■器
相手を偏見で見るのは、自分という「器」の問題に過ぎない。
自分の「器」が小さいと、相手はその「器」からボロボロとこぼれてしまう。
自分に理解ができないとされる部分は、そのこぼれた分。
そのこぼれた分を、偏見とかのブラックボックスに入れてしまいやすい。
でも、ほんとは自分の「器」からこぼれた部分こそが、自分にとってすごく大事なとこ。
そこが、自分の「器」に手をいれて修繕する必要がある「穴」の開いた場所。
自分という「器」が大きくなることは、世界をありのまま受け入れることができるようになるということ。
そこに偏見とかイメージの入り込む余地はない。
■引き受ける器
この世に生を授かる時、「自分」が「自分」である根拠はない。
自分はあの人であったかもしれないし、この人だったかもしれない。
だから、どこかで「自分」が「自分」を引き受ける必要がある。
それが、「自分という器」を作ること。
「自分」を受け入れた「自分という器」が、そのまま世界を引き受ける「器」になる。
■脆い器
この世の強度に耐えられないと、自分という「器」は壊れることもある。誰かに壊されることもある。
だから、また作る。
壊れるから、また作る。
死んでは生まれ変わり、また死んでは生まれ変わる。
器は、手を入れて、手を入れて、こぼれないように、溢れないように、さらに大きな器になっていく。
出会う他者やモノをすべて取り込みながら、全てを受け入れる、偽りのない「器」になっていく。
■手入れをする器
浦島太郎。
亀を助けたと言って喜んでいても、竜宮城という異界に閉じ込められる人もいる。
「異界」では何も考えなくていい享楽的な時間が流れてるけど、そこはあくまでも異界。
竜宮城を出ると決めるのは自分しかいない。
そこでの3日は現実の300年が経っていて、玉手箱を開けると一瞬で時間が流れて、気付いたら死んじゃう。
それは「器」を作らなかった人生の、器に手入れをしなかった人生の、メタファーとも思える。
■器
理解できないもの、よくわかんないもの。
それは、自分という「器」からこぼれ落ちたってことだとシンプルに思う。
こぼれたのをあちら側のせいにするか、自分の「器」を見直すか。
誰かの用意した器はフィット感がなく、偽造品はこわれやすい。
だから、こぼれ落ちないような、全てを受け入れることができるような、自分のオリジナルな「器」を壊しては作る、壊れては作る、壊されては作る。
何も入れられない、穴だらけの「器」もある。
全てをそっくりそのまま入れられる、広く深い「器」もある。
人生には<すがた・かたち>がない。
「器」は、その<すがた・かたち>のようなもの。
相手を偏見で見るのは、自分という「器」の問題に過ぎない。
自分の「器」が小さいと、相手はその「器」からボロボロとこぼれてしまう。
自分に理解ができないとされる部分は、そのこぼれた分。
そのこぼれた分を、偏見とかのブラックボックスに入れてしまいやすい。
でも、ほんとは自分の「器」からこぼれた部分こそが、自分にとってすごく大事なとこ。
そこが、自分の「器」に手をいれて修繕する必要がある「穴」の開いた場所。
自分という「器」が大きくなることは、世界をありのまま受け入れることができるようになるということ。
そこに偏見とかイメージの入り込む余地はない。
■引き受ける器
この世に生を授かる時、「自分」が「自分」である根拠はない。
自分はあの人であったかもしれないし、この人だったかもしれない。
だから、どこかで「自分」が「自分」を引き受ける必要がある。
それが、「自分という器」を作ること。
「自分」を受け入れた「自分という器」が、そのまま世界を引き受ける「器」になる。
■脆い器
この世の強度に耐えられないと、自分という「器」は壊れることもある。誰かに壊されることもある。
だから、また作る。
壊れるから、また作る。
死んでは生まれ変わり、また死んでは生まれ変わる。
器は、手を入れて、手を入れて、こぼれないように、溢れないように、さらに大きな器になっていく。
出会う他者やモノをすべて取り込みながら、全てを受け入れる、偽りのない「器」になっていく。
■手入れをする器
浦島太郎。
亀を助けたと言って喜んでいても、竜宮城という異界に閉じ込められる人もいる。
「異界」では何も考えなくていい享楽的な時間が流れてるけど、そこはあくまでも異界。
