店主のつぶやき

カフェハンナの店主ウジキのつまらない独り言で綴る日記です。

おみやさんがなくなった…

2007年09月28日 00時22分05秒 | news
広島の被爆建物登録神社が全焼、木造の本殿など4棟(読売新聞) - goo ニュース

夜、仕事から帰ってきたら父親に、「タケシ、邇保姫(にほひめ)神社って覚えてるか?」って聞かれました。はっきりいって名前聞いてもピンときません。「広島の半兵衛(はんべえ)の近くに神社があっただろ」

半兵衛(はんべえ)というのは、私たちが住んでいた広島のアパートの近くにあった遊園地(?)なのですが、その近くの神社というのははっきりと覚えています。高台の上にあって、ものすごく高く急な石段を上っていく神社で、小さな頃はその森でセミを捕ったり、鬼ごっこをしたりしたものでした。地元では皆「お宮さん」と呼んでいたので、小さかった私は神社の本当の名前は知らなかったのです。

夕刊の社会面にその神社が全焼したという記事が載っていて、その記事を読んで初めて私はその神社が被爆しても残った建物だったということを知ったのでした。
私のおぼろげな記憶の中には、古びた神社の建物が残っています。中学生の頃、東京から広島に遊びに行った時、再会した幼馴染の女の子と一緒にそのお宮さんに行って、誰もいないからとおみくじを盗んだ思い出があります(笑)。その時もお宮さんは人気がなく、ひっそりとしていて、ひなびた感じの場所でした。

そんないろいろな思い出のあるお宮さんが全焼したということで、なんだか切ない思いです。広島の街は私が住んでいた頃とはかなり変わってしまっていると思いますが、その中にあって当時の姿そのままでいてくれたであろう貴重な建物がなくなってしまったのは本当に寂しいです。
火事の原因はまだわからないようですが、なんにしても残念なことです。

火事といえば今日の昼間、母親がうたた寝していたら電話が鳴り、「大阪ガスですが、お宅のコンロの火がつきっぱなしではありませんか?」と言われたそうです。カレーが入った鍋に火をつけていたのを忘れて母親はうたた寝してしまったようで
、うちは大阪ガスの「るるるコール」に入っていたために火事などの大事にならずに済んだのでした。初めて「るるるコール」が役に立ちました。

天災と違って火事は人が注意していれば防げるはず。皆さんも充分注意して下さいね。
大事な思い出が一瞬にして灰にならないように。

リベンジ旅行~1日目夜から解散まで~

2007年09月24日 14時11分34秒 | diary
携帯バッテリー充電器を持っていくのを忘れたため、途中から日記の随時アップをあきらめました(笑)。

さて、鳴門で渦潮を見た後は、また大鳴門橋を渡り淡路島へ戻りました。
宿泊場所の北淡のコテージへ行き、とりあえず荷物を下ろした後、また洲本方面へ戻り、「ありい亭」という焼肉屋さんへ。ちょっと街からははずれた場所にあるのですが、お店に入ったら有名人のサインがたくさんあって、そんなに有名なお店なのかなと…。いや、本当に美味しかったですけどね。

焼肉でおなかいっぱいになった後は、また北上し、美湯松帆の郷で夜の明石海峡大橋を眺めながら温泉につかりました。以前仕事で昼間に来たことはあったのですが、夜は初めて。いやぁ夜景はきれいだったし、とても気持ちよかったです。

コテージに戻り、ルーヴで買ってきた「和三盆ロールケーキ」とプリンをみんなで食べました。やっぱり美味い! もちろんこの時はコーヒー担当の私は持参したコーヒー道具一式で、コーヒーを淹れました。今回のコーヒーはいつもの「カフェバッハ」のコーヒーでなく、バッハで修業した方が梅田に出している「カフェ・バーンホーフ」のコーヒー豆。豆の種類は、「ハワイコナ」と「キューバ・クリスタルマウンテン」の2種類でした。

