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古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

蒜山

2009年07月31日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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京都嵯峨野・二尊院

2009年07月30日 | 平安時代

 墓碑によって当時の人物を偲び、紅葉を堪能し、如来像にふれ、そして心に沁みる風景のひとこまにシャッターを切る。 そんなことを考えるといつまでいても飽きない場所が京都には数知れずあるが、その一つが二尊院であり、紅葉はまだ先であるというのに、五木寛之の百寺巡礼を読んで今頃から思いをめぐらせている。 

 京都の西の観光中心地に嵐山・嵯峨野がある。周辺には天竜寺をはじめ多くの名刹があり、人力車による観光案内も盛んである。 嵐山・小倉山・愛宕山と連なる山々に囲まれた嵯峨野は源氏物語や平家物語の舞台にもなり、藤原定家が選んだ小倉百人一首の小倉も、ここ嵯峨野にある。 昼にもかかわらず暗き山は「小暗い」から小倉となったという。 百人一首に選ばれた藤原忠平は紅葉の小倉山を表現したことから、紅葉の名所となったのである。 また、嵯峨野には小倉ぜんぜいを名物として出している茶屋が多い。 昔、この一帯では小豆や大納言を栽培しており、小倉あんと呼ばれるようになった説もある。 この嵯峨野・小倉山の麓に「小倉山」をそのまま山号にしているお寺・二尊院は創建から約1200年の歴史を持つ古刹である。 境内への参道は「紅葉の馬場」として知られ風情がある。 石段を上がると豪華な唐門があり、目の前には本堂がそびえ、内陣の須弥壇には二体の如来が安置されている。 釈迦如来像と阿弥陀如来像である。 この二体が対等に並んでおり、二尊を本尊としていることから二尊院という。 二体は非常に似ていて一見区別がつかない。 違いは印相にあり、釈迦如来は「施無畏印」といって左手は下げ、右手は掌を正面に向けている。 恐れをなくすように施す、という意味がある。 阿弥陀如来は左手を上げ、右手を下げ、親指と人差し指で輪を作っている。 これを来迎印といって衆生を西方浄土へ迎えるという意味がある。 釈迦如来は「この世の人々を優しく送り出す仏」、阿弥陀如来は「送り出された人々を迎える仏」 であり、二尊院には送迎の仏が並んで立っているのである。

 創建は9世紀初めで嵯峨上皇の勅願により慈覚大師円仁が開いた。当初は二尊院と華台寺の二つの寺が存在していたが、荒廃後、法然(摂政・関白に登り詰めた九条兼実が失脚すると、讃岐に配流となる)が鎌倉初期に九条兼実の助力を得て再興した。九条兼実をはじめ、多くの貴族が帰依し、法然の高弟である湛空が堂宇を増築するなどして中興の祖となった。 湛空は土御門天皇と後嵯峨天皇から帰依を受け、次の時代の叡空は後深草・亀山・後宇多・後嵯峨天皇から帰依を受けた。 応仁の乱で焼失すると荒廃するが、16世紀に三条西実隆・公条親子の助力で、恵教が再興した。 豊臣秀吉や徳川家康も寺領を与え、須弥壇に納められた厨子の扉にある菊の紋章は皇室との関係を物語っているという。 こうして二尊院は鷹司家・二条家・三条家・三条西家・四条家・嵯峨家をはじめ角倉了以一族の菩提寺になっている。 

 本堂横の鐘楼からは小倉山への石段が続いていて、先には時雨亭という庵跡があり、藤原定家が小倉百人一首を選んだ場所だという。 鎌倉時代を代表する歌人・定家は新古今和歌集の選者としても知られ、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとして失敗した承久の乱の前年に後鳥羽上皇の怒りに触れ蟄居謹慎中の身となり、宮廷からは疎外されていた。 承久の乱を否定する立場で書かれている名月記という日記も有名である。 老年に激動期を向かえ、小倉百人一首を選んだのは74歳の頃といわれているが、そもそも選者であるという確証はないそうである。   

