店主のつぶやき

カフェハンナの店主ウジキのつまらない独り言で綴る日記です。

ダウンしました…

2007年04月30日 21時33分03秒 | diary
今朝は午前7時過ぎに目が覚めました。しかも体が熱く、だるい。完全に熱がある感じです。
あ~、とうとうやっちまったか…。

久々の3連休ということでちょっと調子に乗り、毎晩夜中まで起きて、忙しくてここしばらく巡回できていなかったmixiのマイミクさんの日記を読みまくって、コメントできるところにはコメント書いたりして…。

まあ、この1ヶ月半の疲れも出たんでしょうね。
本当は今日は午後からガイドヘルプの仕事があったのですが、それは利用者さんにお断りと謝りの電話をして休ませてもらい、一日中寝ていました。本当にここまで眠れるんだなぁというくらい。3日分くらい寝た感じです。やはりよっぽど疲れがたまってたんでしょうね。

明日と明後日は仕事で絶対に休めません。なんとか今日で回復して仕事に行かなければなりませんし、明後日は仕事が終わってから、そのまま夜行バスで東京に向かいます。5月4日に前にこのブログに書いた友人の結婚式があるのでね。ついでに羽を伸ばして色々楽しんでこようと計画しているのに、体調が悪いのでは話になりません。なんとか回復させないと…。

結局一度も熱を測っていないのですが、一日寝ていたおかげで昼間より今は熱は下がっている感じです。
今日は早く寝て、明日以降に備えようと思います。

バカップルなお父さんお母さん

2007年04月29日 23時38分29秒 | diary
今日はmixiでマイミクのVきよさんと一緒に大阪まで遊びに行きました。
・・・というよりは、私の用事にVきよさんを付き合わせたって感じでしたが(^^;

梅田茶屋町にあるスポーツショップMITSUHASHIに行って、いつものようにATHLETAのTシャツを物色。気に入ったものが2枚あって、どちらにしようかしばらく悩んだあげく結局2枚とも買ってしまうといういつもの私の散財のパターン(^^; だからいっこうにお金が貯まらないんですよね(苦笑)。
それから阪急三番街に戻り、B2Fにあるカフェ・バーンホーフへ。ま、一応ここがVきよさんを誘った目的の場所なんですけどね。
前にマイミクのぺるさんの家で出張カフェをやった時に、Vきよさんが私の淹れたコーヒーを美味しいと言って下さり、またコーヒー好きだとおっしゃっていたので、ではバッハグループのお店である梅田のカフェバーンホーフに一緒に行きましょうと約束していたのです。
カフェバーンホーフに行って美味しいコーヒーを飲んだまではよかったのですが、ついつい私がコーヒーについて熱く語ってしまい、終始私が喋り捲っていた感じ。
Vきよさんは果たして楽しめたのだろうかと、お別れしてからものすごく反省しました。本当はコーヒーの話でなく色んな話をしてみたかったんですけどね。
Vきよさん、ごめんなさい!

で、タイトルのとおり、その話がこの日記の主題ではありません(笑)。

実はVきよさんと別れた後、JR神戸線の快速電車に乗っていたら、補助席で思い切り体と顔を密着させていちゃいちゃしているバカップルが。しかも若者ではありません。年は私よりちょっと下かなくらいですかね?
なんだこいつら・・・と思いながらチラ見していたら、隣の補助席に座っていた子ども2人が「お母さん!」と呼んでいます。その子らは4,5歳くらい。男性に肩を抱かれてうっとりとしていたその女性は急にお母さんの顔になって、「なに?!」と子どもたちに厳しい目を向けます。で、子どもと一言二言言葉をかけるとまたうっとりと男性の方にしなだれかかります。

なんだこの人達?と思わず唖然としました。
そんな大きい子どもがいるお母さんがする行動か?と目を疑ってしまいます。もちろんそのお父さんもね。
でも驚きはそれだけですまなかったのです。
電車が神戸駅に着くと、そのお母さんは「降りるよ」とちょっと離れた席へ声をかけました。その声をかけた席を見ると、なんと中学生くらいの男の子がすくっと立ち上がったのです。

!! あの子もそのお母さんの子どもなのか?!

