖昧になる。で、恋人からの愛撫によって肉としての身体の輪郭がはじめてつかめるように、心の輪郭は苦悩と逆境においてより明瞭になるのか…なんてことをさっき影を見て思いました。”
風つながりでこれを思い出しました。宮沢賢治ってやっぱり相当すごいよね・・・。そして、このメッセージはまさに今の日本へではないかっと感じずにはおられません。今あふれ出している狂気のようなものを、人の力、藝術の力で、変えていきたいなぁ。狂気は本当は大切なんだろうな。包丁とも似ているね。
生徒諸君に寄せる 宮沢賢治
中等学校生徒諸君
諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である
諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて
奴隷のやうに忍従することを欲するか
今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
すべての信仰や特性は
ただ誤解から生じたとさへ見え
しかも科学はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ
むしろ諸君よ
更にあらたな正しい時代をつくれ
諸君よ
紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君は此の地平線に於ける
あらゆる形の山嶽でなければならぬ
宙宇は絶えずわれらによって変化する
誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言ってゐるひまがあるか
新たな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
人と地球によるべき形を暗示せよ
新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て
衝動のやうにさへ行はれる
すべての農業労働を
冷く透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踏の範囲にまで高めよ
新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ
新しい時代のダーヴヰンよ
更に東洋風静観のキャレンヂャーに載って
銀河系空間の外にも至り
透明に深く正しい地史と
増訂された生物学をわれらに示せ
おほよそ統計に従はば
諸君のなかには少くとも千人の天才がなければならぬ
素質ある諸君はただにこれらを刻み出すべきである
潮や風……
あらゆる自然の力を用ひ尽くして
諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ
ああ諸君はいま
この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る
透明な風を感じないのか
そうなんですよね。
心と体は共時的な現象(Synchronicity)なのだと思います。
因果論の一辺倒で来た科学も限界があるのですが、そこを超えるのはこの辺りの理解だと思います。そうすれば、今までほぼオカルトとかインチキとか言われていたものが相当の説得力を持って語れるようになると思いますね。
ユングとパウリの共著として残された「自然現象と心の構造―非因果的連関の原理」も、その辺りを課題として次の世代に残しているように思えますし。
まあ、要は、こころとからだは同じものなんだけど、一見違うように見える、ということなんですね。
泳ぐ魚を2方向からカメラで撮影して、あとでその2つの映像を同時に見ると、一方が動いた時に、まるでもう一方がその影響で同時に動いているように見える。
でも、実は同じものを二つの視点で見ているだけなんですね。そこに遠隔力とかが働いているわけではなく・・・。
野口晴哉先生の詩は素敵だねぇ。
風はまさに自然の呼吸の音。
自然と言う巨大な生命体が吸ったり入ったりしている動きを風として太古から感じている。それは宇宙の果てまでも。
安田登さんの影の話も面白いね。
今、NOTHの講座で話すネタとして影や投影の事を色々書いてるから、これまたシンクロです。
心にも見えない部分(影)があるから鏡に映す。
影は鏡(環境や外界への投影)で見る事ができるが、鏡に映ったのが自分だと分からなければ、投影は役に立たない。
鏡で自分が見えなければ、認識ではなく錯覚になる。
ということなどを話そうかと思う。
結局、自分が鏡に透かして見えないと、投影は外に原因を求めることになるからね。これはだるまんの陰陽五行の漫画にも書いてあったような気がするなぁ。
宮沢賢治、すごいね・・・
新たな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
人と地球によるべき形を暗示せよ
新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て
の辺りとか、かっこいいなぁ。詩人はすごい。
本を読むのがめっちゃやたらに遅い山田スイッチです。笑
送って頂いた「坂口恭平躁鬱日記」を半分まで読みました。この本は素晴らしく面白いね!