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蒜山と大山

2009年07月30日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

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醍醐寺・清瀧宮拝殿

2009年07月29日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 清滝宮拝殿は上醍醐、下醍醐の両方にあり、いずれも国宝です。 清滝宮は弘法大師が唐の長安・青龍寺から勧請した密教の守護神を祀った醍醐寺の鎮守社。 上醍醐の清瀧宮拝殿は室町時代の建物で、寝殿造りの手法を生かした気品ある風格を備え、山腹をわずかに切り開いて前面が崖にさしかかる懸造構造になっています。 また、下醍醐の清滝宮は総鎮守清瀧権現を祀るもので、1097年に、最初に建立された上醍醐より分身を移し祀ったということです。 その後、この社殿の前で清瀧会という桜会が行われるようになり、現在の社殿は1517年に再建され、1599年に座主・義演僧正により整備が施されました。 毎年4月1日から『清瀧権現桜会』として様々な法要が行われています。

下醍醐清滝 仁王門をくぐるとすぐ右手にあります

上醍醐清滝 火災で無くなった准胝堂のすぐ手前にあります

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わんこも泊まれる旬香 in 大山

2009年07月28日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

 

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禅寺・東福寺

2009年07月28日 | 鎌倉・室町時代

 東福寺は禅宗寺院の代表格であろう。最大規模の禅堂の目的は、現実の世界から遮断された空間でひらすら禅を組むことにある。 大日如来像の座位を結跏趺坐というが座禅の基本的な座り方である。 実は座禅のほかにも寝禅といって寝たままの姿での禅もある。 昔は臥禅といったらしいが、ほかにも行禅、立禅などさまざまである。 奈良の東大寺と興福寺の東と福を譲り受けた東福寺の創建は1236年に遡る。 もともと法性寺という藤原忠平が建立した寺が平安時代中期にあった。 この法性寺の境内に仏殿を建立したのが九条道家・鎌倉前期に摂政・関白を務めた実力者である。 鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経の父でもあり、幕府と結んで政界に大きな勢力を振るっていた。 中国から帰朝した臨済宗の円爾弁円を東福寺の開基に迎え、九条一族はことごとく弁円に帰依したという。 道家は仏殿に続いて七堂 伽藍の造営にもとりかかったが完成前になくなり、その後の造営は子に受け継がれて1255年にようやく完成した。 東福寺の法灯は円爾の弟子に受け継がれ藤原氏一門の九条家、一条家の庇護のもとにさかえ、室町時代に頂点を迎えた。 そして京都五山に列せられ、禅宗の世界では円爾の一派がいかに大きな勢力をもったかが伺える。 東福寺境内には36の塔頭や子院が甍を並べ、その壮観さは「東福寺の伽藍面」といわれるほどであったが、14世紀前半には三度の火災を受け、応仁の乱で伽藍を失った。 しかし豊臣秀吉や北の政所ねねの援助によって復興したのである。また徳川三代将軍・家光が諸堂を修復し皇室との関係も深めていった。 巨大な法堂の須弥壇には本尊の釈迦立像が安置され脇侍は迦葉尊者と阿難尊者像である。 法堂から開山堂で続く紅葉の名所として知られている通天橋ができたのは1380年のことで、僧たちの苦労を取り除くために春屋妙葩がつくったらしい。春屋妙葩は夢窓疎石の高弟で、相国寺の第二世住持である。