そしてそのまま家族みんなで電車を降りていきました。

いったいあれはなんなのでしょう?
そんな大きい子どもがいるいい大人がする行動なんでしょうか?本当に見てるこちらが恥ずかしいくらいのアツアツぶりだったんですよ。もう顔を近づけてもうキスしちゃうんじゃないかくらいの・・・。
無理やりいい見方をすれば、子どもが出来てもいつまでも仲睦まじい夫婦と言えるかもしれませんけど、かといって公衆の面前であんな行為をすることは、やはり教育上良くないでしょう。しかも4,5歳の子どもだけならまだしも中学生の子どもの目の前でって・・・。

ここからは私の推察ですけど、あの男性は子ども達の本当のお父さんではないんでしょう。お母さんはバツイチで子ども達はつれ子。男性はたぶん最近になって付き合い始めた方なんではないでしょうか。見た目ちょっとだけ男性の方が若く見えましたし、男性はほとんど子どもに言葉をかけてませんでしたし。

だからといって電車の中でいちゃいちゃしていいわけではないんですけどね。
子どもだって自分のお母さんが‘女’である姿は見たくないですよ・・・ たぶん。

その親子が降りていった後、色々考えてしまったウジキでした。

昨日の仕事はつらかった

2007年04月28日 18時21分10秒 | my work
本当は昨夜のうちに『今日の仕事はつらかった』のタイトルでアップしたかったのですが、完全に疲れがピークに達していて寝てしまいました。
ちなみに私は『山谷ブルース』は知りませんよ(笑)。

昨日(27日)で4月の仕事が終わりました。
月末最後の日なので忙しいことは予想はしていたのですが、それでも日中に想定外のことが起こり(利用者さんが2人も倒れた)、そういう時に限っていろんなことが重なるもので、本当にバタバタの一日でした。詳しいことはここでは書けませんけどね。

18時以降はうちの職場のアイドル釈由美子くんと2人で仕事をしていたんだけど、やらなきゃいけないことが山積みで2人ともヘトヘト。釈由美子くんは仕事が終わってから岐阜の実家に帰ると言っていたので、あまり遅くなると帰れなくなるし、私も実は事業所の仕事が終わった後に入浴介助のヘルパーの仕事が待っていたので、19時半で「もういいから帰ろう」と言って、2人で帰りました。
いつもは彼女は自転車通勤なので2人で喋りながら帰ることはないんですけど、昨日は彼女は実家に帰るから一緒に駅まで歩き、途中まで一緒に電車に乗って行きました。かといって色々話をしたわけではないんですけどね。でも、「お互いにこの1ヶ月半頑張ったよね」という気持ちは通じていたと思います。

途中で別れ、私は入浴介助の利用者さんの家に。20時~21時。本当は18時半から1時間の仕事なんですけど、その利用者さんは私の都合を配慮してくれる利用者さんなので(というか私しかいないからなんだけど)、申し訳なかったですけどそんなに遅い時間で行かせていただきました。

ヘルパーの仕事も終わり、近くのマクドナルドで夕食を食べながら携帯をチェックすると釈由美子くんからメールが。
内容は紹介できないですけど、とってもかわいい内容のメールでした。彼女の率直な気持ちを絵文字を交えた彼女風の言葉で表現しており、やっと仕事が終わって疲れきっていた私も思わず頬が緩んでしまいました。

この1ヵ月半2人とも一生懸命やってきたけどもお互いのコミュニケーション不足は否めませんでした。仕事が終わった後メールが来るのも昨日が初めてでしたしね。
21歳の彼女の仕事には正直「?」と思う事は多々あるんですけど、でも彼女は彼女で必死にやっていることがわかっているので、私も何も言わずただ見守っていました。彼女は彼女で私に対する不満はあるんだと思いますけどね。でも、昨日は利用者さんからちょっと忠告があったので彼女も少しショックがあったようで、「思うことがあったら、仕事終わった後でもメール下さい」と。そして「でも私は褒められて伸びるタイプなので、褒める時は褒めて下さいね」という21歳の女の子らしい一言も(笑)。

それに私も返事のメールを送って、それにまた返事が来て、また返信して・・・と昨夜は何回もメールのやりとりをしてました。ちょっとだけ彼女との距離は近くなったかな?
あ、別に恋愛感情とかそういうのはないですよ!(笑)

まだしばらくは常勤職員は私と彼女と2人だけ。これからはもっとお互いにコミュニケーションをとって、うまく仕事が出来たらいいなと改めて思った一日でした。

先週末のうれしい再会

2007年04月23日 23時12分00秒 | diary
先週は仕事がものすごく忙しく(土日も仕事してました)、また私の疲れもピークに達していたので、このブログの更新はおろか、パソコンさえも開かずにバタンと寝てしまっていました。mixiを見ている方は「ウジキはしょっちゅうログインしてるな」と思っていたかもしれませんが、それは通勤の電車の中などで携帯からログインしてメッセージが来てないかなどを確認しているだけで、ほとんど他の方の日記も読んでいませんでした。ちらっと読んだとしてもコメントを書く気力もなくて、マイミクさんには最近つきあいが悪くて申し訳なかったです。