夜のカフェタイムが終わった後は、お酒を飲みながら語らいの時間。にぎやかな飲み会でなく、大人な感じ(?)でした。2人の女性が先にベッドに入ってからは、残った4人はいつものメンバー(笑)。ぶっちゃけトークもありでした(爆)。
結局4人も寝たのは3時半くらいだったのかな?みんな未明から起きていたというのに元気です(笑)。


翌朝は8時に朝食だったので7時半起床。ま、その前から起きていた人は起きてましたけど。朝食を食べた後部屋に戻って、私は皆さんにモーニングコーヒーを淹れ、コーヒーで完全に目を覚ました後、いざ出発。

この2日目はどこに行くかあらかじめ決めていなかったのですが、関西の方ならよく知っている(?)淡路島の‘パラダイス’へ行こうという話もあったのですが(笑)、結局「淡路ファームパーク・イングランドの丘」へ。
やっぱり私たちは、ここでも何かを見学するというより食べまくり(笑)。色々な味のソフトクリームを見つけてはみんなでつつきあって食べてました。ちなみに‘塩ソフト’と’たまねぎソフト’は違う意味でかなりヒットでした(笑)。

とりあえず遊びはここで終わり。洲本で遅いお昼ごはんを食べた後、一路神戸へ。夕方には神戸に戻り、女性2人を送り届けた後、やっぱり残るいつものメンバー4人(笑)。ファミレスに入り、さらにぶっちゃけトーク炸裂。思わずお店に響き渡るほどの大声で笑ってしまいました(笑)。なんだかんだと結局ファミレスを出たのは22時前だったのかな?家に帰ったら23時前でした。

なが~い2日間の旅行。けっこう疲れたけど最高に楽しい旅行でした。
一緒に楽しんだ皆さん、そしてずっと運転して下さったペ●さん、どうもありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

リベンジ旅行3

2007年09月22日 21時35分16秒 | diary
おなかがいっぱいになった後は、鳴門まで戻り、大鳴門橋の下にある海上遊歩道「渦の道」へ。
明石海峡大橋にも「舞子海上プロムナード」というのがあるけど、まったく規模が違う。遊歩道の長さも違うし、床から海が見えるガラス面の面積も違う。そしてガラスの下は渦潮だ。風景のダイナミックさが段違い。ここは何回来ても楽しめそうです。

リベンジ旅行2

2007年09月22日 18時31分59秒 | diary
うどんをたらふく食べた後は甘い物(笑)。
前回と同じく和三盆ロールで有名なルーヴへ。今回はおみやげを買うだけでなく、2階のカフェでお茶。もちろんケーキも一緒に。そのケーキのおいしいこと。洋菓子の街神戸の人間の私達からしてもかなりのレベルのスイーツです。けっこう幸せな時間でした。

リベンジ旅行

2007年09月22日 14時18分31秒 | diary
今朝は4時50分起床。普段だったらまだまだ夢の中。そう、今日は仲のよいmixiのマイミクさん達と旅行なのです。

本当は7月の連休に四国~淡路島1泊旅行の予定だったのが、台風に阻まれて1泊出来ずに讃岐うどんだけ食べて帰ることになったので、今回はそのリベンジ(?)の旅行なのでした。

今回は男3人女3人の6人での旅行。まだ日が昇らないうちに1人1人車で拾ってもらって、明石海峡大橋~大鳴門橋を渡っていざ高松へ。何故そんなに早く出発なのかというと、行こうと思っている讃岐うどん店は人気があるので、遅いとすごく並んでしまうのと、お昼までに3軒まわる予定だったので。でも、予定よりかなり早く高松に着いたので、結局4軒まわったんですけどね(笑)。
今回行ったお店は、「さか枝」「山越」「池上製麺所」「日の出製麺所」。7月には行っていないお店が3軒チョイスされていたのだけど、急きょ7月にも行った「山越」が加わりました。
でも、今回まわった中では「山越」が一番美味しかったような(笑)。いや、どのお店もそれぞれ特徴があって美味しかったですよ。

広島でICOCA?