                   源顕信娘
                     ┣道経
                     ┣基教(鷹司家)
                     ┣家実1179-1243(良経後猪隈関白)
  具平親王              ┃  ┣家通
    ┗源師房             ┃  ┣兼経
       ┣源俊房1035-1121(堀河左大臣)┃  ┗兼平(鷹司家の祖 摂政関白)     
   道長┣源顕房1037-1094(六条右大臣)┃    ┣兼忠
     ┣尊子 ┃┣源国信  藤原忠隆娘 ┃    ┗基忠
   明子   ┃雅実 ┣信子 ┣基通(1160-1233後白河上皇から寵愛 後鳥羽摂政)
           ┃      ┃ ┣近衛基実(1143-1166近衛家の祖 二条関白 六条摂政)
           ┣賢子  ┃ ┃  ┣
         隆子┣堀河┃ ┃ 盛子(平清盛娘) 
             白河  ┃ ┃ 三条公教娘  花山院忠雅娘忠子(安徳乳母)   
                   ┃ ┃   ┣藤原家房  ┣伊子(木曾義仲側室)
                   ┗ ┃俊子 ┣藤原隆忠  ┣松殿師家
                ┃┣近衛基房(後白河側 松殿祖 六条高倉摂政) 
                   ┣┛  
                  ┃藤原仲光娘・加賀 
                 ┃┣九条兼実1149-1207(頼朝推薦 後鳥羽摂政 関白) 
            ┃┣兼房┣良通
             ┃┣慈円┣良経1169-1206(土御門摂政 後鳥羽推薦)
             ┣┛  ┃ ┃藤原清季娘
             ┃   ┃ ┃ ┣忠成王1221-1279(四条皇太子)  
             ┃   ┃ ┃順徳天皇(守成親王)1197-1242
             ┃   ┃ ┃ ┣諦子内親王1217-1243
             ┃   ┃ ┃ ┣85仲恭天皇1218-1234
             ┃   ┃ ┃ ┃  ┣義子内親王
忠実          ┃   ┃ ┃ ┃ 右京大夫局
┣泰子(高陽院1095-1155)┃   ┃ ┃ ┃
┗忠通(法性寺関白1097-1163)  ┃ ┃ ┃ 徳子(建礼門院)
  ┗藤原呈子(伊通娘)       ┃ ┃ ┃    ┣安徳天皇
     ┣-            ┃ ┃ ┃ 高倉天皇
   近衛天皇1139-1155      ┃ ┃ ┃    ┣82後鳥羽天皇1180-1239
  頼長  ┣-             ┃ ┃ ┃信隆  ┣守貞親王1179-1223(後高倉院)
  ┗藤原多子(公能娘)       ┃ ┃ ┃┣坊門殖子  ┃
                  ┃ ┃ ┃休子     ┃
                  ┃ ┃ ┃       ┣利子内親王
                  ┃ ┃ ┃持明院通基  ┣邦子内親王1206-1283
                  ┃ ┃ ┃┣持明院基家 ┣86後堀河天皇1212-1234
                  ┃ ┃ ┃源師隆娘┣藤原棟子 ┃
                  ┃ ┃ ┃    ┗基宗   ┃ 
                  ┃ ┃ ┃          ┃
                  ┃ ┣立子1192-1247     ┣子内親王
                  ┃ ┣道家1193-1252(仲恭摂政)┣87四条1231-1242 
                 ┃能保娘   ┣九条竴子(藻壁門院) ┃ 
                              ┃     ┣教実(九条家を継ぐ)  ┣-
                              ┣任子-1238 ┣良実(二条家の祖)┗彦子(宣仁門院)
                            季行娘┃    ┣頼経(鎌倉4代将軍)
                                  ┣昇子 ┣実経(一条家の祖)
                 82後鳥羽天皇 綸子(西園寺公経娘)
                             ┃┣83土御門天皇1195-1231        
                         ┃源在子1171-1258   ┗邦仁王(後嵯峨)
                           ┣84順徳天皇1197-1242         
                  ┣雅成親王1200-1255(承久の乱で但馬へ配流)
          藤原能兼  ┏高倉重子1182-1264(修明門院)
            ┗藤原範季(高倉流祖)   

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播磨の勇・赤松氏

2009年07月27日 | 鎌倉・室町時代

 ここで登場する赤松円心は龍野城主・赤松村秀を6代遡る豪族にあたる。また、足利6第将軍義教を1441年に暗殺(嘉吉の乱)した赤松満祐(後に管領細川持之以下有力守護大名により追討が決まり、播磨・備前・美作の兵により体制を整えたが、但馬守護の山名持豊を総司令官とする幕府軍にはかなわず播磨坂本城から木山城に後退し1441年落城する。)は赤松村秀の祖父の叔父にあたる。

 播磨国はもともと平家の知行国であった。源頼朝によって鎌倉幕府が成立すると守護制度が設けられ、最初に播磨守護となったのは北条義時と懇意の梶原景時であった。 赤松氏系図に登場する赤松則景が佐用庄地頭職に補任せられ、北条義時の娘を娶った豪族である。 則景の子、間島景能・上月景盛・櫛田有景など則景の一族には景の字が多く襲名されれおり、播磨守護梶原景時との関係が伺える。しかし梶原景時は、1199年千葉常胤弾劾状によって失脚し、討たれてしまった。この事件に際し、北条義時は梶原氏擁護の立場に廻っている。 梶原景時失脚後、播磨の守護は小山朝政が任ぜられたが、執権北条義時の息のかかった佐用庄では、たとえ梶原景時と関係の深い赤松則景であっても、守護や幕府はその佐用庄地頭職を解任することはできなかった。 赤松氏の祖家範は則景の末子となり、佐用庄の一部の赤松村の地頭代官に補せられた。 鎌倉時代、播磨に地頭として、あるいは地頭の被官として下向した東国武士は、元弘の乱から南北朝期にかけての赤松円心を中心とした赤松一族の躍進によって赤松氏の被官となり、さらに婚姻などによって一族化することで播磨国の中世は、赤松氏によって大きく開かれていく。