ところで、先週は本当は書きたいことがたくさんあったのですが、一つだけ。

先週の金曜日(20日)、東京にいた時に仕事でお世話になっていた方が、大阪まで遊びに来たついでに神戸まで私に会いに来て下さいました。え~、私より年上の独身女性です(笑)。

この方は東京のとある区にある精神障害者の共同作業所の所長Sさん。
私は1995年の6月に豊島区にある精神障害者の方の通う共同作業所に就職しました。そして就職していきなり都精作連(東京都精神障害者作業所連絡会)の企画部の仕事に行けと作業所の代表に命令され、なんだかわけのわからないままその年度の企画部の第一回会合に行ったのでした。
当時の都精作連企画部の主な仕事は、毎年11月に行われる東京都にある共同作業所が一堂に会して東京都体育館で行われるバレーボール大会の実行委員会でした。会合でとりあえず自己紹介したあとは、話の成り行きを聞いていたのですが、私は東部ブロックの各作業所に参加意向調査のアンケートをする係になりました。
就職したばかりの私、まずもって「あの~、東部ブロックってなんですか?」という状態でして、それをやはり企画部員で私の隣に座っていたSさんは嫌な顔一つせず、「東部ブロックというのはね、足立区、葛飾区、江戸川区、江東区・・・」と丁寧に教えて下さり、そのおかげで私もなんとかその仕事をまっとうすることが出来たのでした。
企画部会はだいたい5月か6月からバレーボール大会の行われる11月まで月1,2回のペースで会合があり、その日は午前中は作業所で仕事をして午後から世田谷にある東京都中部精神保健福祉センターというところへ行って会議をして、会議が終わったらお決まりで京王線の八幡山駅付近でみんなで飲んでいました。
はっきり言ってこの飲み会が私にとっては大きかったです。別に私はお酒が好きというわけではありませんけど、やはり作業所内の仕事だけでは煮詰まってしまうことが多いですし、しかも私の勤めていた作業所の当時の職員は職員同士で飲みに行こうとしない人達だったので、仕事が終わったら「はい、さようなら」。職場と家の行き来だけになってしまいます。それがこの企画部会の飲み会に行けば、東京の色んな作業所の情報が聞けますし、自分が作業所内で疑問に思っていることなども相談できますし、またそんな真面目な話だけでなく、お互いバカ話もできます。企画部員みんなの仲もよく、私も「ウジキ」と命名されて(実は私のハンドルの由来はここにある)みんなから「ウジキ、ウジキ」とかわいがってもらい、そういう意味でも私はこの企画部の仕事を任されて良かったなと思ったのでした。
約10名いた企画部員の中で、私とSさん、もう1人Hさんという女性と3人が左利きで、「レフティーズ」として、飲み会に行くといつもテーブルの左端の席を取り合うのも恒例でした(笑)。また、Sさんは『米米CLUB』のファンだったので、バレーボール大会の打ち上げでカラオケに行くと、必ず私が米米CLUBの『sure dance』を歌うというのもお決まり(笑)。しかも毎年Sさんは、私がSさんが米米ファンということを知っているというのを忘れていて、私が歌い始めると「え~、なんでウジキこの歌知ってるの?!」と聞いて来るのもお決まりでした(笑)。

なんか思い出話がすごく長くなってしまいましたが(笑)、とにかくそんな感じで色々お世話になっていたSさんが神戸に行きますよとメールを下さったので、なんとかスケジュールを開けてお会いしたのでした。

初めてお会いした時からもう12年経っているわけで、それだけお互いに年をとってしまったわけですが、実際お会いして話をしていてもそんなことは感じません。昔とまったく変わらないです。
お互いの仕事の話、折りしも先週は全家連(全国精神障害者家族会連合会)が破産して解散するという精神保健福祉関係者にとってはショッキングなニュースが流れたばかりで、私たちも全家連には少なからず関わっていたわけで(ちなみに私の結婚式2次会に出席して下さった方にお配りしたお菓子は全家連運営の作業所『かれん』のチョコブラウニーでした)、やはりその話題にもなりました。
私はその東京で仕事をしている時に自分が「うつ状態」になり、休職と復帰を繰り返したあげく仕事を辞め、神戸に流れてきたわけですが、やはり東京の仕事の仲間も心の調子を崩してしまった人も多いらしく、この仕事の厳しさも改めて痛感しました。私たちの年代の同志も30代後半から40代前半になっているわけで、年齢的にも難しい時期に入っていますし、なおされ仲間のみんなが今どうしているか気になります。ま、気にしたところで私はもう神戸から離れられない状態になっていますからどうしようもないんですけどね。

とにかくSさんにお会いできて嬉しかったです。
今度は私が東京に行ってみんなに会いたいな。Sさんも「ウジキが東京に来たら、みんなに声かけて集めるからね」と言って下さいました。ありがたい話です。
そんなに遠くないうちにみんなに会いに東京に行きたいと思います。

日本サッカー「最強世代」を探せ!

