・爆発の灰しづまりて降る雨に木立より黒きしづくしたたる・
「群丘」所収。1961年(昭和36年)作。・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」119ページ。
先ず佐太郎の自註。
「実際の経験を重んじる作歌者にとってはめぐまれた幸運というものが一生に何回かおとずれるものだが、このときがちょうどそれだった。私は感謝して作歌した。」
「『木立より黒きしづくしたたる』などにいたっては、経験しなければ言うことができないだろう。・・・私の歌は自然の意味をとらえている。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)
ここで言う「自然の意味」とは自然科学的意味ではない。自然科学から言えば、自然に意味などない。ただ人間の感情としては、何かしらの意味、何かの暗示を感じることがある。これが情感だが、その心で感じたものを「生でいう」のでなく、暗示にとどめるのが詩である。
全部言ってしまっては面白くも何ともない。よく「8割で詠え」といわれるのがそれである。全部言っては説明だ。
岡井隆は、
「あらためて佐太郎の作品を読んでみると、社会性もあるし物語性や虚構もずいぶんある。」(「星座52号」)
というが、この作品の場合の「物語性」が、佐太郎の言う「自然の意味」だろう。ただこの作品の場合は、ただならぬ状況下で詠んだものだから虚構はなかろう、といっても「本人のみが知る」だ。
相変わらず時間の推移が捉えられている。「浅間爆発の歌」は全部で9首で次のような作品もある。
・山おほふ雲のなかよりあらはれて飛ぶ鳥がみゆ砂礫ふるとき・
・灰の降るおと庭にみち木々の間のけぶりて遠きところはおぼろ・
・乾きたる灰の香のして硝子戸のそとに浅間の灰ふりしきる・
・青栗のしづけき上の曇(くもり)よりにぶくきこゆる山鳩の音・(「群丘」)
この9首を通読すると時間の推移が次々とあらわれて、短編映画を見る思いだ。それを佐太郎も意識しているのだろう。「自註」もまとめて書かれている。
ただこれからが大事なのだが、その自註が「こういう材料の歌は作ればいくらでも数ができる。しかし私はつつしんで、たくさんはつくらなかった」という文でおわっているところだ。
火山の噴火は叙景歌を読むものにとっては、いわば「シャッターチャンス」だが、住民からみれば災害である。農作物の被害もあったことだろう。だから「つつしんで」なのだ。社会的事件を短歌に詠む場合に心にとめておきたいことだ。