本を、長い時では一冊一年かけて読むので、
なかなかすぐには読み終えられないのですが、
坂口恭平さんは本当に、文書が冴え渡っている! と
感じます。
音楽的で深い、と感じます。
「ここすごい」と思って印を付けて読んでたら
印だらけになりました。
とくに6月の日記がいい。
共時性のお話、面白いですね。
難しくて、一回ではわからなかったんですが、
よくよく読んでみるとすごく深いなあって感じます。
>心=身体だと思うので、どちらが先でどちらかが後ということはないと思う。
つまり、心の症状はそのまま身体の症状であり、身体の症状はそのまま心の症状である。
出力が二か所で表現されていると考える。
そうなると、心と体は因果的なつながりではなく、共時的な現象だと言う事になる。
同時に、二つの場所で現象として現れている。
これ、面白いね。
体は生き方そのものが出ると思います。
近所のおばあちゃんが、肺から3リットルも水を抜くような
手術を受けたのですが、「私、畑さ行かねばなんねえから」って、具合良くなったらもうすぐ畑にいっちゃって。
お医者さんにがんがなくなってると言われたそうです。
そういうおばあちゃんがうちの村にいっぱいいます。
稲葉さんの日記読んでたら
映画「かぐや姫」も見に行かなきゃって思いました。
(^ ^) スイッチより☆
発表が4つも連続して続いていて、返事が遅れました。
さきほど、やっと明日の発表の準備が終わり・・・やれやれ。
疲れたけど、同時に爽快!!
「坂口恭平躁鬱日記」、いいですよねー。
開放してる感じで。
やっぱりなんでも抑圧はよくないんでしょうね。我慢とか。
支離滅裂でも、それを解放する練習してると言語スキルや表現能力も少しずつ向上していくんだと思いますね。自分もブログ書きながらそう思います。なんかバランスとってる感じ。
そうそう。音楽的なんですよね。どんどんつなげていく感じが。曲を聞き続けてる感じ。坂口君のTwitterで出てくるYoutubeの音楽レコメンドはいい音楽が多いのでよく参考にしてます。とか言いつつ、今はYoutubeでLadyGAGA聞いてますが。笑
共時性の話、実は面白いんです!
なんでよく分からないかというと、僕らは常に【因果論】で考えちゃう癖があるんですね。それは脳の基本メカニズムなので、しょうがないとも言えますが。
ただ、たとえば出会いって共時的ではないですか!?意味のある偶然一致。誰かがどこかとどこかで出会うということを、因果論で考えるには無理がある。もちろん、こじつけはいくらでもできます。
自分は、次の科学の対象のキーワードは、
・共時性
・主観
になると思います。
因果論と客観を追求した現代科学のちょうど盲点になる場所。
近所のおばあちゃんの話もまさにそうですが、医学的に客観的にどうだろうと、主観的にOKなら、それでOKなんです。そして、実際そういうときに治癒現象が起こるのです。
ヒーリングや気功なども、自分はすべてそこから突破していけると思っているし、まさにそういう視点が、今もっとも重要なのだと思うのですね。
坂口君の人生もそう。客観的に病気だとか、そういうのは主観的にはどうでもいいことなのです。主観的に幸福しかこの世にはなくて、客観的な幸福など存在しない・・・。
いやはや。面白い時代ですね!(^^
共時性と主観は、めっちゃ新しいと思います。(^ ^)
スイッチより☆
発表、お疲れ山でした~!(^O^)
先週、息子がバチンと客観の世界の平手打ち食いまして、第一希望の国立附属中学の合格はかないませんでした。息子は1日号泣したら、また気持ちを入れ替えたようですが、母の私の方の身体に異変が起こりました。合格発表の翌々日、朝起きたら右耳が塞がれたように聞こえなくなりました。稲葉さんの記事のこの部分、
>身体言語は常にメタファーとして語られる。
嘔吐するのは、何かを飲みこみたくないという身体言語だし、耳鳴りがするのは、何かを聞きたくないと言う身体言語
を思い出しました。耳鼻科に行って検査をしましたが、特に異常はなく、現在様子を見ているところです。意識の上では、現実を受け入れているつもりなのにが、身体が拒否しているという状態を、初めて経験しました。これも意味があるんでしょう。(稲葉さんのNOTHの講座の予習?笑 あ、そうだ!NOTHの申し込みフォームから2月8日(土)の稲葉さんと原木さんの講座の申し込みをしようとしたのですが、送信ボタンを押してもエラー表示が出てしまい、なぜか私のPCからは送信できないようなのです。というわけで、まだ申し込みは済んでいませんが、受講の意志はありますのでよろしくお願いいたします!)