2007年04月18日 00時45分48秒 | football
久々の更新になりました(^^;

そして久々のサッカーネタ(笑)

今日、久しぶりに『週刊サッカーマガジン』を買いました。
以前は毎週のように買っていたこの雑誌ですが、けっこう購入するお金もバカにならないので、最近は本屋で気になる記事だけを立ち読みするにとどまっていました(苦笑)。
でも今日、また立ち読みしようと本屋へ行ってサカマガを手に取ると、上記のサブタイトルを見て、さらに「スーパートーク 前園真聖×小倉隆史×城彰二『アトランタ世代こそ最高だ!』」という特集記事があるのを見つけて即買ってしまいました。じっくり読む暇がないのでまだ全部読んでいませんが、なんだかわくわくする特集です。

週刊サッカーマガジンでは昨年も『史上最強の日本代表を探せ!』という同様な特集を組んだことがありました。いつの日本代表が日本サッカーにおいて最高だったかと。
ブラジルにおいては、いわゆる『黄金のカルテット』(トニーニョ・セレーゾ、ファルカン、ソクラテス、ジーコ)のいた82年W杯スペイン大会の時のセレソンが「ブラジル史上最強のセレソン」としていまだに愛されているのだそうです。実際は82年W杯で優勝候補と言われながらも2次リーグ敗退してしまったのですが、華麗な攻撃サッカーを演じて見る者を魅了したこのセレソンが、ブラジルにおいてのスタンダードなのだとか。

それでは日本ではどうなのでしょう?
はっきり言って日本サッカーの歴史は浅く(少なくとも海外と渡り合えるようになってからの)、選択肢はかなり限られるのですが、私自身はこの「アトランタ世代」が戦う集団として一番輝いていたのではと思うのです。

日本サッカーがプロ化される以前の代表は私はまったく知りません。Jリーグ発足以降にサッカーを見るようになったミーハーサッカーファンの私は、オフト時代以降の日本代表しか知らないのです。
惜しくもW杯切符を手に入れる直前で倒れたオフト日本代表も好きでした。初の、そして念願のW杯切符を手に入れた岡田日本代表に思い入れがある人も多いでしょう。そして中田英や、いわゆる小野や稲本、高原ら79年生まれの‘黄金世代’が中心となったジーコ日本代表が史上最高の日本代表だと言う人もいるでしょう。
でも、W杯代表ではないけれど、現代の日本サッカー界で一番最初に世界の扉をこじ開けたのは、このアトランタ五輪代表なのです。
キャプテン前園真聖、伊東輝悦、城彰二、川口能活、松田直樹、田中誠、そして私の愛する小倉隆史。残念ながら小倉はアトランタ五輪アジア最終予選前の合宿で怪我をしたため、代表を離脱してしまいましたが、それまではこの代表を引っ張る存在であったことは確かです。
実際、3人の対談を読んでも、前園や城らは、五輪本戦には小倉の怪我が回復して代表に戻ってくるのを信じて最終予選を戦ったとあります。そしてアジア最終予選の最終戦で強敵サウジアラビアを破り念願の五輪出場を決めたのでした。

五輪本戦では、初戦でブラジルを破るという快挙を成し遂げ、『マイアミの奇跡』とマスコミに騒がれましたが、結局決勝トーナメントには進めず予選リーグ敗退。でも、2勝1敗という成績で予選リーグを通過できなかったのは不運と言ってよく、実は日本サッカー史上においても輝ける成績を残したのだと思います。
それに当時の五輪監督だった西野朗氏はこの大会から採用されたオーバーエイジ枠を使わず、この世代のみのメンバーで戦ったのです。それだけによけいにこの世代の‘戦う集団’としての力を感じてしまうのです。

この年代の選手達では早くに引退してしまっている人も多いのですが、彼らの95~96年に見せてくれた‘戦う姿勢’はきっとずっとこれからも忘れないでしょう。

マイミクさんが帰ってきた!

