ネタバレ注意。
別に読む気はなかった(山形市立図書館で死ぬほど本借りてきたし)のですが、妹が千円で読書感想文を書けと懇願してきたので請け負ってしまったのでした。まあ好きな作家だしいいかなあと。
ええと、聡明な娘と夢見がちな母という設定はなんかベタだけど、やはりうまい作家なので非常にいとおしく思えます。前半は多少冗長ながら、後半は胸がつまるようでした。
あとはやはり、この不条理なハッピーエンドね。角田光代でもなんかそんなのあったなあ。興味深い。
で、せっかく書いたので以下に感想文を引用。
「羅針盤とラーフラ」
この小説は、とても静かだ。静かにただよう「神様のボート」、二人乗り。その儚げな旅は、自由と不自由の狭間にあって、その不明瞭な境界線に気づかせてくれる。
この小説は、とても静かだ。「骨ごと溶けるような恋」は、既に終わってしまっている。主人公である二人の女は、「神様のボート」…その燃え残ってしまった棺に乗って、二人きりの旅をしている。二人は親子だ。母親はロマンティストで、娘は聡明である。《――ママはもう少しリアリストになった方がいいと思うな》。どこまでも愚直な葉子は、時に病的に草子を庇護する。母親にとって、娘は追い続けるべき恋の…神様のボートの唯一の羅針盤のような存在であろうから。恋は時に、その関係を歪なものにする。だが聡明な娘が母親に向ける視線は、冷静で時にシニカルでさえあるが、同時にとても暖かだ。《あたしは缶コーヒーは絶対のまないことにしている。「殺人的な量の砂糖」が入っているから》。ボートを進ませていたのは、そんな母親の言葉を無根拠に信頼する娘の姿が象徴する、胸に染み入るように温かい二人の愛だったはずだ。だがやがて、旅は終わってしまう。それを終わらせたのもまた、愛、だったのだろう。
仏教の開祖は、子供の誕生を宗教的追求の妨げになるとして、子供に「障害」なんて名前をつけた。聖人でさえそうだし、もはや現在道徳的価値判断の対象にすらならない「できちゃった結婚」なんて言葉も象徴している。子供とは「責任」なのだと。子供ができたら責任を取らなければならない。ちゃんと籍を入れて、ちゃんと仕事をして、落ち着いた、普通の「家庭」を作らなければならない。恋愛の絶対自由を標榜する葉子にあって、だがそのような既成観念は反転している。草子は羅針盤だ。「神様」との唯一のよすが。自由の海に漕ぎ出したボートは、それがなくては進まないのだから。
二人は自由だった。だがその自由は、外から縛られているし、同時に内部を縛ってもいる。桃井先生と、やがて草子。愛によって縛られ、愛によって縛る。愛を目指し、愛に満ちたボート。《――ごめんなさい。(中略)ママの世界にずっと住んでいられなくて》。愛は両義的だし、自由もそうだ。相手を束縛したいと思うのも、自由にさせてあげたいと願うのも。そして自由を追い求めようとすること自体が、既に「自由」という鎖で自分を縛っているとも言える。そしてそこから抜け出したいと願うのも、それを認めるのも、愛と自由の名の下に行われる。このいとおしい物語の後半部分は、そんな両面価値を行き来しながら、その息苦しい葛藤を、だがとても静かに描き出している。《自由と不自由はよく似ていて、ときどき私には区別がつかなくなる。/草子はいま、不自由だろうか》。しかしそんな中にあって、互いを思いやる気持ちだけはどこまでもまっすぐだ。両義性を自覚した上で、ただ相手を思いやろうとしている。
だから、なのだろうと思う。「神様」に会うために、自由であると確信していたボートは、だがその言葉の両義性そのままに不安定な存在だった。そのボートを前に進ませるための羅針盤は、やがて自分の自由と目的地を見つけていた。自由という耳にさわりのいい言葉が、いとも容易く不自由に反転し得、またその内に不自由を抱え込むものであるということ。そのことを自覚して、ただ相手を思いやることによって、愛と、それによってなされる自由はまっすぐなものになる。ボートははじめて、まっすぐ進む。それが傍目には、かつての歩みよりも儚げで、迷走しているもののように見えたとしても。
だから、なのだろうと思う。江國香織の小説には、たびたびそれが不条理にさえ感じられるようなハッピーエンドが登場する。破綻しかけた神様のボートが、だがしっかりと目的地に辿り着く、この小説の結末は、作者がそのような彼女たちの「思い」にどこまでも自覚的であったからだろう。それは決して、不条理ではないのである。
「パパ」の姿は物語の中で判然とはせず、「神様」としての表象がそこでは行われているようにも思われる。その神様との邂逅を、真のハッピーエンドにできるかどうかは、この先の彼女たちの「思い」に掛かっていよう。ただ今は、もう一人の「神様」…ボートに乗せて彼女たちを翻弄した、優しくて残酷な作者からのプレゼントの、ハッピーエンドの余韻に浸りたいと、そう思って私は本を閉じた。
まあ…支離滅裂ですが千円やったらこんなもんだろう、と。
女子高生的な文章、思考をトレースしようかとか考えたのですが面倒くさくなってだらだらと書いてしまったのでした。
作品の評価はBマイナス。
別に読む気はなかった(山形市立図書館で死ぬほど本借りてきたし)のですが、妹が千円で読書感想文を書けと懇願してきたので請け負ってしまったのでした。まあ好きな作家だしいいかなあと。
