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「日の丸・君が代」問題のすべて。

2006-09-29 00:07:43 | 国内教育
 基調報告

 一部の教職員による器物損壊(日の丸を引き下ろす、君が代を流すコンセントを引っこ抜く等)は違法ですが、違法性阻却事由がありますので、事実関係を見なければ判断できません。

 なお、学習指導要領には法的拘束力はなく、日の丸、君が代についても各学校の裁量権に属することだと僕は考えておりますので、どのような手続きで各学校に日の丸・君が代が導入されているかが争点だと思います。適正な手続きを踏んだ上での導入か、少数意見を排除し強行採決、職務命令で教員を押さえつけて導入したか、です。

 一部の教職員による器物損壊(日の丸を引き下ろす、君が代を流すコンセントを引っこ抜く等)に至る背景と経過の事実関係を認定しなければ、軽々に教員を否定的に認識することはできません。

 基本認識は、日の丸・君が代を学校に導入する方が違法だからだからであり、現行憲法にふさわしい国歌・国旗を定めればよいのであり、卒業式・入学式に日の丸・君が代を導入するなど子供たちの自主性に基づく式典であれば、およそ採用されえない国歌・国旗だからであり、学校教育の自主性に逆行する存在の象徴であるのが「日の丸・君が代」です。何故、教育行政が学校の卒業式・入学式のやり方に首を突っ込み、介入してくるのでしょうか。

 教職員・保護者が主権者であり、地域住民・学者は統治者として無能ではありません。教育行政が教育現場に介入してくるのは主権者である住民と国民を衆愚扱いするものではないでしょうか。


 質疑応答

 質問

 「都教委に処分された教師は不起立だけに止まらない連中が多いんですよ。処分者の一人、増田郁子のブログを見ていただき感想をお聞きしたいですね」

 回答

 増田郁子さんの記事をいくつか読んでみました。この先生のやり方では、

 「それならば、私も皇国日本の魂の下に日本国民が和を乱さずに規律・整然と人生をまっとうし、勤労していく中で、皇国日本の国家権力、国民精神、国土防衛のために命を賭けて戦争することの人間道徳論を子供らに態度と行動で示しながら、増田教員の所属する学校で彼女の横で毎日、教育活動させてもらう」となるのはよく分かります。

 こういう喧嘩を子供を巻き込み、教育活動そっちのけで行われる政治活動と批判されるのでしょうね。僕も批判したいと考えます。

 つまり、いわゆる左か右か、どっちなんだ教育ですね。どっちにも属さない奴は人間ではない、ということですね。もっと言えば、アメリカとソ連・中国、どっちの国家権力に従うのか、ということですね。

 それを決めるのは子供らであって、強制していけません。ちなみに、僕はどっちにも従いません。日本国の憲法に従います。

 学校教育に限りませんが社会規範として、子供らが判断できるように、いわゆる左の意見も右の意見も両論併記で子供らの前に堂々と提示しなければなりません。隠すこともいけません。

 子供と大人がどちらか一方を選択したからという世界観・宗教観の違いを理由とする排除・無視・差別は人格を形成する精神的自由権を否定、圧迫する行為で卑劣かつ違法だと言えます。

 ゆえに、「国歌・国旗」を敬愛するしないかで、教員を処分したり、白眼視する行為は卑劣かつ違法となります。

 いわゆる左であれ右であれ世界観、思想、特定の国家体制を国家権力を手段に他人に強要、強制することはできません。

 これを実行すると左か右の独裁国家となります。だから、「人権は国家に優先するって考え方」が普遍性と合法性を持っているのですね。
 
 質問

 「増田ブログ、見ていただき有難うございます。私は何も帝国憲法全面支持ではありません。あなたは決めるのは子供と言われますが、人生観や価値観を養成するのは大人ですよね。従って偏った教育はやってはならないのです。

 残念ながら我が国は過去半世紀にわたり日教組と言う組織に組み込まれた教師に拠って左翼教育が行われてきました。誠に不幸なことです。今、所謂右傾化が言われてますが、これは左翼教育に対する明らかな反動であると思います。

 無秩序な社会は暴君による圧政よりタチが悪いと考えます。秩序の維持には規律が不可欠です。気に入らない規律を強制として無視したりすればどうなりますか?今の教育の荒廃が答えです。

 人権は国家に優先する考え方は平時には通用するでしょうが、決して普遍的なものではありません。あくまで理想です。事変或いは戦争状態になればとうなります。個人の自由な判断で行動しますか?