2007年04月10日 23時59分29秒 | diary
またしてもmixiのことですみません。

先日の日記で書いたmixiを退会されていたマイミクさんですが、帰ってきてくれました。
今日改めてのマイミクリクエストが届いていて、即承認。
たぶん何か事情があったんでしょうけど、私にはどうでもいいことなので、とにかくまた交流が持てることを素直に喜んでいます。
未だお会いしたことない方ですが、彼女が元気でいてくれただけでもホッとしました。

どうぞこれからもよろしくお願い致します。

仕事、遊び、ときどきフットサル

2007年04月09日 00時27分45秒 | Life
昨日は土曜日ですけど仕事でした。
「障害者自立支援法」という法律によって、事業所に入る収入は利用者の出席(出勤)日数によって計算されるようになったので、土曜日も開所して元々の開所日数を確保していかなければならないのです。それで私の働く事業所では第1,第3土曜日は開所日ということになっているのです。
福祉も労働関係も同じ厚生労働省の管轄のはずなのに、労働関係の部門では労働者の労働時間を減らせという政策で、障害者福祉の領域では労働時間を増やさないと経営が成り立たない法律を作るなんて、本当に日本は変な国です。

さて、実は昨日は仲の良いマイミクさん達とのお花見オフ会でした。でも前述のように私は仕事だったのでお花見には参加できず、夜の居酒屋での飲み会から参加しました。
男女5人で飲んだ後、当然のようにマイミクのぺるさんの家に(笑)。そこで朝まで恋愛話やエロ話(笑)に花を咲かせるはずだったのですが、1週間の仕事で疲れがピークに達していた私はもうダウン。時々意識の中にとっても過激なトークが入ってくるものの(爆)ほとんど眠っていて、結局7時までしっかり寝てしまいました。ま、昨夜はみんなも疲れていたのか、ほとんどのメンバーが寝てましたけどね(^^;

ぺるさんが朝食に炒飯と焼そばを作ってくれたのでみんなで食べ、9時にぺるさんの家をあとにしました。
私は一旦家に帰り、ちょこっと休憩と身支度をした後、ガイドヘルパーの仕事に行き、また今日は特別遅くなり、夜9時半に帰宅しました。
自分でもよくやるなぁと思いながらも、明日からの仕事大丈夫かと思ったり・・・。ま、今は気が張ってるし、正のエネルギーで満ちているのでやっていけると思います。仕事で疲れているからって休みの日は家でごろごろするなんて嫌ですしね。
もちろん休養も大事だということはわかっていますけど、仕事だけの人にはなりたくないし、大事なマイミクさん・・・というよりはここまでしょっちゅう会ってるともう友達と言っていいと思うんですけど、そういう仲間との時間も大切にしたいんです。

そう思うと、今の私は仕事にプライベートに充実しているなぁと思うんです。

話はちょっとそれますが、私が高校1年の頃。私はどん底の状態でした。たぶんその時も‘うつ’の状態だったんだと思いますが、何をするにも気力がなく、成績も最悪。将来の希望も見えず、進学の志望先も考えられない状態でした。
そんな私を見て父親がこんなことを言いました。

「昔、お父さんの家の近くに工場があって、そこの連中は毎日油まみれで、その油まみれの真っ黒な手で弁当喰って・・・。お父さんはそんな油まみれの仕事をしたくなくてサラリーマンになったんだ。お前はそんな油まみれの仕事がしたいんか?ちゃんと大学は行っとかんと・・・」

これってものすごく差別的な言い方です。確かに油にまみれる仕事ってとってもきつくて大変でしょうけど、それはそれで大切な仕事であり、決してバカにできるものではありません。父親としては私を激励するつもりで言ったのでしょうが、逆に私はその話を聞いて父親を軽蔑しました。そしてこう思ったんです。父親は油まみれの仕事はしたくなかったと言ったけど、私はそういう父親みたいなサラリーマンにはなりたくないって。

お酒を飲まないうちの父親は、毎日仕事から帰ると、ただ黙ってテレビを見ながらご飯を食べ、寝っ転がってテレビを見て、風呂に入って寝る。休みの日も特にどこに行くでもなく、ずっとごろごろと寝ながらテレビを見て過ごす。
私にはそんな生活がとても楽しい生活には思えず、私はそんな父親のようにはならず、仕事でもプライベートでも生き生きと生活できるようになりたいと思ったのです。私が福祉の道を選んだのも、自分で社会のために貢献できているという十干の持てるやりがいのある仕事をしたいとその時思ったからでしょう。