2007年09月19日 23時28分35秒 | diary
ひさびさの投稿になってしまいました。
先週は仕事が超ハードだったので書こうと思っていたことはあったけど、なかなか書けなかったのですが、書こうと思っていたことはまたかなりネガティブなことだったので、それはもうやめにします(苦笑)。

で、ぜんぜん違う話。

8月の末に東京の友達からメールが来て、「9月1日に広島・岡山エリア拡大記念のICOCAカードが発売されるから買っておいて」と頼まれました。
その友達はいわゆる‘てっちゃん’。鉄道マニアなんですね(笑)。
確かおととしの8月も東京のsuicaと関西のICOCAの相互利用記念のICOCAを買っておいてと頼まれた記憶があります(笑)。その時はその8月の下旬に彼が神戸まで来て、手渡ししたのですが、今回は仕事が超忙しくて、いつ神戸まで来れるのかわからないのだとか。別に腐るものではないので、お渡しできるまで私が大切に持っておくことにします。

ところで彼にこのおつかいを頼まれるまで広島でICOCAが使えるようになったなんて知りませんでした。そうなんだ…と思いながらもなんだかピ~ンときません。

このブログを読んで下さっている方ではご存じの方が多いと思うのですが、私は広島生まれです。8歳まで広島に住んでいました。ただし、父親が転勤で広島に赴任していた時に私が生まれたというだけで、特に広島には縁もゆかりもなく、もう20年以上広島には行っていません。
私の記憶の中の広島というのは、市内の移動はほとんどバスです。または市電(チンチン電車)。普通の在来線なんて乗ったことがありません。広島に住んでいる時に電車に乗るといったら、神戸のじいちゃんばあちゃん家に行くために新幹線に乗ることでした。ま、私が本当に小さい時はまだ新幹線が岡山止まりだったので、岡山までは特急に乗って、岡山で新幹線に乗り換えて西明石まで来てましたけど。
とにかく広島で普通電車に乗ったことって、私の記憶ではボーイスカウトで宮島へ行った時に宮島口まで乗った1回きりなんです。だから広島でICOCAが使えると言ったって、広島の人がどれだけ利用するのかなんとなく疑問なんですよね。
ま、私が広島を離れてから30年経つわけですから、広島の街も変わってるし、電車の在り方も変わってるのでしょうけどね。

余談ですけど、広島から東京に引っ越して何がうれしかったって、しょっちゅう電車に乗れることでした。東京での移動は電車ばかりですもんね。都会の人はそれの何が嬉しいの?って感じでしょうが、広島出身の私にとってはしばらくは普通の電車に乗ることが楽しかったです。
ちなみに小学校6年生の時に広島の幼馴染が東京に遊びに来たのですが、彼もまた「東京に行ったら地下鉄に乗りたい!」と地下鉄に乗ることを楽しみにしていました。広島って今はどうかよく知らないんですけど、土壌があまりよくないので地下鉄が作れない土地だったんですよね。
広島ってそれなりに都会だと思うんですけど、庶民の感覚は所詮そんなレベルなんですよ。ハイ(笑)

お礼奉公というかなんというか…でハプニング

2007年09月09日 01時34分09秒 | diary
日付変わってしまいましたが、昨日は第2土曜日なので仕事はお休み。
午後には私のフットサルチームの活動がありました。