 現憲法についてはすでに歪みが限界にまできており改憲は避けられないと考えます。早い話、昭和22年、施行の時点で既に現憲法無効論もあるんです。日本国憲法は決して不磨の大典ではありません。英文を訳した憲法ではなく日本語による日本国の憲法を制定すべきです」

 回答

 それは一般的な場合でいえば、悪質商法とか離婚問題、刑事事件までありますので、国家の強制力一般を否定する人はあまりいないと思います。

 無政府主義の人もいますが世界観であるかぎりは、共存共生しながら議論を積み重ねて行く中で、お互い歩み寄って行くというような寛容な態度が社会には必要ですよ、と地裁も判決しています。
 
 日本国に生活する民族の危機が急迫不正に差し迫る場合においても、人民に国防の義務を課することはできない、ということが人権保障となってしまいます。

 ちなみに、祖国を捨てて、中国の日本国を明渡すことが道徳などではありません。真の道徳は侵略国家に対しては専守防衛で受けて立つことが当然である、と強く考えております。が、逃げ出すものを軽蔑しても強制することはできません、誠に遺憾で悲しく情けないと思い、憎しみと怒りを覚えますが人権尊重の限界なんです。

私たち愛国者も祖国を捨てる自己保身の存在も、同じ人間という事実がある限り、きっと同じ地点に人間は到達するのではないですか。

 どう考えても、オウムの麻原・北の金正日ですら同じ人間だという事実は不動なんです。

 あんたも俺も同じ人間だろう、わかるだろう、と。この魂のぶつかりあいとしての話し合い、時には激論、罵詈雑言もあるでしょう、しかし、強制は教育ではなく、魂の闘論を手段として成立するのが人間教育なんだと考えます。


 質問

 「あなたの書き込みに人民ってあるが、国民じゃないんですか? あなたの思想が透けて見えますよ。ま、自由ですがね。 私はあなたの考え方には真っ向から反対します」

 回答

 分かりました。考え方の違いは在って当然ですね。

 ちなみに、「人民」という言葉を僕が使うようになったのは「国民」だと日本国籍を持つ人間だけを指すことになってしまい、日本国で実際に生活している外国人の人権を認めない思想の持ち主だと誤解されてしまうからです。

 世界人権宣言、国際人権規約等で用いられている人民という言葉を使うことが人権の国際化を志向する日本国の人民が自国と他国を敬愛することになっていくと考えます。

 質問

 「あなたは教育者としての想いより政治的な想いの方が強く感じられます。いつまでやっても水掛け論でしょう。都は当然控訴するでしょうから、高裁の判断を待ちましょう。またその結果を踏まえて改めて議論しましょう」

 回答

 教員と子供に「日の丸・君が代」を強要・強制するような教育が問題なのでは?

 なんで、そこまで強制したがるのですか。「あなたは教育者としての想いより政治的な想いの方が強く感じられます」

 教育は強制ではないですね。それは政治的ですよ。

 社会人になるための常識とは、「教室にも社会にも多様な価値観のある人たちが集まり議論し生活していくなかで規律を体得する」です。

 「自国他国問わず、自分の国の旗や歌を賛美したい、誇りたい、そんな人の価値観を否定するような教育はしてはいけないですし、むしろそんな人の「価値観」を尊重するべきという基礎的教育をする必要はあるでしょう。
 
 国旗国歌に敬意を払う人の価値観を尊重する教育と、自国の国旗国歌に敬意を持たねばならないと指導する教育は、全く別物では、と思います。
 
 少なくとも日本国憲法は個人の精神的自由を人権として保障している以上、特定の価値観を持つことを強制されないことは重要な権利だと考えます」ということです。

 質問

 原告の教師は、教師の仕事をしていない。

 やれ学習指導要領、やれ日本国憲法、
 はては自公政権に石原新太郎ですか。

 生徒の方向を向いてない。
 議論の方向が、質問の内容が、
 そういった性質のものじゃなかったとしても、
 一言でも「生徒は」という言葉が出て欲しかった
 
 回答

 子供は、受験体制、指導要領の校則、「日の丸、君が代」強要、検定教科書の学習内容、高額費に悩まされているんですね。

 さらに、教員を処分し、「日の丸・君が代」を教員に強要していくことは「日の丸・君が代」に対し、起立し、斉唱する教育体制へと直結します。子供が起立し、斉唱しなければ、自公政権・石原慎太郎都知事、教育委員会が教員を指導力不足教員として処分するという事態へ向かうのであり、この体制が教育基本法10条違反、憲法違反だということなんです。
 