話はそれますが、ちょっとうちの父親の話をしようと思います。
父親みたいになりたくないと言いましたが、もっと若い頃の父親は違ったみたいです。少なくとも広島にいた頃は。
私の父親は前述のようにサラリーマン。普通の会社員でした。とあるアンテナ会社に勤めていたのですが、わりと出世は早く、20代後半で大阪営業所の副所長。そして33歳で広島営業所の所長になりました。私はその広島営業所に父親が赴任している時に生まれたわけです。
高卒でありながら、東証2部とはいえ上場企業の営業所所長に30代前半で就くとは、たぶんかなり仕事は出来る人だったんでしょうし、それを認めてもらっていたんでしょう。その部分では私は父親を尊敬しています。
広島時代は父親にとって、いやうちの家族にとって最高の時代だったようです。とにかくその広島営業所においてはトップなわけですし、給料も当時としてはかなり良かったみたいです。ええかっこしいの父親は営業所の部下10人あまり全員を料理屋につれていってごちそうしたり、正月には家に呼んで新年会をしたりしていました。また、お酒は飲まないけれど、休みの日には仕事関係の仲間とゴルフをしたり、マージャンをしたりとけっこう休日も楽しんでいるようでした。私も小さな頃、日曜日に呉にいる仕事仲間の家に一緒に連れて行かれたのを覚えています。
ある意味‘お山の大将的な’栄華を極めた父親でしたが、40歳で東京の本社の課長に昇進することになりました。そして家族全員で東京に引っ越すのです。
一応‘栄転’ということになっていますけど、父親にとってはそれは不本意な転勤だったようです。それまではその土地でのトップだったのが、本社に行けば部長、専務、社長ともっともっと上に人がいるわけで、しかも日立グループの会社であるので、部長など上の役職には親会社である日立製作所からどんどん人が下りてくるわけで、その会社の生え抜きである父親にとってはおもしろいわけがありません。さらに東京には一緒に遊ぶ仲間などおらず、そうでなくても何もかも物価の高い東京ではゴルフなどの遊びに行くことなどままならなかったようですし。
50歳を過ぎてやっと部長代理というポストに昇進しましたが、そこが高卒としては限界のポストであったらしく、また他にも何かあったのか、突然会社を辞めてしったのです。その突然会社を辞めた話をするともっと話が長くなるので、またいつかの機会にしたいと思いますが、とにかく父親にとって東京にいた約20年は面白くない日々だったのだと思います。

私はその東京に来てからの父親の姿の方が印象が強いので、そういう毎日つまらなそうな生活をしている父親みたいにはなりたくないと思ったのですね。

話が脱線し過ぎました。
とにかく私は父親のようにはなりたくないという気持ちから福祉の道を選び、仕事も頑張るし、休日もただごろごろするのでなく充実した日々を過ごしたいというのを目標にしたのでした。
30歳で結婚した私ですが、その1年後‘うつ病’になり、妻とも別居(その後離婚)、そして職場からも強制的に休職を命ぜられ、おまけに「泣きっ面に蜂」のようにピッキングの空き巣に入られてノートパソコンなど諸々を盗まれ(被害総額ではたいした額ではないけど)、何もかも失った感を抱いた時、ふと思ったのです。私は仕事もプライベートも充実した毎日を過ごしていたであろうかと。
もちろん仕事は楽しいとは言えなかったけどやりがいのある仕事でした。でもその疲れで夜や休日はごろごろとしていることが多かったのです。結局は父親と一緒だったんじゃないか・・・と。

フットサルを始めたのもそれがきっかけです。やっぱり何か休日も楽しめる趣味を持たなければならないのではないかと。実際はまともなサッカー経験のない私がフットサルをやるのは大変でしたけどね。

それが今では自分で‘gota’というフットサルチームを立ち上げ運営しています。今の仕事は大変ですが、とてもやりがいを感じていてその大変さもまったく苦にしていません。そして仕事で疲れていようと、仲間とバカな話をしながら一緒に飲んだり、オールナイトで語り合ったり。
やっと自分の目標としていた生活が今はできているんじゃないかなと思うのです。
すごく今は幸せですよ。とても充実した生活ができています。
あとは本当に愛せる女性が現れれば・・・。ま、それはいずれそういう相手も現れるだろうと信じています。

なんかものすごく長い話になってしまいましたね(笑)。
とにかく今の私はとってもハッピーだということです。
これからももっともっと楽しいことが待っていると信じてやっていきたいです。