…が、
一昨日(7日)突然仕事中に前の職場の同僚から電話があり、身内に不幸があり代わりのヘルパーがいないので私に代わりにヘルプに行って欲しいと。

この同僚というのは、私が昨年の春に全身性障害者ガイドヘルパー及び視覚障害者ガイドヘルパー講習を受けた時に知り合い、私が事業所に引っ張ってきた方。その彼をまるで身代りにするように私は事業所を辞めてしまったわけで、彼にはかなり負い目があります。
また、事業所に対しても、その前に勤めていた事業所がつぶれた時に私を拾ってくれた恩義があるのに、私の勝手で辞めてしまったわけで、事業所に対しても負い目があるのです。
それを考えると困っているのを見捨てることもできず、仕事を引き受けることにしたのでした。フットサルの活動は他のメンバーに任せてやってもらうことにしました。

朝、現場である六甲道へ向かいます。久しぶりにちょっと長めに電車に乗るので、なかなか読めていないこの前紹介した『サッカー茶柱観測所』を電車の中で読んでいました。でも、気がついたらもうJR六甲道駅。慌てて電車を降りたのですが、腰につけていたベルトポーチを落としてしまったのです。そのポーチにはICOCA定期券が入っていたので、改札を出ようとした時にすぐに気付いたのです。ポーチの中には、名刺入れの中に入っているICOCA定期券の他に福祉乗車証の入った障害者手帳、各種会員カードなどが入っていましたが、現金などは入っていませんでした。財布などはズボンのポケットに入れているので。
電車の中で落としたのは明らかだったので、仕方なく改札口の駅員に話し、落し物届を書くことに。それで改札を出なきゃいけないわけですけど、垂水駅の入札記録があるICOCA定期券がないわけで、駅員さんに「あの~、いくら払えばいいですか?」と聞くと、「あ…、もういいですよ。そのまま出て下さい」と。駅員さんは若いかわいい女性だったんですけど、よけいにかわいく見えました(笑)。

そんなハプニングはありながら、とにかく時間までに現場に到着。1本目の仕事の入浴介助の相方であるCG君と合流。
この土曜日の入浴介助の利用者さんは、以前は私がずっとCG君と一緒に担当していた方。私が約1年ぶりに顔を見せると、「わ~!!」とすごく喜んで下さいました。
1年経つと手順など細かいことを意外と忘れてしまっているもので、CG君の指示を受けながらなんとか無事終了。「また、今度いつ来るかわからないけど、また来るからね」と挨拶し利用者さん宅を出ました。

CG君は別の現場に行くのでここで別れ、私は昼食をとった後次のガイドヘルプの方のお宅へ。その次のガイドヘルプの利用者さんというのも、私が前の前の事業所の時から担当していた方。その方は自閉症の方なので、私の顔を見てちょっと不思議そうな顔はしていたものの、特に喜ぶわけでも何か聞かれるわけでもなく、我が道を行くので私はただついていくだけ。そのお仕事も無事終了しました。

とりあえずこれで仕事は終わったわけですが、その利用者さん宅と前の職場の事務所は近いため、久しぶりに代表に挨拶に。
薄情な辞め方をした私なのですが、代表は喜んで部屋に招き入れられ、私の今務めている事業所のことなどいろいろお話をしました。
この代表の方はとてもいい方。でも、いい方過ぎてこの事業所の経営の将来性に私は不安を感じたため辞めてしまったわけです。それなのに私に恨み事ひとつ言うわけでもなく、逆に事業所の将来について色々相談をされました。私もできることなら、何かの形でお手伝いはしたいという気持ちはあるのですけど、障害者福祉の今の現状を考えると先は暗いことばかりだし、私には何も力はないので、この事業所がつぶれずに存続してくれることを祈るばかりです。

そうして話をしている時に携帯に連絡が入り、私のベルトポーチが尼崎駅で保管されているとのこと。代表とお別れをした後、尼崎駅に向かい、無事ベルトポーチは返ってきました。なぜかベルトポーチは尼崎駅のホームに落ちていたとのことで、一瞬中身がなくなっているのではと不安になりましたが、中身を確かめると、一応なくなっているものはなさそうだったのでホッとしました。

