日常

映画『かみさまとのやくそく』の上映会+シンポジウム

2014-11-09 00:59:58 | 
11/3は映画『かみさまとのやくそく』の上映会+シンポジウム。
とてもいいイベントだった。

数日の間は温泉に入っているようなホクホク、ポカポカした気分で日々を過ごした。日々の激務としての日常に戻りながらも、心地良い空気に包まれているような不思議な感覚。


当日は色々な人から助けて頂き、むしろみなさんへの感謝の思いの方が強く溢れた。




映画『かみさまとのやくそく』(2014-03-25)の中では、こどもの「胎内記憶」や「中間生記憶」という証言が出てくる。

僕らは、生まれるときに何か使命(Mission)を持って生まれてくる。
それは、誰かの役に立ちたい、ということだったり、周りの人(それは必ずしも親とは限らない)の笑顔を見たい、ということだったりする。
ただ、致命的なことは、「こども」から「おとな」になる過渡期に、すっかり忘れてしまっていることが多い、ということのよう。

<参考>
映画『かみさまとのやくそく』(2014-03-25)
池川明「ママ、生まれる前から大好きだよ! -胎内記憶といのちの不思議」(2014-05-25)
ロバート・コールズ「子どもの神秘生活」(2014-04-03)
いんやく りお「自分をえらんで生まれてきたよ」(2013-05-21)


・・・・・・

自分も臨床現場ではこういう話を度々耳にする。
子どもの方が、自分より深くこの世の真理を悟っていると言うことは、よくあることだ。それは度々経験する。



ただ、こういう風な誤解されかねない語りは、
常に相手を見て語られたり、語られなかったりする。
臨死体験も同じ。ある人にはありのままを語られ、ある人には全く語られない。
真実は時に劇薬となるからだ。



というのも、
人間は言語で交流している以前に、本能的に「非言語」で交流をしているからだ。
言語以前に、「存在そのもの」で情報をやり取りしている。

その量と質があまりに膨大なため、僕らが脳で感知する限界や言語の制約をはるかに超えているから、よくわからないだけ。

そうして、僕らは主に「非言語」で交流をしている。
意識的にも無意識的にも、僕らは話す相手を選び、話す内容を選んでいる。

相手の態度や存在の在り方で、自分が話す内容を微妙に変形させている。


「本音で語る」「腹を割って話せる」という状況が、いかに人をほっとさせ安心させるか、それは誰もが体感していると思う。
逆に言えば、小さいレベルでも大きいレベルでも、日常の僕らはかなりの無理をしてコミュニケーションをしているということでもあると思う。



だからこそ、人間は、自分の内なる体験を余すことなく素直に表現したいと思っている。
そして、その表出こそが、それぞれの人が自分らしく生きることのベースになる。
自分の人生をありのまま肯定して受け入れて生きていくベースになると思う。


自分にとってのほんと、自分にとってのうそ、、、、それは究極的にはその人にしか分からないものだ。
誰かがジャッジするものではなくて。
だから、その人がその人自身とピタリと一致できるように、僕らは互いが素直な状態でありやすい場を、互いに準備することくらいしかできない。


お互いの間で語られることが、相手と自分にとってどのような意味を持つのか、、、、相手のRealityと共鳴しながら、その可能性と意味とを模索していく。
自分にとっての意味、相手にとっての意味、それはすべて違う。
違う、という大前提を互いが理解し合うことが、共鳴・共振・共感の前提なのだと思う。


相反するものが高まりあい、異なる音がそのまま一つのハーモニーに溶け込んでいくような、お互いの存在の在り方。
音がすべて同じであると言うのは不自然なことだ。

メロディーは、高音から低音まですべてが同時に鳴っていて、指揮者は高音から低音まですべてが同時に聴こえている。

僕らは、違う人生を生きる相手との関係性の場の中で、ひとつのハーモニーを作り上げる努力を怠ってはならない。





この11/3の会は、井筒俊彦先生が言うところの
「現実(Reality)は意識の層にしたがって変わる」
ということの実践版でもある。
「伝播する井筒俊彦」(2014-11-08)



ひとそれぞれの現実は、それぞれの人によってすべて違う。
そういうすべての存在の現実のレイヤーが、幾層にも折り重なって成立している。
光が何層にも重なることができるのと同じ事だ。

それぞれの現実が違うがゆえにこそ、その違う体験を共通に感じ合おうとして、人間は深い理解に至ることができる。
ということをみんなで体験したかった。



そして、自分の体験の種類と深さの両方で、共感・共鳴しうる範囲は拡張していく。

医療現場で起きていることは、相手の体験を、自分の体験として共有していく体験の連続でもある。
自分以外の体験を共有していくことは、人間という奥深く未知の存在を理解していく上で、大きな助けになると思う。



日々の医療現場で起きることは分からない事だらけだ。
科学も含めた人間の営みは、そういう未知なるものや分からないものをなんとか理解しようとして、自然や人間に対する共感能力を拡張させていくことで、自然や人間への深い理解に至ってきたのだと、自分は思う。


ひとそれぞれ、感じることは異なる。
繰り返しになるが、ひとはそれぞれ同じではなく違うがゆえにこそ、その違う体験を共通に感じ合おうとして人間は深い理解に至ることができる。
と、自分は信じている。





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孔子『論語・子路』「君子は和すれども同ぜず。小人は同ずれども和せず」

君子への道は、誰とでも協力しますが、誰とも一緒ではなく誰とも同じではないという道です。
小人への道は、誰とでも同じ考えに染まりますが、誰とも協力しないという道です。
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どちらの道を選ぶかは、自由です。
なぜなら、歩いた道こそがあなたの人生だからです。
どちらの道のどちらの道案内を信じるかも、自由です。
なぜなら、歩いた道での経験のすべてがあなたの人生となるからです。

そして、全員に選択が自由に任されているというのが、かみさまからの、粋な計らいなのです。
そして、そのときの選択は、あなたにとって最善最高の選択です。

だから、一切何も心配することはありません。
みんな自分が選んだ道を歩くのです。

道の違いは登山道の違いですので、何も心配いりません。
道の途中で困ってる人がいたら、できる限り手助けしましょう。誰もが助けられたことがあります。恩返しができるのはありがたいことです。
道は違っても、景色がよく見える山の頂上で合流すると思います。

その日だまりの中でこの自然の絶景の景色を堪能しましょう。みんなでご飯でもしましょう。つのるお土産話しに花を咲かせましょう。今となっては道中のあれこもすべて旅の思い出話のようなものです。

・・・
雲が動きだすと、また次の頂きが見えてきました。
ここが頂上で最後だと思ったらまだ先があったようですね。あっはっは、とみんなで高笑い。

そしたら、また重い腰をあげて、それぞれのタイミングでそれぞれの道をてくてくと歩いて行きましょう。
それぞれの道は違いますが、それは登山道の違いに過ぎません。
きっと、会うべき人はまた合流するでしょう。
その日まで!




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(補足1)
大大大尊敬する一条さんのブログにも取り上げて頂きました。
有難うございます!(^^

東京入りしました
「かみさまとのやくそく」
かみさまシンポジウム
かみさまシンポ懇親会


(補足2)
11/3の写真。
やっぱり笑顔に勝るものはないなー。(^^



















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ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
「死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きるものは永遠に生きるのである。
視野のうちに視野の限界はあらわれないように、生もまた、終わりを持たない。」
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ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。」
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