日常

「時分の花」と「まことの花」

2014-02-21 19:08:39 | 考え
世阿弥の『風姿花伝』に、「時分の花」と「まことの花」という言葉が出てくる。

人間の成長を花の成長に、自然の中のプロセスと重ねている。



「時分の花」とは、若い生命が持つ鮮やかで魅力的な花。これは誰もが通過する。
「まことの花」とは、自分という木の全体が枯れいくとしても、そこでひそやかに咲き続けている花。自分という一人の人間だけが持つ本質的な花。




世阿弥の『風姿花伝』では、年齢に応じた説明がされている。

12歳頃。
何をしても素晴らしい。太陽が輝くように美しい。
ただ、それはその時だけの「時分の花」。本当の花ではない。
惑わされてはいけないが、それをとことん享受し味わい尽くせばいい。


18歳頃。
声変りの時期。身体が変容(メタモルフォーゼ)してゆく。。

「まず声変わりぬれば、第一の花失せたり」として、「時分の花」は一度なくなるという。


24歳頃。
声も身体もある完成形を見る。
それなりにチヤホヤされることがあるが、勘違いするな。と。
「あさましきことなり」と世阿弥は言う。

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世阿弥『風姿花伝』
「されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかる心なり。
ただ、人ごとに、この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。
初心と申すはこのころの事なり」
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「時分の花」と「まことの花」は違う。
あなたの「真実の花」はなんだろうか。
人は、たいてい「時分の花」に迷わされる。花はいづれ枯れる。
「初心」は、この時のことを強く記憶することだ。

「時分の花」は珍しく華やかで目をひく。ただ、それは本質的な人気ではなく一過性のものだ。それは「真実の花」ではない。いづれ消えゆくものだ。




35歳頃。
世阿が風姿花伝を書いていた時期でもある。
「上がるは三十四-五までのころ、下がるは四十以来なり」

35歳頃までは、「生」>「死」の勢いが強く、「死」は恐ろしく忌み嫌われるものとして見ないふりをするが、その時期を過ぎると、「生」<「死」の方に勢いが逆転していこうとするようだ。
ここからは老いのプロセスが始まり、死へのプロセスが表面に表れてくる。

それは、生という「はじまり」の「おわり」とも言えるし、死という「おわり」の「はじまり」とも言える。
ジェットコースターの頂点のようなポイントにある。
そして、自分の人生を完成させていく仕事に取り掛かる。




村上春樹さんの『プールサイド』という小説にあったのも同じようなテーマだと思う。

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村上春樹『プールサイド』
「35歳になった春、彼は自分が人生の折りかえし点を曲ってしまったことを確認した。
いや、これは正確な表現ではない。
正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折りかえし点を曲がろうと決心した、ということになるだろう。

もちろん自分の人生が何年続くかなんて、誰でもわかるわけがない。
もし78歳まで生きるとすれば、彼の人生の折りかえし点は39ということになるし、39になるまでにはまだ4年の余裕がある。
それに日本人男性の平均寿命と彼自身の健康状態をかさねあわせて考えれば、78年の寿命はとくに楽天的な仮説というわけでもなかった。


・・・だから35回めの誕生日が目前に近づいてきた時、それを自分の人生の折りかえし点とすることに彼はまったくためらいを感じなかった。
怯えることなんか何ひとつとしてありはしない。
70年の半分、それくらいでいいじゃないかと彼は思った。
もしかりに70年を越えて生きることができたとしらた、それはそれでありがたく生きればいい。
しかし公式には彼の人生は70年なのだ。
70年をフルスピードで泳ぐ-そう決めてしまうのだ。
そうすれば俺はこの人生をなんとかうまく乗り切っていけるに違いない。