 学問を学ぶことは、基本的な言語能力、実生活上の基礎的知識、社会の成り立ちと仕組み、自然界の諸法則、芸術的感性の修得など、現代社会で人間らしく生きていくために不可欠です。

 端的にいって、義務教育程度の知識に著しく欠けるようであれば人格ある個人として実生活を送ることにかなり不安があります。

 けれど、国旗国歌は国の仕組みをなんら教えてくれません。「君が代」を何べん見ても日本の統治機構のことはわかりません。国家神道の立場から天皇支配の永久性を読み込むことはできるかもしれませんが、現代政治が天皇個人の意思で動いているはずはないでしょうからナンセンスです。


 質問

 そんなに国歌や国旗が嫌いなら
 
 教師になんてならなければいいのに。
 教師は公務員であることは、皆知っているはず。
 何故、わざわざ自分から国家権力の下に入るんですか?
 国家権力は嫌いなのに、国家から賃金を得るのには違和感を感じないのでしょうか?
 私だったら、嫌いな会社に勤めたくなんてないですが。

 回答

  「そんなに憲法の人権規定が嫌いなら、教育長やら知事やらの公務員にならなければいいのに。公務員は憲法尊重擁護義務があるんですよ」
という話になりますよ。

  児童・生徒に受験制度、校則、検定教科書等を強制しているのは誰ですか。自公政権でしょう。教員ではありませんね。

 事実に基づいて人権を実現していくことがことが教育です。「日の丸・君が代」の歴史上の事実を子供たちにしっかりと教えた上で、子供たちが自主的に判断せねばなりません。「日の丸・君が代」の歴史上の事実を子供に十分に説明せずに、刷り込みのように「日の丸・君が代」を学校に持ち込んでくる教育行政のやり方が、子供たちを欺く事実上の強制にあたると言っているのです。

 公務員は国家から賃金を貰っているのではありません。国民全体から賃金を貰い、国民全体に奉仕するのが公務員です。さらに、国民には職業選択の自由と勤労権がありますから、「国家権力が嫌なら公務員になるな」だとか「会社がいやなら辞めろ」などという発言は人権侵害に当たる発言となります。究極は「日本国が嫌なら、日本を出て行け」となります。どこの国の人の発言でしょうか。

 質問

「器物破損に違法性阻却事由が存在するのか?については、その破損行為を免責するだけの事情が必要であることは言うまでもありません。この判断は司法が行うもので、自分が行うことはできませんが、”内心の自由”を犯されたとしても、相手の財産権を侵害できる、という違法性阻却の事例を自分は知りません。従って、国旗という器物を破損した教師に関しては、刑法的違法性をもって取り扱うしかないのでは?」

 回答

 「なるほど。確かに、言論、裁判、政治運動等で抗議すべきであり、器物損壊は違法ですね。納得しました。ただ、内心の自由をズタズタにされた教員の気持ちは汲んであげて頂きたいと思います」

 質問

 「加味するだけのお話だと思いますが、次の質問です。教育行政の介入に法的な正当性の問題は、予算を捻出してることからある程度はあるとは思います。まず、税金が投下されるシステムにおいて、行政が参画してることは言うまでありません。

 同時に公教育の提唱は行政が行っています。教育権は保護者であっても、学校施設などの財産権など行政のものでしょう。その上で行政側の財産権や学校運営の過程での定款つくりはある程度は、学校そのものの管理のために必要であることは言うまでもありません。生徒の内心の自由も財産権を尊重されうることでしょうしね、そこで学校の運営責任が存在する行政としては、ある程度の教育介入の権利が存在しえるということです」

