行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

人斬列伝

2009-03-08 21:00:28 | Weblog
 幕末、狂騒した時代背景の中には、平穏な時代と全く異なった人種が出現した。

 平素、日本人は平穏な人種で、他の文化と融合できる柔軟な思考回路を有している。例えば宗教に対する寛容力は、ヨーロッパや中東に比べ緩やかな物が多い。

 極限の精神状態が時代背景ならば、平素では見られない特異な人物が数多く出て来る。幕末維新史は、政治、文化、経済と劇的な変革を遂げたが、表舞台には出てこない陰惨な暗殺史でもあった。

 「人斬り」の異名を持つ人物は多くいるようだが、勤王・倒幕派中心に展開しようと思う。薩摩藩の田中新兵衛、中村半次郎、土佐藩の岡田以蔵、肥後藩の河上彦斎は、幕末の四大人斬として大いに怖れられた。中村半次郎が薩摩示現流であったこと以外、他の3人は流派を修めておらず、我流で剣術を磨いたようである。彼らに共通するのはいずれも下層出身で、剣の腕だけでのし上がった。

 安政の大獄・・・、黒船来航以来、佐幕か開国かで大いに揺れていた日本を大老・井伊直弼が強引なほどの辣腕を振るい、朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結。もっとも、朝廷は列強各国を毛嫌いしており、勅許など下りようはずが無かった。1854年の日米和親条約時と異なり、攘夷を掲げる藩は井伊大老の頃には激減、1858年の日米修好通商条約時には消極的開国も含め和親条約時32藩から40藩に、攘夷は34藩から7藩に変わっていた。当時の幕臣の多くは、列強と戦っても勝ち目が薄い事、最悪の場合、日本が列強によって分割される事まで予期していた。特に1840年に始まったアヘン戦争の結果は大きな教訓となっていた。この事も有り、開国は止む無しという風潮であったが、やり方が強引過ぎた。しかもその後、条約締結に反対した人物を弾圧する手段に訴えた。徳川斉昭、徳川慶篤、徳川慶喜、松平慶永、山内豊信ら大名クラスの人物を隠居、蟄居に処分し、親藩であっても容赦しなかった。そして、橋本左内、吉田松陰、梅田雲浜、頼三樹三郎らを死罪に処した。対象は幕臣、公卿にも及び、一時的に幕府が強権を発動し、不穏な空気を封じ込めたかに見えた。特に水戸藩は藩主の永蟄居をはじめ大打撃を受け、井伊大老への憎しみは爆発寸前だった。1860年3月3日、水戸藩士を中心とした十数名は江戸城登城中の井伊直弼を雪の降る中暗殺。桜田門外の変である。白昼に幕府の大老が十数名に討取られるという失態に、幕府の権威は失墜した。

 一連の安政の大獄で、井伊の配下として志士狩りを行った長野主膳、ましらの文吉、九条家の家令・島田左近は桜田門外の変後も生きていたが、倒幕志士らにとって憎悪の対象だった。薩摩の田中新兵衛と土佐の岡田以蔵が競って彼らをを惨殺し、遺体を河原に晒した。また、越後浪人、本間精一郎は倒幕派の勢力の切り崩しを行っていたため、暗殺標的にされた。現在も、先斗町から木屋町付近高瀬川沿いに「本間精一郎 遭難の地」という碑を目にする。田中と岡田が挟み撃ちで討取った。いずれも陰惨な殺害方法であったという。武士としての教養が無く、背後からでも平気で斬り付ける処に、彼らの限界を感じる。彼らの最期を見れば、どのような生き方をしたのかを考える事ができる。同じように人を斬った、例えば新撰組の永倉新八は、松前藩士であり、斎藤一は江戸の御家人出身で、いずれも武士の素養を持ち合わせ、凄惨な戦場を潜り抜けながら、陰惨な討ち方をせず、大正時代まで生き、天寿を全うした。

 田中新兵衛は攘夷派公卿・姉小路公知暗殺の容疑が掛かり、現場に落ちていたという、新兵衛の刀を見せられ、僅かの隙に脇差で切腹して果てた。姉小路は身体の各所を斬られ、自分の屋敷まで戻り「無念!」と叫んで絶命したが、新兵衛ほどの腕であれば、一太刀で致命傷を負わすだろうし、まして現場に刀を落とすなどという事は間違ってもやらない。結局真相は闇に葬られてしまう。

 岡田以蔵は土佐藩の最下層出身であり、肖像画さえ残らず、どのような形相だったのか判別しない。土佐勤王党主・武市瑞山の懐刀として暗殺を実行、暗殺の度に土佐藩勤王党の勢力は大きくなった。しかし、時代の流れが再び公武合体に傾くと、長州藩とともに京を没落し、勤王党へは弾圧の嵐が吹き荒れる。土佐藩は他藩と事情が異なり、長州藩のように藩論が統一されておらず、藩祖・山内一豊とともに移ってきた支配層が上士、長宗我部の旧臣は藩政に参加できない郷士とされ、差別を受けていた。この層の出身が勤王党である。そのため、前藩主と勤王党は全く異なる存在であった。岡田以蔵は、勤王党が土佐で捕縛された後も暫く京に潜伏していたが土佐藩士に捕縛され土佐に送り返される。最期は武士としてではなく、切腹も許されない無宿人として斬罪に処された。

 中村半次郎は後の桐野利秋である。西郷隆盛に師事し、大いに愛され維新後も高官に昇るが、西南戦争で西郷と共に散る。「人斬り半次郎」と呼ばれていたが、暗殺については記述が少なく、明治政府が、新政府の高官がかつて暗殺を担っていたという事実を意図的に消したのか、それとも名前だけが先行していたのかハッキリしない。

 河上彦斎も同様に暗殺者の記録が少ない。実際には殆ど斬っていないという意見もある。「人斬り彦斎」の名前が有名になったのは、佐久間象山暗殺以降である。彦斎は象山暗殺以降、人を斬る事は二度と無かった。国学者林桜園の門下であった彦斎は根っからの国粋主義者で、本気で攘夷を掲げ続けた人物であった。倒幕後、薩摩・長州が攘夷思想を捨てた開国が許せなかった。しかし、彦斎が反政府勢力を結束できる器量は無く、新政府に対する不平不満だけは鬱積していった。どこかで処分しないと都合が悪い、と考えたのか、明治政府はさしたる罪状も不明のまま1871年、東京で死刑に処した。

 古今東西、暗殺者の最期はまっとうな人生を送れていない。因果応報というのか、血塗られた人物は血塗られて終わる。