竜宮城を出ると決めるのは自分しかいない。
そこでの3日は現実の300年が経っていて、玉手箱を開けると一瞬で時間が流れて、気付いたら死んじゃう。
それは「器」を作らなかった人生の、器に手入れをしなかった人生の、メタファーとも思える。
■器
理解できないもの、よくわかんないもの。
それは、自分という「器」からこぼれ落ちたってことだとシンプルに思う。
こぼれたのをあちら側のせいにするか、自分の「器」を見直すか。
誰かの用意した器はフィット感がなく、偽造品はこわれやすい。
だから、こぼれ落ちないような、全てを受け入れることができるような、自分のオリジナルな「器」を壊しては作る、壊れては作る、壊されては作る。
何も入れられない、穴だらけの「器」もある。
全てをそっくりそのまま入れられる、広く深い「器」もある。
人生には<すがた・かたち>がない。
「器」は、その<すがた・かたち>のようなもの。
『意思決定をする際、最終的に判断は自分で下すんですが、それまでに至った論理や視点を自己否定する作業を意識しています。』
それは、まさしく無意識のプロセスを意識化することで、わしも最近興味を持って取り組んでいることです。
山本七平がいうところの「空気の研究」も似たものがある。
なんとなく、空気で決まった。そんなこと言える空気じゃなかった。・・・
その時に人間の中で起きている事はなんなのか。
このことは、ちゃんと考えないといけない問題だと思う。
というのも、まさしく日本の戦争はそういう流れの中で突き進んで行って、そこを解明できなかったから戦争は止まらなかったわけで、果てには原爆が落ちて戦争は終わったわけで。
そういう無意識の世界は、フロイトとユングがあるけれど、僕はやはりユングが好き。
フロイトは性にこだわりすぎだし、アドラーは権力にこだわりすぎ。
ユングは、ありのままに無意識を考えている。
一番好きなのは、無意識は、意識の補償作用であるってとこ。
意識が偏って歪みだすと、そこを無意識が全体のバランスを保つ補償作用をするという発想にしびれて以来、ユングはコツコツと勉強してる。
でも、無意識の話は、仏教が唯識として古代から伝えてきている心理学なんだよねー。
仏教はすごいーって改めて思う。
『自分で大事に作った器が壊れる、壊されるのを恐れていたんですが、最初から壊しにかかるくらいだと』
そういう柔軟さとか、タフさは大事だよね。
この世に永遠の生命っていうのはなくて、壊れて始めて気づく事は多い。
もちろん、いろんな痛みの代償は伴うけれど、そこを乗り越えれるタフさがあれば、それは何かの大きなきっかけになるんだろうと思うし。
『でも、自分の論理の自己否定って、無限回出来てしまうものだと思いますが、まあ12回くらいかなぁと』
人生が70年とすると、5年に一度くらいなのかな。
でも、年とると頻度は少なくなるだろうから、確かに12回くらいは適度かもね。
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ちなみに、厚み0.11mmのトイレットペーパーの場合、25回折るとだいたい富士山の高さにすることができます。
0.11mmのトイレットペーパーを何枚重ねると3776mになるか算出
(3 776 * 100 * 10) / 0.11 = 34,327,272.7
2の何乗でこの枚数に近づくか調べる
2^25 = 33,554,432
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これもすごいなー。面白い事考える人いるもんだ。笑
自分で大事に作った器が壊れる、壊されるのを恐れていたんですが、最初から壊しにかかるくらいだと、壊れても悲しまないし、受け入れられると思ってます。「逃げ」でもあるような気もしますが、新たなものも取り込めやすいのではないかと思ってます。
でも、自分の論理の自己否定って、無限回出来てしまうものだと思いますが、まあ12回くらいかなぁとこれを見て思いました。
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20100305_fold_half/
今は外人を受け入れられる器に変えるよう、自分の「器」を見直しているところです。時間かかりそうですが。。