 回答

 「教育行政の介入に法的な正当性の問題は、予算を捻出してることからある程度はある」

 これは誤りです。

 予算の下は国民の税金であって、教育行政の現場への介入の根拠にはなりません。教員も公務員も国民全体に責任を負って国民全体に奉仕するのであり、国家に奉仕するわけではありません。

 さらに、教員は国民に直接に責任を負ってその職務を行うという規定が教育基本法10条に規定されており、政府、判例のいうような間接民主主義の統治原理を根拠にして、教育行政が現場に介入することを退けております。

 にもかかわらず、教育行政が「日の丸、君が代」を執拗に教育現場に指導、助言しくるわけでしょう。そのこと自体が教育現場に対する不当な支配ではないか、と。

 さらに、「行政側の財産権や学校運営の過程での定款つくりはある程度は、学校そのものの管理のために必要であることは言うまでもありません。そこで学校の運営責任が存在する行政としては、ある程度の教育介入の権利が存在しえるということです」について。

 この見解は教育基本法が想定するように各自治体の教育委員会が公選制であって、各学校に自治権が認められておれば、そのとおりですね。しかし、その前提が今現在はありません。

 そうすると、やはり、「日の丸、君が代」を各学校に導入していくこと自体が違法となるのではないでしょうか。入学式・卒業式においては校旗と校歌を各学校が自主的に決めて行けばよいことです。

 「日の丸・君が代」を是非、式典に導入すべきだという意見が住民、国民の多数意見なのでしょうか。そうではありません。教育行政が各学校に導入してきたものを既成事実として追認しているだけでしょう。

 PKO自衛隊海外派兵と06政治情勢のエントリーでも言いましたが、既成事実のねじ込み、蓄積で自公政権が住民・国民をどこに持っていこうとしているかは現在の政治情勢から明らかです。

 そのような全体の自公政権の政治路線の一環として、「日の丸・君が代」導入が各学校に実施されているのであり、単なる「国歌・国旗」導入ではない、ということです。

 ゆえに、教育基本法10条の禁じる不当な支配に当たることは明白なのです。

 なお、行政施設の財産権は国民全体に所有権があります。行政は国民全体から財産の管理・運営を委託されているに過ぎません。国家・自治体は国民全体・住民全体の財産・所有であり、公務員の所有物ではありません。

 質問

 「ガイドラインとして指導要領による内容の一律化は是非は公平性を保持するためには否定しない立場について何か問題点はございますか。」

 回答

 同感です。ガイドラインは必要です。ただ、今現在の文部科学省・財界・自公政権主導の指導要領ではなく、子供・保護者・教員・研究者主導の指導要領である必要があります。これを制定するのに時間がかかりますが、すばらしいものができると考えます。

 
 総括

 質問

 「人の子の晴れの卒業式の日に、小学生の面前で日の丸に尻を向けて着席するなんて、それこそ幼児以下」も価値観であり、国民の中にはそう思っている人も少なからずいるわけです。

 回答
  
 しかし、処分してまで「立たせて、歌わせろ」という人々はごく少数では?これは狂信者の見解ですね。こうした異常で少数の見解に基づき教員を処分した都教委の行政行為が教育基本法10条違反、憲法19条違反として違法だと東京地裁で判決されたわけです。

 さらに、世界観の違いによる不快感はお互い様であり、それをお互いに寛容する社会が自由社会というわけです。(東京地裁判決と同旨・憲法19条)

 加えて、入学式・卒業式においては校旗と校歌を各学校が自主的に決めて行けばよいことです。「日の丸・君が代」を是非、式典に導入すべきだという意見が住民、国民の多数意見なのでしょうか。そうではありません。教育行政が各学校に導入してきたものを既成事実として追認しているだけでしょう。

 そして、既成事実のねじ込み、蓄積で自公政権が住民・国民をどこに持っていこうとしているかは現在の政治情勢から明らかです。

 そのような全体の自公政権の政治路線の一環として、「日の丸・君が代」導入が各学校に実施されているのであり、単なる「国歌・国旗」導入ではない、ということです。

 ゆえに、教育基本法10条の禁じる不当な支配に当たることは明白なのです。

 基本認識は、日の丸・君が代を学校に導入する方が違法だからだからであり、現行憲法にふさわしい国歌・国旗を定めればよいのであり、卒業式・入学式に日の丸・君が代を導入するなど子供たちの自主性に基づく式典であれば、およそ採用されえない国歌・国旗だからであり、学校教育の自主性に逆行する存在の象徴であるのが「日の丸・君が代」です。

