墓碑によって当時の人物を偲び、紅葉を堪能し、如来像にふれ、そして心に沁みる風景のひとこまにシャッターを切る。 そんなことを考えるといつまでいても飽きない場所が京都には数知れずあるが、その一つが二尊院であり、紅葉はまだ先であるというのに、五木寛之の百寺巡礼を読んで今頃から思いをめぐらせている。
京都の西の観光中心地に嵐山・嵯峨野がある。周辺には天竜寺をはじめ多くの名刹があり、人力車による観光案内も盛んである。 嵐山・小倉山・愛宕山と連なる山々に囲まれた嵯峨野は源氏物語や平家物語の舞台にもなり、藤原定家が選んだ小倉百人一首の小倉も、ここ嵯峨野にある。 昼にもかかわらず暗き山は「小暗い」から小倉となったという。 百人一首に選ばれた藤原忠平は紅葉の小倉山を表現したことから、紅葉の名所となったのである。 また、嵯峨野には小倉ぜんぜいを名物として出している茶屋が多い。 昔、この一帯では小豆や大納言を栽培しており、小倉あんと呼ばれるようになった説もある。 この嵯峨野・小倉山の麓に「小倉山」をそのまま山号にしているお寺・二尊院は創建から約1200年の歴史を持つ古刹である。 境内への参道は「紅葉の馬場」として知られ風情がある。 石段を上がると豪華な唐門があり、目の前には本堂がそびえ、内陣の須弥壇には二体の如来が安置されている。 釈迦如来像と阿弥陀如来像である。 この二体が対等に並んでおり、二尊を本尊としていることから二尊院という。 二体は非常に似ていて一見区別がつかない。 違いは印相にあり、釈迦如来は「施無畏印」といって左手は下げ、右手は掌を正面に向けている。 恐れをなくすように施す、という意味がある。 阿弥陀如来は左手を上げ、右手を下げ、親指と人差し指で輪を作っている。 これを来迎印といって衆生を西方浄土へ迎えるという意味がある。 釈迦如来は「この世の人々を優しく送り出す仏」、阿弥陀如来は「送り出された人々を迎える仏」 であり、二尊院には送迎の仏が並んで立っているのである。
創建は9世紀初めで嵯峨上皇の勅願により慈覚大師円仁が開いた。当初は二尊院と華台寺の二つの寺が存在していたが、荒廃後、法然(摂政・関白に登り詰めた九条兼実が失脚すると、讃岐に配流となる)が鎌倉初期に九条兼実の助力を得て再興した。九条兼実をはじめ、多くの貴族が帰依し、法然の高弟である湛空が堂宇を増築するなどして中興の祖となった。 湛空は土御門天皇と後嵯峨天皇から帰依を受け、次の時代の叡空は後深草・亀山・後宇多・後嵯峨天皇から帰依を受けた。 応仁の乱で焼失すると荒廃するが、16世紀に三条西実隆・公条親子の助力で、恵教が再興した。 豊臣秀吉や徳川家康も寺領を与え、須弥壇に納められた厨子の扉にある菊の紋章は皇室との関係を物語っているという。 こうして二尊院は鷹司家・二条家・三条家・三条西家・四条家・嵯峨家をはじめ角倉了以一族の菩提寺になっている。
本堂横の鐘楼からは小倉山への石段が続いていて、先には時雨亭という庵跡があり、藤原定家が小倉百人一首を選んだ場所だという。 鎌倉時代を代表する歌人・定家は新古今和歌集の選者としても知られ、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとして失敗した承久の乱の前年に後鳥羽上皇の怒りに触れ蟄居謹慎中の身となり、宮廷からは疎外されていた。 承久の乱を否定する立場で書かれている名月記という日記も有名である。 老年に激動期を向かえ、小倉百人一首を選んだのは74歳の頃といわれているが、そもそも選者であるという確証はないそうである。