  則祐の死後は嫡子義則が播磨・備前の守護を継ぎ、京極・一色・山名氏とならんで四職の一家に数えられるまでになった。 義則が没すると満祐が家督を継ぐ。 ときの足利将軍・義教は専制政治を行い、有力守護大名家への介入を策し、斯波氏・畠山氏・京極氏・山名氏などの家々でも義教の意のままに家督が左右され、また、一色義貫・土岐持頼ら守護も討たれ、満祐も討たれるであろうという噂に機先を制した。すなわち、嘉吉元年1441年、満祐は結城合戦平定の祝賀と称して将軍義教を自邸に招き、宴たけなわを見計らって殺害した。 嘉吉の乱である。  京から播磨に下国した満祐は城山城に拠って、細川および山名ら幕府軍を迎えうったが、各所の戦いに赤松勢は敗戦、ついに城は落城、その身は自害して果てた。 赤松宗家は滅亡、赤松氏も衰退したが、遺臣らは満祐の弟義雅の孫政則を取り立てて赤松氏再興をはかり、応仁の乱における政則の活躍で、播磨・備前・美作の守護職にまで復活した。 かつての栄光を取り戻した赤松氏であったが、播磨回復を狙う山名氏・浦上氏との抗争によって、衰退の一途をたどっていった。 義祐のとき信長に通じて浦上氏と対抗したが、浦上宗景と戦って没落、子の則房は豊臣秀吉に従って、播磨置塩一万石を安堵され、四国征伐にも従軍して豊臣大名に列したが、その子則英は関ヶ原の戦いに西軍に属し、佐和山城に籠城後京都で自殺した。 その後の赤松氏嫡流の行方は不明である。

 後醍醐天皇の新政崩壊の前兆は北条時行の反乱に始まる。北条氏が代々守護として統治していた国で北条氏譜代の家臣が多く、諏訪神社の神官でもある諏訪氏は密かに高時の遺児である時行を匿っていたのである。また、公家の中ではかつて最も幕府とつながりを持っていた西園寺の当主・公宗がこの反乱の首謀者であった。 公宗は高時の弟・泰家を匿い、全国の北条残党を一斉発起させる予定であった。 ところが公宗の反乱は弟・公重の密告により失敗するが、1335年時行は鎌倉奪回を目指して兵を挙げた。 そして時行は尊氏の弟・直義を破って朝廷軍を追撃し鎌倉攻略に成功する。 この時直義は兄・尊氏から預かっていた護良親王を暗殺している。都では鎌倉陥落により北条の残党が集結する報がもたらされた。 足利尊氏は征夷大将軍として弟・直義の取り戻すべく軍を率いる許可を後醍醐天皇に求めたが、後醍醐天皇は拒否した。阿野廉子との間にもうけた三河の成良親王を征夷大将軍にすると、足利尊氏は無許可で鎌倉に向かった。後醍醐天皇に不満を持つ武士が尊氏を支援するとは限らない。北条時行への支持武士が多ければ尊氏の前には破滅が待っていることになるが、尊氏は勝利し、後醍醐天皇は折れた。 敗走してきた義詮と三河で合流した尊氏は遠近橋本の戦いで北条時行を撃破し鎌倉を陥落させたのである。 一方京では反乱の首謀者である西園寺公宗は北条泰家とともに死罪に処せられた。