 何故、教育行政が学校の卒業式・入学式のやり方に首を突っ込み、介入してくるのでしょうか。

 教職員・保護者が主権者であり、地域住民・学者は統治者として無能ではありません。教育行政が教育現場に介入してくるのは主権者である住民と国民を衆愚扱いするものではないでしょうか。

 教育行政は金と設備と情報提供だけして、後は放っておいてくれ、ということです


 なお、①学習指導要領の法的拘束力は各学校の具体的な教育内容・方法には及ばないという判断が最高裁の判決で確定しております。

 さらに、②学校長の職務命令(教育行政権ではなく、学校教育の自主性としてのそれ)に基づく教職員の服務義務については原則として認めねばならないが、職務命令に重大かつ明白な瑕疵がある場合はこの限りではないとの最高裁判例も確立されています。

 ゆえに、①学習指導要領に基づく一切の通達の法的拘束力は大綱的なものに限る、各学校に対する教育委員会等の教育行政は助言・指導に留まるのであり、具体的な教育内容・方法には法的な拘束力はない。各学校で自主的に決定すべきことである。

 ②学校教育の自主性に基づく学校長の職務命令についても教職員の人権を不当に侵害する場合はこの限りではない。

 以上のように、すべての論点について、今回の東京地裁の判決は最高裁判例を踏襲しているのであり、これが覆ることは余程の事情がないと変更されえないものです。

 今現在、教育基本法・憲法を改定しようとしている自公政権の政治的な圧力が最高裁にかかり、最高裁がこれに屈する場合にしか判例変更はないでしょう。

 以上。
 

 追記:なお、教育問題について、さらに全面的に知ろうとする人は、本ブログの06・9・28の投稿「社会の規律について」と06・9・24の投稿「自民党・安部総理の教育バウチャー制度」をあわせて参考にしてください。



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18 コメント

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Unknown (あきら)
2006-10-01 10:26:37
こんにちは。お邪魔します(^-^)

私は携帯からの投稿ですので、正確な引用文を示してお答えするのが困難であることを最初に申し上げ、気づいた点を幾つか書かせていただきます。まず、式典に於ける国旗、国歌の導入は国民の多数意志でないとのご意見がありましたが、私はそうは考えません。ましてや自公政権がやらせてるだけなど誤認と言わざるをえません。逆に無かったらどうなるでしょう。考えてみてください。式典に於いて国歌斉唱に対して不起立の教師がいることも、不快感があってもお互い我慢するのが民主主義とのお考えらしいですね。それは大人同士の関係に於いての問題で、主役である子供達にまで不快感を強いてよいものでしょうか? 日の丸について言えば、支那や韓国で反日暴動の度に日の丸が燃やされたりしてますよね。これに対して怒りの感情さえ湧かない国民が理想なんですか? 今の日本と言う国家を建物に喩えるならまさに心柱のない五重塔でありましょう。いかがでしょうか?。
返信する
あきらさん。 (東西南北)
2006-10-01 20:20:09
 ①式典において「日の丸・君が代」を行政処分をもって「起立・斉唱」させることについては、少数意見です。



 ②他方、式典に国民主権の象徴としての「国旗・国歌」一般を導入すべし、という意見は多数だと考えます。子供にも国民主権の国家の象徴としての「国歌・国旗」を敬愛する念を持つ様に教育活動することは当然です。



 あきらさんが強調するこの点には全面的に賛成します。



 ③ただ、これは僕が強調しているのですが、



 a:「日の丸・君が代」の起立・斉唱は自発的なものであって、通達、職務命令で強要すると憲法違反となる。



 b:世界観の違いによる不快感はお互い様であって、互いに寛容でなければ民主主義は成り立たない。(①、②について東京地裁判決)



 c:上記の2点を子供たちに言論と態度で示すことが人間、人権、道徳教育となる。



 ④「日の丸、君が代」と自公政権との関係ですが、これは学習指導要領と各学校の教育内容、方法の関係となります。



 受験制度、校則(正当なものも当然ある)、検定教科書もそうですが、自公政権の学習指導要領に対する現場教職員、保護者、子供の意識は無残なもので、到底、合意形成ができているとは言えません。