マイミクシィが1人減った

2007年04月06日 22時40分48秒 | diary
ここは誰にでも公開されているブログなのにmixiのことばかり書いて申し訳ないのですが、昨日朝の通勤の電車の中で携帯でmixiを見たらマイミクシィが63人いたはずなのに62人になっていて1人減っていました。いったい誰にマイミクを切られたのだろう?と気になって仕方なかったのですが、電車の中での短い時間では探すこともできないのであきらめてそのまま職場に行きました。
夜遅く帰宅して、パソコンを開いてmixiにログインし、いなくなった人が誰か確かめました。でも、さすがに63人もいると誰がいなくなったのかすぐにはわからず。去る者追わずだし、いなくなったのがすぐにわからないくらいの関係の人なら特に気にする必要もないのですが、それでもやっぱり気になるので、過去に届いたメッセージなどをずっとたどっていったりして必死に探し、それで12月に届いていた一つのメッセージを見てやっと判明しました。マイミクを切られたのでなく、mixiを退会されたようです。
その方はまったくお会いしたことない方。20代の兵庫県在住の女性でした。犬好きつながりで知り合った方で、あちらの方からマイミクのリクエストをいただきマイミクになった方でした。その方が私のブログにコメントを寄せて下さったことはないのですが、私は時々彼女の日記にはコメントを書いていて交流は続いていました。わりと近いところに住んでいらっしゃった方だったので一度はお会いしたいなぁと思ったりもしていたのですが、とうとうそれもかなわず、mixiから消えてしまったのですね。とっても残念です。
突然退会されたのは何か事情があったのでしょうけど、ご実家から神戸に引っ越してきて新生活を始めたばかりだったので、mixi上だけのおつきあいだったけどずっと応援していたんですけどね。
ただのネット上のお付き合いなのに、今は心にぽっかりと穴が開いたような寂しい気持ちです。

おつきあいはなくなってしまったけど、ずっと応援していますよ。
○○○○さん!

東京では19年ぶりに4月の雪だって?!

2007年04月05日 00時15分41秒 | news
今日(4日)は神戸も寒かったです。
東京では19年ぶりに4月に雪が降ったそうですね。
http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/nation/20070404i213-yol.html

19年前の4月8日の雪って、私もよく覚えていますよ。

1988年、私が東洋大学に入学した年でした。
その2日前の4月6日は大学の入学式で、春らしい暖かな天気の中、日本武道館で入学式が行われました。まだ入学式の時点では誰とも顔見知りにはなっていないので、1人でスーツを着て入学式に出席し、式が終わった後、武道館近くの靖国神社へぶらっと散歩し、見事な桜を見ながらこれからの大学生活に思いを馳せていたのでした。
その2日後の4月8日は、1,2年時に通うことになる東洋大学朝霞校舎で学部学科専攻、ゼミ別の説明会や(私は社会福祉学専攻なので)福祉系サークルの紹介などがあり、その後新入生歓迎委員の先輩とともにゼミの仲間と朝霞の居酒屋に飲みに行ったのでした。あ、まだ私は未成年だったけどそれは・・・ね(笑)。
先輩方やこれから一緒に学ぶ仲間と楽しく飲んだ後、帰ろうと外へ出ると雪が降ってる・・・。しかもけっこうなドカ雪で、あれよあれよという間にどんどん積もっていきます。4月に雪が降って、しかも積もるなんて私も初めての経験でびっくり。積もる雪を踏みしめて東武東上線の朝霞台駅まで行き、家に帰ったのでした。

たしかにはるか昔のことのような気はするのですが、あれから19年も経ったのかと思うと私も歳をとったものだなぁと改めて感じてしまいました(笑)。

今日は積もりはしなかったみたいですが、東京の人達はさぞかしびっくりしたでしょうね。

いつでも自分・・・

2007年04月01日 02時11分06秒 | Life
今日は甲南大学に行ってカウンセリングというのを受けてきました。

カウンセリングを受けに行ったといっても、別に今何かですごく悩んでいるというわけではありません。自分の性格というか心のあり方について改めて考えてみたいと思ったからなんです。