この時後醍醐天皇は尊氏に京へ戻るように命令するが、弟の義詮はそれを制し結果的には鎌倉に居を定め、配下の武士に恩賞を与えることによって実質的には幕府を復活したのである。 そして足利尊氏・直義兄弟は新田義貞を討つために兵を募った。新田義貞は後醍醐天皇側の武士であり後醍醐天皇より尊氏尊氏追討の命を受けたのは1335年11月であった。この時尊氏は天皇に逆らうことはできないと参戦しなかったため、新田義貞は足利直義を破る。 直義の敗戦を聞いた尊氏は鎌倉の建長寺に入って出家しようと考えたが、直義の画策により再び発起し、新田義貞を敗走させた。 これを機に中立派の武士が続々と尊氏の新政権に加担を表明したのである。その代表が赤松円心という流通業で富を得た播磨の武士である。1335年十二月には鎌倉から京へ攻め上がり1336年1月11日には京へ突入すると、後醍醐天皇は京を捨て比叡山に避難する。しかし今度は京の市中の合戦で尊氏は新田義貞に惨敗した。楠木正成の謀略が加勢したらしい。また公家でありながら武士以上の軍事力を持つ奥州の北畠顕家が後醍醐天皇の危機を救うべく上洛してきたのである。 尊氏は敗れて丹波から播磨を経由し、ここで播磨の武士・赤松円心を寝返らせると九州で兵を募るという知恵も授かった。 そして南北朝時代に突入する決定的な作戦をも授かった。 それは持明院統の光厳上皇から京回復の院宣を貰うというものである。かくして後醍醐天皇の大覚寺統と光厳上皇の持明寺統の争いが本格的に始まる。 足利尊氏が九州で兵を募っている間、赤松円心は播磨白旗城で新田義貞軍と奮闘し、尊氏は十数万の軍を率いて京に攻め上がった。しかも伊予の河野水軍をも見方につけて瀬戸内海を進撃してきた。後醍醐天皇は楠木正成に尊氏追討を命じると弟・正季とともに兵庫・湊川の合戦が始まった。主力の新田義貞は脆くも崩れ、楠木正成軍は僅か73騎になり力尽き、兄弟で刺し違えた。孤立した後醍醐天皇が比叡山に篭っている間、尊氏は1336年五月、京の石清水八幡宮に本陣を構え、光厳上皇と豊仁親王と合流した。そして光厳上皇に豊仁親王の天皇即位を要請する。 北朝第二代光明天皇の誕生である。足利尊氏は強大な軍事力で後醍醐天皇を追い詰め、三種の神器を光明天皇に渡し、正式に譲位するかわりに後醍醐天皇の皇子が、光明の皇太子になるという和議を持ちかけ、後醍醐天皇は承諾したのである。息子の成良親王を皇太子とすると京を脱出して吉野に入った。そして「光明に渡した三種の神器は偽物であり朕こそ真の天皇である。朕に忠誠を誓う者は逆賊尊氏を討て」と言った。この日から南北朝が統一される1392年までの56年間に渡り皇室は分裂することになる。この直後1338年、後醍醐天皇は北畠顕家、新田義貞という両腕を亡くし、翌1339年に義良親王を皇太子とすると亡くなった。