 自公政権の学習指導要領に積極的に活気をもって賛成し、打ち込んでいる態度・意見は極めて少数です。



 日本国民としては、受験、校則、検定教科書は「仕方なしに従っている(だから、子供、保護者の学力不振、無気力が実態化、恒常化する)。



 式典の個別具体的な教育内容と方法も、国民は本当のところ、自分たちで活気をもって積極的に子供らと相談しながら、楽しく、和気あいあいと行うことを願っている。



 が、自公政権の学習指導要領体制の下、強力な「指導、助言」が学校現場に重く執拗、陰湿にのしかかり、教育活動の自主性が押しつぶされている、ということです。



 結果として、「仕方無しに、仮面を被り、日の丸・君が代を式典に導入している」ということです。



 だから、「日の丸・君が代」が象徴するものとは、その実際においては、国民主権ではなく、自公政権の学習指導要領となるのであって、真の国民主権の国家である日本の象徴としての「国歌・国旗」が絶対に必要だというのは、あきらさんと僕の合意点だと考えております。
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Unknown (あきら)
2006-10-02 01:17:15
東西南北さん

こちらで議論しましょうとのお誘いにも拘わらずあちらに投稿してしまいました。ヤメ蚊さんのブログは私の友人にも紹介しておりまして、広く読んでいただけると思ったからでした。しかし、管理人氏曰く、イラク人質事件に関して、議論が迷惑なようですので、管理人氏のご返事次第ではこちらにお邪魔しようかと思っております。私と東西南北さんとの間には共通点も多々あります。これは多くの方にも読んでいただき、一人でも多く議論に参加して欲しいものです。あと学習指導要領についてですが、自公政権による強制ではなく、平成元年三月の高等学校学習指導要領第三章 特別活動第3にすでに規定されております。

内容は「入学式な卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」とあります。ま、それを踏襲してきたものと判断します。
返信する
Unknown (あきら)
2006-10-02 01:17:36
東西南北さん

こちらで議論しましょうとのお誘いにも拘わらずあちらに投稿してしまいました。ヤメ蚊さんのブログは私の友人にも紹介しておりまして、広く読んでいただけると思ったからでした。しかし、管理人氏曰く、イラク人質事件に関して、議論が迷惑なようですので、管理人氏のご返事次第ではこちらにお邪魔しようかと思っております。私と東西南北さんとの間には共通点も多々あります。これは多くの方にも読んでいただき、一人でも多く議論に参加して欲しいものです。あと学習指導要領についてですが、自公政権による強制ではなく、平成元年三月の高等学校学習指導要領第三章 特別活動第3にすでに規定されております。

内容は「入学式な卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」とあります。ま、それを踏襲してきたものと判断します。
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反自公で決める時です。 (東西南北)
2006-10-02 20:32:16
 野党の支持拡大、投票行動までは行かずとも、自公の不支持を決め、投票することを回避することが規律となろでしょう。



 新聞・テレビだけでは野党の活動、政策を知ることは困難であるので、野党のホームページと機関紙誌の購読で事実関係を知ること学習・教育運動を進める必要があります。



 新聞、テレビの偏った情報では偏った判断となるということです。



 今の自公政権の教育政策だけには不支持を決める。その上で、新しい教育政策を実現していく時だと考えます。



 まずは、受験制度改革から入り、学校間格差を無くし、各学校での自主的な校則制定論議、学校教科書の組替えの論議、教育費の無償化へと進むことが必要です。



 そうした下からの改革運動と論議の中で、社会問題を解決して行く民主主義が規律として求められています。
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Unknown (あきら)
2006-10-02 22:11:03
東西南北さん

入試の在り方を変えることは同感です。あと、教科書の組み換えって意味がわからないですが。教育は知育、体育にまして徳育教育が何より大事なものかと思われますがいかがでしょうか?ところで例のイラク三人組の行動はどう思われますが?
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Unknown (あきら)
2006-10-02 22:11:04
東西南北さん

