ここ2・3日は、季節が少し逆戻りしたような天候でした。この時期、やはり「三寒四温」ですね。
季節の変わり目、皆様同様、体調管理には気をつけたいと思います。
前回、「菊池風土記」の隈部氏系図で、「宇野元規(宇野左太夫)」という人物に巡り合ったという話を紹介しましたが、
ここで、一連の系譜をまとめてみます。
隈部忠直➔隈部親興(宇野冶部太夫)➔宇野重基(宇野民部太夫)➔宇野重則(宇野冶部太夫)➔宇野元規(宇野左太夫)
・・・(2~3代の空白)・・・初代宇野八左衛門・・・
今のところ以上のように推定されます。「2~3代の空白」の部分が埋められると一層説得力をもつと思いますが、
なかなか難しい現状です。ただ、まったく手がかりがつかめないかというと、そうでもない気がしています。
この空白の時期の様子はおおむね次の通りです。
1587年、豊臣秀吉が肥後に入国し、佐々成政に肥後国主を命じたものの、隈部氏らを中心とした国衆一揆が起こり、
隈部氏は滅び、佐々は割腹させられました。
その後、加藤清正と小西行長の分割支配となりますが、小西は関ヶ原の戦いで敗れて処刑されたため、
加藤清正の「肥後54万石」が誕生します。この間、2度の朝鮮への侵略もありました。
しばらく加藤氏の時代が続きましたが、忠広が改易されて出羽庄内に流されると、細川忠利が肥後転封を命じられて
熊本城に入りました。1632年のことでした。
さらにそれから約40年後の1670年、宇野八左衛門さんが細川藩に召抱えられ出仕することになりました。第5代細川綱利のときです。
少し長くなりましたが、このおよそ100年間、宇野はどこで、どうしていたのでしょうか?
1.隈部氏が滅んだとき、同族の宇野家も何かしらの悲哀をなめた。
2.加藤氏の時代には出仕していなかった。(緒方家の先祖付には「加藤氏への出仕」の記述がありますが、宇野にはありません)
これらの点から推測すると、宇野一族は「帰農」して、時機をうかがっていたのではないかとも考えられるのです。
そして、理由は不明ですが、1670年(寛文10年)がその時機(士族復帰)でした。
このように見てくると、政治や経済のしくみは違っていても、人間関係や人生の悲喜こもごもなどは、
いつの時代も変わらないなと感じます。お仕えしていた殿様がこけると、忠臣は殉死したり、路頭に迷う。
しかし、中にはとり入って別の殿様に召抱えられる者もいる・・・人生の選択の基準の違いは何でしょう?
実は、これ、西南戦争での緒方夫門・友成正雄氏などの言動を調べていたときにも感じた問題でした。
緒方夫門氏は、約13年の隠遁生活を経て特赦。一方、友成正雄氏は、延岡の河原で壮絶な斬刑。
年齢は違いますが、どちらも熊本隊の参謀でした。生と死を分けたものは・・・考えさせられます。
詳しくは「宇野ルーツだより」(印刷版)で紹介させていただきます。
殿様と家来の関係は、現代の企業の経営者と社員の関係、あるいは官僚組織内の力関係と同じように思いました。
今は殿様に頼るより農村でのものづくりを見直す時代かと・・・もう少し若かったら「帰農」に挑戦していたかもしれません。
いずれにしても「戦国時代を生き抜く」気持ちが必要ですね。
これから少し現代に近づいて加藤氏の時代の熊本を訪ねて、加藤家の記録にあたってみます。戦国時代も終わりです。
また、「宇野の輪」が拡がりました! 「宇野氏末裔のお一人」から応援のメールをもらいました。
福岡市の梅津様ありがとうございました。戦国時代もメールでつながっています。
「返信」しましたが、届いていないようであれば連絡お願いします。
季節の変わり目、皆様同様、体調管理には気をつけたいと思います。
前回、「菊池風土記」の隈部氏系図で、「宇野元規(宇野左太夫)」という人物に巡り合ったという話を紹介しましたが、
ここで、一連の系譜をまとめてみます。
隈部忠直➔隈部親興(宇野冶部太夫)➔宇野重基(宇野民部太夫)➔宇野重則(宇野冶部太夫)➔宇野元規(宇野左太夫)
・・・(2~3代の空白)・・・初代宇野八左衛門・・・
今のところ以上のように推定されます。「2~3代の空白」の部分が埋められると一層説得力をもつと思いますが、
なかなか難しい現状です。ただ、まったく手がかりがつかめないかというと、そうでもない気がしています。
この空白の時期の様子はおおむね次の通りです。
1587年、豊臣秀吉が肥後に入国し、佐々成政に肥後国主を命じたものの、隈部氏らを中心とした国衆一揆が起こり、
隈部氏は滅び、佐々は割腹させられました。
その後、加藤清正と小西行長の分割支配となりますが、小西は関ヶ原の戦いで敗れて処刑されたため、
加藤清正の「肥後54万石」が誕生します。この間、2度の朝鮮への侵略もありました。
しばらく加藤氏の時代が続きましたが、忠広が改易されて出羽庄内に流されると、細川忠利が肥後転封を命じられて
熊本城に入りました。1632年のことでした。
さらにそれから約40年後の1670年、宇野八左衛門さんが細川藩に召抱えられ出仕することになりました。第5代細川綱利のときです。
少し長くなりましたが、このおよそ100年間、宇野はどこで、どうしていたのでしょうか?
1.隈部氏が滅んだとき、同族の宇野家も何かしらの悲哀をなめた。
2.加藤氏の時代には出仕していなかった。(緒方家の先祖付には「加藤氏への出仕」の記述がありますが、宇野にはありません)
これらの点から推測すると、宇野一族は「帰農」して、時機をうかがっていたのではないかとも考えられるのです。
そして、理由は不明ですが、1670年(寛文10年)がその時機(士族復帰)でした。
このように見てくると、政治や経済のしくみは違っていても、人間関係や人生の悲喜こもごもなどは、
いつの時代も変わらないなと感じます。お仕えしていた殿様がこけると、忠臣は殉死したり、路頭に迷う。
しかし、中にはとり入って別の殿様に召抱えられる者もいる・・・人生の選択の基準の違いは何でしょう?
実は、これ、西南戦争での緒方夫門・友成正雄氏などの言動を調べていたときにも感じた問題でした。
緒方夫門氏は、約13年の隠遁生活を経て特赦。一方、友成正雄氏は、延岡の河原で壮絶な斬刑。
年齢は違いますが、どちらも熊本隊の参謀でした。生と死を分けたものは・・・考えさせられます。
詳しくは「宇野ルーツだより」(印刷版)で紹介させていただきます。
殿様と家来の関係は、現代の企業の経営者と社員の関係、あるいは官僚組織内の力関係と同じように思いました。
今は殿様に頼るより農村でのものづくりを見直す時代かと・・・もう少し若かったら「帰農」に挑戦していたかもしれません。
いずれにしても「戦国時代を生き抜く」気持ちが必要ですね。
これから少し現代に近づいて加藤氏の時代の熊本を訪ねて、加藤家の記録にあたってみます。戦国時代も終わりです。
また、「宇野の輪」が拡がりました! 「宇野氏末裔のお一人」から応援のメールをもらいました。
福岡市の梅津様ありがとうございました。戦国時代もメールでつながっています。
「返信」しましたが、届いていないようであれば連絡お願いします。