そしてこれで半分が終わったのだ

と彼は思う。」
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人間は、誰もがいつ死ぬのかを知らされていない。
それはカミサマの領域でもある。
だからこそ、ある時自分で決めないといけないのだと思う。
病は、そういうことを意識的に決めさせるために、圧倒的な形で迫ってくるものだろう。ほんとうは、病が訪れなくても、どのあたりを自分の折り返し地点にするのかを決めないといけない。
もし偶然、自分が決めた寿命とかみさまが与えた寿命とで違いがあった場合(ほとんどの人がそうなるはずだ)、残された人生はボーナスステージのようなもの。運がいい。もうけものとして人生を送る。



人間は、自分の人生という一つの芸術作品を完成させるため、ある時から老いや死という無意識のプロセスを意識の中に取り入れなければいけない時期がやってくる。それは、別に悪いことでも、恐れの対象でもないものだ。


物事にはプラスもマイナスもある。
プラスの理由を挙げれば数万個あげることができるし、マイナスの理由を挙げようと思えば数億個も列挙することができるだろう。
ただ、それは列挙可能であるという事実を表しているだけで、そのことの本質を表現しているわけではない。
自分が生きていくプロセスで獲得した思考パターンや信念形態をコトバと対応させているだけだ。



人による個人差はあるけれど、世阿弥や村上春樹さんが言うような35歳辺りの時期には、自分の中に死を受け入れる器が成熟してくるのだろう。
そのとき初めて「死だけが欠けた生」という一面的な生ではなく、「死と生が一体となった生」という全体的な生を更新して生き始めることができる。
つまり、毎日毎日を、人生最後の日だと思いながら、神聖な気持ちで生きていくことができるということだ。




世阿弥に戻る。
45歳の頃。
「よそ目の花も失するなり」
老いや衰えのプロセスで、外から見ると表目上はその人の「花」が見えなくなる。
世阿弥は、この時期には後継者の育成に励めと伝える。

表面にとらわれるのではなく、水面下で起きていることに目を向けることが大事なのだろう。
その時にも、着実にその人の「まことの花」も咲いているのだから。つぼみかもしれないし、小さいかもしれないけれど。




50歳以上。
能役者人生の最後の段階として述べている。
父の観阿弥を想像して書いていると思う。

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世阿弥『風姿花伝』
「このころよりは、おおかた、せぬならでは手立てあるまじ。
麒麟も老いては駑馬に劣ると申すことあり。
さりながら、まことに得たらん能者ならば、物数は皆みな失せて、善悪見どころは少なしとも、花はのこるべし」
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50歳過ぎると花も失せる。
何もしない、ということを、する。

ただ、そこには花が残っているはずだ。
その花はその人の本質であり、個性そのものなのだ。
人間は何かをすること(Doing)に意識が向きやすいが、その裏打ちをしている人間の本質は、そこにあること(Being)。
それは存在の次元。

おそらく、存在の次元で最後に残っている花をこそ、世阿弥は「まことの花」と表現した。


少年少女の光り輝くような愛らしさ美しさ(時分の花)を誰もが通過する。

その後、青年期には燃えるようなエゴと共に自分をある一面的に積み上げて高めていく。
ただ、それはあくまでも「時分の花」。
その人独自の個性ではない。
人間という生命体が誰もが通過する影なき光の世界。


その後、老いや死のプロセスが盛んとなり、若さや体力や・・・、色々なものが消えながら、色々なものを失っていく。

この時、失うものばかりに目に行くことが多いが、同時に別の次元の何かを同時に得ているはずだ。
「初心忘るべからず」として、そのことを見据えながら、木が枯れつつあってもそこで密やかに咲いている「まことの花」を育てなさい、と世阿弥は説いているのだと思う。



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「時分の花」と「まことの花」。
浅田真央さんのフィギュアスケートに心を動かされたのは、「時分の花」から「まことの花」が咲いたのを全員が目撃したからだろうか。
一流アスリートは、上で書いたような年齢のプロセスを高速で通過しているはずだ。
スピードの違いがあっても、それは誰もが経ていく変容と成長のプロセスなのだと、思う。
老いと死の象徴的なプロセスを、普通の人より早いスピードで駆け抜けて行くのが、プロアスリートの宿命なのかもしれない。