村上天皇-具平親王-源師房1008-1077
          ┣顕房1037-1094-季房┳忠房-憲房-憲政-豪運-昌運-昌明-行明-行盛-行高-名和長年?-1336
          ┃         ┗季則--赤松則景-家範-重則┓
         藤原尊子1003-1087(藤原道長娘)                   ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
┗赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
  ┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
  ┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く) 
  ┣赤松則祐1314-1372 
  ┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
  ┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝 
  ┃ (摂津有馬氏祖)  ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)  
  ┃           ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
   ┃           ┗赤松時勝 
   ┃   置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
   ┃              ┗娘  ┗赤松村秀1480-1540(庶流) 
   ┗赤松氏範1330-1386      ┣  ┗赤松政秀?-1570┳政広1562-1600竹田城主 
    ┣氏春      (置塩城主)赤松義村?-1521   ┏娘┛
    ┣家則           ┣赤松晴政 1513-1565
    ┣祐春           ┃ ┗赤松義祐1537-1576 信長に通じる
    ┣季則           ┃   ┗赤松則房?-1598 秀吉に仕える
   ┗乙若丸          ┗政元1500-上月城主 ┗則英?-1600 関ヶ原では西軍・自害(赤松氏嫡流は途絶える)

上杉清子  
┣足利直義1306-1352    ⇔  新田義貞1301-1338  
┗足利尊氏1305-1358    ⇔  後醍醐天皇1288-1339
  ┃┣義詮1330-1367                     ┃┃      ┏憲忠1433-1455
 ┃┃┃藤原慶子                       ┃┃関東管領上杉氏 ↑      
 ┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷  ┃┃       享徳の乱1455-
 ┃┃┃┃ ┣義量1407-1425              ┃┃     ↑  ↓
 ┃┃┃┃栄子 武者小路隆光         ┃┃三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
 ┃┃┃┃   ┣━━━━ 娘         ┃┃関東公方足利持氏   
 ┃┃┃┃   ┗円満院  ┣細川澄之     ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┣潤童子 九条政基      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃  大内義興娘      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃斯波氏┣義栄ヨシヒテ1538-1568┃┃(三好氏で養育)   
 ┃┃┃┃    ┃┣義維1509-1573      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃日野永俊娘          ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┣義晴1511-1550      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義輝1536-1565    ┃┃⇔ 松永久秀(1565永禄の変)   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義昭1537-1597(覚慶)┃┃  (三好三人衆:義栄派)  
 ┃┃┃┃    ┃┃┃近衛娘          ┃┃  伊勢貞親1417-1473 
 ┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸   ┃┃⇔┏北条早雲1432-1519伊勢氏   
 ┃┃┃┃  ┣政知1435-1491関東堀越公方  ┃┃ ┗北川殿  
 ┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐  ┃┃  ┣竜王丸(氏親)⇔┏小鹿範満 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃      1381-1441   ┃┃  今川義忠1436-1476駿河守護 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃   
 ┃┃┃┃ ? ┣-  ┣義勝1434-1443        ┃┃満元┓   
 ┃┃┃┃ ┣宗子  ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 ┃┃管領細川持之1400-1442     
 ┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児         ┃┃ ┗細川勝元1430-1473 
 ┃┃┃┃ ┣義資  ┃┃今参局-1459      ┃┃   ┃┗政元1486-1507(明応政変)
 ┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489       ┃┃   ┣-    ┣澄之(養子)
 ┃┃┃┃ ┃  ┣┃日野富子1440-1496    ┃┃ ┏春林寺殿 ┗澄元(養子) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┃┃ ┣豊久(細川養子→出家) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┃┃┗娘義尚夫人         ┃┃山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┣義視1439-1491(義尋)   ┃┃   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┃┣義材1466-1523⇔政元  ┃┃満家(山城守護)┓   
 ┃┃┃┃ ┃  ┗┃日野美子 妙音院       ┃┃管領畠山持国1398-1455   
 ┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局          ┃┃畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護   
 ┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413         ┃┃ ┗政長(勝元保護)┗畠山基家 
 ┃┃┃┃春日局                ┃┃           ┗義英
 ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418                 ┃┃   
 ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)              ┃┃  
 ┃┃┃┃┃ 日野康子   ┏━━━━━━━━━┛┃ 
 ┃┃┃┃┃ ┣-      ┃┏━━━━━━━━━┛ 
 ┃┃┣義満1358-1408   ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)  
 ┃┃┃   ┣女子    ┃┃
 ┃┃┣満詮 日野業子   ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368  
 ┃┃紀良子        ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
 ┃┃藤原仲子(崇賢門院) ┃┃┃                
 ┃┣基氏1340-1367    ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
 ┃赤橋登子        ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
 ┣直冬1327-1400      ┃阿野廉子1301-1359             
 越前局           ┣護良親王1308-1335 
                    ┣懐良親王1329-1383 
            源師親娘

 

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備中松山城下の武家屋敷・旧埴原家

2009年07月27日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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蒜山・レベンダー・ドリーム

2009年07月27日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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蒜山・ハーブ園

2009年07月26日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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備中松山城主・池田長幸

2009年07月26日 | 戦国時代

 池田長幸は、鳥取藩の第2代藩主で備中松山藩の初代藩主である。 父は池田輝政の弟で、鳥取藩の初代藩主・池田長吉。 正室は森忠政の娘・松子、継室は森忠政の娘・宮子。1614年に父の死去により後を継ぎ、1617年に6万5,000石で、鳥取から備中松山へ移封され城主となった。 備中松山城は現存する天守閣を持つ12城のひとつで唯一の山城である。 麓の高梁城下町でそばを食べながら散策をしたあと登頂しようと思っていたのですが生憎豪雨という天候のために登頂は断念。 本丸最寄の駐車場から約30分の徒歩なのですが快晴であっても険しい道のりらしく、真夏ではなく初秋の季節がよさそうです。

