憂国の花束

右でも左でも無く、上でも下でも無く。

祖国日本よ! 誇り高くあれ。

誕生日会見では雅子、追悼式では皇后

2021-03-20 19:43:07 | 天皇
平成の天皇は退位の御言葉を述べられる中で美智子皇后への謝意を涙ながらに長々と語られた。
不敬ながら私は奥様への個人的な感謝は家でやって来て欲しいと思った。

1986年4月 子宮筋腫の手術からご退院
 子宮筋腫の手術で17日間の入院生活を送られた美智子さま。退院の日、美智子さまは陛下(当時・皇太子)の胸にお顔をうずめられた。銀婚式を超えられても、この初々しい愛に秋篠宮さま(当時・礼宮)、黒田清子さん(当時・紀宮)も感無量の表情を…。(ポストセブン)
美智子様は当時52歳。初々しい愛とはこそばゆい。感無量?あまりのことに呆然としていたのでは?
外国では衆人環視の中でも抱き合って愛を交わすというが、私は古い日本人なのか「そういうことは家へ帰ってからして欲しい。」と病院の玄関から小走りに走り出て上皇(当時皇太子)に飛びついて甘えるように肩に顔を埋めた上皇后(当時皇太子妃)をTVで見ていて思いました。

さて、令和の天皇は平成流をさらに推し進めて、常に皇后と二人セットで公務に当たる方針で行かれるそうです。
大きな行事ごとの御言葉にも「皇后と二人」という言葉が使われるようになりました。

誕生日会見では、
私と雅子二人の自然な気持ちであるとともに、皇室としての大事な務め  
雅子は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大による活動への制約などから、
雅子はいまだ快復の途上にあり、 
雅子は私の日々の活動を支えてくれる大切な存在 
今後ともできる限り雅子の力になり、 
雅子に温かく心を寄せていただいている 
引き続き雅子の快復を温かく見守って 
私も雅子も、この感染症がなかなか収束しない状況を
雅子と共にお話を伺ってきました 
私は雅子と共に『国連水と衛生に関する諮問委員会(UNSGAB)』満了5周年
雅子と一緒に被災地を何度か訪問 
私も雅子も、今後とも被災地の方々の言葉に耳を傾け 
雅子、雅子、雅子、雅子と一緒に、私も雅子も・・・計12回雅子とおっしゃった。
妻への気遣いぶりを国民に見せつけるのは、御両親譲りでしょうか。

東日本大震災追悼式
私も、皇后と共に、被災地を訪れてきましたが、 
私も、皇后と共に、今後とも被災地の方々の声に耳を傾け、心を寄せ続けていきたいと思います
皇后と共に、を2回おっしゃった。

雅子と皇后の使い分けと数の違いは、お誕生日はアットホームな行事だからより夫婦関係を強調し、追悼式は公的行事だから天皇、皇后という身位を強調する。ということでしょうか。
あまりにキッチリと分けた御言葉に、演出者の存在を感じます。私は、ですが。

平成までは、天皇が公の場で妻を語る時は常に「皇后は」「皇后が」というように「皇后」が使われていました。
それは「私は天皇である」という意識の表れでもあったでしょう。
昭和天皇、平成の天皇ともに公の場では常に「皇后」でした。平成の天皇が退位に当たって涙ながらに妻への謝意を述べた時も「皇后」でした。

誕生日会見で「雅子が」「雅子が」と繰り返した令和の天皇は、その時天皇を離れて夫(男)として妻(女)を語ったのでしょうか。
「雅子」と「皇后」が、これからどのように使い分けられていくか興味深く見て行きたいと思います。