ええと、聡明な娘と夢見がちな母という設定はなんかベタだけど、やはりうまい作家なので非常にいとおしく思えます。前半は多少冗長ながら、後半は胸がつまるようでした。
あとはやはり、この不条理なハッピーエンドね。角田光代でもなんかそんなのあったなあ。興味深い。
で、せっかく書いたので以下に感想文を引用。
「羅針盤とラーフラ」
この小説は、とても静かだ。静かにただよう「神様のボート」、二人乗り。その儚げな旅は、自由と不自由の狭間にあって、その不明瞭な境界線に気づかせてくれる。
この小説は、とても静かだ。「骨ごと溶けるような恋」は、既に終わってしまっている。主人公である二人の女は、「神様のボート」…その燃え残ってしまった棺に乗って、二人きりの旅をしている。二人は親子だ。母親はロマンティストで、娘は聡明である。《――ママはもう少しリアリストになった方がいいと思うな》。どこまでも愚直な葉子は、時に病的に草子を庇護する。母親にとって、娘は追い続けるべき恋の…神様のボートの唯一の羅針盤のような存在であろうから。恋は時に、その関係を歪なものにする。だが聡明な娘が母親に向ける視線は、冷静で時にシニカルでさえあるが、同時にとても暖かだ。《あたしは缶コーヒーは絶対のまないことにしている。「殺人的な量の砂糖」が入っているから》。ボートを進ませていたのは、そんな母親の言葉を無根拠に信頼する娘の姿が象徴する、胸に染み入るように温かい二人の愛だったはずだ。だがやがて、旅は終わってしまう。それを終わらせたのもまた、愛、だったのだろう。
仏教の開祖は、子供の誕生を宗教的追求の妨げになるとして、子供に「障害」なんて名前をつけた。聖人でさえそうだし、もはや現在道徳的価値判断の対象にすらならない「できちゃった結婚」なんて言葉も象徴している。子供とは「責任」なのだと。子供ができたら責任を取らなければならない。ちゃんと籍を入れて、ちゃんと仕事をして、落ち着いた、普通の「家庭」を作らなければならない。恋愛の絶対自由を標榜する葉子にあって、だがそのような既成観念は反転している。草子は羅針盤だ。「神様」との唯一のよすが。自由の海に漕ぎ出したボートは、それがなくては進まないのだから。
二人は自由だった。だがその自由は、外から縛られているし、同時に内部を縛ってもいる。桃井先生と、やがて草子。愛によって縛られ、愛によって縛る。愛を目指し、愛に満ちたボート。《――ごめんなさい。(中略)ママの世界にずっと住んでいられなくて》。愛は両義的だし、自由もそうだ。相手を束縛したいと思うのも、自由にさせてあげたいと願うのも。そして自由を追い求めようとすること自体が、既に「自由」という鎖で自分を縛っているとも言える。そしてそこから抜け出したいと願うのも、それを認めるのも、愛と自由の名の下に行われる。このいとおしい物語の後半部分は、そんな両面価値を行き来しながら、その息苦しい葛藤を、だがとても静かに描き出している。《自由と不自由はよく似ていて、ときどき私には区別がつかなくなる。/草子はいま、不自由だろうか》。しかしそんな中にあって、互いを思いやる気持ちだけはどこまでもまっすぐだ。両義性を自覚した上で、ただ相手を思いやろうとしている。
だから、なのだろうと思う。「神様」に会うために、自由であると確信していたボートは、だがその言葉の両義性そのままに不安定な存在だった。そのボートを前に進ませるための羅針盤は、やがて自分の自由と目的地を見つけていた。自由という耳にさわりのいい言葉が、いとも容易く不自由に反転し得、またその内に不自由を抱え込むものであるということ。そのことを自覚して、ただ相手を思いやることによって、愛と、それによってなされる自由はまっすぐなものになる。ボートははじめて、まっすぐ進む。それが傍目には、かつての歩みよりも儚げで、迷走しているもののように見えたとしても。
だから、なのだろうと思う。江國香織の小説には、たびたびそれが不条理にさえ感じられるようなハッピーエンドが登場する。破綻しかけた神様のボートが、だがしっかりと目的地に辿り着く、この小説の結末は、作者がそのような彼女たちの「思い」にどこまでも自覚的であったからだろう。それは決して、不条理ではないのである。
「パパ」の姿は物語の中で判然とはせず、「神様」としての表象がそこでは行われているようにも思われる。その神様との邂逅を、真のハッピーエンドにできるかどうかは、この先の彼女たちの「思い」に掛かっていよう。ただ今は、もう一人の「神様」…ボートに乗せて彼女たちを翻弄した、優しくて残酷な作者からのプレゼントの、ハッピーエンドの余韻に浸りたいと、そう思って私は本を閉じた。
まあ…支離滅裂ですが千円やったらこんなもんだろう、と。
女子高生的な文章、思考をトレースしようかとか考えたのですが面倒くさくなってだらだらと書いてしまったのでした。
作品の評価はBマイナス。
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私は本を読んで本の世界に浸ってみるのがすきなんだけど感想文は小学校の頃から不得意です。
だから感想文読ませてもらっておもわずFABULOUS!!です。
では突然でしたがお邪魔しました(*_*)
お褒めの言葉恐縮です…なんか「想像上の」とかそっちの意味の方が、書いた本人の実感としてしっくりきますが(笑)。
妹が先生から叱責されないかと思いながら…知ったこっちゃないですけどね。