日常

老い

2011-03-01 20:49:09 | 
あるおじいさんは、確かにひどい病気で、確かにかなりの年だ。
いつも元気であるそのおじいさんは、「生命力」のようなものが衰えている印象があった。

それは、直観的に感知されるものだ。
あくまでも自分の経験や知識の混合物から織りなされる主観的なもの。



そのおじいさんへ、いつも傍らにいるおばあさんが励ましていた。
『戦争で生き延びたんでしょう。なんでそんなに落ち込んでるの。元気出しなさいよ!
あなたは暗闇の中、鉄砲ひとつかついで、歩き続けたんでしょう。何落ち込んでるの!
あの暗闇を思い出しなさいよ!』  

端的でシンプルな「叫び」。
この声が反響する部屋の中にいると、自分の身体から自然と涙がこぼれそうになった。

その叫びが、声が、同じ「夢」を一緒に見させてくれた。
「暗闇の中で鉄砲ひとつかついで、食事もなく寒い雨の中、泥の中で寝て起きて。
故郷や家族を思いながら、本来なら戦う必要もない相手と、命をかけて戦っている」
そんな夢の主人公に、自分がなったような気がした。

そこは、冷たい雨が降り、すべてが闇を覆い、うっそうと木が茂った森の中。ぬかるんだ泥の上だった。



その戦争の記憶は、時や場所を超えて、糸としてほどかれた。
そのほどかれた糸が、その場の夢として編みなおされ、形を変えた。
まるで映画館で同じ映画を見るように、
その場にいた人は、同じ夢を見ていた。



そのおじいさんは、94歳で亡くなった。
「100歳まで生きて、テレビに出る」
と言っていたから、その失われた6年間は宙に浮いた形になったけれど、いま自分はこうして生きているので、その6年間は自分が抱えようと思う。


その人は、イメージとしてこのブログに受胎していて、また誰かの夢の素材となる糸を織りつづけるのだろう。
○『株』(2010-09-14)
○『あおーの、でーもん』(2010-10-26)
○『ピアノを弾きに来る謎の男』(2010-11-02)




ひとがひとり亡くなる瞬間には、この世界がほんの少しだけグラリと揺れる。
そして、ほんの少しだけバランスが崩れるのだと思う。

そのバランスのずれは、ちかいひとにはかなしみや喪失として、遠くの人にはくしゃみやめまいのようなありふれた症状として、誰かに間違いなく感知されている。

ただ、少しすると世界はまた均衡を取り戻す。そして、何もなかったような顔をしている。



生命というものが、この世界に生まれてくるエネルギーはすごいものだ。
それは、人間でも動物でもそうだ。この溢れるエネルギーはどこからやってくるのだろう。

ひとが死んでいくとき、周囲の人に感じられる喪失感のようなものもすごい。
その喪失感は、何によっても決して埋め合わせることができないものだ。
ただただ、失うだけの、一方通行のもの。 
そのときに失われたエネルギーはどこへ行くのだろう。


生と死は、ジグソーパズルのように組み合わさりながら、凸と凹のようについたり離れたりしている。
生と死は、補い合うことで世界全体は均衡を保っている。





ひとりのひとがこの世界に生きているということ。
たとえば、空間に関しては、この世界である一定の空間を占めて、生きていることになる。
この世界が、その人の分だけの特別な空間を準備してくれたようにも感じられる。

そのことは、空間に限らない事だ。
ひとが亡くなったとしても、そのひとが間違いなく生きていたという事実は、集合的な時間の中に、集合的な空間の中に、集合的な記憶の中に・・・そのひと固有のsignature(署名)として、永遠に刻印されていると思う。

集合的な時間や空間や記憶へ、固有の署名をする。



目をつぶると、そのひとを含んだイメージは、自分のイメージ世界の中に生きている事が分かる。
だから、僕らは目をつぶって、失ったものを思い出す。

思い出す事ができなくなったということは、記憶から消去されたのではないと思う。
いちど自分の中に入ったものは、無意識の海に深くもぐって見えにくいだけで、失われる事は決してないんだと思う。

その人のイメージは、自分の固有イメージ世界へと、そして集合的なイメージの世界へと、イメージは一体化しながら融合して行く。いづれ境界は見えなくなる。そういうことなのだと思う。


こうして、一日一日は確実に向こうへと過ぎていく。
そして、自分は生きている。
だから、こうして、書いている。

2 コメント

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境目 (mayu)
2011-03-02 11:30:20
こんにちは。

昨夜のつぶやきからずっと考えていました。たとえば、亡くなった友達の机の上に、花瓶にいけられたお花が飾られるイメージ、白い布の下にある静的な気配のイメージを思います。たしかにそこにあったものがなくなって、ないものが「ない」ことを感じる。

「人は2度亡くなる。一度目は人は物理的に亡くなった時、そして2度目はその人を覚えている人が亡くなった時」(手元にないので記憶頼りですが、好きな福永武彦「草の花」にそんな一節がありました)。
このフレーズを折々思い出します。とすると、思っているよりもずっと穏やかに死を受け入れられるような気がします。脳死の議論が難しいように、生と死の境界って思っているよりもずっとあいまいなのかもしれませんね。
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あいまい (いなば)
2011-03-03 19:49:45
そうなんですよね。喪失とか、ないっていうのは、なかなか認識しにくいものなのですよね。
そのひとつが、死というものだと思います。
『もう会えない』というような言葉でしか表現しにくいものです。


生と死の境界はほんとうにあいまいです。
ぼくは、研修医や若い先生と死に立ち会うとき、そのことをはっきり見るように言います。
心電図モニターばかり見がちですが、ああいうモニターがない場合、人間は、いつ死んだのか、意識がないのか、寝ているのか、そういうのはほとんどわからないものなのです。これは、体験した人間には、衝撃と共にからだで感じることで、自分の医療行為での原点にもなっているような気もします。
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