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75年目の「8・15」前後に思う:戦争をやめる機会はなかったか

2020年08月16日 14時43分00秒 | 歴史論・資料
75年目の「8・15」前後に思う:戦争をやめる機会はなかったか。

 満州事変から始まる「15年戦争」と呼ぶ場合がある。歴史用語の一つ。(最近はアジア太平洋戦争とも呼ばれる。)

 僕のかんがえるところ、少なくとも7回は在ったと考える。

 1932年国際連盟の「リットン調査団」が来日した直後。「満州国」の建国は認められなかったが、日本に優位な着地点が国際社会で模索されていた。これが第一だ。

 第二は、1937年の盧溝橋事件の直後。日本政府が「不拡大方針」を発表した」直後。これは結局国際社会を欺くことになったが、ここで文言通り停戦していれば、国際社会も受け入れただろう。

 次に第三。1933年の「ノモンハン事件」のあと。この事件は、満州とソ連の国境付近で、日本軍の精鋭とソ連軍が大規模な軍事衝突をした事件。日本軍の幹部が賢明ならば、資源豊かな国との戦争に勝ち目がないのは判断できたはずだ。

 その次に、第四。1942年の「ミッドウエイ海戦」の直後、日本の連合艦隊はアメリカ海軍の空母の艦載機に攻撃され、主力艦をほとんど失った。空母艦載機の制空権なしには、太平洋の各地の配備された、日本軍に補給ができないのは明らかだ。

 さらに第五。1943年にイタリアが無条件降伏したとき。イタリア戦線に投入されていた戦力が日本へ向けられるのは当然考えられた。また資源に乏しい国が資源の豊かな国には勝ち目がないのは一層明らかになったからだ。

 また、第六。硫黄島が玉砕して。太平洋の島しょ部の部隊がほとんど全滅したとき。東京をはじめ本土への空襲が始まるのは目に見えていた。

  最後に、第七。1945年2月に近衛文麿が昭和天皇に「連合軍への降伏」を上奏したとき。この時昭和天皇は「もう一度戦果をあげてから」と断った。この時降伏していれば東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下は防げた。
 ここにはあげなかったが、ABCD包囲網がはじまって、日本へ資源の輸入が出来なくなったとき。資源がなければ戦争はできない。しかし、勝ち目のない戦争の宣戦を拡大していった。この時も戦争をやめられたはずだ。

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