そんなこんなで貴重な休日だったはずの土曜日は終わりました。
実は今日(9日)も仕事です。これはもともと予定されていた5時間のガイドヘルプ。今勤めている事業所のヘルパーとしての仕事です。
今週末は休みなし。
がんばれ俺。

無題

2007年09月05日 00時36分24秒 | Life
どうでもいい話なんだけど、急にふと頭に浮かんでいろいろ思い出してきたので書いちゃおうと思う。

もう何年か前の話なんだけど、高校時代の同級生で今もつきあってる友人と話をしていたら、
「高校1年の時、サッカーの授業で俺たちのチームが優勝したんだよね。あの時すごくうれしかったんだ。俺にとって生まれて初めての優勝だったから」
と言われた。
私はすっかりそんなこと覚えていなかった。

確かに高校1年の時の体育の授業で、何チームかに分かれて大会形式で試合をして、私達のチームが優勝したんだよね。でもただの体育の授業の一環。特別なことではなかったから、私は彼に言われるまですっかり忘れていた。
なんで彼がそんなことをよく覚えているのかというと、彼は体が弱くて体育は大の苦手。だから学校時代の体育の授業ではあまりいい思い出はないみたい。そんな彼がいたチームがただの体育の授業の中のこととはいえ、優勝したという事実はとても大きな喜びだったらしい。

私は優勝というのはすっかり忘れていたけど、その優勝を私のPKで決めたというのはなんとなく覚えていた。いや、そのPKの場面だけ妙に覚えているんだけどね。
決勝戦、お互いに一歩も譲らず同点でタイムアップ。PK戦で優勝を決めることになった。それがまたしてもPK戦でもお互いに譲らず、5人目のキッカーの番が私にまわってきた。
はっきり言って私はサッカーは下手くそ。しかも試合中ずっと走りまわっていてかなりへばっていて、グランドにへたりこんでいた。だから他のメンバーが先に蹴っていたのだけど、私が5人目にされてしまった。私が決めれば自分たちのチームが優勝という場面で。
たぶん私はその時PK初体験だったと思う。その後もPKを蹴った覚えはないけど。でもあんまり緊張はしていなかった記憶がある。ばりばり元気だったら多少は緊張したんだろうけど、相当へばっていたから緊張する余裕もなかったんだろうね。
ボールをセットして、私は左利きだからボールのちょっと右後方に立ってゴールを見据える。相手のキーパーは硬式テニス部のバリバリスポーツマンで背も高いし動きも俊敏。あまり決める自信もなかった。でも、なんとなくキーパーは右に飛ぶ気がして、ゴール左側に蹴ろうと決めていた。
思い切ってボールを蹴ったつもりだったけど、はっきり言って当たり損ね。ま、フットサルをやっている今でも私はまともにボールを蹴れることは少ない。元々基礎ができてないからね。その時もぐしゃっていう感じでボールはゴロゴロと転がっていったのだけど、方向だけは私が思う方向に向かってくれた。案の定右に動いたキーパーをあざ笑うようにボールは左隅にゴロゴロと吸い込まれていった。
「オー!!」という歓声が上がったような気がしたけど、上記の彼が私に駆け寄ってきて、蹴った後膝をついていた私に抱きついてきた。

なんか思い切り青春みたいな思い出だね(笑)。ただの体育の授業なのに(^^;


さて、その友人。私が病気になり、離婚して一人だった時、歩いて5分とかからない近所に住んでいたので、しょっちゅう一緒にご飯を食べたり、二人で話し込んだりしていた。病気で落ち込んでいる私をずっと支えてくれていたのは彼だった。
でも、ある時彼に言われたことがある。いや、メールだったかな。

「俺はよしやん(私の小学校時代からのあだ名)のことうらやましいと思うことがある。自分なんかね、レントゲン写真見たら背骨がグニャリと曲がっているんだよ。これでよく生きてるなって感じで。小さい頃一度死にかけたりしたしね。それに比べたらよしやんは恵まれてるなと思うんだ」