ただ、その人なりの小さい老いや小さい死を、自分の中にそのまま受け入れる事ができたとき、「時分の花」は「まことの花」へと次元転換していく。
彼女のような象徴的な個人の人生を見ながら、それを鏡として一人一人が自分の中に「まことの花」を大切に育てていけばいいのだろう。

花は水をやり過ぎても枯れるし、ほったらかしても枯れる。花が根付く土壌を丁寧に耕しながら、太陽という愛を無条件に照らし続けることが大事なことなのだろう。

5 コメント

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Unknown (安藤明美)
2014-02-22 08:30:45
いい内容でした。

《花は水をやり過ぎても枯れるし、ほったらかしても枯れる。花が根付く土壌を丁寧に耕しながら、太陽という愛を無条件に照らし続けることが大事なことなのだろう。》

そのようなことがわかることは、人生の成熟という点からも大切なような気がします。「ほどほど」という言葉が、生きるうえ(日々の生活のなかで)で自然に表現できるようになってきて、「ありのままで人生を生きること」を楽しめるようになってきました。


私自身、なんどか病を経験し、死を覚悟するときを乗り越えることで、「いま」は神様から与えられた「時間」のような人生をおくらせてもらっていると思っています。ただ、その わたしの意識は「人生を諦める」というところにあるのではなく、

《毎日毎日を、人生最後の日だと思いながら、神聖な気持ちで生きていくことができるということだ。》という姿勢を大事に、自分のこころに正直に、人生の残りの時間を生かせていただきたいと思ってます。

安心立命 (玉猫)
2014-02-22 10:40:16
35歳ごろ、タイの森林寺院に寄宿した事があります。その時、住職さんに「なぜ仏道修行を?」と聞きましたら「安心立命の為」とおっしゃいました。
私もそれ以来「安心立命」を求めて修行してきました。
先日、腸閉塞(悪性腫瘍)で入院・手術しました。
私は現在65歳ですから、「今回の手術は、死ぬ練習になるぞ」と思い、普段から練習している「息を観る瞑想(座禅)」に依って、術後の傷の痛みを観察し続けました。
これ以上は個人的体験に属しますが、今回のサマーディ体験で、「死ぬも案外怖くないかも」と思いました。
ちなみに私は謡曲を習っていますが、「上手い」とほめられるより、自分が楽しめているか、に重点を置いています。
お仲間の老人が「私は下手だ、下手だ」と卑下してみせるのを、私は「もう年なのだから、謡の中でたゆたって、楽しめばいいのに」といつも残念に思います。
もう、誰に褒められなくてもいい、自分の中に「まことの花」が咲いているべそれでいい、と思うのですよね。
Unknown (安藤明美)
2014-02-22 10:55:50
私のブログではないので、でしゃばり過ぎてはと思うのですが・・・。

玉猫さんへ お体の具合はいかがですか?《誰に褒められなくてもいい、自分の中に「まことの花」が咲いているべそれでいい》というお気持ち、共感するところがございます。

私自身のことで恐縮ですが、そのような心境で「生きて」おりますときに、ほんのちょっとだけ「私が自分を褒めてあげよう!」と思うようになってから、なんだかいいことが起こるようです(^-^)
風姿花伝 (スイッチ)
2014-02-25 09:11:22
風姿花伝にこういうことが書かれているとは、
知りませんでした。
稲葉さんが書いてくれると、稲葉さんの中で言葉がちゃんと消化されているから、すごくわかりやすいですね。

老いと死には、美が隠されているように思います。
老いと死と美は実はワンセットで、
それを体験する時にメタモルフォーゼが発動するのかなあ……。

還暦を過ぎた舞踏家の友人が、いつも踊る時に死と美を一緒に身にまとって変容していくので
そんな風に思えてしまいました。(^ ^;)
円環的なライフサイクル (いなば)
2014-02-25 18:32:00
>安藤さん
世阿弥は、コトバのセンスが抜群なんですよね。
手あかを落とす作業がうまい、というか・・・・。

