--報道は信じる信じないではない。--
1:報道は事実を報じること。個別事実を普遍化した科学を報じること。宗教と科学を峻別すること。
2:国家権力と財界、企業資本を監視し、人間と労働者の立場から批判し、人間と労働者の知る権利を実現していくこと。
この2点が絶対に不可欠です。権力、財界、企業資本に迎合する報道はもはや報道ではなく、大本営発表であり、デマの手段です。
その上で、野党の機関紙誌は現実政治の最も鋭い権力監視機能、告発・暴露機能を果たすメディアとして存在しておりますが、忘れがちです。
さて、メディアが報道した内容が事実か事実でないかはわからないから、信じる信じないの問題だというのが今現在、もっとも危険です。これは記事で言うところの「先入観」です。
つまり、「読売新聞は事実と信じるが、朝日新聞は虚偽である、あるいは事実かどうかわからない」と信じる。「公明新聞は事実であるが、赤旗新聞は虚偽である、あるいは事実かどうかわからない。」と信じる。という認識、判断です。
先入観を排した、いわゆる中立の態度、認識、判断とは「読売新聞も朝日新聞も事実を報道している」「公明新聞も赤旗新聞も事実を報道している」しかし、事実が食い違う報道が掲載されるときがある。どちらが事実であるかが問題になる。あるいは、誤報という場合もある。しかし、誤報は反対する具体的な事実を上げて訂正報道を求めることでメディアが誤報したかどうかは判断できる。こうしたメディアに対する積極的な態度と中立な態度が民主主義である。
最後に付言するなら、メディアは自然界と社会、歴史、経済、政治等のすべての事実を報道しているのではなく、現実社会に存在している事実と比較すれば多くは隠蔽された事実があるということであり、ゆえに、メディアの編集権とは個別事実を余すところなく掲載することではなく、個別事実に貫く科学的な法則を手段に個別事実を掲載していくといことに他ならない。この点で、各メディアがどのような自然科学観、社会科学観、人文科学観、編集方針を持っているかを知ることは重要である。
1:報道は事実を報じること。個別事実を普遍化した科学を報じること。宗教と科学を峻別すること。
2:国家権力と財界、企業資本を監視し、人間と労働者の立場から批判し、人間と労働者の知る権利を実現していくこと。
この2点が絶対に不可欠です。権力、財界、企業資本に迎合する報道はもはや報道ではなく、大本営発表であり、デマの手段です。
その上で、野党の機関紙誌は現実政治の最も鋭い権力監視機能、告発・暴露機能を果たすメディアとして存在しておりますが、忘れがちです。
さて、メディアが報道した内容が事実か事実でないかはわからないから、信じる信じないの問題だというのが今現在、もっとも危険です。これは記事で言うところの「先入観」です。
つまり、「読売新聞は事実と信じるが、朝日新聞は虚偽である、あるいは事実かどうかわからない」と信じる。「公明新聞は事実であるが、赤旗新聞は虚偽である、あるいは事実かどうかわからない。」と信じる。という認識、判断です。
先入観を排した、いわゆる中立の態度、認識、判断とは「読売新聞も朝日新聞も事実を報道している」「公明新聞も赤旗新聞も事実を報道している」しかし、事実が食い違う報道が掲載されるときがある。どちらが事実であるかが問題になる。あるいは、誤報という場合もある。しかし、誤報は反対する具体的な事実を上げて訂正報道を求めることでメディアが誤報したかどうかは判断できる。こうしたメディアに対する積極的な態度と中立な態度が民主主義である。
最後に付言するなら、メディアは自然界と社会、歴史、経済、政治等のすべての事実を報道しているのではなく、現実社会に存在している事実と比較すれば多くは隠蔽された事実があるということであり、ゆえに、メディアの編集権とは個別事実を余すところなく掲載することではなく、個別事実に貫く科学的な法則を手段に個別事実を掲載していくといことに他ならない。この点で、各メディアがどのような自然科学観、社会科学観、人文科学観、編集方針を持っているかを知ることは重要である。
それは、300年前に東京~大阪を2時間半で移動する装置を考案しようという人間が(恐らく)存在しなかったのと同じで、人間存在の内面の神秘が現在は殆ど明らかにされていない、っていうか、眼に見えな領域が否定される傾向にある、という問題と同じだと言えます。
これはimacocoさんがおっしゃれば笑いますし、それでよいと思いますが、創価学会、統一教会などがわれわれは科学団体であり、宗教団体ではないと言い出せば、明らかに宗教団体であり、非科学的、反科学的な集団です。
imacocoさんが言っているのは科学の発展、進歩のことですね。宗教とは神など自然にも社会にも存在しない観念を根拠に実践する思想と行為の結合です。たとえば、未発見の霊なる存在が病気の原因だと観念し、お払い、加持祈祷などで治療するという行為は完全に宗教となります。
霊などは自然、社会の存在しない観念であり、それを根拠に加持祈祷などの実践をしているからです。この手の悪質商法が霊感商法として問題化しております。
ゆえに、科学と宗教の分別はメディアにとって必要なわけです。
それは人間のエゴです。僕が言う宗教とは、存在の本質を見つめる、精妙な科学といったところです。
神は存在しますし、人間は肉体だけの存在ではないことも確かです。
ただ、それを人に教えることは非常に難しく、安倍晋三に日本国憲法の素晴らしさを説くようなものでしょう。
人類の肉体的な存在、つまり、受精卵から植物状態へいたるまでにおいて、殺し合い、奪い合い、戦争、強姦の遺伝子など存在しないということです。ということは、先にあげた精神世界は完全に自然界、人類の肉体的存在に根拠を持たない想像、妄想であり、それに基づく犯罪行為は宗教だといえるわけです。
人間の精神性は人間の肉体が規定しているということです。結局、精神世界の科学、非科学は人類の肉体が規定しているのであり、人類の肉体は共に生きて、共に労働するということですから、あらゆる観念論は人類の肉体的な本質を根拠とする科学的ヒューマニズムによって変革されなければならない、ということです。
共に生き、共に働く。これが人間の本質であり、思い込みではないのです。