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃   ┣-督姫(家康次女)
 ┃┃┏━━娘 ┣池田忠雄1602-1632
 ┃┃┃    ┣池田忠継1599-1615 榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃    ┣池田輝澄1604-1662   ┗榊原政房1641-1667(姫路藩2代)
 ┃┃┣━池田輝政1565-1613(姫路城主)   ┣榊原政倫1665-1683(姫路藩3代)
 ┃┃┃    ┣池田利隆1584-1616  ┏富幾 ┣榊原政邦1675-1726
 ┃┃┃中川清秀娘・糸姫┣池田光政1609-1682 鍋島娘┗榊原政祐1705-1732(養子)
 ┃┃┃        ┣池田恒元1611-1671     ┗榊原政岑1713-1743(養子)   
 ┃┃┃     柳原康政娘・鶴姫(徳川秀忠養女)
 ┃┃┣━池田長吉1570-1614
 ┃┃┃  ┣池田長幸1587-1632(備中松山初代城主)
 ┃┃┃ 伊木忠次娘  ┣長常,長信
 ┃┃┃      松子,宮子(森忠政娘)
 ┃┃┣━池田元助1559
 ┃┃┃ 片桐半右衛門娘
 ┃┃┃  ┣-
 ┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
 ┃┃┃  ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
 ┃┃┃加藤嘉明娘┣長重 
 ┃┃┃     ┣長久1645-1697
 ┃┃┃     妾 ┣長喬1676-1723
 ┃┃┃      香昌院 ┣長處1696-1754
 ┃┃┃         峯松院 ┣長仍1725-1796
 ┃┃┃             妾 ┗長玄1741-1814
 ┃┃┃                 ┗-
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━┓              ↓
        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
        ┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)   
        ┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)  
        ┃ ┃┃富田氏      ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
        ┃ ┃久保三右衛門娘  津川氏   
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前) 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636 
1510-1551    ┃  ┣登久姫                  毛利輝元娘
    ┃          ┃  ┣熊姫 ┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
   ┃          ┃徳川信康 ┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
   ┃          ┃     ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
  ┗織 田 信 長1534-1582

 

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サンバ・コステロレッド+キジ

2009年07月26日 | メッセ 台北 Dora Lora Yoyo Yuna Tina 妙

衣装:コステロレッド+キジ

 

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大山フィールドアスレチック森の国

2009年07月25日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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名和神社境内

2009年07月25日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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後醍醐天皇と名和長年

2009年07月25日 | 鎌倉・室町時代

 名和氏の先祖は村上天皇の第七子具平親王であるから赤松氏と系統が同じである。そこから9代目の僧侶・常陸房昌明という人物が源義経の伯父である行家を捕まえて恩賞として鎌倉幕府から但馬の多田荘と葉室荘を与えられ、承久の変でも鎌倉幕府の側に付き但馬の守護職と多数の荘園を与えられた。 そしてその子の行明にも伯耆の長田が与えられたという。 山奥の長田から海岸近くの名和に館を移し姓を『名和』と名乗り、海運業、漁業などで財力のある豪族となっていった。

村上天皇-具平親王-源師房1008-1077
          ┣顕房1037-1094-季房┳忠房-憲房-憲政-豪運-昌運-昌明-行明-行盛-行高-名和長年?-1336
          ┃         ┗季則--赤松則景-家範-重則→
         藤原尊子1003-1087(藤原道長娘)
→赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
  ┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
  ┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く) 
  ┣赤松則祐1314-1372 
  ┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
  ┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝 
  ┃ (摂津有馬氏祖)  ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)  
  ┃           ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
   ┃           ┗赤松時勝 
   ┃   置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
   ┃              ┗娘 
   ┗赤松氏範          ┣
    ┣氏春          赤松義村?-1521(置塩城主)
    ┣家則           ┣赤松晴政1513-1565
    ┣祐春           ┗赤松政元1500-?(上月城主)
    ┣季則
   ┗乙若丸