入試の在り方を変えることは同感です。あと、教科書の組み換えって意味がわからないですが。教育は知育、体育にまして徳育教育が何より大事なものかと思われますがいかがでしょうか?ところで例のイラク三人組の行動はどう思われますが?
返信する
あきらさん。 (東西南北)
2006-10-02 22:54:03
 ①入試の在り方を変えることに伴い、検定教科書の内容についても、子供の発達と興味、関心に即して自然なものへ保護者、教職員、地域住民、学者、子供らで論議し、組替えるということです。子供と直に接しているのは教職員と保護者、地域住民であり、教育科学の専門家である学者に参加して頂き、当事者の子供の興味、関心、知的好奇心を最大限に取り入れるということです。



 ②イラク3人組について。



 遊戯のための海外旅行で出かけたわけではなくて、イラク戦争のレポートをするために取材活動として、現地へ行ったのであって、その取材はイラク戦争の現場を日本国の人々へ報道する社会貢献です。



 こうした命がけの報道・取材の社会貢献をする人たちの行為は社会貢献であって、身勝手な行動ではありません。



 彼らは、日本国に暮らす人びとにイラク戦争の実態を報道し、イラク戦争の事実を日本国の人々に伝えたのであり、愛国の社会貢献だと言えます。



 しかし、時の国家権力である自公政権の命令には背くことになりましたね。



 ただ、時の国家権力(自公政権)と国家は別物だということは僕とあきらさんの了解事項ですね。



 さらに、国民は自公政権を絶えず監視していかねばならない、ということも了解事項ですね。



 ゆえに、自公政権を監視する行為の一環としてイラク戦争の現場へ取材活動へ行き、取材内容を日本国民に報道する行為は国民の知る権利を実現する社会貢献としての勤労活動であり、遊戯と消費というようなエゴイズムの行動ではないと言えます。



 
返信する
Unknown (あきら)
2006-10-02 23:26:01
東西南北さん

①についてですが、ご意見のようにやれば学校、地域ごとにバラバラな教育になりませんか? これは真剣な検討を要するかと思います。

②ですが、社会貢献…ですか? 政府の渡航禁止の指令は抑圧のための指令ではないと思いますよ。私はこの事例に戦後教育の欠陥の典型を見る思いがします。自己の信念のためなら、国の指示さえ無視する。私は言いたい。国の指示を無視する覚悟なら国に救助を頼るな!と。つまり憲法始め国法の保護を放棄してゆくべきです。違いましょうか?
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あきらさん。 (東西南北)
2006-10-03 00:06:43
  ①バラバラにならないように、全国的な最大公約数的なガイドラインを創ります。これが新しい学習指導要領となります。ただ、こうしたガイドラインを各地域で論議して、中央官庁がくみ上げて、ボトムアップで調整を図って行くということです。



 無規律な教科書は全国の学力水準の公平さを失しますので、そのような主張はあきらさんもぼくも認めないものですね。



 ②時の国家権力と国家は違うということですね。確かに、政権政党を組閣するのは人間ですから、イラク戦争の現場へ自国民を行かせないようにするのは一面では当然の措置です。避難命令ということですね。それを無視して、戦地の最前線へいくことは自殺行為である、と。だから、自己責任だ、と。この論理には完全に同意致します。



 しかし、あきらさん。彼らは、遊戯のための海外旅行で出かけたわけではないのです。これがポイントです。



 彼らは、イラク戦争のレポートをするために取材活動として、現地へ行ったのであって、その取材はイラク戦争の現場を日本国の人々へ報道する社会貢献です。



 こうした命がけの報道・取材の社会貢献をする人たちの行為は社会貢献であって、身勝手な行動ではありません。



 彼らは、日本国に暮らす人びとにイラク戦争の実態を報道し、イラク戦争の事実を日本国の人々に伝えたのであり、愛国の社会貢献だと言えます。



 日本国に暮らす人々は、イラク戦争の実態を知らなければ、選挙においても判断できないからです。



 大本営発表だけでは、情報が偏るので判断も偏るということで、国民には取材活動、報道の自由が認められており、そうした自由は遊戯ではなく、時の国家権力を監視し、国民の知る権利を実現する社会貢献としての勤労なんです。





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