オマケ。先日TVで偶然カッコイイバンドを見つけましたので、お知らせ。ボーカルWAWOKAくん、詩人!
ヒトリエ 「るらるら」
http://www.youtube.com/watch?v=CjPHSMKr2sY
あなたは奪われた照明、頻りに探し続けていてそつがない暮らしの向こうで、盗まれた憧れはどうだい?
くだらない、だけの諍いはとうの昔に置いてきたんだ
「その答えを今すぐ頂戴」
そうやって扉を塞いでしまうんだ
ゆらり 揺れる 僕はもう、失格だ
些細なことなど一つもない、
って妄想が弾ける両サイド
どちらの味方にもならない、臆病な僕だ
つまり問い掛けには応じない、
取り巻きを追い払いに行くんだ
その期待に背いてしまえば
どうにだって次の数秒は変わるんだ?
ああ、そうだね
見えない魅力の正体を確信した
いっそ 繰り返しの迷子で恥を捨てれば!
認めない、思いは如何あれ
「あなたには僕がいるんだ」
不甲斐ない未来は、そうだね
部屋に綴じ込めるよ
るらるら るらるら
灯す明日に見蕩れただけ、僕は 僕は 僕は・・・
浅い夜の底 一つもない答えを合わせていく両サイド
どちらも不器用なくらい、に繰り返してるそうだ
つまらない、だけの異世界が今日も虚しく回りだすんだ
この芝居がかった生の正体だって、次の数秒を見たいんだ
散々だなあ、見えない希望の橋を譲ってくれない?
みっともない暮らしにはそうだ、うんざりしてるんだ
独りぼっち、だって知ってしまった
「わたしには君がいるんだ」
聞こえない筈の綻びは
昨日に綴じ込めるよ
認めない、思いは如何あれ
「あなたには僕がいるんだ」
不甲斐ない答えは、そうだね
部屋に綴じ込めるよ
独りぼっち、だって知ってしまった
「わたしには君がいるんだ」
見慣れた心の楔を此処に綴じ込めるよ
るらるら るらるら
予約完了メールも頂きました。
よっしゃー(>▽<)!めっちゃ楽しみです!
P.S.
ヒトリエのボーカル名、微妙に間違ってました、wowakaでした。
メジャー第一弾シングルのセンスレス・ワンダーが今日1月22日発売です。買いましたとも!
http://www.youtube.com/watch?v=o5VQbrrrpgs
そうそう。
共時性と主観、古くからあるんだけど、ちゃんとした形でとりあげていないという意味では新しいと思いますよね。科学の力があまりに大きいので、その辺は塗り込められてしまっただけで・・・。
この辺は考察やイマジネーションを深化させてるとこです。(^^
>まーこさん
NOTHの件、応募できてよかったー。いつのまにか定員オーバーになってたようで、50人なのでかなり部屋もすかすか空くんじゃないかと思ってたのだけど、意外に反響が多く・・・。
他にも友人で何人も来れない人がいたので、また別の機会に企画したいな、と思ってます。いつも同じ話しても面白くないので、少しずつ変えて行こうと思ってますけどねぇ。
子ども時代は共時性と主観の世界の住人なんですよね。
成長して社会と出会い、自我が生まれ、その複雑な社会の中で因果論と客観の世界を学習する。いつのまにか、そちらが正しいと信じ込むようになってしまった・・・。
もともと、いいも悪いも優劣はないはずなので・・・
医療者側も、そういう普遍性や客観性を押し付けるようになった。そうではなく、それぞれの主観性や主観世界をもっと大切にしないといけない。病や症状というものも、客観世界から見たものだけが流布しているけれど、主観世界から見たらどういう意味があるものか。。。。それがひとつの突破点になると思うんですよね。だからこそ、自分は病院という場で、患者さんの主観世界(それは全員が違う。。)色々と学ばせてもらっているわけで。そういう話もNOTHでは展開していきたいと思います。
だから、すでに現行の科学の世界をすこしはみ出しつつあるので、わかりにくいかもしれないです。ただ、時代はそういう風にすでに変化しつつあるとも、そういう風の匂いを感じています。常識を疑いつつ、先入観を取り外しつつ、無意識を疑いつつ、やっていきましょー。
P.S.
ヒトリエ「るらるら」wowaka。さすが感度高い!(^^