  鎌倉倒幕に失敗し(元弘の変)、隠岐に流された後醍醐天皇は幕府討伐を諦めず密かに山陰の武士達への協力を求めた。 1333年になると播磨の赤松円心など西国の武士が幕府に反旗を翻し、吉野山では天皇の息子・護良親王が奮戦しており、、後醍醐天皇は隠岐を脱出しようとする。 天皇の警護をしていた佐々木義綱を味方にし出雲の豪族である塩谷高貞に協力するように伝えたが、高貞は態度を明らかにしなかった。 1633年2月24日、後醍醐天皇は一緒に流されていた千種忠顕らとともに隠岐を脱出した。 途中で追手の船に追いつかれたが、なんとか船頭の機転により追手の船から難を逃れることができた。 後醍醐天皇らは最初出雲の杵築浦を目指したが西風に流されて伯耆国の名和湊に漂着したという。  千種忠顕が先に上陸し道行く人に武勇で知られた名和長年という財力・思慮に富んだ人物のことを聞くと、忠顕は名和氏の館に行き、その武勇に頼った。 酒宴の最中だった名和一族のなかでも長年の弟である長重が進み出て「名を後の世に残すのは名誉なことである」として、名和一族は天皇を奉じて挙兵することを決意したのである。 琴浦町にある船上山の要害に立て籠もることを決めた長重は天皇を背負って船上山に向かった。 一方長年は兵糧5千石を用意したという。 立て篭もった150騎の名和軍は逆木を打って守りを固め、1333年2月隠岐守護の佐々木清高が率いる2000ほどの幕府軍を船上山で迎えた。 幕府軍の指揮官・佐々木昌綱が流れ矢により右眼を負傷し戦死すると、昌綱の部下500は戦意を失い、また別の指揮官・佐々木定宗は800騎を率いて搦手で戦っていたが、降伏してしまったという。 佐々木清高は攻め立てていたが、今が好機と見た名和長年は射手を率いて攻撃に転じ、幕府軍を討ったのである。 この勝利によって後醍醐天皇は上洛のために諸国の武士に綸旨を発して兵を集めると、西国中の兵士が船上山の周囲2~30里に集まり人馬の波で埋まったという。 これらの功により名和長年は伯耆守に任ぜられた。 当時、長年は『長高』と名乗っていたが後醍醐天皇の進言により長年と改名した。 京都に上洛した長年は従四位下に叙せられ京都の東の市場を管轄する東市正に任ぜられた。 また息子の義高も正五位下左衛門少尉に叙せられ天皇の親衛隊である検非違使に任ぜられた。 京都の人々は栄進し権勢を振るった名和伯耆守長年・楠木正成・結城親光・千種忠顕を『三木一草』と呼んで噂したという。  政権を獲った後醍醐天皇だったが、その政治は公正なものとはいえず、戦功のないものに領地が与えられたり、戦功のあった赤松円心には恩賞が少ないなど公家に厚く武家に薄い恩賞に武士達の不満は募っていった。 1335年6月、西園寺公宗の天皇暗殺計画が発覚する。 西園寺公宗は北条氏と親しかった為、建武の親政では没落していたが、その一族を盛り立てて再び世に出ようと、北条氏の残党と組んだのであった。西園寺公宗は名和長年らに捕らえられた後、処刑されたため計画は未然に防がれた。 1335年、鎌倉で最後の執権北条高時の息子・時行が兵を挙げて足利直義を一蹴して鎌倉を占領した。 これを源氏再興の機会だと見た足利尊氏は勅許を待たずに鎌倉に向かって出発すると直義と合流し3万騎の兵で北条軍を破り鎌倉に入り居座った。 そんな尊氏に対して後醍醐天皇は新田義貞を討伐軍として鎌倉に向かわせた。 足利軍と新田軍は三河の矢作川で激突し新田軍は勝利を得たが、再び結集した足利軍の逆襲を受け敗北する。  1336年1月、西進する足利軍を止めるため、名和長年らは近江の勢多に陣を構えて迎え撃ったが脇屋義助の守る山崎が敗れたため、足利軍は京都に入り、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。 長年は足利軍を破らずに天皇のもとに帰る訳にはいかないとして京都に入ったが、名和軍の旗印を見た西国の兵士達は一斉に襲い掛かってきた。しかしこれを17度まで破り100騎あまりになりながら内裏に行き、伏し拝んでから天皇のもとに向かったという。  その頃、奥州の北畠顕家が尊氏を討つため大軍を率いて西進しており、1月27日に京都を取り返すために名和長年や楠木正成らとともに攻撃をしかけた。 尊氏の援護がなかった足利軍は大敗し九州へと落ち延びた。 いったん九州に落ちた足利尊氏は兵を集め、またたく間に九州を平定して再び上洛を開始した。 1336年5月25日には上陸を阻止しようとした新田義貞・楠木正成と足利軍が湊川で激突したが、官軍は敗北してしまう。 後醍醐天皇は再び比叡山に移動し、1336年6月14日足利尊氏は光厳天皇を擁して上洛を果たした。 劣勢となった後醍醐天皇方は名和長年と新田義貞で京都に攻め込み奪回する計画を立てる。 楠木正成は湊川の戦いで、千種忠顕は雲母坂で討ち死し、結城親光は降伏を装って大友定載に斬り付けた後に戦死するなかで、生き残った名和長年は6月30日、出陣するが、敵に取り囲まれて孤立し得意の弓で奮戦し数百騎の敵を撃ち落とすも最後は三条猪熊のあたりで九州の松浦党の草野将監秀永に討ち取られた。

大山町名和・長網寺にある名和長年の墓所

長年が父・行高の還暦を祝って建てた隠居所を寺にしたのが長網寺

 

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