花のような自然物にたとえていることも多く(風姿家伝というタイトル自体に風が入っていたり。秘すれば花、とか。。)、自然というものを存在の根底においていう自分としては、とてもシンパシーを感じてしまう人なのです。


世阿弥の複式夢幻能というスタイルも、お坊さんが見る夢の中に観客全体が入り、そこで亡霊と観客全員が出会い、そこで亡霊を浄化する。そして、お坊さんの夢が醒めると同時に、観客も全員夢から覚める、というような形で、夢という世界を媒介にして見えない世界を芸術までに高めている世阿弥という人は、なんとも恐るべき人だと、つくづく感心感動してしまいます・・・・。

>玉猫様
35歳ごろにタイの森林寺院に寄宿した事があるとは!
素晴らしいご経験をお持ちですね。春樹氏が奇しくも指摘するように、35歳というのは人生の折り返し地点として分かりやすいポイントで、その辺りに何らかの体験を通過するのではないかと思います。そして、その時の体験は人生の後半の<目次>のような役割を果たし、そこにほとんどすべてが集約されているような印象を持っています。


仏教には、幸福という概念はほんとはないんですよね。たしか・・・

幸福の代わりに、「安心(あんじん)」というものがあって、とにかく心を安定にする、安らかにする、ということが、西洋でいうところのHapinessなのだ、ということだった覚えがあります。
自分も、それを知って以降は「幸福」や「幸せ」という概念を聞いたとき、それを「安心」というイメージを二重に重ねて、まず自分の心が安らいでいる状態をイメージするようにしています。そのために、東洋は瞑想や座禅のような方法論が確立してきていると思いますし。


謡曲もそうですよね。自分の心の安心や安らぎのためにやることが、もっとも重要なことの気がします。他者の評価はおまけのようなものですよね。

仏教学者の中村元先生が、Nirvanaを涅槃という難しい言葉ではなく、「安らぎ」という言葉に翻訳していたのを思い出します。

花の気持ちに立てば、混乱と欲望(それは大抵他者の欲望を受け継いでいるだけですし)の土壌には、花は咲きたくても咲けない気がしてしまいます。
「安らぎ」の土壌にこそ「まことの花」は咲いてくれる気がします。



>スイッチさん

いえいえ・・・・
風姿花伝の中で色々と自分の中にフックした言葉があるのですが、特に「時分の花」と「まことの花」・・・というのはよく考えるんですよね。

やはり、若い壮年期を中心に社会を構想していったのがヨーロッパで、「時分の花」を花と誤解しているところもあるかと思うのです。お年寄りや、社会に何も還元できない人たちを労働していないということで価値がないとしてしまう社会になってしまいがちで。
そんな社会を日本が真似するより、日本には「翁(おきな)」という素晴らしい概念があり、それは年をとればとるほど、にんげんは誰もが「まことの花」に近づいていく、ということですし、壮年期だけではなく老年期も含めたライフサイクルを構想していくうえですごく大事なところだと思いました。


直線的なライフサイクルではなく、円環的なライフサイクル。
それは、死が終わりと考える直線的なライフサイクルと、死と生をひと結びにして円環で閉じてグルグルさせた輪廻の思想にも通じるものがあります。

死というものを僕らが受け入れていくうえで、輪廻、円環的ライフサイクル、「まことの花」・・・・この辺りは自分の中でつながるんですよね!!(矢作先生の人は死なない、というのもこういう風に勝手に理解しています)


とまあ、本論から脱線しますが・・・


この辺りは小学生くらいの時からずっと考え続けているテーマにもかかわらず、掘れば掘るほど鉱脈が出続ける感じがあり、すごいテーマだなぁと改めて思います。

ブッダの<四門出遊>で、東西南北の四つの門で老人・病人・死者・修行者に出会って、出家を決意したほどの衝撃を受けた、というのにもシンパシー感じます。。。(^^