憂国の花束

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「国民と触れあう」は、平成の天皇が自らのために行った「天皇の象徴的行為」

2021-03-02 12:17:28 | 天皇
私は「国民に心を寄せる」「国民と触れあう」ということばが、当の天皇の口からでる度にゾワゾワし激しい違和感を感じてきました。
平成の天皇の「国民の心を寄せる」「国民と触れあう」行為が、「国民に心を寄せる姿を見せる」「国民と触れあう姿を見せる」ために行う、つまり陛下主役のショーを一方的に見せられているのでは無いかと思われてならなかったからですが、私の違和感を決定づけた平成の天皇のメッセージがあります。

2016年退位の意向を示されたビデオメッセージの中で平成の天皇は語られた。
《即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。》
《私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。 》

各地へ出向き国民と触れあうのは「国民と共にある自覚を自らの内に育てるため」「私に認識させ」、つまり自分のためなのだと平成の天皇は言われています。
マスコミは天皇皇后の精力的なお出かけを「天皇皇后は常に国民を思いやり気に掛けていてくださるからそうされるのだ。」と賞賛し続けてきましたが、当の天皇の思いはまた違うところにあったようです。
「現場に出かけて国民の実態を知らなければ、国民の為に祈れない。」御言葉を要約すれば、そうなります。
果して、出かけられた現場が国民の実態を示すものだったかどうか。
見せるために用意された場に出かけ、選出された者に対面しても国民の実態は見えないでしょう。
そして天皇皇后が現場で最大最高のもてなしをうけて得られたものとは、「国民と共にある自覚」ではなく「国民と共にあるという自信」ではなかったでしょうか。

話はそれますが、私が当時このメッセージに抱いた違和感がもう一つあります。それは「国民の安寧と幸せを祈る」と言われても「国の安寧」を祈る、とは言われなかったことです。
国の安寧がなければ国民の安寧も無い、国民の安寧が無ければ国の安寧も無い。両者は分かちがたいものです。
政治に抵触するからわざと避けられたのかもしれませんが、古来天皇の祈りは
国家安泰と国民の繁栄 を祈るものでした。天皇なら自国の安寧くらい堂々と祈りましょうよ。どこへ気を使っていらっしゃるのですか?

さて、令和の天皇は新たな象徴天皇ありかたを模索する頭も意欲もなく、平成の天皇の「平成流」をそのまま受け継ぐしか能の無いかたです。「平成流」をマスコミが見当外れに賞賛してくれたので、「平成流でそのまま行こう」と決めたのでしょうね。
平成の天皇は「国民との触れあい」は「天皇の象徴的行為」だとおっしゃっている。象徴とはシンボルですから「形」です。目に見える形ですから形式です。
「触れあい」が形式化様式化して行くのは必然です。私が天皇の「触れあい、心を寄せる」はなんだかショーを見せられて居るような気がすると思ってしまうのも仕方ない。

ただ令和に入って「国民との触れあい」は平成のそれとは、少し違って来ていました。一言で言えば平成の触れあいが、良くも悪くも国民と同じ高さを演出するものであったのに比べて、令和のそれが、国民よりやや高い位置を演出するものに変わったことです。
このまま高みに上げる路線に移行して行くのかと見ていたら、コロナの流行で国民との触れあいを見せる場が無くなってしまいましたので、そのまま高みへ移行していったのかどうかは解りません。
が、リモートによる触れあいは、期せずして天皇と皇后を国民から遠い存在に移行させて行く助けになるのかもしれません。
露出させればさせるほど天皇皇后の無能ぶりが露呈するし、国民と触れあい続けなければマスコミが作り上げた「国民に寄り添う慈愛深い天皇」を演出できない。悩ましいところでしょう。リモートという距離感は天皇皇后とその周囲には都合が良いのかもしれません。

「平成流」の「触れあい。」有り難いと見るかたもいるでしょうが、
私は痛ましくて見ていられません。誰がこのような天皇を演出したのか。
平成流は、おそらく上皇后主導のスタイルでしょう。