彼は脊柱側湾症というのかな。病気で背骨が曲がってしまっている。そういう身体的ハンディもあるし、またそれがコンプレックスにもなっていると思う。もちろんそれだけでなく、彼はまた彼で色んな悩みがあるんだろう。
そういう彼にうらやましいと言われ、色々考えてしまった。
確かに私はその時点で‘うつ病’という病気になっていたけれども、それまでは順風満帆とは言えなくても一応順調に仕事をしてきた。いろんな出会いがあり、結婚もした。

今現在のことも考える。未だ抗うつ薬は飲んでいるけども、今はちゃんと働いている。今は自分のミスもあってちょっと微妙な立場になってしまっているけど、管理者及びサービス管理責任者なんていう現場の長という役職ももらっている。確かに他の業種に比べればとても恵まれているとは言えないけど、それなりの給料ももらっている。
mixiを通して知り合った仲間もたくさんできて、一緒に飲んだり遊んだりしている。自分が立ち上げたフットサルチームもたくさんの人が参加してくれて、先週もmixiを通して別々の女性2人から参加リクエストをもらい、メンバーも45人を超えようとしている。

そんな自分はとても恵まれているだろうなと思う。そんな自分を不幸だと嘆いていたら罰が当たる。

悩みなんて誰しもあるものであって、傍から見ていたら幸せだなと思う人でも実はその人にとっては大きな悩みをもっていたりするのだろう。結局は人それぞれ違う人間なわけで、他人を見る時は自分はそのほんの一面を見ているに過ぎない。

何が言いたいのかわからなくなってきたけども、とにかく他人を羨んだりしても仕方なく、自分は自分の道を、自分のできることをしていくしかないのかなと思う。
そして自分なりの幸せを見つけられればいいのだろうと。

苦しいのは自分一人ではない。みんな一緒なんだ。そして苦しい時はみんな支えあっていけばいい。もちろん自分の苦しさは他人には100%は理解してもらえない。他人に代わってもらうこともできない。結局は自分が乗り越えていくしかないんだけど、だけどそれを応援してくれる人たちってのは必ずいるものだ。それを忘れちゃいけない。



自戒も込めて。

『イミダス』『知恵蔵』休刊

2007年09月02日 12時52分34秒 | news
一昨日流れたニュースですけどね。

 「イミダス」「知恵蔵」休刊 ネットに移行

これだけインターネットが普及して、ネットでなんでも調べられる時代になれば、これは当たり前のことなのかと思いますが、私にとってはちょっとショックなニュースでした。

私は古いタイプの人間なので、辞書などはやはり書籍でちゃんと用意しておきたいと思うんですよね。写真は私の部屋のデスクの上ですが、新語辞典の「イミダス」、国語辞典の「大辞林」、英和・和英辞書と並んでいます。
実を言うと「大辞林」以外はほとんど使うことがないのですが、こうして並べておくことがインテリジェンスな気がして(笑)、学生時代からこのスタイルを守っているんです。
「イミダス」はやはり私もパソコンを買う前の90年代はそれなりに使っていました。私は福祉関係の仕事をしていますが、東京にいる時の仕事では時々レポートを書くことがあったので、そういう時に社会保障制度など新しい日本の社会の動きなどや歴史などをちょっと調べるのに重宝していました。

神戸に来てから、以前の職場で障害者関係の言葉を調べるのに、一回り年齢が下の同僚だったジコチュー娘はすぐにパソコンを使ってネットで言葉を検索して調べるのを見て、そういう時代になったんだなぁとつくづく思ったこともあります。
ただ、ネットは賢い使い方をしないと、個人サイトでの情報などは間違っている場合もあるので、それは注意しないといけないなと思いますね。

「イミダス」はネットでは存続みたいですが、ちょっと寂しいです。
来年からも発行を続けるらしい『現代用語の基礎知識』に乗り換えようかな?(^^;