「善人ぶっているけど実は自分のことしか考えていない」
これが私の本当の姿かなと思っています。

私は社会福祉の仕事をしています。ここ3年くらいはヘルパーという介護(障害者専門ですが)の仕事をしてきました。でも東京にいる時は、精神障害者の方が通う小規模作業所の職員をしていました。
作業所というとみんなでただ黙々と箱折りなどの内職作業をしているイメージがあり、そこの職員もただ作業の指導をしているイメージかもしれませんが、実際にはそれだけではありません。精神障害の方というのは統合失調症(昔でいう精神分裂病)などの心の病がある方で、地域の中で暮らしていく上でそれぞれ色んな悩みを持っていたりします。その悩みなどを聞いて相談にのるのも精神障害者の作業所職員の大きな仕事なのです。だから「介護」ではなく「相談援助」の仕事に入ります。
私も作業所の職員の時には、利用者さんの色んな相談を受けてきました。でも私はその相談にのるという仕事がすごくしんどかったのです。その時すごく感じたのは、私は人の話を聞く時、その人の気持ちを本当に理解するということができない、さらにその人の気持ちをわかって適切な言葉をかけることができないと思ったのです。それは、私は人の話を聞く時に、その人の話の内容を自分のことに引き寄せて考えてしまう癖があり、「自分もそういうことがあったな・・・」とか「自分だったらこうしていただろうな・・・」などとつい自分のことが頭に浮かんできてしまい、本当に話してくれているその人の気持ちを理解するということが出来ていないと思ったのです。

私のことをよく知っている方、またmixiのマイミクさんは「やっぱりそうか・・・」と思い当たるふしがあるのではないでしょうか。
そう、私は仕事以外の場面でもいつもそうなのです。特に最近やっぱり自分はそうだなと改めて思うのは、マイミクさんの日記にコメントを書いた時。
マイミクさんが日記を書いていて、他の人はみんなその方のことを思って色々コメントを寄せているのに、私はたいてい「そういえば自分も・・・でした」とか「私もこんなことがありました」などとそのマイミクさんに対して言葉をかけるのでなく、いつでも自分のことばかり書いているのです。まったく相手を思いやろうという気持ちがありません。マイミクさんの中にはそのことで不快に感じている方が多いのではないかと思います。

そういう私。先週の月曜日から新しい仕事に就きました。障害者就労支援の事業所の管理者及びサービス管理責任者です。就労支援の事業所って何だろうと思われるでしょうが、やっていることは作業所と同じような内職作業です。ただ就労へ向けてという目的をより明確に打ち出して事業を展開しているということです。そしてサービス管理責任者というのは、本来「相談援助」の仕事になるのです。
実際私の勤める事業所の利用者は知的障害の方ばかりなので、精神障害の方のように個別に相談を持ちかけてくるということはあまりないと思います。でも相談をしてくるのは本人とは限らず、親御さんが相談をしてくるケースもありますから、そういう場合は私が対応しなければならないのです。しかも管理者、つまり所長という立場であれば、一緒に働く職員の相談にのる場合もあるでしょう。いや、別に所長じゃなくても、私くらいの年齢になれば若いスタッフの相談にのるというのは当たり前だと思うのです。それに対して私は今のままの自分でいいのか?と考えたのです。ちゃんと人の話を聞けるようになるには、もっと自分の心の中を知る必要があり、その手段としてカウンセリングを受けることを考えたのです。
カウンセリングでどうにかなるものかどうかはわからないんですけどね。

甲南大学に行ったのは、普通の民間のカウンセリングルームというところはけっこう料金が高額なんです。1回8000円くらいします。カウンセリングというのはたった1回でなんとかなるというものでなく、自分がいいと思うまで継続してカウンセラーの方と話をしていくわけで、1回8000円も払っていたら経済的にとても続けられません。その点大学のカウンセリングルームの場合、カウンセラーは大学院生であり、その分料金はかなり安いのです。ちなみに甲南大学の場合1回3000円です。これなら薄給の私でもなんとか通うことが出来ます。ということで3週間くらい前に甲南大学にカウンセリングを申し込んでいたのでした。
2週間前にインテーク(受理面接)があって、初めて甲南大学に行ってとりあえずカウンセリングを受けたい理由などを話してきたのですが、今日が担当のカウンセラーさんとの初回面接だったのです。

私の担当のカウンセラーさんは女性でした。大学院生ですから若い方ですが、広末涼子がメガネをかけて落ち着いたインテリ風になったという感じでしょうか。マニアの方にはちょっとたまらない雰囲気をもった女性でした(笑)。いや、カウンセラーをそんな目で見てはいけませんよ(苦笑)。

私のような目的でカウンセリングを受ける人はめずらしいと思うし、仕事的にもかなり重なる部分もあって中途半端に専門用語などの知識もある私の話を聞くというのは、カウンセラーさんにとってもちょっとやりにくいんじゃないかなと思いながら、それでも50分間色々自分の思いを話させていただきました。まぁ、初回というのはお互い手探りだったりするので、こんなもんかなと思います。
これから月1,2回通うことになります。

自分の心を解いて、ちゃんと人の話を聞ける人になれるのでしょうか?